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白石柚葉の旅先推理帖 #03「整えられた靴」— 福井・東尋坊篇

プロローグ:友達価格




 あわら温泉の老舗旅館「さくま」。


 深夜のロビーラウンジで、若女将の佐久間沙耶香(さくま・さやか 38)は、ソファに深く沈み込んでいた。


「ねえ、沙耶香。……お願いだから、修一くんには言わないで」


 向かい合っているのは、高校時代からの親友、浜田香織(はまだ かおり 38)


東尋坊の近くでアクセサリーショップをやっている彼女は、カップの縁を指でなぞりながら、困ったような顔でため息をついた。

「言わないでって言われてもなぁ。私、見ちゃったんだもん。先週の休館日、沙耶香が板長さんと二人で、裏口から出ていくところ」


 香織の声は、悪意があるようには聞こえない。まるでカフェで恋バナをしているような軽さだ。だからこそ、沙耶香は胃の奥が冷たくなるのを感じた。


「手、繋いでたよね? まさかあの真面目な沙耶香がねぇ。旅館のストレス? それとも修一くんじゃ物足りなかった?」


 沙耶香は唇を噛んだ。


 老舗旅館の跡取りという重圧。冷え切った夫婦仲。板長との関係は、そんな日々の逃げ場だった。ほんの出来心だったのだ。


「……香織ちゃん、お願い。彼とはもう終わらせるから」


 必死に訴える沙耶香を見て、香織は首をかしげる。


「終わらせるとか、そういう問題じゃないでしょ? 修一くん、可哀想じゃん。……もともと、高校の時に私から修一くんを奪ったのは沙耶香なんだからさ。大事にしてあげなきゃ」


 20年前の記憶。当時、香織と修一は付き合っていた。けれど修一が沙耶香を選び、二人は結婚した。香織はずっと「親友」として笑っていたけれど、その目の奥には、消えない執着があったのだ。


「私、やっぱり修一くんに教えてあげるべきだと思うな。それが友達としての誠意だよね?」


「やめて! それだけは……! 離婚になったら、私はこの旅館にいられなくなる」


 沙耶香がテーブルに身を乗り出すと、香織はふっと笑った。


「……じゃあさ、慰謝料ってことでどう?」


「え?」


「私が黙っててあげる代わりの、精神的苦痛への慰謝料。私、まだ修一くんのこと引きずってるし、傷ついちゃったからさ」


 香織はスマホを取り出し、電卓アプリで数字を打ち込んで見せた。


「これくらい、今の『さくま』なら出せるでしょ?」


「……分かった。用意する」

 沙耶香が息を呑むような金額だった。


「話が早くて助かる〜。じゃあ明日の夜、私のお店に来てよ。」

 香織は立ち上がり、沙耶香の肩をポンと軽く叩いた。


「現金でお願いね。……あ、逃げたり警察に行ったりしたら、すぐ修一くんに言うから。そこは『友達』として信じてるね?」


 じゃあね、と手を振って去っていく背中。

 沙耶香は、震える手で膝の上のナプキンを握りしめた。

 友達。その言葉が、これほど呪いのように響く夜はなかった。




第1章:恐竜と赤い瑪瑙めのう




 「ガオオオオォォォー!!」

 北陸新幹線を降り立ち、JR福井駅の西口広場に出た瞬間、巨大なティラノサウルスの動くモニュメントが咆哮を上げて出迎えた。


 楽しそうな表情で福井駅を出てきたのは、警視庁生活安全局の特任警視、白石柚葉。


28歳、警察庁生活安全局のキャリア官僚。若くして「警視」の肩書を持つが、本人の雰囲気はその堅苦しい響きからはほど遠い。

「キャーッ! すごい迫力! センパイ、写真撮りましょうよ!」

 はしゃいだ声を上げたのは、小日向杏奈(こひなた あんな 26)。大阪の旅行代理店に勤務する、柚葉の大学時代の可愛い後輩だ。


 ふわふわとした茶色のロングウェーブヘアが風になびき、笑うと向かって右側の頬(杏奈の左頬)にある小さなホクロが愛らしく動く。


(ちなみに、柚葉は向かって左の目の下、つまり本人の右目の下に泣きボクロがあるのが特徴だ)


「さて、まずは身軽になりましょう!」


 二人はゴロゴロとキャリーケースを引きずり、駅構内のコインロッカーへ。重たい荷物を押し込むと、杏奈がビシッと指を差した。


「ここからが私の完璧なプランの始まりです! 目指すは恐竜の聖地、勝山! ついてきてくださいね、センパイ!」


 杏奈の先導で、二人は隣接する「えちぜん鉄道」の福井駅へ向かった。

 可愛らしい2両編成の電車に乗り込む。


「これ、『勝山永平寺線』っていうんです。終点の勝山駅まで約50分、そこからバスに乗り換えて15分くらいで着きますからね。車窓ものどかで最高ですよ〜」


 さすが旅行のプロ、説明が完璧だ。


 電車が走り出すと、窓の外には九頭竜川の清流と、緑豊かな田園風景が広がり、柚葉は心を和ませた。


 終点の勝山駅に到着すると、駅前にはすでに恐竜博物館行きのコミュニティバスが待っていた。バスに揺られること約15分。小高い丘の上に、銀色に輝く巨大なドームが見えてきた。


