入れ替わったら秒で婚約者にバレました
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・地名とは一切関係ありません
「……お前は誰だ?」
「……貴方こそ誰……?」
薄暗い部屋に、封鎖された窓、巻きつけられた足枷に、この場に不釣り合いな上等なベッド、そして私の目の前に迫る見知らぬ男。向こうの質問に質問で返した私はこの状況を理解することが出来ていなかった。
私は平凡な家庭で育った普通の会社員だった。
可もなく不可もなく、これといったとりえのない、ただの一般人。
昨日だって久しぶりにお酒を飲んだぐらいでいつもと同じように過ごしたあと眠ったはずだった。
なのに目を覚ませば見知らぬ部屋に見知らぬ男。
初手で悲鳴を上げなかった自分を褒めて欲しいぐらいだ。
混乱も一周回って冷静になると、目の前にいる男を観察する。
金髪碧眼の美男子。戸惑いなのか、思案しているのか僅かに眉間に皴が寄っている。
そうして冒頭の質問へと戻るのだ。
「……見た目の変化はない、そもそもこの部屋から出ていないはず、そうなると入れ替わりの可能性もない……けれどもアリアンナじゃない」
「アリアンナ……?私は*****、アリアンナじゃないわ」
「は……?今なんて言った?」
「だからアリアンナじゃないって」
「違う、その前、お前の名前だ」
「……*****」
「俺の耳がおかしいのか?聞き取れないんだが」
「はぁ?……まぁ、いいわ、とにかくなんで私がこんなところにいるのか教えて欲しいんだけど」
「……その前に鏡を見た方がいいだろう」
迫っていた男は私から離れると一旦部屋の外へと出ていき手鏡を持ってくる。
その手鏡を受け取り覗き込めば、赤髪緑目の可愛らしい女性がいた。
「誰これ!!?!?」
「アリアンナ・ブレリューナ……俺の婚約者だ」
「えっ、待って、私は*****で、事故にあった訳でも、自殺したわけでもないし、普通に仕事して、帰って、お酒飲んで……それから……」
「アリア……じゃない、おい、落ち着け」
鏡に映った自分ではない誰かに先程までどうにか保っていた冷静な部分がぐらりと傾く。呼吸が浅くなり視野が狭まると、男に両頬を押さえながら強引に顔をあげられた。目尻にたまった涙が零れるのをみて男が何度も落ち着くように声をかける。それでも受け入れられない現実と不安や恐怖に更に浅く早くなる呼吸に男が舌打ちをした。
「緊急事態だからな、許せよ」
そういって口を塞いだのは彼の唇で、一定の間隔でされることで段々と自身の呼吸も整えられていくと漸く正常な呼吸へと戻った。深い呼吸が出来るようになると彼からも安堵の様子が伺える。
「……落ち着いたか?」
「……ごめんなさい……ありがとう」
「……アリアンナの顔で全く違う反応をされると複雑だな」
離れた彼がベッドに腰かけ呟いた言葉に、私だけでなく彼も被害者なのだと今更気付く。
混乱していたが、彼女が彼の婚約者だということは聞き取れた。
大事な人がいきなり別人になってしまったのだ、彼だって相当なショックを抱えているだろう。
「……あの、今更だけど……ごめんなさい……貴方の婚約者なのに……婚約者……?」
「そうだが」
「婚約者なのに窓もない暗い部屋に足枷までつけられて囚われている……??」
冷静に自分の現状を俯瞰してみるとその異様さに容易く気づく。
どこの世界に婚約者を監禁する男がいるのだろうか。
疑問の目を向ければ何が悪いのか分からないとでも言いたげな男が腕を組んでこちらを睨む。
「逃げ出そうとするアリアンナが悪い」
「え、貴方その顔でヤンデレ気質なの?どこの乙女ゲーよ」
「俺が分かる言葉を使え……はぁ、まあいい、どうせアリアンナは俺との結婚を望んでいなかった……お前という別人になっていた方がアリアンナも救われるだろうよ」
「うわ、そういう感じ……?貴方……そういえばまだ名前聞いてなかったわ」
「……マルクス、マルクス・ヒースヴァルド」
「そう、とりあえずマルクスって呼ぶわね、貴方のことも、私のことも……この世界のことも教えて欲しいのだけれど」
「……意外と肝が据わっているんだな」
「……何か考えていないと崩れ落ちそうなのよ」
「……悪かった、そうだな……どこから話すか……」
彼女をここに閉じ込めていたやばい男にもかかわらず、私がアリアンナではなくなったからか意外と丁寧に説明をしてもらえた。
マルクスの説明によれば、ここは私のいた世界ではないこと、彼とアリアンナは婚約中で来週には式を挙げるということ、身分制度があり彼は侯爵、アリアンナは伯爵なので身分を使ってこの婚約を結んだということ、アリアンナが式をボイコットするため逃げ出そうとしたのを捕まえて監禁したのが昨日のこと、対外的にはまだ行方不明になっているということ……。現実味のない話だが、私はどうやら別の世界のアリアンナ・ブレリューナという女性に憑依、もしくは入れ替わったらしい。私の世界でもこういった小説やアニメ、ゲームにマンガなどが流行っていた時期があった。少しだけはかじっていたからこういう現象に名前が付けられるが、まさか自分にこんなことが起こるとは思わなくて。
「……情報量が多すぎる……」
「アリアンナじゃないならここに閉じ込めておく必要もないが……問題は彼女の両親になんて説明するかだな」
「あ、そうだよね……ご両親、いるよね……」
自分の娘が別人になっているなど、そんな残酷なことが言えるだろうか。そして私も、もしかしたら二度と両親に会えないのかもしれないという可能性に気づき一気に気分が沈む。二の句が継げなくなっている私を見てマルクスが溜息を吐いた。
「……調子が狂うな」
ベッドの上に乗る私の手を引っ張り自身の横へ並ぶように指示をすると、私の身体を彼の身体に寄りかからせるように動かした。彼の手は腰に周り支えるように伸ばされる。名前しか知らない他人も同然の男なのに触れた部分から感じる温かさに不思議と落ち着きを感じた。
「……伯爵には不慮の事故にあい記憶喪失だと伝える……自分の名前すら分からなくなったとな」
「……誤魔化せるかしら」
「どうせ一週間後には式を挙げて君は俺とともに暮らすことになるんだ、騙すのが心苦しいというのなら他の提案をしてくれ」
「……貴方、中身がアリアンナじゃなくなったのに私と結婚してくれるの?」
「……さっきも言っただろう、この結婚は俺の一存で進められているんだ……ここにきて婚約破棄だなんて出来るわけがない」
「そっか……」
今更だが、早めに私という別人を受け入れてくれる人がいたことは良かったのかもしれない。右も左も分からない場所でどこの誰か分からない誰かに成り代わるなど私には不可能だった。
思考し黙った私の様子を見てマルクスがおもむろに胸ポケットを漁る。そこから出てきたのは小さな鍵で、そのまま上半身を倒し私の足枷を外した。投げ捨てられた足枷がガチャンという金属音を鳴らし落ちる。
「そういえば、よく私がアリアンナじゃないって気づいたわね……まだ一言も話していなかったはずだけど」
「……俺を見る目が全然違かったからな」
「目……?」
「彼女は……いつも怯えていたから」
「……貴方とアリアンナの出会いから婚約に至るまでの経緯教えてくれない?凄い嫌な予感がする」
「……別に構わないが」
マルクスとアリアンナの出会いは十歳の時のパーティーだった。所謂貴族の子供たちはこの頃に伴侶となる候補を決めるらしい。あくまでも候補であり、正式に決まるのは十五、六歳だそうだ。私の感覚で言えばそれでも十分早いとは思うが。
マルクスはアリアンナに一目惚れだった。互いに候補となり、他の候補者とともに親睦を深めていったそうだが、アリアンナのほうはマルクスに興味を示していなかったらしい。それに気付いたマルクスがどうにか振り向かせようと迫ったのが、彼女にとって恐怖となった。まぁ、好きでもない男からの熱烈なアプローチは恐怖でしかないだろう。そしてこの世界はどうやら身分がものをいうらしい。それなりの条件を付けてほぼ無理矢理彼女を婚約者にしたそうだ。彼女も彼女の両親も一度は断ったらしい。けれども更にいい条件を提示して迫ったマルクスに彼女の両親が折れたようだ。マルクスからの一方通行な愛があるとはいえ、ほぼ政略結婚といって差し支えない。更にはマルクスがアリアンナの行動まで制限していたようで、少しどころか物凄く彼女に同情した。このタイミングで私という別人になったのがある意味良かったのかもしれないと思うほどに。
「……それは、ダメでしょう……」
「何がいけないんだ?想う人が自分以外の男と会ったりするのを嫌だと思うのは普通だと思うが」
「いやまあ、それはそうなんだけど……業者とか使用人とか、そこまで制限するのはどうかと……」
「業者だと偽って男が会いに来ていたら?使用人が邪な思いを彼女に抱いたら?信用できるわけがない」
「それ言ったらもう何もできないと思うんだけど……貴方のご両親は何も言わなかったわけ?」
「あぁ……俺の両親はもういないんだ、すでに俺が侯爵位を継いでいる」
「それは……ごめんなさい」
「別にいい、亡くなって久しいし……あまり記憶にもない」
知らなかったとはいえプライベートな話題に踏み込んでしまい勝手に気まずくなる。もしかしたら彼の執着に近い愛情も無意識下で誰かに愛を求めた結果なのかもしれない。それはそれで思いが通じ合っていなければ向けていいものではないのだが。
「……おま……君は?」
「え……?」
「君は元の世界でどんな暮らしをしていたんだ」
「……私は普通の一般人よ」
身分制度もない、男性も女性もそれぞれ仕事を持ち、家庭を持つも持たないも自由。ここの世界の生活水重は分からないけれど、インフラ設備は整えられ、娯楽も多かった。私にも恋人はいたけれど数年前に別れてからは新しい彼氏は出来ていない。両親とは離れて暮らしていたが、仲は悪くないし、定期的に会いに行っていた。
「……女性が一人で暮しているのか」
「そうね、学生とかでも一人暮らししてる子は多いわよ」
「……それが許される世界なんだな……その感覚ではこの世界では生きるのが辛そうだ」
「やっぱり?私の偏った知識だけど、刺繡とかお茶会で社交とかしてる感じ?」
「まぁ、概ねそうだな……仕事はこちらでも男女関係なく出来るぞ」
「そうなんだ!じゃあそのうちしようかな……」
どうせ一日や二日で解決策が見つかるわけがない。こういった場合のほとんどは帰れない、戻れないパターンがほとんどだ。ならば、少しでも自分が生きやすい環境に整えていくのが最善であろう。
「……俺も出来る限り協力しよう」
「本当に?いいの?」
「あぁ、どうせその身体はアリアンナだ……共に過ごすことになるんだし、君の事情を知る唯一の人間だろう?それに、俺の素も見られているしな」
「……貴方普段その態度じゃないってこと?」
「この態度で彼女の両親が結婚を許したと思うか?表向きにはそれなりの態度をとっているから君も変に思わないように」
話が落ち着いたのを見計らい彼がベッドから腰を上げる。そのまま私に手を差しのべてきたので反射でその手を取ると立ち上がるよう促された。
「偽装のために主治医を呼んで頭に包帯でも巻くか……」
「あ、ねぇ、アリアンナって普段はどんな感じだった?記憶をなくしたとはいえ、あんまりかけ離れた態度はよろしくないと思うんだけど」
「……俺の前でのアリアンナはいつも静かだった、両親の前では明るく、もっと幼いときは活発で笑顔が絶えない子だった……因みに一人称は私、二人称はあなた、両親を呼ぶときはお父様、お母様、誰に対しても基本的には敬語だ」
「……まさかこんなところで貴方がストーカーだったことに感謝することになるとは……」
「それは褒めていないな?」
聞いた限り両親の呼び方と言葉遣いに気を付ければ一先ずは大丈夫だろう。
手を引かれ扉の先へ出るとらせん状の階段が現れる。
そんなに長くはないと言われたので自分の足で歩くことにした。
「あれ、そういえばマルクスのことは何て呼んでいたの?」
「……呼ばれたことはないな」
「あー……そう……じゃあ何て呼んでも構わないね……マルクス様ぐらいにしておきましょうか、記憶喪失になった自分を助けてくれた恩人という位置としてはこのぐらいかしらね」
「好きに呼べ」
登りきったところで扉が見えるとマルクスがこちらを振り向く。
「この扉の外は俺の屋敷の敷地内だ……君は近くの森へ一人で散歩しに行った時に足を滑らせて頭を打ったことにする……主治医には適当に誤魔化すから、君はとにかく何も知らないふりをしていろ」
「……敷地内にこんな場所があることには突っ込まないでおくわ……」
扉を開けて外に出るとすでに辺りは暗く、遠くに明かりのついた屋敷のようなものが見えた。
その光景があまりにも自分がいた風景とかけ離れていることにまた、胸の奥がぎゅっとなる。
暫くその目の前の景色を見つめていると急な浮遊感に思わず声がでた。マルクスが私を横抱きに抱えたらしく、彼が抱きやすいように位置を調整される。
「このまま部屋まで連れていくから、気絶した振りをしていてくれ……俺が良いというまで何にも反応するなよ」
「……わかった」
軽々と抱きかかえられたことに驚きつつ、私は彼の胸に頭を預け目を瞑る。歩き出したのか一定のリズムで揺れるのが心地いい。しばらく歩くと目を瞑っていても周りが明るくなったのが分かり、同時に辺りが一気に騒がしくなった。
「旦那様……!!アリアンナ様……!!」
「あぁ、お嬢様!」
「主治医を呼んでください、彼女は客室に運びます……それとブレリューナ伯へ連絡も」
声を聞いている限り普段は物腰柔らかな青年なのだろう。あの見た目でこの口調であればモテる気がするが、残念なことに監禁しちゃうほど愛情が偏っている。アリアンナの前で素の部分を出していたかは定かではないが、病んでる男の丁寧な口調は逆に怖い。
(……もしかしてこれを改善させれば私が戻った後もアリアンナは過ごしやすくなるのでは?)
