石のパンと、雲の吐息
オルフェウス伯爵家の食卓。
そこには、焼きたての香ばしい匂い……ではなく、どこか酸えたような、重苦しい穀物の匂いが漂っていた。
「……やはり、これなのね」
七歳のリアナは、目の前に置かれた茶褐色の塊をじっと見つめた。
この世界の主食、パン。
だがそれは、現代日本人が想像する「ふっくらとしたパン」とは程遠い代物だった。外皮は石のように硬く、中は目が詰まりすぎて粘土のように重い。ナイフを入れるのも一苦労で、スープに浸してふやかさなければ、顎を痛めてしまう。
「どうしたんだい、リアナ。今日は天響茸のスープがあるから、パンも進むだろう?」
父伯爵が、慣れた手つきでパンをスープに沈めながら言った。彼らにとって、パンとは「腹を膨らませるための器」であり、味や食感を追求する対象ではなかった。
(……いいえ、お父様。これは食べ物というより、『焼いた脱穀カス』よ)
リアナ(工藤玲子)のプロの魂が、静かに、しかし激しく拒絶反応を示していた。
板前として和食を極めた彼女だが、プロの料理人として「生地の扱い」や「発酵の理」は熟知している。このパンの不味さの原因は、あまりにも明白だった。
「エリー、このパンを焼いているところへ案内して。……それと、領内で一番腕のいい粉挽き職人を呼んでちょうだい、あと領内で一番の『果樹園』と『酒造所』を教えてちょうだい」
「……お嬢様、次はパンに『わがまま』をおっしゃるのですか?」
「それにパンを直すのに、なぜ果物とお酒なのですか?」
不思議がるエリーをよそに、リアナの瞳には「改善」への執念が燃えていた。
2. 「粉」という名の砂利
伯爵家の製パン所を訪れたリアナは、まず小麦粉の入った袋に手を突っ込んだ。
「……ひどいわ。これでは砂利を混ぜているのと同じよ」
指先に残るザラつき。この世界の粉挽き技術は未熟で、外皮や不純物が大量に混ざり、粒子の大きさもバラバラだった。これがパンの「重さ」と「雑味」の最大の原因だ。
「いい、よく聞きなさい。パンの良し悪しは、焼く前に決まるの。……この粉を、もっと細かく、もっと白くなるまで何度も何度も振るいにかけるのよ」
「そんなことをしたら、量が減ってしまいます! 我々、領民の腹を満たすには、この雑味こそが大事なんです!」
老パン職人が反論する。文字の読めない彼らにとって、先代から受け継いだ「とにかく全部混ぜて焼く」という手法は絶対だった。
「お腹を満たすだけなら、石でも食べていればいいわ。……私はね、一口食べただけで心が躍るような、『雲のようなパン』を作りたいの」
リアナは、粉挽き職人に命じて、特注の絹の布を使った「極細の篩」を作らせた。そして、これまでの常識では考えられないほど贅沢に、精製された白い粉だけを抽出させたのだ。
料理道場に料理長のアロイスを呼びつけパンの改造に着手する。
「いい、これから一番大切な作業を始めるわ。……この世界のパンがマズいのは、パン職人が『妖精(酵母)』をいじめているからよ」
リアナが用意したのは、果樹園から取り寄せた「熟しきったリンゴ」と、酒造所で手に入れた「エールの醸造カス(ホップ)」だった。
「お嬢様、パンにリンゴを入れるのですか?」
「いいえ。リンゴの皮についている『目に見えない力』を借りるのよ」
リアナは、煮沸消毒させた清潔な瓶に、刻んだリンゴと蜂蜜、そして少量の水を入れ、暖かい暖炉のそばに置いた。数日後、瓶の中からは「シュワシュワ」と小さな泡が立ち上がり、芳醇な香りが漂い始めた。
これこそが、果実から採取した『天然酵母(自家製酵母)』だ。この世界では古い生地を使い回す「種継ぎ」しか知られていなかったが、リアナはより純粋で、発酵力の強い菌を野生から「捕獲」したのである。
3. 命を吹き込む「発酵」の歌
粉が整い、リアナが育てた「最強の酵母」が準備された。
リアナは、アロイスの手を直接取り、生地を練り始めた。