「着いたー! 『福井県立恐竜博物館』! 世界三大恐竜博物館の一つですよ!」


 館内に入ると、そこはまさに太古の世界。


 エスカレーターで地下へ降りていく演出にワクワクし、ドームいっぱいに広がる全身骨格の迫力に圧倒された。


「すごい……本物の化石の匂いがしそう」


「センパイ、こっちのフクイラプトルの前でも撮りましょう! 映えますよ〜!」


 一通り展示を楽しんだ後、ミュージアムショップの横で「福井の手仕事フェア」という特設ブースが開かれているのが目に入った。


 地元の工芸品が並ぶ中、ひときわ鮮やかな赤色が柚葉の目を引いた。

「きれい……これ、何だろう?」


 手に取ったのは、赤い石で作られた恐竜の卵型のストラップだ。透き通るような赤色が、光を受けて艶やかに輝いている。


「お目が高いねお姉さん! それは『若狭瑪瑙わかさめのう』の細工物だよ」

 声をかけてきたのは、ブースに立っていた女性、浜田香織だった。


 年齢は30代後半くらいだろうか。派手めのメイクに、大ぶりなアクセサリー。人懐っこい笑顔だが、どこか押し出しの強い雰囲気がある。


「これ、私の新作なの。瑪瑙の赤って魔除けにもなるし、何より可愛いでしょ? 特別に3,000円にしとくよ!」


「へえ、作家さんの直売なんですね。記念に買っていこうかな」


 柚葉はその滑らかな手触りが気に入り、財布を取り出した。


「毎度あり! 私、東尋坊の近くにお店も持ってるから、明日もし行くなら寄ってよ。もっといいのサービスするからさ!」


 香織は上機嫌で商品を渡すと、自分のバッグ――派手なブランド物のトートバッグに売上金を放り込んだ。


「ありがとうございます。大切にしますね」


 柚葉は笑顔で会釈をし、杏奈と共に博物館を後にした。

 再びバスと電車を乗り継ぎ、福井駅まで戻ってきたのは夕方だった。


「ふぅ、戻ってきましたね。ロッカーから荷物出さなきゃ」


 キャリーケースを取り出しながら、二人は駅構内のお土産売り場を少し覗いてみた。


「あ、羽二重餅おいしそう……。へしこもある!」


 柚葉が目移りしていると、杏奈が袖を引いた。


「センパイ、お土産は帰りでいいですよ! 今日は旅館の豪華な夕食が待ってるんですから、お腹空かせとかないと!」


「あ、そっか。そうだね、危ない危ない」


 二人は再びえちぜん鉄道の改札をくぐった。今度はさっきとは違う路線、「三国芦原線」のホームだ。


「今度はこれに乗って約40分、『あわら湯のまち駅』を目指します。そこから旅館の送迎車が来てくれるはずです!」


 夕暮れ時の田んぼ道を電車はガタンゴトンと進む。


 あわら湯のまち駅に到着すると、すでに旅館の名前が入った送迎車が待機していた。


 車で数分。今夜の宿、創業100年を超える老舗旅館「さくま」に到着した。


 手入れされた松の木、打ち水がされた石畳。格式高い数寄屋造りの玄関に、柚葉たちは息を呑んだ。


「うわぁ……すごい。いい雰囲気だねぇ」


「でしょ? 奮発して予約取っちゃいました!」


 暖簾をくぐると、上品な着物姿の女性が三つ指をついて出迎えた。

 若女将の佐久間沙耶香だ。


「ようこそお越しくださいました。旅のお疲れはございませんか?」


 凛とした美しさと、柔らかな物腰。まさに「老舗の顔」という佇まいだ。

 柚葉と杏奈が上がりかまちで靴を脱ぐと、沙耶香はスッと音もなく近づいた。


 サッ。

 流れるような手つき。

 二人が脱ぎ散らかしたスニーカーを、沙耶香は一瞬で拾い上げ、「つま先を玄関側(外側)」に向けて整えた。


 その角度は、左右のかかとが定規で測ったようにピタリと揃っている。


 柚葉は思わず感嘆の声を漏らした。

「……すごい。魔法みたい」


 沙耶香はふわりと微笑んだ。

「お恥ずかしい。職業病のようなものですわ。お客様がご出発される際、一番スムーズに足が入るように……つい、手が勝手に動いてしまうんです」


「いえ、素敵です。こういうお心遣いが嬉しいです」

 チェックインを済ませ、部屋へ向かう途中、ロビーのショーケースの前を通った。


 そこには、福井の名産品が上品にディスプレイされていた。

「あ、センパイ見てください! これ!」


 杏奈が指差した先には、昼間買ったのと同じ「赤い瑪瑙のアクセサリー」が並んでいた。


「ホントだ。ここでも扱ってるんだね」


 柚葉がポケットから先ほどのストラップを取り出して見比べると、案内してくれていた沙耶香が足を止めた。


「おや、浜田さんの作品をお持ちで?」


「ええ、今日恐竜博物館に行ったら、ご本人がいらしてて。そこで買ったんです」


 柚葉が笑顔で答えると、沙耶香の表情が一瞬だけ強張ったように見えた。

「……そうですか。香織ちゃん……今日は博物館にいらしたんですね」


「お知り合いなんですか?」


「ええ、まあ。同級生で幼馴染なんです。」

 沙耶香はすぐにプロの笑顔に戻り、「当館でも人気の商品なんですよ」と付け加えたが、その声には微かに乾いた響きがあった。


 部屋に通された後は、お楽しみの夕食だ。


 テーブルには、解禁されたばかりの「越前がに」が所狭しと並んでいる。

「きゃーっ! カニだカニだー!」


 杏奈が歓声を上げ、柚葉も目を輝かせた。


「すごい! 茹でガニに焼きガニ、カニ刺しまで!」


「センパイ、今日はダイエット禁止ですよ! いただきまーす!」


 二人は夢中でカニを頬張り、地酒を楽しみ、最後は源泉かけ流しの露天風呂で手足を伸ばした。


「ふあぁ……極楽、極楽……」


 湯船に浸かりながら、柚葉は夜空を見上げる。


「杏奈ちゃん、ありがとう。最高の休日だよ」


「えへへ、明日は東尋坊に行きましょうね! サスペンスごっこしましょう!」


 平和な湯煙の向こうで、運命の歯車が静かに狂い始めていることも知らず、二人の夜は更けていった。




第2章:整えられた殺意




 その日の深夜。

 若女将の沙耶香は、従業員たちが寝静まったのを見計らい、裏口からこっそりと抜け出した。自身の軽自動車を走らせ、向かったのは東尋坊の商店街裏手にある、ひと気のない駐車場だ。


 海からの風が唸りを上げ、周囲の闇を深めている。


 エンジンを切って待っていると、砂利を踏む足音が近づいてきた。


 浜田香織だ。彼女の店兼自宅はここから目と鼻の先にあるため、徒歩でやってきた。


 助手席のドアが開き、香織が乗り込んでくる。

「……わざわざこんな暗い所まで呼び出して。お金、持ってきたんでしょうね?」


 沙耶香は、膝の上に抱えていた地味な手提げバッグから封筒を取り出し、震える手で差し出した。


「約束のものよ。……これで、もう二度と主人には」

 香織は中身をチラリと確認すると、鼻で笑った。


「ハッ! これだけ? 沙耶香、老舗旅館の女将が聞いて呆れるわね。桁が一つ足りないんじゃない?」


「そんな……! これ以上は無理よ。お願い、もう許して!」


 懇願する沙耶香に対し、香織は冷酷に言い放つ。

「許さないわよ。あんたが泣いて土下座して、私の靴を舐めたら考えてあげる」


「ふざけないで!」

 感情が爆発し、狭い車内で掴み合いになった。


「ちょっと、離してよ!」


 香織が叫びながら車外へ出る。沙耶香もつられるように外へ出た。


 香織が鬼のような形相で掴みかかってきた。

「あんたなんか、消えちゃえばいいのよ!」


「やめて!」

 沙耶香は必死に抵抗し、その手を夢中で振り払った。

 香織がよろめく。


 ゴッ。


 鈍く、重い音が響いた。


 香織の身体が力なく崩れ落ち、動かなくなる。


「……え?」

 沙耶香は息を呑み、恐る恐る近づいた。呼びかけても、揺すっても反応がない。後頭部から黒いものが広がっているのが月明かりで見えた。


「嘘……いや……!」

 死んでしまった。取り返しがつかないことをしてしまった。


 だが、ここで警察を呼べば、旅館も、夫との生活もすべて終わる。


 (隠さなきゃ……海へ……!)