ざわめきは途切れず、彼は移動を続ける。バタバタと駆け回る足音と指示を飛ばす声にここには沢山の人がいることが分かった。その喧騒も少しずつ減り、やがて数人の足音のみ聞こえるようになると私は漸くベッドへと降ろされた。
「……一旦離れるがブレリューナ家から来ているメイドが部屋にいる……そのまま動くなよ」
降ろすときに小声でそう指示され心の中で頷きを返す。
マルクスはメイドに怪我をしているから触らないよう指示を出して部屋を出たようだ。
「うっ、ううっ、よかったです……お嬢様……」
触れるなという約束は守っているようだが、声の近さからしてベッドの傍へと寄ったのだろう。アリアンナを心配し、心から安堵しているその声に胸が痛む。本当のアリアンナはどこへ行ったのだろうか。私と入れ替わっているならまだ希望が見える。最初の状態からして彼女の死がきっかけになった訳ではないだろう。ならばまた入れ替わる可能性だってなくはない。
「こちらへ……あぁ、申し訳ありませんが貴女は一度外へ出ていただけますか?」
「え……?」
「ブレリューナ伯がこちらへ向かっているようなのです、彼らが到着した後こちらまで案内をお願いします」
「……畏まりました」
主治医を連れてきたらしいマルクスがそれらしい理由を付けてメイドを外へ出す。同時に部屋の扉を閉めると主治医とともにベッドへと近づいた。
「……先生、アリアンナですが」
「えぇ、頭を打っているそうですね、意識はありますか?」
「そう、頭を打ったんですよ、ぬかるみに足をとられてね」
「……?どういう……」
「アリアンナ、起きてください」
マルクスの声に静かに瞼を持ち上げる。視線を横にずらせば戸惑っている初老の男性がいた。
「ああ、よかった意識はあるのですね」
「……あの、どちら様ですか……?」
演技なんぞ子供のころの発表会以来なので自然に出来ているかが分からない。それにマルクスがどうやって医者を丸め込もうとしているのかも分からない。なのでとりあえず、言われた通り全てを忘れていることにする。
「……もしや記憶が……?」
「えぇ、私が彼女を見つけた時から外傷もなく、魔法や薬を使った痕跡もありませんでした……しかし暫くして目覚めた彼女は自分の名前すらも分からず、どうしてここに居たのかも知りませんでした……ただ、何もなく記憶喪失になる事などありえないので、ぬかるみに足を取られて頭を打ったという設定をつけることにしました……先生にも協力していただきたく」
彼の説明からここは魔法が存在する世界らしい。
もしかしたら私も何か魔法が使えるのだろうか。
「外傷がない……?失礼、一度見させていただいても?」
彼の説明を不審に思ったのか、医者は私の身体の診察を始める。
私の身体に彼が触れた一瞬、マルクスが反応した気がするが気のせいだろうか。
頭から爪先まで確認され、口内や脈も確かめられる。隅々まで確認した結果医者はこの信じられない現象を受け入れたようだ。
「本当に、身体には何の外傷もありませんね……服装も汚れがあまりありませんし、説明のしようがありません」
「ですがブレリューナ夫妻がこの説明で納得するかと言えば難しいでしょう……なので頭を打ったという診断を出していただきたいのです、勿論秘密裏に彼女の記憶喪失の原因調査は進めます」
「……なにか原因があった方が心労は少ないでしょう……分かりました、しかし定期的に診断をさせてください、その条件が飲めるのであればこちらもご協力しましょう」
「えぇ、勿論です、よろしくお願いいたします」
医者とマルクスが握手を交わすと互いの腕に白い輪っかが現れてやがて消える。それを不思議そうに見つめていると医者が興味深そうに、こういったことも忘れているのですね、と呟いた。
「今のは契約魔法です、約束を違えぬようするものですよ……さて、では頭に包帯を巻かせていただきますね」
手際よく包帯が巻かれると、丁度部屋の扉がノックされ返事をする前に開かれる。
「アリア!!」
「あぁ、良かった……!!」
先程出ていったと思われるメイドとともに安堵の表情を浮かべた男女が駆け寄ってくる。この方たちがアリアンナのご両親なのだろう。彼女の赤髪は父親譲りらしい。母親も綺麗な顔立ちをしている。
「……」
「……アリア……?どうしたの?」
「どうした?気分が悪いのか?」
心から心配する二人に、貴方たちは誰なのかと問いかけなければならないのに、自分の両親の姿が重なり頬を何かが伝う感覚を感じた。いけないとは思いつつもそれはとめどなく流れてくる。
「あれ……なんで……」
「……きっと、本能で感じているのでしょう……こちらの方々が貴女のご両親ですよ」
咄嗟にマルクスがカバーをしてくれたおかげで自然に涙を流せる理由が出来た。そしてその言葉にいち早く反応したのが彼女の父親だった。
「侯爵、もしや、アリアは……」
「……伯爵、夫人、こちらに来ていただけますか」
医者が沈痛な面持ちで彼らに声をかける。少し離れた場所でことの経緯を聞いた彼らは、自分たちも辛いはずなのに私を安心させるように声をかけた。
「アリア……私たちの可愛い娘……今は覚えていないのかもしれないが私が父のラピオだ」
「無事でよかったわ……母のメメリットよ」
「……お父様、お母様……?」
「あぁ、そうだ……」
泣くのを堪えるような顔に私もつられそうになるがグッと堪え会話を続ける。暫く話した後ブレリューナ夫妻とメイドを客室に案内するようマルクスが指示を飛ばした。
医者にはゆっくり休むよう告げられ漸く部屋には二人だけになる。
ベッドの上で膝を抱えて小さくなると胸に溜まった何かを吐き出すように呻き声をあげた。
「……心が痛い」
「我慢しろ、こうでもしないとすぐに別人なのがバレる」
「……そういえば貴方とアリアンナのご両親の関係って思ったより良好なのね」
「……アリアンナが伝えていないんだろう……こちらの条件がいいのもあって余計な心配はかけないようにしていたみたいだ」
「……滅茶苦茶いい子だな……そう思うと逃げ出すまで追い詰めたマルクスのことちょっと嫌いになりそう」
「……仕方ないだろう、人を好きになっても、愛する方法が分からないのだから」
「……やっぱりさ、愛し方変えたらもう少しマシになると思うんだよね」
「今更か?」
「今更だからでしょ、もし本当のアリアンナが戻って来た時同じようにしたらまた逃げられるよ……だから私が普通の愛し方教えてあげる」
「君の普通は本当に普通なのか……?」
「少なくとも貴方より普通ね」
当たり前でしょう、と呟けば訝し気な視線が返ってくるがこれ以上の反論はなかった。
「……今日は疲れただろう、さっきのメイドが君専属の侍女だ……先程の話を聞いた限り君は一人で出来るのだろうが貴族の娘は侍女に全てをやらせるから大人しく従っておけ」
「……着替えも?」
「あぁ」
「お風呂も?」
「あぁ……いいから大人しく従え、呼んでくるから気持ちを整えておくことだな」
そう言って部屋を出ようとした際に、絶対に包帯は取らせるなよと念を押して彼は出ていった。
一人部屋に取り残されると不安な気持ちが一気に広がっていく。
周りを見回しても見慣れているものはなく、自身の身体を見下ろしても元の身体とは似ても似つかない白い肌に細い手足、傷一つない手は別人だと言われなくても分かってしまう。一生アリアンナとして過ごすのか、何かのきっかけで帰れるのか。いっそのことこれが転生だったら諦めもついた。自分の生が終わっているのなら帰る場所もないということだから。けれども恐らく私は死んでいない。
(……これがどうか入れ替わりでありますように)
私の代わりにアリアンナがいるならば私もまだ罪悪感が薄まる。彼女も私として過ごすことになるのならきっと大変なことも多いだろう。もしかしたら彼女はマルクスから逃げられてよかったと思っているかもしれない。
(……私と話すマルクスはそこまで変な人ではないんだけどね)
私に寄り添うような姿勢も見せるし、アリアンナの両親への心情を察して偽りの理由も作った。ここに愛が絡まなければ恐らくは常識的な人なのだろう。
『……仕方ないだろう、人を好きになっても、愛する方法が分からないのだから』
両親を早いうちに亡くしたと言っていた。ならば彼が成人するまで誰がどうやって彼を育てたのか。愛する方法が分からないということは愛されることが無かったということなのか。
「……わかんないな」
溜息とともに漏れた呟きはノックの音にかき消される。
恐らくメイドが来たのだろうが、この場合返事をするだけでいいのか、それともドアを開けて様子を窺うべきなのか悩んでいると少し開いた隙間から顔を出したメイドと視線が噛み合った。
「失礼いたします、アリアンナお嬢様付きのメイド、ジェシーと申します」
「あ……よろしくお願いします、ジェシー、さん」
「……気軽にジェシーとお呼びください、お疲れでしょうから湯あみをしましょうか」
僅かに寂しさを滲ませた表情に、アリアンナを慕っていたことが読み取れる。申し訳なさを感じつつもマルクスに言われた通り、恥ずかしさに耐えながら全ての工程をジェシーに任せた。
一通り寝る前の準備を終わらせるとジェシーには休むように伝えて下がってもらった。他人がずっといるという状況にまだ慣れていないのもあり、またボロを出さないようにするためにもなるべく一人になりたかった。
再び一人になるとベッドに入る。二人は余裕で寝れるであろう広いベッドに高級そうな肌触りの良い生地。とても私が最後に寝たベッドとは比べ物にならない。複数ある枕の一つを手に取ると抱き枕のように抱え込み布団にもぐる。目の前が滲み嗚咽が出始めると自然と涙が溢れてきた。自分だけが異質なような、取り残されたような感覚。私の普通が普通ではない世界。どうにか保っていた脆い精神が決壊し止まらない。
「……おい」
「っ?!」
どれだけ泣いていたのだろうか、急に聞こえた他人の声に大きく身体を揺らす。
「俺だ、マルクス……言っておくが一応ノックはしたからな」
「……」
「……さっきは聞き取れなかったんだが、君の本当の名前は何て言う?」
「……***」
「……やっぱりわからないな……俺たちの言葉じゃないからか?」
急にやってきて何故そんなことを聞くのだろうか。布団に潜ったまま鼻をすする音だけが響く。
もう一回と言われまた自分の名前を言う。数回それを繰り返すと急にマルクスが私の名を呼んだ。
「リカ」
「……!」
思わず布団を跳ね上げ起き上がる。私の突飛な行動にマルクスは一瞬驚きを見せるがすぐに何だその顔は、と眉間にしわを寄せ強引に私の涙を拭き取った。そんなことには構いもせず彼の手を取るともう一回と呟く。
「もう一回、言って」
「……リカ」
「間に破裂音で、つ、入れれる?」
「リッカ?」
「うん……っ、そう、それが、私の名前……」
ここで唯一私がアリアンナではないと証明できるもの。私が私であるための大事なもの。
「……リッカ」
「うん」
「リッカ」
「……よかった……マルクスにだけでも、伝わって」
掴んだ彼の手が私の涙で濡れていく。どうにか笑顔を作ったはずだがまた泣き出した私を彼は自分の腕の中に収めた。少しだけ苛立ちを感じるのは気のせいだろうか。
「……アリアンナはそんな顔しなかった」
「……それはそうでしょ……私はアリアンナじゃないもの」
「中身が違うだけでこんなにも変わるものなのか」
「……ごめんね、彼女みたいには私は振舞えないよ」
「……別にいい、君は……リッカなんだろ」
「……うん」
もしかしたらこの男は私を慰めに来てくれたのだろうか。この世界で彼だけが私を六花として見てくれる。マルクスにとっては複雑なのかもしれないが、いつでもとは言わない、ほんの僅かな時だけでもこうやって六花として接してくれたらいいなと思う。
しっかりとした腕に包まれていると、その心地よさに力が抜けていく。
気付いた時には彼に身体を預けるようにして眠ってしまった。
………
「……リッカ?」
身体の力が抜け、完全に身を預けた彼女の名前を呼ぶが返ってきたのは小さな寝息で。起こさないようゆっくりと彼女の身体を倒しベッドへと背中を付けると布団をかぶせその傍に座る。
寝ている顔は俺が知っているアリアンナと変わりない。最低限しか動かない表情、温度のない瞳、一定の距離を保ち佇む。それが俺が覚えている彼女の全て。
初めて人を好きになった。
アリアンナが初めてだった、こんな俺に笑いかけてくれたのは。
両親が亡くなり遠い親戚だという一家が侯爵家を管理し始めてから、俺は誰とも話せないよう離れの屋敷に閉じ込められた。衣食住には困らなかったが、家庭教師がつけられなかったので独学で言葉や文字を覚えることになった。定期的に本邸に引き戻されては最低限のマナーを叩きこまれ、よく分からない偉そうな人とご飯を食べる。今思えばあれは王室からの監視員だったのだろう。俺という後継者に引き継ぐまでの一時的な責任者に問題がないかを判断する、形だけの監視。その時さえ誤魔化せれば俺の価値などどこにもない。そんなことを繰り返して数年、十歳の時に俺はアリアンナと出会った。
連れ出されたかと思えば同じぐらいの年頃の子供が集まる場所に放り出され、気に入った女を見つけろと言い残し彼らはどこかに去っていく。興味も関心もなかった俺は庭園の隅の方でただただ立っていた。不思議に思った何人かが俺に話しかけてきたが社交術など習っていないため会話も持たず、すぐに別のことに興味を持った彼らは離れていく。どれくらいそこにいたのか分からなくなった時、目の前に飲み物が入ったカップが差し出された。その先を見れば心配そうにこちらを見る赤髪の女の子がおり、大丈夫かと声をかけてきた。何が大丈夫なのか分からない俺が首を傾げるとコップを俺の手に強引に持たせる。
『なにか飲まないと倒れちゃうよ?』
『……このぐらいで倒れたりしない』
『そんなことないよ!ほら、これ飲んで!』
俺にコップを持たせた彼女はどうやら俺が飲むまでは動かないようで、仕方がなくそのコップに口を付ける。一口飲み終えるも尚も動かない彼女に、もしかしたら全部飲まなければならないのかとうっすら恐怖さえ感じていると、その予感は当たったようで見張るような視線に耐え切れず無理矢理その中身を飲み干す。口元を押さえながら空のコップを彼女に見せると満足したような笑みがこちらに向けられた。
『よかった!ずっと同じ場所にいるから心配だったの!気を付けてね!』
そう言って漸く彼女は俺から離れたが、俺はいつまでもその明るい笑顔を忘れられないでいた。
その日から俺は生きるということに前向きになった。
もう一度彼女の笑顔を見るために。
後で知ったことだがこれはお見合いパーティーのようなもので、そんなことも知らずに俺は戻ってきた親戚に彼女を指差した。結果としては良かったのかも知れない。彼らは身分の高い令嬢を俺の伴侶としたかったそうだが、アリアンナしか見えていない俺は自然と他の候補者から見向きもされなくなった。