「いい? 生地を練る時は、怒って叩きつけるんじゃないわ。恋人の手を握るように、優しく、けれど力強く。……耳を澄ませて。生地の中で妖精たちが呼吸を始める音が聞こえるまでよ」
リアナは、アロイスに生地の「弾力」の変化を覚えさせた。
「『赤子の耳たぶ』。この柔らかさになったら、彼らを眠らせる(一次発酵)合図よ。……熱すぎず、冷たすぎず。あなたが一番心地よいと思う温度で、じっと待つの。……一晩、じっくりとね」
アロイスは、リアナが教える「手の感触」と「歌」に集中した。
翌朝、アロイスは絶叫した。
「お、お嬢様! 生地が……昨日より二倍も膨らんでいます! 触ると、まるで生きた動物のように柔らかい!」
「それが妖精たちが働いた証拠よ。……さあ、焼き上げるわよ。でも、ただ焼くのではないわ。窯の中に、水の霧を吹き込みなさい」
「水、ですか!? パンを濡らすなんて……」
「いいからやりなさい。その水分が、外をパリッとさせ、中を雲のようにフワッとさせる魔法になるのよ」
4. 雲の吐息、あるいは革命の味
さらに数時間後、リアナはエリーとアロイスを連れて伯爵家御用達の製パン所へとやって来た。
製パン所から、これまでのオルフェウス領では決して嗅ぐことのできなかった、甘く、香ばしく、どこかミルクを思わせる高貴な香りが漂い出した。
焼き上がったのは、雪のように白い、柔らかなパン――『白パン』だった。
リアナは、それを一番に父伯爵と母夫人の元へ運んだ。
「リアナ……これは、本当にパンなのかい? まるで、焼いた綿菓子のような……」
伯爵が恐る恐る、そのパンを手に取った。
指が沈み込むほどの弾力。ちぎると、中から立ち上る湯気は、まさに「雲の吐息」のようだった。
一口食べた瞬間、伯爵の目に涙が浮かんだ。
「……優しい。なんて、優しい味なんだ。……噛まなくても、舌の上でほどけていく。……今まで私たちが食べていたパンは、一体何だったのだ」
「お父様。これが本来の穀物の甘みです。スープに浸す必要はありません。これそのものが、主役なのです」
その噂は、瞬く間に「料理道場」を通じて領民たちに広がった。
料理道場で白パンの製造方法を教わった五名は領民の為の料理教室で、領民に製法を伝授する。
「お嬢様が、雲を焼いて食べているらしいぞ!」
「文字は読めねえが、あの香りを嗅げばわかる。あれは神様の食べ物だ!」
白パンの材料に関してはゼノの商会で領民価格で提供し領民以外の者が購入する場合は、十倍の値段で販売した。
領民たちは、リアナの歌を口ずさみながら、自分たちの不器用な手で生地を練り始めた。
『赤子の耳たぶ、恋人の手……雲の吐息を閉じ込めろ……』
5. 主食という名の武器
リアナは、ふっくらと焼き上がったパンを眺めながら、満足そうに頷いた。
だが、その心はすでに、パンの先にある「産業」を見据えていた。
「ゼノ、聞きなさい」
「はい、リアナ様。この白パン、間違いなく領地の特産になります。……高価な精製粉を使いますが、貴族や富裕層は金を惜しまないでしょう」
「ええ。でも、それだけじゃないわ。……このパンに、あの『天響茸の佃煮』や『香草を混ぜたバター』を合わせたらどうなると思う?」
ゼノの目が、鋭い商人の光を帯びた。
「……恐ろしい。この国の食卓が、オルフェウス領の味だけで支配されてしまいます」
「それでいいのよ。主食を握る者が、人の心を握るの」
リアナ(工藤玲子)は、小さな手で、まだ温かい白パンをちぎって口に運んだ。
その顔は、七歳の可愛らしい少女のものだが、その背後には、食の歴史を塗り替えようとする一人の巨人の影が見えていた。
(……パンは合格ね。……でも、私の胃袋が、そろそろ叫んでいるわ。……やっぱり、汁物とパンだけじゃ、何かが足りない。……『至高』の一杯が、欲しくなるわよね)
彼女の意識の奥底で、温存されていた日本人なら必ず欲しくなる物「米」の記憶が、静かに目覚めようとしていた。