 火事場の馬鹿力だったのかもしれない。沙耶香は香織の脇の下に手を差し入れ、ぐったりと重くなった遺体を引きずり始めた。


 駐車場から崖までは少し距離がある。岩場で何度も足を取られそうになりながら、必死で運んだ。


 もみ合った時に右手首をひどく捻っていたが、極限の興奮状態にある沙耶香は、その痛みに気づきもしなかった。


 ようやく崖の縁にたどり着く。下からは、荒れ狂う日本海の波音が聞こえる。


「……ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 沙耶香は祈るように呟きながら、最後の力を振り絞って遺体を押し出した。


 風を切る音と共に、香織の姿が闇へと消え、波間に飲み込まれた。


 終わった……。


 沙耶香がへたり込んだ瞬間、アドレナリンが切れ、右手に焼き付くような激痛が走った。


「いっ……!!」


 手首が倍に腫れ上がっているような感覚。指先が痺れて全く力が入らない。遺体を運ぶ過酷な重労働が、患部をさらに痛めつけていたのだ。


 ふと足元を見ると、香織の派手なハイヒールが揃って落ちていた。遺体を引きずっている途中で脱げてしまったのだろう。


 (これも捨てなきゃ……)


 沙耶香は左手で靴を拾い上げた。だが、海へ投げ捨てようとした手が止まる。


 (もし遺体が見つかった時、靴がここに残っていれば、「自殺」に見せかけられるかもしれない)


 沙耶香は震える手で靴を置いた。


  我に返った沙耶香は、這うようにして駐車場へ戻った。


 早く逃げなければ。


 運転席に乗り込み、キーを回そうとする。しかし、右手が悲鳴を上げて動かない。


 (運転できない……どうしよう……!)


 ここに車を置いていくしかない。


 沙耶香は助手席にあったバッグをひっつかんで車を飛び出した。


 大通りまで出る余裕はない。彼女は土産物屋が立ち並ぶ商店街の方へと走った。夜の東尋坊はシャッター街となり、人っ子一人いない。


 軒先にある緑色の公衆電話が目に入った。


 沙耶香はそこへ駆け込み、震える指でタクシー会社に電話をかけた。

 十数分後、一台のタクシーがやってきた。


 沙耶香は顔を見られないように俯きながら乗り込んだ。全身が小刻みに震えている。


「お客さん? 大丈夫ですか? お怪我でも……」


 不審に思った運転手がバックミラー越しに声をかけてきた。

「い、いえ……転んでしまって。大丈夫です」


「そうですか。どちらまで?」


「あわら温泉の、旅館『さくま』まで」


 つい、正直に行き先を告げてしまった。


 車が走り出し、少し冷静さを取り戻すと、恐怖が湧き上がってきた。


 (旅館の玄関にタクシーを横付けしたら、誰かに見られるかもしれない。それに、この運転手に顔を覚えられたら……)


 旅館まであと少しというところで、沙耶香は声を上げた。


「あ、あの! すみません、そこのコンビニで降ろしてください」


「えっ? あ、はい。分かりました」


 急な変更に運転手は怪訝な顔をしたが、コンビニの駐車場に車を停めた。


 「おいくらですか……」


 沙耶香は膝の上のバッグを開け、財布を取り出そうとした。


 その時、血の気が引いた。


 手探りで触れた財布の感触が違う。自分の使い慣れた革の財布ではない。

 薄暗い車内の灯りで確認すると、そこに入っていたのは、派手なブランド物の財布だった。


 (……え?)


 間違えた。


 これは私のバッグじゃない。香織のバッグだ。


 自分のバッグは、免許証も入ったまま、東尋坊の自分の車の中にある。

 

 「お客さん?」


 「あ、はい……」


 沙耶香は絶望的な気持ちを押し殺し、香織の財布から震える手で現金を抜き出して支払った。


 タクシーを降りると、冷たい夜風が汗ばんだ肌を刺した。


 沙耶香は香織のバッグを抱きしめ、コンビニの明かりを避けるようにして、闇夜に沈む旅館へと歩き出した。




第3章:逆向きの靴




 翌朝。

 あわら温泉の朝は、身体に優しい和食膳で始まった。


 源泉で炊いたという艶やかなご飯に、福井名物の「焼きさば」、そして熱々のしじみ汁。


「ん〜っ! 幸せ……! やっぱり旅館の朝ごはんって最高ですね!」

 杏奈が焼き鯖を頬張りながら、満面の笑みを浮かべる。


「本当だね。脂が乗ってて美味しい」

 柚葉もご飯をお代わりしながら、旅の醍醐味を噛み締めていた。


「よかった〜、ここで2泊することにして。このお料理、明日も食べられるなんて贅沢すぎますよ」


「ふふ、そうだね。今日は荷物を部屋に置いたまま観光できるし、ゆっくりした後出掛けようか」


 食後、ロビーへ向かうと、昨日はあんなに完璧な出迎えをしてくれた若女将・沙耶香の姿が見当たらなかった。


 代わりに年配の仲居が靴を出してくれた。


「あれ? 女将さんは?」


 杏奈が何気なく尋ねると、仲居は少し困ったような顔をした。


「ええ、それが……今朝は少し体調が優れないようでして、奥で休ませていただいております。申し訳ございません」


「いえいえ、お大事にとお伝えください」


 柚葉は笑顔で返したが、ふと胸の奥に小さな違和感が残った。


 (昨日はあんなに張り切っていたのに……急に体調不良?)


 気を取り直し、二人はバスで東尋坊へ向かった。


 あわら温泉からバスに揺られること約40分。


 終点の「東尋坊」バス停に降り立つと、潮の香りが鼻をくすぐった。


「来ましたよセンパイ! サスペンスドラマの聖地!」


「ここに来ると、なんだか『犯人はあなただ!』って言いたくなるよね」

 二人は笑い合いながら、崖へと続く商店街を歩き始めた。


 通りの両側には、海産物を焼く香ばしい匂いが漂う食堂や、昔ながらの土産物屋がひしめき合っている。


「わぁ、イカ焼き美味しそう……あ、ホタテも!」


「杏奈ちゃん、さっき朝ごはん食べたばっかりでしょ」


 その時だった。


 ウゥゥゥゥ――!