知識を身に着けまだ爵位は授かれない歳に親戚一家から侯爵位を取り戻し、王家に一時保管を頼むことに成功した俺はアリアンナへと求婚した。忘れられなかった、忘れられるはずがなかった。唯一彼女だけが俺を心配してくれたから。あの時の笑顔を、もう一度見たかった。それだけなのに。
『……え……?』
『……大変申し訳ありません、ヒースヴァルド様……アリア……我が娘は貴方との婚約を望んでおらず』
『……あ、わ、私が成人すれば侯爵位も戻りますし、ブレリューナ嬢にも何不自由ない生活を保障します!』
『……貴方様に私の娘を見初めていただいたことは光栄に思っております……ヒースヴァルド様のご事情も少し耳にしました……その年でご立派だと、素直にそう思います……それでも、娘の一生を決めることで、少しでも懸念があるならば……私たちは頷くことが出来ません』
『……っ』
分からない。女性は少しでも身分が高く、裕福なところへ嫁ぎたいのではないのだろうか。ブレリューナ伯爵家よりヒースヴァルド侯爵家が劣っているものは何もないはずだ。一体俺の何が、伯爵に、アリアンナに足りていないというのだろうか。
受け入れられると思っていた俺は理解が出来ない現実を受け入れられなかったが、あまり粘っても印象を悪くするだけだと思い一旦引き下がる。しかしその後のことはあまり覚えていない。どうすればアリアンナと婚約できるのか、それだけを目指して行動した結果、俺は彼女に脅しをかけた。
彼女にとって大事なブレリューナ夫妻を盾に取り、両家の身分の差をもって婚約をこじつけたのだ。
アリアンナを脅したうえで破格の条件を付け、最終的に身分をちらつかされた彼女が渋る両親を説得し婚約したに過ぎない。それでもよかった。彼女が俺の傍にいてくれるなら。だから愚かな俺は一番欲しかったアリアンナの笑顔を二度と見れなくなったことに、まだ気づいていなかった。
婚約し、共に成人も迎え、結婚の日にちまで決まるが、彼女はいつも無表情だった。
何を贈っても、話しかけても、外へ連れ出しても、良い反応がもらえるわけもなく。
唯一ブレリューナ夫妻と話しているときだけは、いつものアリアンナに戻っていたように思う。
それでも、俺が求めていた笑顔は見ることは出来なかった。
だから先程リッカが涙を流しながら笑った時、何とも言えない気持ちが渦巻いた。
アリアンナの顔なのに、身体は彼女のものなのに、違う人物に笑いかけられているように感じて落ち着かない。中身が別人とは言え、こんなにも表情の作り方が違くなるものなのだろうか。
ずっと見たいと思っていた笑顔とは違うのに、どうしてかもう一度見たいと思うのは先程の笑顔で。
涙の痕が残る頬を触るとしっとりとした感触を感じ、その痕を拭うように指を動かす。
リッカ。こことは違う世界から来た俺たちと同じ年頃の女性。
アリアンナの瞳に光が宿ったのを見たのはいつぶりだっただろうか。
真っすぐに俺を見つめ、笑い、泣いて、俺の名を呼ぶ彼女はアリアンナとはかけ離れているというのに、何故か目が離せない。あれだけ彼女に執着していたというのに、いや、彼女には今も執着はしている。例え中身が別人でもアリアンナという女性を離す気はないからだ。
『……どうせアリアンナは俺との結婚を望んでいなかった……お前という別人になっていた方がアリアンナも救われるだろうよ』
リッカと話した時に言った言葉。これも本心だった。自分に一欠けらの想いがないことは分かっていたし、自分に想いを返すようなことは決して求めなかった。ただ、彼女が傍にいる。それだけで良かったのだ。
「……中身が誰だろうと、この顔で泣かれるのは堪えるな」
涙の痕を全て拭い終えると静かに立ち上がる。
そのまま部屋を出て自室に向かうと、今後のためにすべきことを一つずつ書き出していった。
………
あれからあっという間に時間は経った。
私は元に戻る気配も手掛かりもないまま、記憶喪失のアリアンナとして振る舞い、彼女の両親と話しつつ結婚の準備を進めていた。とはいえ、流石に式の一週間前だったこともありほとんどの準備は終わっていたのは救いだった。マルクスとも良好な関係を築いている。動き出すのはこの結婚式が終わってからにしようと約束し、それまでは式に向けて慣れないことを一生懸命にこなしていった。
「……それにしても自分には無縁だと思っていた結婚式を挙げることになるとは……」
「……リッカの世界では結婚式を挙げないのか?」
「ううん、挙げる人は挙げるよ……そうじゃなくて、そんな相手もいなかったから花嫁になるってことが中々実感わかなくて」
「ふぅん……」
「……何、その憐みの目は」
「そう見えたのか?随分ひねくれているな」
「マルクスにだけは言われたくないなぁ」
式を翌日に控え、最終確認を二人で行う。
元々親族やごく親しい人だけを呼ぶ小さな結婚式だったらしく、私の記憶喪失の件も出席者に素早く伝わり、粗相があっても仕方がないという雰囲気を作ることに成功しているのでそこまで気負う必要がないのはありがたい。隣で名簿の確認をしているマルクスを見ながら、どうしてアリアンナにはああいう態度になってしまうのか疑問に思う。私と接するようにしていればいい関係性が築けたと思うのだが。
「あ、そういえば誓いのキスなんだけど」
「あぁ、練習では口にするよう言われたが明日は頬にする予定だ……それと初夜も同じベッドで寝ることにはなるが何もしないから安心しろ」
「……意外、既成事実作らなくていいんだ?」
「きせ……君、意外ととんでもないこと言うんだな……この騒動がなくとも彼女には一切触れない予定だった……後継は親戚の子か孤児を貰う予定だったし、アリアンナは……傍にいてくれればそれでよかったんだ」
「それって飼いごろ……いや、でも、もしかして私貴方のこと誤解してた……?じゃあなんで最初はアリアンナに迫ってたの?あんなところで」
「様子を見に行った時に彼女が頭を押さえていて……それで近くで確認していた時に君が現れた」
「あー……そうだったんだ……ごめん、ものすごく誤解してた」
「もしかして俺が彼女を手籠めにしようとしてたとでも思っていたか?」
「……あんな状況じゃ誰でもそう思うって……」
とんでもない勘違いに彼の顔を直視できず目を逸らす。もしかしたらマルクスの矯正は思ったよりも簡単かもしれない。相手には全く伝わっていないし、手段や方法は全くの論外だが、人の気持ちを慮ることが出来ないわけではないようだ。
「いいから、ほら、早く確認して寝るんだろ……明日は早いんだから」
「ドレス着るだけなのにあんなに早くから支度しないといけないんだもんね……あ、でもアリアンナのドレス姿、凄い綺麗だったから明日は楽しみにしててね!」
「そうか、楽しみにしておく」
こちらを見て僅かに目を細め微笑んだマルクスに不覚にも胸が高鳴った。
それがアリアンナに向けられたものだとは分かっているものの今まで見たことのない表情に少し戸惑う。
「……この無自覚イケメンめ……」
「……褒めているのか?貶しているのか?」
「どっちもよ!」
「……それは両立するものなのか……」
呆れたような視線にまたいつもの調子が戻ってくる。その後は確認の方に集中し、どうにか睡眠時間も確保し、明日に備え早めに就寝した。
式はつつがなく終えることが出来た。
記憶喪失のことを伝えてあったおかげで私が普段と違うことをしてもあまり不審に思われることはなかった。
(まさかアリアンナの嫌いなものが料理に入っていたなんて……マルクスに聞いておくべきだったわ)
怒涛の一日を思い出しながらソファへ身を預けていると、私を覗き込むようにマルクスが顔を近づける。
「うわ、びっくりした」
「寝ているのかと思ったが起きていたのか……リッカ、君、酒は飲めるか?」
「お酒……?一応飲めるけど」
「アリアンナが酒を飲んでいるのを見たことがないから、その身体が酒に強いかどうかは分からないんだが……少し付き合ってくれないか?」
「珍しい……いいよ、もしかしたらアリアンナは初めてのアルコールかもしれないし、私も注意しながら飲むね」
上体を起こし身なりを軽く整えると、向かいの席に座るのかと思ったマルクスが隣に腰を落ち着けたので内心少し動揺する。真ん中よりに座っていた身体を少しずらせば、ワインのような色の液体が入ったグラスをこちらに一つ差し出した。それを受け取ると彼も同じように持ち上げる。
「怒涛の一週間だったろう?」
「えぇ……でも色々なことがあり過ぎて逆に良かったのかもしれない」
「とりあえず、無事に式も終わった……改めてお疲れ様」
「マルクスも大変だったでしょう?お疲れ様、助けてくれてありがとう」
カチンとグラスが合わさると少しだけ口を付ける。ほのかに甘みと酸味を感じ、個人的には飲みやすいお酒だった。私が味を楽しんでいる間に飲み干した彼が二杯目を注いでおり思わず二度見する。
「はやっ、え、貴方ザルなの……?」
「どうだろうか、限界まで飲んだことがないから分からないが」
「そ、そう……あ、そういえば一応夫婦になったことだし、貴方の矯正計画も進めないとね」
「待て、なんだその不穏な計画は」
「言ったでしょう?愛し方を教えてあげるって。本当のアリアンナが戻って来た時に同じことの繰り返しにならないように貴方のその歪んだ愛情表現を治そうかな~って」
「……色々と失礼だな」
「でもそこまで頑張らなくても、私に接するみたいにしてれば大丈夫だと思うんだけどな……あーでもアリアンナには今までの積み重ねがあるから……」
「……君への接し方は、問題ないのか?」
「ん?そうね……全くと言っていいほど問題ないわ、でもそれは私が貴方の恋愛対象じゃないからだと思うの」
話ながらちびちびとお酒を嗜む。今のところアリアンナは物凄く酒に弱いタイプではないようだ。
「先ず、アリアンナに誠心誠意謝ること!全ては謝罪からよ」
「謝罪……?」
「……もしかして何が悪いか分かってない感じ……?」
「アリアンナには離婚しなければ何をしても構わないと伝えてあった、それなのに逃げ出そうとしたから捕まえただけだ」
「んん~……いい?先ずアリアンナは貴方と結婚をしたくなかった……まさか彼女に恋人とか、想い人とか……」
「いなかったと思うぞ、そんな奴がいたら真っ先に消していた」
「……うん……そういうのもよくないね……それと彼女の行動制限も良くない、っていうか貴方今離婚しなければ何をしても構わないって言ってなかった?なのに行動制限するのは矛盾してない?」
「異性との接触を禁止していただけだ……流石に結婚前に身ごもることは避けたかったし、結婚した後も余計な問題を増やさないためにはそれが一番いいだろう?」
「まぁその理論は、ちょっと理解できなくもないけど……それだとアリアンナは誰からも愛されないじゃない」
「俺は愛していた」
「……マルクス、貴方アリアンナ以外の女性から迫られたら怖いとかうっとおしいとか思わないの?」
「俺に興味を持つものなどいないだろう」
「……そっか……貴方も被害者ではあるのよね」
きっぱりと言い張ったマルクスに微かに寂しさが渦巻く。
早くに両親を亡くし、愛情が何かを知らずに育ったのだろう。この様子だと育ててくれた人も碌でもなかったに違いない。私はグラスを置いて腕を組んだ。
「うーん……じゃあ理解しなくていいから聞いてちょうだい、一般的に好きでもない人から迫られるというのはとても怖くて気持ちの悪いことなの、ましては貴方は彼女を脅して関係を結んだ……その時点で彼女からの愛情と信頼、そして生きる希望は失っているわね」
「……しかし」
「わかってる、それでも彼女を手にいれたかったのでしょう?だから謝るの、そして貴方が彼女に感謝しているということも伝えないといけない……どうせ子供のころの話とか彼女にしてないでしょ」
「……」
何も言わずにお酒を煽ったのを見るに事実なのだろう。せめてそこを話していればもう少し変わったのかもしれないのに。
「子どものころにアリアンナに救われたと、だから自分は彼女の傍に居たかったのだと、結婚までの経緯は間違っていたかもしれないけれど、大事に思っていることには変わりがないと……いい?絶対に言葉を省いてはいけないし、丁寧に話さなければ駄目よ?」
「……それはアリアンナが戻ってきたらの話だろう?」
「そうね、これは仮の話……でも戻ってくるかもしれないんだからちゃんと心の隅に刻んでおいてね」
「……リッカはどうなんだ?」
「私?」
「今君は好きでもないどころか、誰かも分からないような奴と同じ屋根の下で過ごすことになったんだ……こちらの世界では結婚するまでお互いの顔も分からないことだってあったりするが、きっと君の世界ではそんなことはないのだろう?……やはり、怖いのだろうか」
淡々と話すその口調にあまり感情は読み取れないが、今の話を聞いて私を気遣うような言葉が出てきたのは意外だった。私は腕組を解いてテーブルに乗ったボトルを手に取り彼のグラスに注ぐ。
「相手が絶対に手を出してこないと分かっているならば怖くもなんとも、友人に恐怖を抱くわけがないでしょう?」
「……友人?」
「えぇ、アリアンナと貴方は形式上は夫婦、けれどリッカと貴方は互いの秘密を持った共犯者……流石にもう他人でもないし、友人って呼んでもいいでしょう?」
「……そうなのか」
「……もしかして貴方友達も……いや、何でもない」
自分のグラスにも注ぐと先程よりも一口を少し多めに飲み込んだ。身体が熱くなり、微かに気分も高揚する。酔いがある証拠だ。このグラスを飲み干したらそろそろ終わりにした方がいいかもしれない。
気分よく飲んでいるとポスンという物が落ちる音が聞こえ、それを確認する前に肩に重みがかかった。それがマルクスの頭だと分かった時にはそのまま身体が倒れて俗にいう膝枕の状態になってしまった。
「ま、マルクス?!えっ、まさか酔いつぶれた?!」
床を見れば空のグラスが転がっており絨毯に僅かなシミを残していた。自身のグラスもテーブルに置くと軽く彼の頬を叩いてみる。すると嫌そうに眉をしかめ、完全にソファへと足を上げて丸まるような姿勢を見せた。
「マルクスさーん……せめてベッドに行きましょー?」
「……やだ」
「やだって……このままだと私寝れないんですけど……」
「……ベッドで寝たら、君が……」
「私が……?」
「……少しで良い……このままで……」
「……もう、私の足が痺れたら転がしてでも起こすからね」
最後の言葉を聞かずに彼の寝息が聞こえてくる。どうやら酒を飲んでも顔にも態度にも出ずにいきなり限界を迎えるらしい。ボトルの中身を確認してマルクスの限界はボトル半分と記憶しておく。彼の綺麗な金髪を梳くように撫でると僅かに身じろいだ。きっとこんなこともされたことはないのだろう。やだと駄々をこねているときの彼はずっと幼く見え不覚にも母性本能とやらを刺激されたことは黙っておく。
「……友愛もしっかりとした愛だからね」
先ずはマルクスに愛を与えるのが先かもしれない。
他人の愛し方の前に、先ずは自分を愛せるようにならなければ。
気持ちよさそうに眠る彼を見ているうちに自分も舟をこぎ始めていることに気づく。どうにか耐えようとしたが疲労と酔いには抗えず、そのまま意識を手放した。