 背後からけたたましいサイレンの音が近づいてきた。


 振り返ると、パトカーが猛スピードで商店街の細い道を駆け抜けていく。一台だけではない。二台、三台と続く。


「えっ……何?」

 観光客たちがざわめき、道を空ける。


 パトカーは商店街の突き当たり、崖の入り口付近でキキーッ!と停車した。


 制服警官たちが慌ただしく降りてきて、黄色い規制線を張り始める。


「すごい……これ、ドラマの撮影かな?」

 杏奈が目を丸くしてスマホを構える。


「だといいけど……なんだか空気がピリピリしてる」

 柚葉の表情が曇る。撮影にしては、警官たちの表情が険しすぎる。


 野次馬たちが口々に噂しているのが聞こえてきた。

「崖の下に人が浮いてるってよ」

「飛び込みか? それとも事故か?」


 (……本物の事件だ)


 柚葉は小さくため息をついた。


 金沢、富山に続き、またしても旅先で事件に遭遇してしまった。


 (今回は完全プライベートだし、見て見ぬふりをして通り過ぎようかな……。せっかくの女子旅だし)


 そう思ってきびすを返そうとした瞬間、規制線の向こうから聞こえてきた無線連絡の声が耳に止まった。


「――被害者は30代から40代の女性。崖の上に靴が揃えて残されています」

 

 その言葉に、柚葉の足が止まった。


 警察官僚としての本能が、どうしても無視させてくれない。

「……ごめん杏奈ちゃん、ちょっとだけ」


「えっ、センパイ?」


 柚葉は規制線に近づき、立っていた警官に警察手帳を提示した。


「警察庁生活安全局の白石です。旅行中で偶然通りかかったのですが、状況を教えていただけますか」


 「け、警察庁!?」と警官が驚愕の声を上げると、奥から一人の刑事が歩いてきた。


「本庁の方がどうしてこんな所に?」


 現れたのは、仕立ての良いスーツを着た、背の高い若い男性だった。整った顔立ちだが、鋭い眼光を放っている。福井県警の刑事だろう。


「あ、イケメン……!」

 後ろで杏奈が小声で呟くのが聞こえた。


「プライベートで観光に来ていたんです。お邪魔するつもりはありませんが、少し気になりまして」


 柚葉が答えると、刑事は一礼し、名刺を差し出した。

「福井県警捜査一課の工藤智也(くどう ともや 28)です。……現場は混乱していますが、ご同業なら隠しても仕方ない。崖下で女性の遺体が発見されました」


 工藤刑事は、若いが優秀そうな口調で説明を始めた。


「被害者は、この近くで土産物屋を営む浜田香織さん。崖の上に彼女のハイヒールが揃えて置かれていました。遺書は見つかっていませんが、状況から見て飛び降り自殺の可能性が高いと見ています」


「浜田香織……さん?」

 柚葉と杏奈は顔を見合わせた。


「それって、昨日私たちがアクセサリーを買った作家さんじゃ……」


「なんと、面識がおありでしたか」


 工藤刑事の目の色が少し変わる。

「現場をご覧になりますか? 何か気づくことがあるかもしれません」


 促されて崖の縁まで進むと、鑑識官たちが囲んでいる中心に、一足の派手なハイヒールが置かれていた。


 昨日、博物館で香織が履いていたものだ。


 柚葉はその靴をじっと見つめた。


 靴は、崖のギリギリに置かれている。

 左右の踵がピタリと合い、ミリ単位のズレもなく整然と並んでいる。


 だが、柚葉が引っかかったのは、その「美しさ」だけではなかった。

 (……向きが、逆だ)


 自殺をする人は、海に向かって立つ。海へ飛び込むために。

 普通なら、脱いだ靴のつま先は海を向くはずだ。


 しかし、その靴はつま先が「陸側(こちら側)」を向いていた。


 (わざわざ脱いだ後に、くるっと回して、自分が履きやすい向きに揃えるなんてこと……これから死ぬ人がするかな?)


 その丁寧すぎる揃え方を見た瞬間、柚葉の脳裏に既視感デジャヴがよぎった。


 昨日の夕方。旅館の玄関。

 若女将・沙耶香が、流れるような手つきで自分たちの靴を揃えてくれた、あの光景。


 『お客様の次の第一歩が、心地よいものであるように』

 (……似てる)


 でも、ただの偶然だよね。


 けれど、この現場に残された靴からは、自殺志願者の絶望ではなく、誰かの「染み付いた習慣」のような、奇妙な几帳面さが漂っていた。


「白石警視? 何か?」


 工藤刑事に声をかけられ、柚葉はハッと我に返った。

「あ、いえ……。ただ、随分と丁寧に揃えられているなと思って」


「ええ。几帳面な方だったんでしょう」

 工藤刑事は納得したように頷いたが、柚葉の胸のざわめきは消えなかった。


 ふと横を見ると、杏奈が工藤刑事をうっとりと見つめている。


「(小声で)センパイ、この事件、私たちも協力しませんか? 工藤刑事、ちょっとタイプかも……」


 柚葉は苦笑しながら、もう一度、崖の上の靴に視線を落とした。


 この違和感の正体を、突き止めなければならない気がした。




第4章:消えたバッグと古傷




 東尋坊の崖の上。


 柚葉が「逆向きの靴」の違和感に囚われていると、鑑識係の一人が工藤刑事に駆け寄った。


「工藤さん、ちょっと妙です。崖の縁の土に、何か重いものを引きずったような跡があります」


「引きずった跡?」


「ええ。遊歩道のアスファルト部分はわかりませんが、そこから土の部分にかけて、何かが這ったような、あるいは引きずられたような痕跡が……。もし本人が歩いて飛び込んだなら、足跡は残っても、こんな跡にはなりません」


 工藤刑事の表情が険しくなる。

「……つまり、どこかで殺害して、ここまで運んできた可能性があるということか。自殺じゃない、死体遺棄および殺人の線が濃厚だな」


 周囲の空気が一変した。単なる飛び込み自殺ではない。凶悪な事件の可能性が出てきたのだ。


「被害者の家はこのすぐ近くです。確認に行きましょう」

 工藤刑事が動き出すと、柚葉もすかさず「私たちも同行させてください」と続いた。


 被害者・浜田香織の自宅兼店舗は、現場から歩いて数分の場所にあった。


 中に入り、家宅捜索のような形で部屋を調べるが、すぐに異変に気づく。


「……ないですね」

 工藤刑事が眉をひそめた。


「財布や免許証が入っているはずの、普段使いのハンドバッグが見当たりません」


「すぐそこで自殺するのに、バッグを持っていくでしょうか?」

 柚葉が問いかけると、工藤刑事は首を振った。


「いえ、普通は家に置いていくか、遺書の近くに置きます。もしかしたら、怨恨ではなく『強盗』の可能性も考えられますが、部屋の中は荒らされたような形跡はなしと……」


 工藤刑事は鋭い視線を巡らせた。

「殺害したあと、何らかの理由でバッグごと持ち去った……あるいは、そもそもバッグを奪うために殺害し、自殺に見せかけて突き落としたか」


 捜査のフェーズが変わった。単なる自殺ではない。


 工藤刑事の指示で、近隣の店主たちへの聞き込みが始まった。柚葉たちも後ろについて回る。


「香織さん? ああ、金遣いが荒いからねえ。敵も多かったよ」


「最近、大きなお金が入る当てがあるって自慢してたけど……」

 そして、ある土産物屋の老婆が、重要な証言をもらした。


「そういえば、香織さんは旅館『さくま』の女将さんと幼馴染でね。昔は仲良かったけど、最近はどうかなあ。でもよく旅館には顔を出していたよ。……なんせ、女将さんの旦那さんは、もともと香織さんの元カレだったからねぇ」