………
暗闇の中で女性が立っている。それがアリアンナだと気付くのに時間はかからなかった。声こそ聴こえないが俺に向かって何かを話している、やがてそれは勢いを増して涙を流しながら罵倒しているように動きを変えた。何故、声が聞こえないのか。いっそのこと聞こえていればそれを受け入れられるのに。何に怒っているのか、何に悲しんでいるのか、言ってくれないと分からない。
『マルクス』
俺の後ろから聞こえた名前は、アリアンナの声なのに彼女ではない響きで。振り向けば微かに笑みを浮かべるもう一人のアリアンナが立っていた。すぐにそれがリッカなのだと分かる。そちらに足を踏み出そうとするがいくら前に進んでも彼女へは辿り着けず、思わず走り出すがそれでもその距離は縮まらなかった。リッカが困ったように笑って俺の後ろを指差して呟く。
『アリアンナはあっちだよ』
分かっている、そんなことは知っている。けれども今の俺が求めているのは、アリアンナではなくて。
「……!」
急激に意識が浮上し身体を揺らす。その反動で何かが唸る声が聞こえた。
目の前にいるのはアリアンナで、俺の動きに眉間にしわを寄せた後また静かな寝息が聞こえてきた。
あまりにも近距離にいる彼女を疑問に思うが、どうやら原因は自分の方にあるらしく、しっかりと彼女を腕の中に捉えて寝ていたようだ。彼女をベッドに移動させたときには確かに離れて寝ていたのに。
動かそうにも無意識に彼女を抱きしめたせいで腕を抜くことが出来ず、無理に動かすと彼女が起きそうになるので早々に諦めた。
今目の前にいるのはアリアンナなのか、リッカなのか。
あんな夢を見たせいか見た目だけでは分からないことに非常に不安を感じる。
(……不安……?)
俺は何に不安を感じているのか。そもそも何故、夢の中で俺はアリアンナではなくリッカを求めたのか。素で話すことが出来る相手だから?秘密を共有する仲だから?俺を見てくれるから?
……いつかいなくなってしまうかもしれない相手だから?
ヒュッと、血の気が引いていく感覚に俺が感じている不安がなんなのかを理解する。
(……俺はリッカを手放せなくなりつつあるのか)
急に現れた別の世界の彼女。
リッカが言うようにいつまた元に戻るのかなんて分からない。
彼女がいなくなり、アリアンナが戻ってくる。
喜ばしいことのはずなのに、それを考えるだけで胸が痛いし泣き叫びたくなるような衝動が胸の内に燻っていく。
その不安は一度認識するとたちまち俺の思考を支配した。
今の彼女がどちらなのか、確認したい衝動にかられると同時に、万が一リッカではなかった時にどういう反応をすればいいのかが分からない自分にも気づいてしまった。
「……ん……?」
「……っ!?」
俺の動揺が伝わったのか目の前の彼女が大きく身じろぎ目を擦る。どちらの名前も呼べずに固まっていると焦点の合わない目と視線があって、かすれた声で俺の名前を呼んだ。その瞬間の安堵感はどう説明したらいいのか分からない。冷たかった手足に温かみが戻っていくようにじんわりとゆっくりと。
「……リッカ……」
「……いま、なんじ……」
反対側に身体を捩ろうとするリッカの動きを制し再び自身の腕の中に抱え込む。幸いなことにまだ眠気が勝っているのか大人しく元の位置に収まった。
「……まだ寝てていい……おやすみ、リッカ」
「……ん」
寝ぼけているのか素直にこちらにすり寄ってくる彼女に何とも言えない感情が湧き上がる。
これ以上リッカに感情を持ってしまえば辛くなるのは自分だと分かっているのに。
アリアンナの時は身体的に拘束すれば俺から離れるということはなかったが、リッカはいつ何時帰ってしまうか分からない。拘束など無意味なものだ。
(……このままここに居て欲しいなど……アリアンナにもリッカにも失礼な話だな)
どこまでも自分本位な考え方しか出来ない自分に嫌気がさす。
それでもこのままリッカと過ごしていけば俺は彼女を手放せなくなるだろう。
アリアンナの時のようなやり方は違うと教えられた。
ならばどうやって不安定な彼女を俺のもとに留めておけるのか。
少なくとも今、彼女がどこにもいかないように再びしっかりと抱きしめて目を瞑る。これからどうすべきかを考えながら。
………
目を覚ました時に広がっていたのはマルクスの寝顔だった。最後の記憶も彼の寝顔であったが、今は目の前に同じ高さで向かい合って並んでいる。どうやらここはベッドの上で、身動きのし辛さに視線を巡らせば何故か抱き締められるように彼の腕がまとわりついていた。恐らく私より先に目を覚ました彼が運んでくれたのだろうが、こんなにもしっかり抱きしめられていると少し居心地が悪い。アリアンナには一切触れないと言っていたような気がするが中身が別人だからなのか、はたまた彼の寝相が悪いのか。しかし部屋の暗さからまだ行動するには時間が早くもうひと眠りするしか選択肢がなさそうだ。
ここぞとばかりに彼の寝顔を見つめる。睫毛は長く、鼻筋は通り、唇は少し薄めだが逆にそれが全体のバランスをよくしているのかもしれない。自分の住んでいた世界ではあまり見なかったタイプの造形。ゲームや漫画なら確実に攻略対象で、ヒーロー役だろう。二次元の話ならば、この執着や異常な行動も束縛されて嬉しいぐらいの範囲に収まるのかもしれないが、これは三次元、そして目の前に広がる現実だ。
(……ご両親がいれば……いや、過去を嘆いても仕方ない)
色々と考えていたがマルクスの体温にまた眠気が襲ってくる。その心地よさに抗うことなく彼の腕の中で二度目の眠りについた。
………
私がこの世界に来て半年ほど経った。勿論その間に戻るような気配は何もなく、記憶喪失という設定を生かして一から覚えたマナーや教養も身に付き始めていた。この頃にはいくら原因不明とは言え医者も心身ともに異常なしという結果を出して往診も無くなった。
マルクスやブレリューナ夫妻とも良い関係を築いており、万が一帰れなくてもそれなりに暮らすことは出来るだろう。心残りがあるとすれば、最後に両親に会いたかったことぐらいだろうか。
ただマルクスの様子が少しおかしい。
結婚初日以降バラバラで過ごすはずだった寝室は次の日以降も同じ部屋で、勿論ただ寝るだけではあるのだが離れて寝たはずなのに毎回朝になると彼の腕の中で目を覚ます。一度抱き枕のようなものを勧めてみたが間に挟んだ抱き枕を飛び越えて私に抱き着く始末。今はもう慣れてしまったが。
約束通り、普通の愛し方というものを教えた甲斐もあってかアリアンナが戻っても以前のような態度はとらないと誓ってくれた。更にはアリアンナのご両親に自分の過ちと彼女を求めた経緯を濁しながらではあるが話して謝罪までした。ブレリューナ夫妻は当然驚いていたが、記憶喪失になっていることもあり、今後の紳士的な対応を約束して平和的に和解した。
ここまでは良かったのだ。
しかしここ最近はどこに行くにも同行を求めてくるし、私を呼ぶ声に不安を滲ませるようなこともある。束縛というほど制限されているわけでもないのでこちらも嫌とは言えず、ひよこのようについてくる彼を邪険に出来ないでいる。今だって庭を散歩するだけなのに隣に並んでエスコートをしているのだ。
「……ねぇ、マルクス……ちょっと一人の時間が欲しいんだけど」
「……なんで?」
「いや、ここ最近私と一緒に居すぎじゃない?仕事は?」
「空き時間にしてるし問題ない……俺と一緒にいるのは嫌なのか?」
「あ、貴方そんなキャラだったっけ……?嫌じゃないけど……たまには一人でぼーっとする時間が欲しいって言うか……」
「……この庭から出ないなら」
「でないでない、何ならそこの東屋に居るから……そうだな……半刻ほど一人にさせて」
「……分かった」
渋々といった様子で東屋に私を座らせると懐中時計で時間を確認して半刻だけだぞ、と念を押して去っていく。その背が見えなくなると私は東屋のテーブルに身を伏せた。
「……何が起きているの……?もしかしてアリアンナから私にターゲットが変わった……?」
マルクスの過去の話を全て聞いた私はこれでもかと言うほど愛情を注いだ。勿論家族愛や友愛といったものだが、あんな過去の話を聞いてしまった以上何もしないということは出来なかったし、その過程で愛情の矯正も出来たと思っていたのだが。
「……ヤンデレから過保護に進化してる……?」
マルクスと過ごしていて彼からは一度も異性への愛や欲というものは感じたことがない。毎日一緒に寝ているにもかかわらず、そういった雰囲気は皆無だし、抱きしめられているがそれ以上は何もない。
「いやまぁ、マルクスとどうにかなりたいわけではないんだけど」
精神は私だが身体はアリアンナのものだ。彼女が嫌がっていたのに勝手に色々と奪ってしまったのでは流石に申し訳ない。
「せめてアリアンナがどう思っていて、今どこにいるのかさえ分かればなぁ……ん?」
突っ伏した顔を上げると反射する何かを植え込みに見つける。気になって近寄ればどうやら手鏡のようだった。光の反射で火事になる事もあるだろうし、捨てるにしろ拾った方がいいだろうと手を伸ばす。アンティーク風の作りの手鏡は後ろにイニシャルが彫ってあった。何気なく見上げればこの上の階にはアリアンナの部屋があり、もしかしたら彼女の持ち物なのかもしれない。ハンカチで軽く汚れを拭き取りそのまま包むとドレスに仕舞う。また東屋に戻って軽く身体を動かしたり、目を瞑って風を感じていると半刻ぴったりにマルクスのお迎えがあった。
「もっと余裕あっても良かったんだけど」
「半刻と言ったのは君だろう?」
「……まぁ、いいやおかげでリフレッシュも出来たし……定期的にこの時間欲しいな」
「……俺が家にいる時になら」
「……なんか最近過保護だよね?これ以上は執着とみなすよ」
「そんなつもりは……分かった……決まった時間にするなら……」
文句を言いつつ私の言うことを聞いてくれるあたり少し変わったのかもしれない。
こうして私は一人の息抜きタイムを確保し、上機嫌でマルクスのエスコートの手を取った。
部屋へと戻るとマルクスから任されている仕事に手を付ける。働かなくていいとは言われたが、じっとしているのは性に合わず部屋の中で出来る仕事を条件にお手伝いさせてもらっているのだ。
(なんか座りずら……あ、さっきの鏡)
書類に目を通し始めてすぐ違和感を感じてドレスから先程の鏡を引き抜く。
ハンカチから取り出すとそれを見ていたジェシーがあら、と声を上げた。
「奥様の手鏡じゃないですか」
「あ、やっぱり私のだったんですね……東屋近くの植え込みに落ちていたんです」
「そうだったんですか?鳥にでも運ばれてしまったのでしょうか?」
「どうなんでしょう……幸い割れてはいなかったので……これ洗って綺麗にしてもらってもいいですか?」
「畏まりました」
ジェシーに鏡を預け再び目の前の書類に向き合う。いくつかの書類を片付けた後、ジェシーが鏡を持ってきた。土や泥が墜ちた鏡はアンティーク風の彫刻が見事なものだった。ジェシーの話では十歳の時の誕生日プレゼントで大事にしていたらしい。しかし、何故あんな所にあったのだろうか。大事にしていたというのならばわざと落としたというのは考えにくい。やはり動物によって運び出されたのだろうか。
そんなことを考えながら鏡に映った自分を見ていると一瞬六花の顔が映った気がして思わず立ち上がる。幸いジェシーは部屋を出ていったようで突然の行動を見られる心配はなかった。見間違いかと思ったが再び鏡を見つめているとまた一瞬六花が映る。同じように驚いている顔をしているが、自分なのに自分とは思えないのはどうしてだろうか。二回映ったのを最後にその日はどれだけ鏡を見つめても六花が映ることはなかった。
(……あれは鏡に映った本当の自分の姿なのか……それとも別の世界にいる私を映したものなのか……映ったことに驚いて背景や動きまで確認できてなかったな)
「……リッカ?」
「へ……あ、ごめん、呼んだ?」
寝る前の近況報告という名のおしゃべりが日課となり、話している最中に考え込んでしまったようだ。なんとなく鏡のことはマルクスには言えず、もう少し確信を持ってから報告をしようと思っていた。疲れてるのか、と問う彼に素直に考え事をしていたと返す。
「ほら、アリアンナの友人から招待状来てたじゃない?そろそろ親しい人のパーティーには出席したほうがいいんじゃないかなと思って」
記憶喪失を理由に社交の場は避けていたが流石に半年経っているのでそろそろ理由付けが厳しくなってくる。それにこの世界は交流して情報を得ることもとても重要な夫人の仕事の一つだ。世間の流行りに疎いのは私の世界でもこちらの世界でも致命的な欠点になる事は変わらないらしい。
「……別に出なくても」
「駄目よ、アリアンナの友達をこれ以上少なくする気?ただでさえ記憶喪失になっても友達でいてくれる子なんて、本当の友人か何かを得ようとしている人の二択なのよ?」
「後者だったらどうするんだ」
「逆に利用してやるわ」
含み笑いを携えてそう答えれば呆れたような視線がかえって来た。
「……わかった、復帰後最初のパーティーだし俺も行く」
「えっ、別に私一人でも大丈夫だと思うんだけど」
「駄目だ、俺も行く、それが条件だ」
腕を組みこれ以上の反論は認めないとでも言うようにそっぽを向いたマルクスに頬をかく。
いくらなんでも過保護過ぎやしないだろうか。けれどもこれ以上何かを言って参加を取り消されるのも面倒ではある。
「ん~わかった、とりあえず同伴できるか聞いてみるね」
「決まったら教えてくれ……もうこんな時間か、そろそろ寝よう」
ソファから腰を上げ私の方へ手を差し出す。珍しいその行動を疑問に思いながらも手を取り立ち上がると繋いだままそのままベッドへと連れていかれた。
「……私は子どもか?」
「こんな大きい子どもがいるわけないだろう」
「正論で返さないでよ」
ベッドに入り布団をかぶると離れているはずのマルクスがやけに近くに身体を横たえた。かと思えばしっかりと私の身体を抱えるように腕を回す。いつもは私が寝た後に抱き着かれているので諦めもあったが最初から抱きしめられるのは話が変わってくる。
「ちょ、マルクス?」
「なに」
「なにじゃなくて……」
「……毎朝こうしてるじゃないか」
「いや、それは私が寝た後の話……え?これ、わざと?寝相が悪いんじゃなくて?」
「……リッカに触れていれば寝つきがいいんだ」
「だから毎回抱きついてたの?……それよりなんで今日は私が起きてる時に……」
「なんとなく」
「えぇ……うわ、すり寄らないでよ」
「いい匂いがする……」
「なんっ、へ、変態!!」
「……」
「嘘でしょ、この状況で寝れるの」
私に触れていると寝つきがいいのは本当らしく、会話の途中で静かな寝息が聞こえてきた。あどけないその寝顔にそれ以上何も言えなくなり大人しく体勢を整える。なんやかんや言ったが私もマルクスに抱えられるのは嫌いではない。こんな状況でも振り払えないぐらいには私も彼に心を許しているのだ。
(なんだっけ、そういう関係を持つ……ソフレ?)
そういう関係がある事を知った時は意味が分からないと思ったが、ほんの少しだけ彼らの気持ちが分かってしまった。
(まぁ、彼らとは違ってちゃんとした関係を持ってるってのもあるんだけど……それにしてもなんで今日は最初から抱きしめてきたんだろ……早く寝たかったのかな)
閉じてくる瞼に思考を止め、抗うこともせず眠りにつく。
……私がこの疑問の答えを知るのはもう少し後だった。
………
今日はアリアンナの友人の一人、レーゲラン伯爵の長女ケイト嬢主催のパーティに来ている。
リッカから無事に同伴の許可が出たと報告が来た時には安堵し、すぐにパーティー用の衣装を決めに街へと出た。服をあつらえるなど久方ぶりのことで、贔屓にしていた衣装店の店主には涙ぐまれる羽目になってしまった。いつも既製品ばかり着ていたのが申し訳なるほどに。リッカもその衣装店のドレスデザインを気に入ってくれたらしくいくつも試着をして楽しそうにしていた。こっそりと試着していたドレスやアクセサリー類を全部購入し黙って彼女の部屋のドレッサーに入れて置いたら何故か怒られたのは記憶に新しい。贔屓にしていた店への寄付のようなものだととってつけた言い訳をどうにか信じてもらったが今後はやらない方がいいのだろう。
一部が揃いのデザインとなっているドレスを着たリッカはとても綺麗で、本当ならば人の目があるところには行きたくなかったのだが、これ以上彼女の行動を制限してしまうとアリアンナの二の舞になりかねない。ただでさえ最近は過保護だと釘を刺されているのだ、もう少し距離を考えなければならないのは分かっているのだが。
(……リッカがいないと不安になるとは……口が裂けても言えないな)
あれから想いは募る一方で、恐らくこの感情が恋というものなのだろう。アリアンナに抱いていたものとは少し違う、どうしようもないほどの甘さを持った大きな感情。けれどもリッカは好きでもない人の好意は気持ち悪いだけだと言っていた。ならばきっと、俺が彼女に持っているこの感情は伝えてはいけないものなのだろう。伝えた瞬間、恐らく今の関係は破綻する。それは今の俺の望むものではない。
夫婦という肩書に甘えて抑えきれない想いを昇華してはいるが、それすらも危うくなりかけている。これ以上は踏み込んではいけないと分かっているのに。
「アリア!」
「ケイト」
ふと聞こえた明るい声に意識が戻ってくる。こちらに手を振るのは主催のケイト嬢で、隣に居る俺に気づくと優雅に礼をした。
「ようこそお越しくださいました、ヒースヴァルド侯爵」
「ご招待、並びに急な参加だというのにご快諾感謝いたします……ささやかですがお礼の品もお持ちしましたので後程ご確認ください」
「わざわざありがとうございます……アリア、来てくれてありがとう……話したいことも沢山あるから挨拶終わったらまた来るわね」
「分かりました、ありがとうございます」
ケイト嬢が去るとウェイターが飲み物を運んでくる。それぞれグラスを受け取り小さく合わせた。
「彼女が来たら俺は近くに下がるから好きなだけ話してきていいぞ」
「いいの?マルクス一人で大丈夫?」
「……一応知り合いがいるから大丈夫だ」
「わかった、あ、これ美味しい」
今日の出席者で注意しなければならないような人物はいなかった。ケイト嬢は二択の内、本物の友人であり、リッカとも相性がいいようだったので心配はないだろう。リッカが目に入る位置にはいる予定だし、少しは離れることも覚えなければならない。
無事にパーティーが始まるとヒースヴァルド侯爵として数人に挨拶をする。並び立つリッカも挨拶はお手の物で、無事に終えると丁度ケイト嬢がこちらに向かってきた。約束通り彼女を送り出し、俺は近くのテーブルに陣取り飲み物に口を付ける。
(このままの関係性を、いつまで続けられるだろうか)
リッカは俺に恋愛感情抜きの好意は持ってくれている。もしかしたら今後、同じような気持ちを持ってくれるかもしれない。けれども、例え気持ちが通じたとてその身体はアリアンナのものだ。ほんの僅かでも戻る可能性がある以上、むやみやたらに手は出せない。そしてリッカのままでいて欲しいと願う反面、どこかでアリアンナに謝罪をしたい気持ちもあった。リッカに教えられ、悟らされたことも大きいが、本当の恋というものを知って今までの自分の行いを償いたい気持ちがないわけではなかった。例えそれがこちらの自己満足だとしても。
リッカの方を見つめていると何故かその姿がブレて二重に見え始める。疲れているのかと目を擦っていると後ろから名前を呼ばれた。再び見えたリッカの姿は変わらず、気のせいだと結論付けて声をかけてきた相手と暫し歓談し時間を潰すことにした。
………
マルクスと離れケイトとの会話を楽しむ。
以前の関係がどうだったのかは分からないが、気さくな性格のケイトは記憶を失ったアリアンナとまた一から関係を築き直してくれた。
「それにしても仲が良さそうで安心したわ」
横目でマルクスがいる方に視線をやった彼女はそのまま私に視線を移す。正確には私の着ているドレスに。
「まさか揃いのデザインで来るとは思わなかったし」
「仕立てたところの店主さんが久しぶりのオーダーで張り切ってしまって……もしかして変でしたか?」
「そんなことないわ、ただ……その、今の貴女に言っても分からないと思うのだけど、前はそこまで仲良くなかったというか……」
言いにくそうに言葉を探すケイトにアリアンナとマルクスがどういう風に見えていたのかは想像に難くない。心配をかけないようになるべく笑顔を作って彼女に答えた。
「そうだったんですね……少なくとも今はいい関係を築けています、心配してくださりありがとうございます」
「ふふ、聞かなくても分かっているわ……昔の侯爵だったら心配だったけど、今の侯爵になら安心してアリアを任せられそう」
「それは……どうしてです?」
「なぁに?気づいてないの?貴女のことあんなに愛おしげな目で見てるからに決まっているでしょう?」
ケイトの視線が少し後ろへと向けられる。つられて身体を動かせば談笑しているマルクスの姿が見えた。
「今だって貴女の姿が見える場所から動かない、まぁ記憶をなくしてから最初のパーティーって言うのもあって心配なのもあるかもしれないけど、ここまで気にかけられてるのは愛されてる証拠でしょ?私の旦那なんて今どこにいるか分かったものじゃないわ」
「愛……?」
そんなこと意識したことが無かった。
自分のことに精一杯で、そんな中で私を曝け出せるマルクスの存在は確かに大きかった。
けれどもそれはあくまでも友人としてあって。
談笑の最中にこちらを見たマルクスと目が合う。ゆっくりと細められた目を見ることが出来なくて思わず視線を外してそのまま背を向けた。
(……違う、マルクスが愛しているのはアリアンナで、だから、この視線もアリアンナに向けられたもので、違う、私じゃ、六花に向けられたものではないのに、なんで、こんなに)
愛おし気にみるその視線も、気にかけられているのも、アリアンナに向けられたものなのだから、この胸の高まりはきっと気のせいなのだ。気のせいだと、そう思いたいのに。
「やだ、可愛らしい顔」
「からかわないでください、ケイト……」
この感情は持ってはいけないものだ。意識しなければよかった、気づかなければよかった、そうすれば友人のままでいられたのに。自然と俯き口を手で覆い隠す。
(……どうしたらいいの)
「ん、ほらアリア、お迎えが来たわよ」
「お話の途中申し訳ございません、妻の様子が気になって……」
心配そうな声が近くに聴こえ、マルクスにどういう反応を返せばいいのか分からなくなってしまう。
私は、アリアンナは、何て返すのが正解なのだろう。
「……アリアンナ……?」
「ふふっ、私が侯爵とのことを色々聞いてしまって恥ずかしがっているみたいなんです」
「え?あ、そうなんですか……?」
戸惑いと喜びを滲ませたような声にまた胸がきゅっとなる。一呼吸を置いて漸く私は顔を上げた。
「もう、ケイト……あんまり私のことをからかうようなら今度からクッキー焼いてきませんよ?」
「それは困るな……あ、それじゃあ今日は来てくれてありがとう!今度は家の方に伺ってもいいかな?」
「ええ、勿論です……久しぶりにゆっくり話せてよかったです」
丁度他の方に呼ばれたケイトに別れを告げ手を振り別れる。
今、私はアリアンナになれているのだろうか。
「……リッカ?どうした?」
「……なんでもないよ、もしかしたら少し疲れが出たのかも……そろそろ帰っても大丈夫かな?」
「あぁ、主催に挨拶は終わっているし、時間的にも問題ないだろう」
いつも通りのマルクスに内心ほっとする。
エスコートのために差し出された手を取り、最後にレーゲラン伯爵へ挨拶をして帰路についた。
「……何を聞かれたんだ?」
「え?」
「明らかに様子がおかしいだろう……それとも俺が何かしたか?」
帰りの馬車の中、勝手に気まずさを感じていた私に目ざとく気づいたマルクスが問うてくる。心配そうな目を向けられて、自分の中でもまだ整理がつかないでいるため一瞬返答に詰まった。
「……以前の貴方とアリアンナとは全然違うって言われただけ」
「あぁ、それはそうだろうな」
「それに……貴方が今もアリアンナのことが好きだったんだなって再認識したって言うか」
「は……?」
口に出した後しまったと思い誤魔化しの言葉を考えていたが、目の前にいるマルクスの表情に開きかけた口を閉じてしまう。どうしてそんなに真っ赤な顔をしているのか。驚きと戸惑いと焦りを滲ませたような反応はどういうことなのだろうか。胸のどこか奥底が小さな痛みを訴えているがそんなことには今は気遣う余裕が無い。
「なん、で……いつから、知って」
「え……いつからって……最初から?」
「……最初……?」
「えっと……アリアンナのことだよ?好きだよね?」
何かが噛み合っていないような会話に戸惑っていると、私の返事を聞いてマルクスは盛大に息を吐いて頭を垂れた。予期できない反応ばかりする彼にどうすればいいのか分からずその様子を見守っているとその状態のまま問いかけが来る。
「……どうしてそう思ったんだ」
「……ケイトに言われて、アリアンナを見るマルクスを客観的に見てみたの……あんな表情出来るんだなって、思って」
「俺はどういう顔で君を見ていた?」
「それは……その、ケイトの言葉を借りれば愛おし……気な……」