 その言葉に、工藤刑事が反応した。

「被害者の交友関係、特にその幼馴染の女将さんには話を聞く必要があるな」


 工藤刑事が柚葉たちを振り返る。

「これから『さくま』へ向かいます。ご協力感謝します、ここからは我々で……」


「奇遇ですね。私たち、そこに泊まっているんです」

 柚葉が言うと、工藤刑事は目を丸くした。


「えっ、そうなんですか? ……でしたら、ぜひ乗っていってください。送りますよ」


「わぁ、パトカーに乗れるんですか!?」


 杏奈が小声で興奮しているのをなだめつつ、柚葉たちは工藤刑事とパトカーに乗り込んだ。


 車窓を流れる日本海の荒波を見つめながら、柚葉の頭の中では、「逆向きの靴」と「女将との関係」が、不穏な音を立てて繋がり始めていた。




第5章:震えるおもてなし




 パトカーが旅館「さくま」の玄関に滑り込むと、番頭や仲居たちが驚いた表情で出てきた。


 後部座席から降りてきたのが、宿泊客の柚葉たちだったことにさらに目を丸くする。


「こちらは警察の方です。女将さんにお話があるそうです」


 柚葉が静かに告げると、従業員たちは顔を見合わせ、奥へ案内してくれた。


 応接室に通されると、ほどなくして若女将の沙耶香が現れた。


 昨日のような艶やかな着物姿だが、化粧で隠しきれないほど顔色が悪い。


そして何より、右手を帯の間に差し込むようにして、頑なに隠しているのが見て取れた。

「……警察の方が、どのようなご用件でしょうか」

 沙耶香の声は微かに震えていた。


 工藤刑事が手帳を提示し、単刀直入に切り出す。

「東尋坊で、浜田香織さんの遺体が発見されました」


 沙耶香は息を呑み、口元を左手で覆った。

「香織さんが……そんな……」


「ご存知でしたか?」


「ええ……さきほど、ニュースで」


 演技なのか、本心なのか。その動揺は大きく見えた。


 工藤刑事が続ける。

「浜田さんとは幼馴染で、ご主人とも親しい間柄だったと伺っています。最近、何かトラブルなどは?」


「……トラブルなんて。昨日の香織さんの所の商品を持ってきてもらった所です」


 沙耶香は視線を伏せ、言葉少なに答える。

「昨夜の午後10時から深夜にかけて、どちらにいらっしゃいましたか?」


「……ずっと、旅館におりました。帳簿の整理をしていて……誰とも会っていません」


 工藤刑事は鋭い視線を向けたまま、隣にいる柚葉を紹介した。

「こちらは警視庁生活安全局の白石警視です。偶然こちらに宿泊されており、捜査協力をいただいています」


 沙耶香の目が驚愕に見開かれた。

「け、警視庁……? お客様が……?」


 柚葉は静かに会釈した。

「プライベートでお邪魔していますが、少し気になりまして。……女将さん、今朝は体調が優れなかったと伺いましたが」


 沙耶香はビクリと肩を震わせた。

「は、はい。少し貧血気味で……薬を飲んで休んでおりました」


「そうですか。お顔色も悪いようですし、お大事になさってください」

 柚葉の言葉に、沙耶香は「失礼します」と逃げるように部屋を出て行った。その際も、右手はずっと隠されたままだった。


 玄関先まで工藤刑事を見送りに出た柚葉たちは、小声で言葉を交わした。


「……怪しいですね」

 工藤刑事が眉をひそめる。


「ええ。動揺の仕方が、友人の死を悲しんでいるというより、何かに怯えているようでした」

 柚葉も同意した。


「それに、右手を不自然に隠していました。お茶を出すのも左手でしたし」

「朝、姿を見せなかったのも、怪我や精神的な動揺を隠すためかもしれませんね」


 工藤刑事は手帳を閉じた。

「引き続き、周辺の裏取りを進めます。また何か分かればご連絡します」


 刑事の車が去っていくのを見送り、柚葉と杏奈は顔を見合わせた。


 部屋に戻った二人は、気分転換も兼ねて大浴場へ向かった。


 夕方の早い時間帯で、他に入浴客はいない。

 湯気立ち上る露天風呂に肩まで浸かり、杏奈がふぅーっと大きな息を吐いた。


「はぁ〜……。生き返るぅ。でもセンパイ、やっぱり女将さんが犯人なんでしょうか?」


 柚葉はお湯を手ですくいながら、曇った空を見上げた。

「まだ全然わからない。香織さんとトラブルがあった中どうかもわからないし。でも、怪我をしているような素振り……」


 そして何より、あの「靴」だ。


 『お客様が履きやすいように』


 あの東尋坊の崖の上で、靴を陸側に揃えた人物。それは、殺害現場という極限状態でも、染み付いた「おもてなしの心」が出てしまった人間ではないか。


 柚葉の中で、疑惑は確信へと変わりつつあった。

「……でも、なんにも証拠がないんだよなぁ。気のせいかな考えすぎかな。」


 柚葉の呟きが、湯気に溶けていった。




第6章:月夜の捜査会議




 その日の夜、21時過ぎ。


 夕食を終えた柚葉たちの部屋に、内線電話が鳴った。フロントからではなく、ロビーにいる工藤刑事からだった。


「周りの目がありますので、手短に。……少しだけ、お時間をいただけますか。新しい情報が入りました」


 柚葉たちは浴衣の上に丹前を羽織り、人の少ない夜の中庭が見えるラウンジの隅へ向かった。


 工藤刑事は厳しい表情で待っていた。

「白石警視、夜分に申し訳ありません。状況が動きました」


 三人は膝を突き合わせ、声を潜めた。

「まず、タクシーの件です。裏が取れました」


 工藤刑事が手帳を開く。

「昨夜の深夜1時頃、東尋坊の土産物屋街の公衆電話から配車依頼があり、女性客を乗せたそうです。行き先は当初この旅館『さくま』でしたが、直前で変更して近くのコンビニで降りたとのこと」


「コンビニ……。旅館に横付けして、誰かに見られるのを避けたんですね」

 柚葉が頷くと、工藤刑事は続けた。

「運転手の証言では、その女性は『転んで怪我をした』と言って、かなり痛そうに腕を押さえていたそうです。……今日の女将の様子と一致します」


「やっぱり……!」

 杏奈が息を呑む。


「それから、もう一つ。女将の車についてです」

 工藤刑事の声が一段低くなる。

「従業員は『修理に出している』と言っていましたが、市内の整備工場やディーラーに照会をかけたところ、そのような入庫記録はどこにもありませんでした」


「つまり、修理というのは嘘……」


「ええ。もしかしたら昨夜の犯行に使われ、何らかの理由で持ち帰ることができず、今もどこかに放置されている可能性もあります」


 柚葉は静かに推理を巡らせた。

「犯行現場は東尋坊の崖上。そこまで遺体を引きずった痕跡があるということは、車はその近くの駐車場に停められているはずです。……でも、なぜ乗って帰らなかったんでしょう?」


「故障か、あるいは……」


「怪我、ですね」

 柚葉は自分の右手首をさすりながら言った。


「今日の女将さんの様子を見る限り、右手はほとんど使えていませんでした。ハンドルを操作できないほどの激痛だったとしたら……車を置いていくしかなかった」


 工藤刑事が深く頷く。

「状況証拠的にはかなり怪しいです。しかし……動機と決定的な物証がまだない」


「被害者のバッグも見つかっていないんですよね?」


「はい。もし女将が犯人なら、被害者のバッグをどうしたのか。なぜ持ち去ったのか。旅館のどこかにあるのか、それとも……」


 柚葉は窓の外、暗闇に沈む日本庭園を見つめた。


「女将さんは今、追い詰められています。車がなく、怪我をしていて、警察が嗅ぎ回っている。もし手元に『消したい証拠』があるとしたら、じっとしてはいられないはずです」


「……動きますかね?」

柚葉は工藤刑事に向き直り、凛とした瞳で尋ねた。


「白石警視、おやすみで来ている所申し訳ないですが、女将さんの行動をそらとなくで良いので見張っていただけませんか? 私たちも当然動きを注視しますが我々が旅館内にいて目立つと彼女も動かないので」


「わかりました。私たちは休みで来ているので自然と見張れると思います」


 工藤刑事が立ち去った後、杏奈が不安そうに呟いた。「センパイ……本当に女将さんが?」


 柚葉は悲しげに目を伏せた。

「……あの靴の向きを見た時から、嫌な予感はしていたの。優しすぎる人は、罪を犯した後、怖くなって隠しきれないことがあるから」


 月明かりが、静まり返った旅館を冷たく照らしていた。

 嵐の前の静けさが、そこにあった。




第7章:残り香の重み




 深夜の帳が下りた旅館「さくま」。


 女将の私室で、沙耶香は畳の上に置かれた「それ」を、忌々しげに見下ろしていた。


 浜田香織の、派手なブランド物のハンドバッグ。

 昨夜の暗闇と混乱の中、自分のものと間違えて持ち帰ってしまった、致命的な証拠品だ。


 ずきん、ずきん。


 倍に腫れ上がった右手首が、心臓の鼓動に合わせて激しく痛む。だが、それ以上の恐怖が沙耶香の心を締め付けていた。


 今日の昼間、あの刑事は確かにこう言った。


 『被害者の普段使いのバッグが見当たらないんです。もし犯人が持ち去ったのなら、物取りの可能性もある』


 『女将さん、香織さんが持っていたバッグに心当たりはありませんか?』


 (……警察はバッグを探している)


 もし、この部屋に捜査が入ったら?


 もし、ゴミとして捨てたところを誰かに見られたら?

 このバッグを持っていることがバレれば、私が犯人だと言い逃れできなくなる。


 「どうにかしなきゃ……」


 沙耶香は左手だけでバッグを持ち上げようとしたが、その重さが鉛のように感じられた。


 私のバッグと免許証は、東尋坊の現場に残した車の中だ。あっちはもう手遅れかもしれない。でも、せめて「私」と「香織の死」を結びつけるこのバッグだけは、私の手元から遠ざけなければならない。


 (どこへ? どこなら自然に消せる?)


 海? 山? いいえ、近くではすぐに見つかる。私と無関係な、もっと遠くへ。


 その時、ふと昨日の夕方の会話が脳裏をよぎった。


 宿泊客の白石柚葉が、無邪気に言っていた言葉だ。

 『今日、恐竜博物館に行ったら、ご本人がいらしてて。そこで買ったんです』


 恐竜博物館。


 あそこなら、香織は昨日確かに居た。


 もしバッグがあの博物館で見つかれば?


 警察は、「香織は東尋坊に来る前に、博物館でバッグを失くしたのかもしれない」と考えるかもしれない。あるいは、「博物館で何かの事件に巻き込まれた」と思うかもしれない。


 そうすれば、犯行時刻や場所の推定がブレる。捜査の目が、東尋坊にいた私から逸れるかもしれない。


 「あそこだわ……」


 沙耶香の目に、暗い希望の光が宿った。

 明日の朝一番で、恐竜博物館へ行って、ベンチかトイレに置き去りにしてくる。そうすれば、ただの「忘れ物」になる。


 だが、どうやって行く?

 車はもうない。


 タクシー? だめだ。この辺りのタクシー運転手は顔なじみばかりだ。昨夜使ったタクシー会社はすでに警察に話しているかもしれない。これ以上、タクシーに乗る姿を見られるのは危険すぎる。


 (……電車だわ)


 沙耶香は決意した。


 あわら湯のまち駅から電車に乗り、福井駅を経由して勝山へ向かう。乗り換えも多く、不自由な体には過酷な道のりだが、公共交通機関なら不特定多数の中に紛れ込める。


 目立たない服装をして、帽子を目深に被れば、誰にも気づかれないはずだ。


 沙耶香は押し入れから、地味な少し大きめのトートバッグを取り出した。

 派手なバッグを風呂敷に包み、トートバッグに入れた。本来なら風呂敷を結んで絶対に見えなくしたいが手に力が入らなくてそれは出来ない。

 

 「大丈夫。まだ終わっていない」


 このバッグさえ手放せば、私はまだ「若女将」でいられる。


 夫との生活も、旅館の暖簾も、守り通せるはずだ。


 沙耶香は腫れ上がった右手をさすりながら、トートバッグを抱きしめた。

 その姿は、まるで爆弾を抱えた子供のように、頼りなく震えていた。




第8章:追跡と偽装カップル




 翌朝、午前6時。


 まだ薄暗い旅館の廊下を、小日向杏奈は半分閉じた目で歩いていた。

「ふわぁ……朝風呂、朝風呂……」


 昨夜の推理会議で遅くまで起きていたせいで、頭はまだ夢の中だ。それでも「美肌の湯」の誘惑には勝てず、ふらふらと大浴場へ向かっていた。


 曲がり角を曲がろうとした、その時。


 ドンッ!


「きゃっ!?」


「あっ……!」

 向こうから歩いてきた人物と激しくぶつかった。


 相手は大きなトートバッグを抱えており、衝撃でその口が開き、風呂敷が開いて派手なブランド物のハンドバッグがころげ落ちた。


「あ、すみません! 私、寝ぼけてて……」


 杏奈は慌ててそのハンドバッグを拾い上げた。


 (うわ、派手なバッグ……。)