言葉の途中で顔を上げたマルクスに自然と言葉が出なくなる。
先程よりも甘くて優しい、愛おしいものを見る目が私を見ていたから。
「……リッカ」
名前を呼ばれただけなのに、不思議な甘さを持った響きに身動きが出来なくなる。
(勘違いを、しそうになる)
向かい合っている彼が腰を上げ私の隣に座り直すと、私の手を彼の手が包み込んだ。
大事なものを触るような、そんな丁寧な手つきで。
「……確かにアリアンナのことは好きだった、初めて俺のことを気にかけてくれた人だったから」
以前聞いた話のことだろう。私が彼の立場だとしても、きっとアリアンナにいい感情を持ったはずだ。
「けれども君に出会って、愛するということが何なのかを知って、そして愛にも色んな形のものがあると知った」
家族として、友人として、私なりに彼には愛情を注いだし、彼も気づかなかった周りからの愛情に気づくことが出来るようになった。
「だからアリアンナに抱いていたものが恋ではないということにも気づくことが出来た」
「え……?」
「正しく言えば好意はあったのだろう……でもそれは憧れに近いものだった」
「……」
何を言っているのだろう。あんな目を向けておいて、異性としての好意ではなかったというのか。
「俺は漸く……恋というものが何なのかを知ったんだ」
「……ようやく……?」
私の言葉に少し視線を下げていた彼が私を見つめるように視線を上げる。噛み合ったその瞳に囚われたように視線を外すことが出来ない。全身が脈を打っているかのように鼓動がはっきりと聞こえ、繋がれた手に力が入った。
「……リッカ、俺は君に恋をしたんだ」
どこか諦めたような、気の抜けた笑みとともに衝撃の告白をされる。
あまりにも唐突で思いもよらない現実に頭が真っ白になった。
「……言う気はなかったんだ、君は言っていただろう?“好きでもない人から迫られるというのはとても怖くて気持ちの悪いこと”だと……今の関係のまま傍に入れればそれでいいと思っていたんだ、でもどこかで今以上の関係を望んでいる自分もいて……今日、君が俺がアリアンナのことを好きだと思っていると思ったら我慢がきかなくなってしまった」
今目の前で起きているのは現実の話なのだろうか。白昼夢でも見ているのではないか。
自覚したばかりの恋心に追い打ちをかけるようなマルクスからの告白を私はまだ受け止める準備が出来ていない。それに私の心は受け入れても、この身体はどうなのだろうか。アリアンナは、それを許してくれるのだろうか。
「リッカへの想いを自覚してから……俺は君がいなくなる不安に段々と耐えられなくなっていった……寝て起きたらアリアンナに戻るかもしれないと、君の名前を呼ぶことすら不安になった」
辛そうに語るマルクスに、ここ最近感じていた違和感の正体を理解する。
朝になると必ず彼の腕の中にいたのも、散歩するだけでも傍に居たがったのも、不安そうに私の名前を呼ぶのも……全部、私の存在を確認するため。
こんな奇跡のようなことが起こっていいのだろうか。寝て起きたら異世界に居て、見知らぬ令嬢として生きていくことになって、訳アリの契約結婚をしたと思ったら、お互いに想いが通じ合っていただなんて。
「……ごめん」
急に謝罪をしたかと思えば綺麗に畳まれたハンカチを取り出し私の頬へ押し当てる。押し当てたところが冷たく感じて漸く自分が泣いていることに気づいた。
「君からの信頼を、こんな形で裏切ってしまったことは本当に申し訳ないと思っている……今後は節度を持った距離を保つから……だからどうか……ここから……俺から離れていかないで欲しい」
ハンカチを握りしめ、私に向かって頭を下げるマルクスに胸が軋むように痛みが走る。
今すぐにでも彼を抱きしめて私も同じ気持ちだと告げたい。
けれども告げてしまったら、きっと抑えがきかなくなる。
それはアリアンナへの、この身体への裏切りにはならないだろうか。
私の答えを待ち頭を下げたままのマルクスの手に自分の手を添えた。
すぐさま顔を上げた彼からは不安と恐怖が伺える。
「……どこにもいかないし、マルクスのことも嫌いになんてならないよ」
「……本当か……?こんな身勝手な俺の傍に居てくれるのか……?」
「うん……でも、マルクスの想いに答えを出すのはもう少し後でもいい?」
「あぁ、いいんだ、これは俺が勝手に告げたものだし……もともと答えは期待していなかった」
君がいるだけで、それだけでいい。
小さな声で呟かれた言葉とともに彼の額が私の肩口に触れる。
それに応えるように先程添えた手を繋ぐように位置を変えた。
今出来る精一杯の私なりの返事が、少しでも貴方に届きますようにと祈りながら。
………
あのパーティの日から暫くして、私たちはいつもと変わらない日常を過ごしている。
数日はどこかぎこちない空気があったが、いくつか他のパーティへの参加が決まると忙しさで気が紛れたのかいつも通りに接することが出来るようになっていた。
そんな中、私は一つ大きな発見をする。
決まった時間、決まった場所で例の手鏡を覗き込むと元の世界の私の部屋が映っていることに気づいたのだ。日によって映る時間はまちまちだが長くて一分ほどだろうか。最初に見つけた時は大きな声を出してしまい作業をしていたジェシーがすっ飛んで来たので誤魔化すのが大変だった。
私が最後に居た部屋と何ら変わりのない風景。強いて言えばいくつか見慣れない小物が置いてあるのが見えるので、きっと新しく買い足したのだろう。
私の中に入ったアリアンナが。
私の中にアリアンナがいると確信したのは条件を探していた時に鏡に映ったノートに書かれた文字だった。
こちらの世界の文字で書かれた謝罪の文字とアリアンナの名前。
怒りよりも、あぁやっぱりという安堵感が強く自分を支配した。
不思議なことにその光景を見ても元に戻りたいとそこまで思わなかったのだ。
勿論両親に会いたい気持ちはある。友達にも会いたいし、気になっていた娯楽の続きが気にはなるけれど、泣き叫ぶほど戻りたいとは思わなかった。寧ろアリアンナが六花として元気に過ごしてくれているのならこのままの生活が続いても何の問題は無いと思う。
それはきっと、マルクスという存在が大きくて。
まだアリアンナに会うことは叶わないけれど、もし会えたら色々と聞きたいことがある。
どうして入れ替わったのか。その理由は何なのか。元に戻りたいとは思わないのか。
この身体で、彼を愛しても構わないのか。
今日もそろそろ定時となる。
場所はアリアンナの私室、ベッドの右端。スマホの電波みたいなものなのかここが一番映りが鮮明だったのだ。幸いにも私が仕事をする時間帯だったので基本的に誰も来ない。マルクスも同じように自分の仕事の時間なので、注意するとしたらジェシーぐらいだろう。だが彼女にも急用以外では入らないよう言づけてあるので見られる心配はほとんどない。
いそいそとベッドに腰かけ鏡を覗き込む。鏡面が水面のように波打ったかと思えば六花の部屋が映った。今日もアリアンナはいないようだ。部屋の暗さから見て向こうとこちらでは若干の時差があるようで、向こうは朝方だろうか。
「……アリアンナ……会ってみたいな」
小さな呟きが誰もいない部屋にこだまする。
今日はあまり調子が良くないのか、すぐにまた波打ち始めた鏡面から目を離した瞬間カタン、という物音が聞こえる。すぐにまた鏡へ視線を戻すが時すでに遅く、確認することが出来ないまま普通の鏡に戻ってしまった。
「……気のせい……?」
残念な気持ちになりながらも鏡を丁寧にしまいまた明日の機会を待ちながら私は仕事をするために机に向かった。
………
勢い余ってしてしまった告白以降、リッカは部屋に籠る時間が多くなった。
最初は俺と顔を合わせるのが気まずいのかと思っていたが、それとなく専属メイドに聞いたところ仕事に集中したいだけだと言っていた。彼女も余程急ぎの用事が無ければ入らないよう言われているらしく杞憂だったのかと少しだけ安堵する。
あの日以降俺たちは寝室を別々にしていた。
しかしそれ以外は以前と変わらず、気楽な関係を維持できていると思う。
リッカが望むままの距離感でいれるように、このまま二人で過ごしていけるように、自分の気持ちには蓋をして奥底に仕舞っていた。こんな現状でも幸せを感じられるほどに俺は満足していたから。
そんなある日、執務中にいきなりリッカがドアを蹴破る勢いで入ってきた。
あまりにも唐突なことに驚いて執事と共に一瞬戦闘態勢をとるが彼女の姿を見てすぐにその態勢を直す。しかしリッカの目に光るものが見えて座り直す暇もないまま慌てて駆け寄った。
「どうした?!」
「ま、るくす……」
泣きながら抱きつくように俺の胸に飛び込むのを見て執事に目線で状況の確認を促す。
しかし執事が確認する前に走ってきた専属メイドによって緊急事態ではないということだけは把握できた。彼女もリッカがこうなった原因は分からないらしく、執事に人払いを頼み暫くは誰も取り次がないよう指示を出して部屋を閉じた。
「……リッカ?どうした?何があったんだ?」
しっかりと抱きついているリッカを引き離そうとしても力が強くて剥がすことが出来ない。
仕方がなく引き剝がすのを止めてかわりに包み込むようにその手を背に回した。
擦るように動かせば殊更にリッカはその手に力を入れる。
「ぐっ……少し、苦しいんだが……」
「……マル、クス……」
「ん?」
「……今でも、私のこと……好き?」
「……勿論だ」
「本当に私でいいの?……アリアンナじゃなくてもいい……?」
「……この前も言っただろう、俺は君が好きなんだ、リッカ」
一体何の確認なのだろう。
涙声のまま話すリッカの意図と行動が分からず戸惑いながらも本音を話していく。
腕の力が緩んだのを確認し少し離れた隙間から手を入れ彼女の顔を上げさせる。
もうすでにぐしゃぐしゃになっているのに俺と目が合うとまた涙が溢れるように溜まっては流れていった。
「……アリアンナとね、話したの」
「…………は?」
「入れ替わった理由も、なんで私だったのかも……戻りたくはないのかってことも、何日もかけて……全部聞いたの」
ドクンと大きく心臓が脈を打って冷や汗が出てくる。
アリアンナと話したと言ったリッカの言葉が全ての思考を停止させた。
いったいいつ、どうやって話したというのか。もしかしたらリッカは戻るためにずっと一人で方法を探していたのだろうか。
俺の傍からいなくなるために?