 相手は深く帽子を被り、マスクと眼鏡で顔を隠していた。地味な服装の女性だ。


 杏奈がバッグを差し出すと、女性はひったくるようにそれを受け取り、蚊の鳴くような声で「すみません」と言って、足早に去っていった。


「変な人……。お客さんかな?」


 杏奈は首をかしげつつ、大浴場へ。


 ザブンと湯船に浸かる。熱いお湯が体に染み渡り、眠気が飛んでいく。

 ……派手なバッグ。


 ……帽子とマスクで隠した顔。

 ……あの声。そして、去り際に微かに香った、上品なお香の匂い。


 「――っ!!」


 杏奈はバシャッと立ち上がった。


「あのお香の匂い、ロビーの香りだ! あの人、女将さん!? ……ってことは、あの派手なバッグは!!」


 杏奈は濡れた体を大急ぎで拭き、浴衣を引っ掛けて部屋へダッシュした。


「センパイ! 起きてくださいセンパイ!! 緊急事態です!!」


「……んぅ……まだ6時だよぉ……」

 布団に潜り込む柚葉を、杏奈は揺さぶり起こした。


「女将さんです! 女将さんが変装して逃げました! 被害者のバッグを持って!!」

 その一言で、柚葉の目がパチリと開いた。


 二人は5分で支度を整え、旅館を飛び出した。


 「どこへ行ったんだろう。女将さんは車は運転出来ないし、電車かな?」

柚葉と杏奈はあわら湯のまち駅へ走るが、無情にも遮断機が下り、福井行きの電車がガタンゴトンと走り去っていくところだった。


「ああっ! 行っちゃった!」

 

「あぁ、次の電車はすぐこないよね……」


 柚葉は即座にスマホを取り出し、工藤刑事にコールした。

「工藤さん! 女将が動きました! 電車で福井方面へ向かっています!」


 数分後、工藤刑事の覆面パトカーがキキーッ!と駅前に滑り込んできた。

「乗ってください! 電車は各駅停車だ。車でショートカットすれば、途中の駅で先回りできます!」


 二人が飛び乗ると、車はサイレンを鳴らさずに急発進した。


 車内で作戦会議が開かれた。


「次の大きな駅は『西長田ゆりの里』駅です。そこで待ち伏せしましょう」

 工藤刑事がハンドルを切りながら言う。


「ただ、問題はその後です。僕と白石警視は顔が割れています。杏奈さんも旅館で見られている」


「同じ車両に乗れば、すぐに気づかれて逃げられますね……」


 柚葉が考え込んでいると、工藤刑事がバックミラー越しに杏奈を見た。

「……杏奈さん、演技はできますか?」


「えっ? はい!?」

 工藤刑事は少し照れくさそうに言った。


「じゃあ、僕と杏奈さんでカップルのふりをしましょう。恋人同士なら、多少距離が近くても顔を覗き込まれても不自然じゃない。僕が壁になって女将から視線を遮ります」


「えっ!? こ、恋人役!?」


 杏奈の顔がボンッと赤くなった。「やだ、どうしようセンパイ!」


「適任だね。私は離れた車両から監視するよ」


 車は電車を追い越し、先回りの駅に到着した。


 ホームで待つこと数分。お目当てのえちぜん鉄道の福井行きが到着する。

 プシューとドアが開く。


 乗客の中に、帽子を目深に被り、大きなバッグを抱えた女将の姿があった。


 柚葉たちは素知らぬ顔で乗り込む。


 女将がいる車両の端に、工藤と杏奈が座った。柚葉は隣の車両へ移り、連結部のドア越しに様子を伺う。


「(小声で)杏奈さん、近いです……!」


「(小声で)だってカップルに見えないと困るじゃないですか」


 杏奈は緊張しながらも嬉しそうに、工藤刑事の肩に寄り添い、カップルを演じきった。女将は自身の右手をかばうようにうずくまっており、周囲を警戒する余裕もないようだ。


 電車は福井平野を南下し、「福井口駅」に到着した。ここは路線の分岐点だ。


 女将が立ち上がり、ホームへ降りる。

「動きました。乗り換えです!」


 柚葉の合図で、三人とも下車する。

 女将が向かったのは、向かいのホーム。「勝山永平寺線」の乗り場だ。

「行き先は恐竜博物館の勝山方面だ」


 再び電車に揺られること約50分。終点の勝山駅に到着した。

 女将は改札を抜けると、駅前に停まっていた「恐竜博物館行き」のコミュニティバスに乗り込んだ。


「まずい、バスの中じゃ隠れられない!」


 狭いバスの車内では、変装していてもバレるリスクが高い。

 工藤刑事が駅前のタクシー乗り場に手を挙げた。


「タクシーで追尾します! 前のバスを追いましょう!」

 三人を乗せたタクシーは、のどかな山道を走るバスの背中を追いかけた。

 遠くに見える博物館の銀色のドームが、朝日に照らされて怪しく輝いている。


「女将さん……わざわざこんな所まで来て、何をしようとしているんですか……」

 杏奈が不安そうに呟く。


 柚葉は前のめりになりながら、前のバスを見据えた。

「『忘れ物』だよ。……消せない過去を、ここに置き去りにするつもりなんだ」


 いよいよ、最後の舞台へと到着する。




第9章:整えられた靴




 福井県立恐竜博物館。


 銀色の巨大な卵型ドームが、冬の青空の下で鈍く輝いている。

 バスを降りた沙耶香は、トートバッグ抱え、亡霊のようにふらふらと歩いていた。


 (どこへ……どこへ捨てれば……)


 館内に入ろうとしたが、家族連れやカップルで賑わっており、監視カメラの目も気になった。トイレも個室とはいえ、清掃員が頻繁に出入りしている。


 沙耶香は踵を返し、博物館の外へ出た。


 広場には恐竜のモニュメントが点在し、植え込みの茂みが広がっている。

 (あそこなら……)


 人目が途切れた一瞬の隙を突き、沙耶香は茂みの陰にトートバッグから取り出した風呂敷包みを開けて、ハンドバッグを放り込んだ。


 ドサッ。


 重い音がしたが、誰にも見られていないはずだ。


 沙耶香は大きく息を吐いた。これで終わった。あとは知らぬ存ぜぬを通せばいい。


 その時だ。

「きゃっ!」

 背後から誰かが激しくぶつかってきた。


 よろめいた沙耶香は、痛む右手をかばいながら振り返った。

「あ、すみません! 私、よそ見してて……」


 ぶつかってきたのは、茶髪の若い女性だった。彼女は沙耶香の顔を覗き込み、目を丸くした。


「あーっ! やっぱりそうだ! 『さくま』の女将さんじゃないですか!」

 その大声に、周囲の観光客が振り返る。


 そして植え込みの陰から二人の人物が現れた。


「……やはり、ここに来ましたか」

 柚葉と、工藤刑事だった。


 沙耶香は後ずさりした。

「し、白石様……どうしてここに」


「あなたの後を追ってきたんです。……女将さん、今、あそこの茂みに何を捨てましたか?」


 柚葉の鋭い視線が、派手なバッグを射抜く。


 沙耶香は必死に首を振った。

「な、何のことですか? 私はただの散歩で……」


「とぼけないでください」


 工藤刑事が茂みからバッグを拾い上げた。

「これ、被害者・浜田香織さんのバッグですね。なぜあなたが持っているんですか?」


 沙耶香は唇を噛み締め、最後の抵抗を試みた。

「……知りません。拾ったんです。落ちていたから、どうしようか迷って……」


「拾った? 嘘はおやめなさい」

 