「マルクス」
暗く染まった思考から名前を呼ばれたことで現実へと戻ってくる。
知らずに浅くなっていた呼吸と流れた汗で身体が不快感を感じているが、伸ばされたリッカの手が頬に触れ少しだけ正気を取り戻す。すぐにその手を掴んで逃がさないように強く握った。
いつの間にか彼女は泣き止み、今度は反対に俺が涙を浮かべる羽目になる。
「マルクス、最後まで聞いて……アリアンナと私、完全に入れ替わることにしたんだ」
「……入れ、かわる?」
「そう、私はここでアリアンナとして暮らし、アリアンナは向こうで六花として暮らす……それぞれの場所で生きていくことを約束したの」
「そ、れじゃあ」
彼女の言っていることを自分の良いように解釈してもいいのだろうか。
リッカのままここに残ってくれると思ってもいいのだろうか。
「後で詳しく話すけど……真っ先に伝えたいことがあって」
もう片方の手も俺の頬に当てるとふわりと笑みを浮かべる。
「好きだよ、マルクス……私も貴方のことが好き」
「……うそだ」
「嘘じゃないよ、あの時告白してくれて嬉しかったの……でも、どうしても、アリアンナのことが気になって返事が出来なくて……アリアンナと話して、覚悟を決めた今、漸く伝えられた……」
「……俺は多分、二度と君を離せないぞ」
「知ってる」
「嫌だって言ってももう遅いからな」
「分かってるって……誰が貴方に愛を教えたと思ってるの」
顔が引き寄せられ額が合わさる。
互いの瞳にそれぞれが映るほど近く引き寄せられてそのまま目を閉じた。
何度も何度も、その存在を確かめるようにいたる所へキスを降らしていく。
擽ったそうに身を捩るリッカも嫌がっている様子はなくて、我慢ならなくなった俺はリッカを抱き上げて移動する。隣接した寝室に入りベッドへと降ろすと流石に戸惑っているのが伝わってくるが、流石に今この先をするつもりはない。
ぎゅっと抱きしめて、二人で眠っていた時のように横たわるとリッカも安心したのか身を委ねてきた。
「……また二人で眠れる日が来るとは思わなかった」
「ふふ、私もね、二人で眠るのに慣れちゃってちょっと寂しかったんだよね」
「……今日からまた、いいか?」
「うん」
夢のようなこの現状が夢ではないということに柄にもなく舞い上がっている。
久しぶりに自分の腕の中にいるリッカの体温はあたたかく、もっとそれを感じていたいのに勝手に瞼がおりてきた。別々に寝るようになってからは再び眠りが浅くなっていたので安堵の他にその反動もあるのだろう。
「……リッカ……」
「うん?」
「俺を選んでくれて……ありがとう」
そうだ、アリアンナと話したということはきっと帰る方法も無くはなかったのだろう。それでも、ここに、俺の傍に残るという選択肢をとったリッカにはどう感謝してもしきれない。意識が遠くなり、リッカの返事を聞く前に俺は幸せで安らかな睡眠へと誘われた。
だから忘れていたのだ。
俺の幸せはいつも長く続かないということを。
………
遠くから聞こえる電子音に意識が浮上する。
久しぶりに聞いたその音がうるさくて布団の中で身じろいだ。
隣にある温もりを求めて手を動かすも触れるものは無く、寂しさを感じてゆっくり目を開ければ視界に入ってきた光景に一気に目が覚めて身体を起こす。
「な、んで……ここは、私の部屋……?」
鳴り響く電子音、チェーンの家具店で買ったベッドに市販の羽毛布団、テレビにスマホ、机に雑誌、飲み物まで見覚えのあるそれに心臓が痛いほど鳴っている。
慣れた手つきで目覚ましを消してフラフラと洗面台に向かう。
確認するまでも無く鏡に映ったのは六花の姿だった。
「ど、ういうこと……だって、昨日アリアンナと……」
アリアンナという名前に急いで部屋に戻りノートを開く。
彼女が書いた謝罪の言葉がどこかに書いてあるはずだ。
鞄をひっくり返しノートを捲っていく。
メモ用のノートの後ろのページにその文字を見つけて、私が経験したことが夢やうつつでは無かったということに少しだけ安堵した。ずるずるとその場にしゃがみ込み、そのノートを見つめているとぽつぽつと紙に丸いシミが広がっていく。
「……っ、なんで……どうして……!!」
やっと自分の想いを伝えられた。アリアンナと話して向こうで生きていく覚悟も決めた。久しぶりに一緒に眠りにつき、気持ちが通じあった夫婦としての一歩を踏み出したばかりだというのに。
今でも鮮明に覚えている。好きだと伝えた時の彼の表情も、私に優しく触れるその手つきも、私の名前を呼ぶその声も、全部全部覚えているのに。
「やだ……やだよ、マルクス……!」
何も出来ない自分が不甲斐ない。
この世界には魔法なんてものは存在しない。
もう一度あの世界へ行けるかどうかなど分からないし、そもそも入れ替わっていたということすら信じてもらえないだろう。
何も出来ることが無いという事実に目を背けたくて止まらない涙を拭っていると、ふと思い出す。
「……鏡……」
アリアンナと話していた鏡はどうだろうか。
向こうではアリアンナが大事にしていた手鏡だった。
私の部屋でその代わりになりそうなものは一つしかない。
机の上に置かれたコンパクトミラー。
母から就職祝いにもらったものの一つだ。
一縷の望みをかけてそのミラーに手を伸ばし蓋を開ける。
しかし、いつもの時間帯ではないことも思い出してすぐにその蓋を閉じた。
この入れ替わりはアリアンナが使った魔法のせいだった。
彼女は一度は承諾したものの、やはりマルクスと共にある生活が苦しくなり秘かに逃げる方法を考えていた。そんな中偶然見つけた魔法書の中に他者と入れ替われる禁術を見つける。術者が願った人物像に近い人間と入れ替わることが出来、藁にも縋る想いでその禁術に手を出した。
彼女が願ったのは、マルクスがいない世界。
ただしどこかで罪悪感があったのか、入れ替わりの相手に求めたものは“彼を理解してくれる人”だった。そうして当てはまったのが全く別の世界の私。
望み通り彼女はマルクスのいない世界に行き、私は最終的に彼を好きになった。
彼女も術式を発動してから暫くは何も起きなかったため、本当に入れ替われるとは思っていなかったらしく、マルクスに例の地下に閉じ込められた日、突然の頭痛に苦しんだかと思えば私と入れ替わっていたようだ。
最初は見知らぬ世界の知らない人になったことに戸惑っていたが、新しい知識を吸収することが楽しく、僅かながら私の記憶も持っていたため生活に困ることはなかった。そうしてこちらの生活に慣れてきたある日にふと、何も知らされずに入れ替わった六花のことが気になった。彼にとっては良い人かもしれないが、六花にとっては天変地異の出来事だろう。一度気になってしまうとずっと心の隅に六花の存在を感じるようになり、どうにか連絡を取る手段がないかを探した。
そうして見つけたのが鏡による一時的な通信だった。
魔法はアリアンナの魂に結びついているらしく、彼女はこの世界でも魔法を使うことが出来た。
ほどなくして通信自体は成功するが、肝心の鏡が生垣しか映さずに困っていたようだ。それを後に私が見つけ拾い、彼女との連絡を取ることに成功する。
何日も何日も、短い通信時間を有効に使って事の経緯と互いの気持ちを確かめた。
アリアンナも私も、納得した上でそれぞれの世界に住むことを承諾したのだ。
それなのに。
一晩経ったら元の世界に戻っているというのはあまりにも酷い話ではないか。
昨日までのアリアンナの様子を見てもきっとこれは故意ではない。
この禁術に何かしらの不具合があったのだ。
「……でも……私に出来ることは、何もない……」
魔法を使えない私はアリアンナやマルクスが何らかの方法を見つけるまで待つしかない。
そもそも、もう一度入れ替わりたいと彼女は思ってくれるだろうか。
今のマルクスなら彼女の気持ちを思いやり、約束した通り大事にしてくれるだろう。
そうなると、私ではなくとも彼らは普通に過ごすことが出来るはず。
最初はこうなることを望んでいた。
アリアンナが戻った時、少しでも過ごしやすい生活が送れるようにとマルクスや屋敷の人とも円満な関係を築き、友人との関係も清算した。いつか戻った時のために、皆が普通に暮らせるように。
ならばそこにいるのは私ではなくてもいいのではないか。
そんな考えが頭を過るが、同時に私の名を呼ぶマルクスを思い出し胸が締め付けられる。
元に戻るのが遅すぎたのだ。私は彼を愛してしまった。
受け入れられない現実に声も無く涙を流しているとスマホが着信を告げる。
画面を見れば勤め先からで、日付を確認すれば今日は平日だった。出勤時間も過ぎており、その確認の電話だろう。回らない頭で指を動かし耳に当てる。
「あっ、長谷川さん?!大丈夫?まだ体調悪い?」
「……青木さん……連絡せずに申し訳ありません、体調が、優れず……」
「昨日頭痛酷かったもんね、今日も有給にしておくから治ったら申請書よろしくね」
「……ありがとうございます」
「無理しちゃだめだよ」
電話が切れ真っ黒になった画面を見つめる。半年以上期間が開いているというのにスムーズに対応できたことに少し驚きつつ、アリアンナの頭痛は入れ替わりのきっかけだと確信する。ならば私はどうだろうか。二回とも寝て起きたら入れ替わっていたのでこれといった条件はないのかもしれない。強いて言うならば多少なりともアルコールを摂取して寝ていることだろうか。今は藁にも縋る思いなので、出来るだけ条件付けはしておきたい。
スマホの画面を付けて時間を確認する。鏡での連絡は朝方、夜明け近くだった。
それまでの間に私がいなかった間の出来事は整理しておきたい。
それに意図しないこととはいえ戻ってこれたのだ、久しぶりに両親にも会いたい。
(……信じるしかない)
涙を拭い立ち上がる。
出来ることがないのならせめて自分はいつも通りに過ごさなければ。
活を入れる為頬を叩き、私は漸く動き出した。
………
ひどい頭痛に嫌な予感が止まらない。
仕事中急に起こった既視感のある頭痛にすぐに六花のことを思い浮かべた。
私の我儘に巻き込んでしまった何も知らない異世界の女性。
ヒースヴァルド卿のことを理解できる人として選ばれた長谷川六花。
私は彼のことが理解できなかった。
何故私に執着するのかも、私に恋愛感情などないのに強引に結婚まで進めたのかも分からなかった。
両親伝手に彼の生い立ちを聞いて同情する気持ちはあったが、ただそれだけ。
彼の言う好きという言葉は、意味のなさない単語のようなものだ。
意味を理解していない、きっとするつもりもない……いいや、理解ができないだろう。
両親を人質に取るような言動に仕方がなく結婚を承諾したが、共に過ごすことは無理だと感じるようになった私は彼の目を盗み脱出する機会を窺った。ここから離れるためにありとあらゆることを調べ上げ、魔法書の中にあった禁術に手を付けた。正直成功するかどうかは半々だったが、時間差で成功した時には六花の身体で泣き崩れた。
地下に囚われた時にはもう終わりだと思っていたが、意外なことに彼は頭痛で苦しむ私を心配して駆け寄ってきた。入れ替わる寸前に少しだけ彼の純粋な優しさに触れ、これなら私と入れ替わった人と上手くやっていけるかもしれないと遠のく意識の中で思ったものだ。
六花としての生活は何もかもが新鮮で楽しいものだった。
私のいた世界とは違い科学やテクノロジーが発達した世界。
女性が独り立ちすることが普通のことで、どんな服を着ようが、どんな発言をしようが気にも留められない。
六花は会社というところで事務員として働いていた。
術者の特権なのか一般的な常識や仕事の内容等は六花の記憶が残っているらしく入れ替わってから何事も無く過ごすことが出来た。時折両親に会いたい気持ちは募ったが、自分への戒めとして我慢していた。
しかし六花の両親から連絡が来た時に今まで感じないようにしていた罪悪感が顔を出し始め、どうにかして連絡を取ろうと考えた。連絡を取ってどうしたいのか自分でも分からなかった。勝手に入れ替わって知らない世界に行って、挙句の果てに結婚まで押し付けた。罵られるのは覚悟の上で、帰りたいと彼女が言ったら戻るのは致し方無いとも考えていた。
しかし連絡が取れた彼女は私のことを労わり、入替の理由を質問した。
短い時間の中で何日もかけて全てを説明した。客観的な事実も、私の気持ちも、全て包み隠さず。
私の全てを聞いた上で彼女はこのままでもいいかと尋ねてきた。
あまりにも予想外な返答に今度は私が理由を尋ねた。
そうしたら少し照れくさそうに笑って、マルクスが好きだからと答えた。
だからこの身体で彼を愛してもいいのか、と不安そうに聞いてきた時は二つ返事で快諾した。
彼女も被害者だというのに、私のことを気遣って悩んでくれたらしい。
なんて心根の優しい人なのだろうか。だからこそ、彼女は入れ替わりの相手になったのかもしれないが。
そうして互いに納得した上で新しい生活をしていこうと約束した日にこの頭痛だ。
何故急に入れ替わる予兆が出たのか分からない。恐らくは私の使った禁術が完成形ではなかったのだろう。こればかりは予想できていなかった。このままでは六花に説明できないまま入れ替わってしまう。
私の様子に早く帰るよう周りから促され、その好意に甘えて家に帰るとすぐにノートを開き彼女に対してメッセージを綴る。どうにか書き終えると我慢の限界が来た私はベッドに横になった。
意識が遠のく寸前まで私は六花に謝っていた。
………
あれから数週間が経った。
私は長谷川六花として、またいつも通りの日常を送っている。
あの日急に両親に会いに行ってひどく困惑されたが、久しぶりの帰省ということもあって有意義な時間を過ごすことが出来た。その時間だけは何も考えず、素直に二人に会えたことの喜びを嚙みしめていた。心配されながらもどうにか誤魔化し帰宅した後、散らかした机の上を整理している最中にノートに書かれたアリアンナからのメッセージを見つける。
『絶対にまた入れ替わるから、何も心配しないで待っていてください。恐らく私の禁術が未完成のまま発動したことが原因だと思います。何度も振り回してしまってごめんなさい。ヒースヴァルド卿にはきちんと説明します。だから、私を信じてください』
震えた文字で書かれたそのメッセージを読んで、私はアリアンナを信じて待つことを決めた。
彼女も頭痛に襲われながら私のために必死に書いてくれたのだろう。ノートごとそのメッセージを抱きしめ、私はまた入れ替わる日を願った。
頼みの綱だった鏡での通信はあれから一度も成功しなった。
時間を変え、場所を変え、何度も鏡を覗き込んだが自分の顔が映るだけだった。
私に出来ることは入れ替わった日と同じ状況を作る事だけで、具体的にはお酒を飲んでから眠る事なのだが、流石に毎日の飲酒はきついため舐める程度に嗜んで眠ることにした。
一方仕事の方は何も困ることなく進めることが出来た。しかし、私と入れ替わっていたアリアンナは所作が丁寧だったらしく、入れ替わった次の日職場に行くと不思議な視線を送られることがあったが、向こうで培った所作を意識して過ごしていると次第にその視線も無くなっていった。どうやら体調が悪いせいで雰囲気が変わったと思われたらしい。それはそれで何か複雑な思いもあるのだが。
こちらでの日常は驚くほどに穏やかで、けれども夜になって眠る前にはいつも寂しさが膨れ上がる。写真も絵も勿論なく、マルクスを思い出せるものは己の記憶しかないのに段々とその記憶も朧気になってくる。それが私に新たな不安と恐怖を与えた。抱き合って眠った日々が懐かしく、それでいて非常に恋しい。枕が涙で濡れることもしばしばあった。それでも私はひたすらに待った、いつか来るその日を。
久しぶりに缶のお酒を一本飲み干して眠りについたある日、見渡す限り真っ白な世界で目が覚めた。不思議とこれが夢の中であることが分かり、何もない場所で佇む自分を客観的に見つめる。すると目の前に突然現れた鏡には私の姿がアリアンナとして映っていた。驚いてその鏡に近づくと鏡の中のアリアンナが意志を持ったように動き出す。何かを必死に伝えようとする彼女の口の動きとどうにか読み取ろうと注意深く観察していると鏡が波紋のように波打ち次第に自分の姿を映していった。そのまま意識が現実へと戻り、跳ね上がるようにして起きると忘れないように手近にあったスマホを取りメモを開く。
【三日後、夜、試す、準備】
今日から三日なのか、明日から三日なのかはあの真っ白な空間では分からなかったが、アリアンナは再びあの禁術を試す日を決めたようだ。スマホを握りしめ私は久しぶりに会えたアリアンナにも、もう少ししたら会えるかもしれないマルクスへの想いが溢れ涙が滲む。今度は事前に入れ替わる日が分かっているのだ、この世界にはなるべく未練を残さないようにしなければならない。涙を拭いそのためにやらなければならないことをそのままメモへと残していった。
………
こんなにも一日が長く、そして色を失ったように感じるのはいつぶりだろうか。
あの朝の出来事はこれからずっと俺の中で記憶に残り続けるだろう。
幸せな朝を迎えるはずだった。
想いが通じ合い、久しぶりに共に眠る。腕の中で眠るリッカは可愛らしく、いつまでも見ていられた。
これがこれから毎日続くのかと思うと胸がいっぱいで眠れなくなり、朝方漸く眠りについた俺を起こしたのはリッカの、いやアリアンナの謝罪の声だった。
血の気が引くというのはこういうことなのかと身をもって体験する。
姿は同じなのに全てが違う。声の出し方も、仕草も、表情の作り方まで。
これを体験するのは二度目のはずだが、あの時よりも強く絶望を感じた。
全てを理解した上で泣くアリアンナに声をかける。
怯えたように身体を震わせる姿に少し心が痛むが、自分がしてきたことを考えれば仕方ないだろう。
一言断ったうえで元に戻ったことを確認すれば、彼女は小さく頷いた。
覚悟していたこととはいえやはりショックは隠しきれない。けれども俺はリッカと共に過ごして約束したことを果たさねばならなかった。今後のことを考えると、少しでも早く彼女との間に溝を無くさなければならない。ベッドの上で姿勢を正して頭を下げる。唐突な私の行動にアリアンナは驚き僅かに身を離した。
謝罪の言葉を述べると彼女は驚き戸惑ったが、その内容を述べる前に身支度を整えて椅子に座ることを勧める。アリアンナも私の行動に以前とは違うものを感じたのか素直に承諾し向かい合って机越しに座った。
再び謝罪の言葉を述べ自身の行動の一つ一つを説明していった。今更謝っても仕方がないということは前提の上で、リッカに教えてもらったように自身の気持ちもなるべく噛み砕いて話していった。全てを聞き終えたアリアンナは深いため息とともに目元を覆った。
「……言葉も足りないですし、行動も極端すぎます」
「……面目ない」
「……けれど、貴方の謝罪は受け取りますし……何より私も謝らなければなりません……勝手な行動をとったこと、どうか許してください」
彼女が丁寧に頭を下げたことに少し驚く。追い詰められた彼女がとった行動は確かに良いものではなかったがそうなった責任は俺にあったからだ。どういう反応をすればいいのか困っていると頭を上げた彼女がふわりと微笑む。以前のアリアンナの笑みにどこか安心する自分がいた。
「……六花は、貴方のことを救ってくれたのですね」
「……あぁ、貴女が願ってくれたおかげだ」
「あら……そのことも知っているのですか?」
「リッカが話してくれた……だから俺たちが出会えたのだと、嬉しそうに」
一生懸命にアリアンナとのやり取りを話すリッカを思い出し勝手に口角が上がる。
その様子を微笑ましそうに見ていたアリアンナがそういえば、と不思議そうに首を傾げた。
「ヒースヴァルド卿はそちらが素なんですか?」
「え……あ、そう、です」
「ふふ、今更戻されても……そうですか……私たち、随分と言葉が足りなかったようですね」
どこか遠いところを見るような目に小さな声でそうだなと答え目を閉じた。
リッカに出会わなければ今こうして穏やかな時間を過ごすことも、彼女への謝罪もすることが出来なかっただろう。すれ違ったまま、もっと最悪な結末を迎えていたかもしれない。リッカに感謝するとともに、やはり諦めきれない気持ちがふつふつと湧いてくる。きっとアリアンナも同じ気持ちだという確信をもって再び目を開けて質問をした。
「……貴女はリッカの世界へ戻りたいのだろう?」
「えぇ……六花が、彼女も望んでくれれば、ですが」
「互いに意志の確認はしたと聞いたが」
「はい、なので待っていて欲しいと……彼女へのメモにも残しました」
「元に戻ったのは貴女にとっても予想外のことだったということか」
「はい……原因は未完成のまま発動したからだと思っています……禁術を発動した際、すぐには効果が現れず、入れ替わりの時に酷い頭痛に襲われました、恐らくその時点で何かしらの不具合があったのでしょう……六花の方は何か訴えていなかったでしょうか?」
「特には……あ、だが、一度だけリッカの姿が二重にブレて見えたことがあった……気のせいかと思ったが、もしかしたらそれが兆候だったのかもしれない」
「そうですか……何かあった際の負担は発動者の身にかかるようですね……良かったです」
安堵したように息を吐くアリアンナに、他人を思いやる昔の彼女を思い出して勝手に懐かしさを感じる。同時にリッカから言われた『逃げ出すまで追い詰めたマルクスのことちょっと嫌いになりそう』という台詞を思い出してこれまた勝手に落ち込んだ。
「……原因として考えられるのは、発動のミス、条件のミス、それに魔力量の三つでしょうか」
「そうだろうな、発動と条件のミスだけだったら直せばいい話だが……魔力量となるとどうだろうか」
「……私、向こうの世界でも魔法使えたんです……でも最初は魔力がほぼなくて……徐々に回復したことを考えると私の魔力量で一年も持たないということになります」
「……そこが原因だとするならば少し考えがある、一先ずはミスの方を確認しよう」
「分かりました」
「あ、それと……貴女には申し訳ないんだがなるべく人目のある所では俺に対してリッカのように振舞ってもらいたい……嫌だとは思うんだが」
「……今はそこまで思ってませんよ、それにそうですよね、いきなり余所余所しくなったのでは周りにあらぬ誤解を生みますからね」
「そうそう人目につくところにはいかないから安心して欲しい……後で振舞い方は教えよう」
「はい、よろしくお願いします」
こうして俺たちは共通の目的のために周りを欺くことを決め、念入りに準備を進めていった。
そうして迎えた決行の日。
数日前にやっとリッカと連絡が取れたとアリアンナから報告があった。
以前の連絡手段であった鏡での通信がどういうわけか出来なくなり、一度だけでもどうにか繋げることが出来ないかと試行錯誤した結果、夢の中で会うことが出来たようだ。しかしそれも鏡越しで声の聴こえない状態、身振り手振りで必死に伝えようともがいているとリッカが頷いたことから入れ替わる日時は伝わったようだとアリアンナが話していた。
「……懐かしい場所ですね」
「……すまない……人目のない場所がここしか思いつかなかった……」
俺たちは敷地内の地下室に来ていた。
何が起こるか分からないので誰の目にも触れない方がいいだろうという意見は一致したのだが、この屋敷の中で人目のない場所はここしかなく、アリアンナにとっては最悪の場所ではあったのだが本人はそれほど気にしていないようだった。
友人としてあることを許してくれたアリアンナは丁寧な物腰とは裏腹に意外とさっぱりした性格のようで、物事の筋が通っていればある程度のことは許してもらえた。決してその優しさに甘えたわけではないが。
「……それより本当にいいのですか?魔法石のみならず貴方の魔力まで使ってしまっても」
「別に構わない、半分程度無くなったところで生活に支障はないからな……貴女こそ魔力が無くなるが……」
「私こそ構いません、六花の世界に魔法はなくとも魔法のようなもので溢れていますから」
禁術を見直して発覚したのは条件のミスと魔力量だった。
条件のミスについては恐らく指定したものが曖昧過ぎたのだろう。
対象者が複数当てはまるような条件ではなく今度はピンポイントに個人を指定することにした。
魔力量に関しては正直なところ原因といえるかどうかが分からず、念のため増やしておこうという話になり、アリアンナの全ての魔力に加え俺の魔力の半分、そして侯爵の座を一時的に預かっていた親戚が勝手に購入した魔法石を追加することにした。
魔法石は文字通り石の中に魔力が貯まっているもので、その魔力量が多ければ多いほど宝石のような光を放つ。いつ、どうやってこの魔法石を親戚が買ったのかは知らないが持っていても仕方が無いため使ってもらうことにした。その価値を知っているのかアリアンナは使うことを躊躇っていたが最後には渋々承諾した。
「……予想外の出来事でしたが、一度こちらに戻れてよかったと思いました。両親にも友人にも会えましたし、貴方の本心を知ることも出来ましたし」
「俺もまた貴女に伝えることが出来て良かったと思う……今度はちゃんと見送ることも出来るしな」
「ただ、私の魔力が無くなる以上今後は連絡も取れなくなると思った方がいいですね……鏡での通信が出来たのは恐らく魔力を持った私が向こうの世界にいたからでしょう……魔法のない世界で私の魔力が一時的にこちらの世界と繋がっただけでしょうから」
「そうか……リッカは貴女と話すのが楽しいと言っていたから残念だな」
「万が一、私の魔力が戻るようなことがあれば……試してみると伝えてください」
「分かった……元気で、今日までありがとう」
俺の言葉に微笑みを返したマリアンナがベッドへのぼり真ん中に座った。
禁術を発動後倒れても良いように周りをクッションで囲むと彼女は本に書かれた呪文を唱える。
同時に身体の力が抜けるように怠くなり、魔力が吸い取られていることを実感した。
呪文を唱えているマリアンナの身体が徐々に光に包まれ、一際強い光を放つと次第に収束していった。眩しさで姿が見えなかったがどうやら彼女は倒れたらしくクッションに身を預けていた。
恐る恐る近づき呼吸を確かめると特に異常はなく、前回は発動が遅延したことを考えると恐らく術自体は成功している。あとはこの身体にリッカがいるかどうか。
彼女の身体を楽な体勢へと動かし、傍らで目が覚めるのを待つ。
静かな空間に自分の心音が響いているかのように感じるほど大きな音が内側に響く。
アリアンナは無事にリッカの世界に行けただろうか。
目を開けた彼女はまた俺の名を呼んでくれるだろうか。
屈託のない笑顔で俺を見てくれるだろうか。
理由も無く触れて、愛を囁いてもいいだろうか。
リッカがいなくなってからも彼女を思い出さない日はなく、アリアンナに彼女を投影させないようにはしていたが、時折似たような仕草や表情が作られると胸が騒めいた。きっとそれも彼女は分かったうえで何も言わずにいてくれたのだろう。不可抗力とは言えそういう風にみられることは嫌だったろうに、どこまでも優しく素敵な人だった。
永遠にも思えるほどの時を待つと、小さな呻き声が耳に入る。
ベッドに腰かけていた俺は素早く身を捩って近づくが、薄い可能性があることに気づき近すぎない場所から様子を窺う。今だけは俺の全てを神様に捧げよう。信心深くもない俺の祈りなどあしらわれて当然だが、縋りつくものが欲しかった。
横たわった彼女は手足を動かし覚醒する準備を整えている。
その目が開くのが、その口が言葉を紡ぐのが、待ち遠しいようで同じくらい見たくない、聞きたくないと思っている自分がいる。どうあがいても受け止めなければならない現実が目の前に迫っていた。
「……ん……っ!?」
目を開き起き上がった彼女は確かめるように周囲を見渡し、俺という存在に気づくとそこで動きを止めた。その目が見ひらかれ涙と共に細められる、口が俺の名を紡ぐ前に立ち上がって飛びつくようにその身体を抱きしめた。
「マル、クスっ、だ……本物の、マルクス……!!」
「……おかえり、リッカ……会いたかった……っ!!」
嬉しいときには勝手に涙が出るのだと知った。止まらない涙もぬぐいもせず、互いの肩は濡れて冷たくなっていく。形容しがたい膨れ上がった感情が整理されるまで、俺たちはきつく抱きしめ合っていた。
………
アリアンナと初めて入れ替わった日から五年の月日が経った。
二度目の入れ替わり以降私が戻るような兆候は表れず、彼女とも連絡は取れないままだ。
彼女は今幸せだろうか。いつかまた会う日があれば話したいことが沢山ある。
私は本格的にヒースヴァルド侯爵夫人としての仕事に係わることとなり、慣れないながらも必死に執務を覚えていった。新たに構築したブレリューナ夫妻や友人との関係も悪くはなく穏やかな日々を過ごしている。
マルクスは最初に会った時から考えられないほど愛情深くなり、外面の良さもあってか既婚者だというのに年々人気が高まっている。彼の人生が順風満帆なものだったらきっと小さい時から令嬢方が放っておかなかっただろう。複雑な思いがないわけではないが、その愛情の向けられる先は私だけということも分かりきっているのでそこまで気にしてはいない。
(……いや、今は私だけではないか)
自身の膨らんだお腹にそっと手を置く。
東屋での一人時間は今も続いており、マルクスが家にいる時はきっちり半刻好きにさせてもらっている。
「おかあさん!」
「あら、マシューお迎えに来てくれたの?」
「うん!……おとうさんも一緒だけど」
「なんだ、俺が居てはダメなのか?」
丁度時間になったらしく息子のマシューと共にマルクスが迎えに来た。
マシューは丁度甘えたがりの時期で何かにつけてマルクスと子供じみた喧嘩を繰り広げている。私も体調のことがあり構ってあげられないのは申し訳なく思ってはいるのだが。
「寒くないか?」
「えぇ、風も気持ちよくて丁度いいわ」
念のためにと肩に薄い羽織りをかけられマルクスの手を取って立ち上がる。
マシューも私の手を握りぴったりと横にくっついた。
「もうすぐ会えるんだよね」
「そうよ、マシューが毎日撫でてくれるからこの子も喜んでるわ」
「へへ……楽しみだな」
「……」
「……ちょっと、また先走り過ぎた妄想して不機嫌になってるの?」
「……男ならともかく女の子なんだろう?また違った心配が出てくるのは当たり前じゃないか」
「だからって……まだ生まれてもないのに婚約者選定の心配をするのは早すぎるよ……」
「……ボクより強い男の子じゃないとダメだよ」
「あぁ分かっている、俺よりも強くないとな」
「なんでそこは仲良く意見が合うのかなぁ」
他愛のない話をしながら並んで屋敷の中へと戻っていく。
幸せな一瞬を胸に刻みながら、この時間が続くことを心から願った。
END
お読みいただきありがとうございました。