 工藤刑事が詰め寄る。


「現場の東尋坊に残された靴。あれからあなたの指紋が出ました。あなたが現場にいた証拠です」


 沙耶香は震える声で反論した。

「香織さんは……よく旅館に来ていました。私が玄関で靴を揃えた時に付いた指紋かもしれません。それなら不自然ではないはずです」


「では、このバッグは?」

 工藤刑事がバッグを突きつける。

「このバッグからも、指紋が出るでしょうね」


「それも……それも同じです! 香織さんがこのバッグを持って旅館に来た時、私が『いいバッグね』と触らせてもらったんです。だから私の指紋がついていても、私が犯人だという証拠にはなりません!」

 沙耶香は悲痛な叫び声を上げた。


 そうだ。指紋がついているだけでは、犯行の瞬間の証明にはならない。まだ言い逃れできる。まだ逃げられる。


 その時、柚葉が一歩前に進み出た。


 静かで、けれど絶対的な響きを持つ声で告げた。

「……いいえ、女将さん。私たちが調べようとしているのは、あなたの指紋ではありません」


 沙耶香が顔を上げる。

「え……?」


 柚葉は隣にいる杏奈を示した。

「調べるのは、杏奈ちゃんの指紋です」


 沙耶香の思考が停止する。


 柚葉は淡々と、しかし容赦なくロジックを積み上げた。

「今朝、旅館の廊下であなたが杏奈ちゃんとぶつかった時、バッグの中身が床に散らばりましたよね? その時、杏奈ちゃんはこのバッグを拾い上げ、あなたに手渡しました」


 柚葉はバッグの持ち手を指差した。


「つまり、このバッグには今朝ついた杏奈ちゃんの指紋が残っているはずです。もしそれが出れば、『このバッグは今朝、旅館にあった』という動かぬ証拠になります」


 沙耶香の顔から、完全に血の気が引いた。


 被害者が生前に持ってきた時に触った、という言い訳は通用しない。

 今朝、旅館にあった。


 それは、犯行後に持ち帰った犯人しか持ち得ないものだからだ。


「……あ……ああ……」


 逃げ場は、完全に塞がれた。


 沙耶香はその場に膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。

「……殺すつもりなんて、なかったんです」


 指の隙間から、嗚咽が漏れる。

「もみ合いになって……彼女が倒れて、頭を打って……。怖くなって、海へ突き落としました」


 沙耶香は、隠していた右手をさすった。

「怪我をして、自分の車のハンドルが握れなくて……パニックでバッグを掴んだら、それが香織さんのものでした。……私のバッグと車は、まだ東尋坊の駐車場にあります」


 工藤刑事が静かに手錠を取り出す。


 杏奈が、たまらず問いかけた。

「女将さん……現場には香織さんの靴が綺麗にそろえて置かれていました。 どうして靴を一緒に海に投げなかったのですか?……」


 沙耶香は涙に濡れた顔を上げ、力なく笑った。

「……分かりません。気が動転していて……靴が散らばっているのを見たら、体が勝手に。いつもの癖で、揃えなきゃって……」


 柚葉はしゃがみ込み、沙耶香の目を見つめた。


「あの現場で、陸側に向けて綺麗に揃えられた靴を見た時、私はすぐに女将さんの顔が浮かびました。……これからの人生を絶とうとしている人ではなく、誰かを送り出そうとする人の手つきでしたから」


 海風が、博物館の広場を吹き抜けていく。


 柚葉は静かに告げた。

「どんなに憎い相手でも、最後にお客様として扱ってしまった。……あなたの女将としてのその優しさが、あなた自身を捕まえてしまったんですよ」


 沙耶香は深く項垂れ、声を殺して泣き続けた。


 その涙は、罪への後悔か、それとも重圧から解放された安堵か。

 銀色のドームだけが、静かにその姿を見下ろしていた。




エピローグ:次なる旅へ




 事件は解決した。

 沙耶香は連行され、現場に残された車からも決定的な証拠が見つかったという。


 その日の午後。

 事情聴取を終えた柚葉と杏奈は、JR福井駅の新幹線ホームに立っていた。


 少し遅めの昼食に、駅ビルで名物の「ソースカツ丼」を平らげ、お腹も心も満たされていた。


「ふぅ……今回の旅も、結局事件になっちゃった……。怒られるなぁ」

 

柚葉が売店で買った「羽二重餅」の箱を抱えて苦笑する。


「癒やしの女子旅のはずだったのに」


「でも! 私の名演技、どうでした? 工藤刑事とのカップル役!」


「はいはい、お見事でしたよ。工藤さんも『助かりました』って言ってたじゃない」


「えへへ、連絡先交換しちゃいました〜!」

 杏奈はご機嫌にスマホを振った後、少し心配そうに柚葉を見た。


「さて、センパイ。次は誰と旅行に行くんですか?」

「えっ? 今度、警察庁の先輩と軽井沢の方へ行こうと話してるところなんだ」


「職場の先輩と……大丈夫なんですか? センパイ、また迷子になったりして」

 柚葉は顔を赤らめた。


「だ、大丈夫だよ! 今回の杏奈ちゃんのように、完璧な計画を立てるから!」


「あやしいなぁ……」

 杏奈はいたずらっぽく笑い、提案した。


「もし不安だったら、私もついて行きますよ? 今回の旅が事件で潰れちゃったし、そのリベンジも兼ねて。先輩と私と、その職場の方と3人でパーッと行くのも楽しそうじゃないですか!」


「えっ、3人で? ふふ、それも賑やかでいいかもね」


 柚葉は笑顔で頷いた。


 「まもなく、1番線に、つるぎ、敦賀行きがまいります。敦賀駅では、大阪方面サンダーバード号に連絡いたします」


 アナウンスが流れ、ホームに新幹線が入線してくる。


「あ、私の電車だ! じゃあセンパイ、また!」

 杏奈が荷物を持ってドアへ向かう。


「え?途中まで一緒でしょ?」

 柚葉もキャリーケースを引きずり、当然のように杏奈の後ろについて同じ車両に乗り込もうとした。


「……って、センパイ!?」

 入り口で杏奈が慌てて柚葉を押し留めた。


「なんで乗ってくるんですか! こっちは敦賀・大阪方面ですよ!」


「えっ?」


「センパイが帰るのは東京! 反対側のホームですってば!」


 柚葉はハッとして、向かい側のホームを見た。「東京行き」の表示が寂しく光っている。


「うわっ、危ない! つい一緒の方向かと……」


「もう〜、やっぱり私がついてないとダメですね!」

 プシュー、とドアが閉まる。


 窓越しに、呆れつつも手を振ってくれる杏奈に、柚葉は赤面しながら手を振り返した。


 走り去る新幹線を見送りながら、柚葉は小さく息を吐いた。


 しっかりしなきゃと心に誓うが、その前途はまだまだ多難のようである。

(第3話 完)






次回予告 【第3話:福井・東尋坊篇】 1月24日(土) 21:00 公開予定

頼もしい先輩と長野に出張。老舗そば屋さんでまたも事件に遭遇!

次回もお楽しみに!

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