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8話

「みさきちゃん。オレさ、おまえが戻ってきてくれたこと……本当に嬉しく思ってるんだぜ」


 同じ事務所の天地つばさが、ふっと距離を詰めた。光源もないのに、みさきの横顔だけがやわらかく照ったように見える。


 世界の雑音が一瞬だけ遠ざかったみたいに、耳に触れたその響きだけが鮮明だった。

 その声には情感がともり、心底戻ってきたのを喜んでいるようだった。


「つばさ……、あのときは、ごめんね」


 みさきの指先が膝の上でぎゅっと縮こまり、彼女の影の形が小さくなる。


「あのときのわたしは、みんなが羨ましくて仕方なかったの」


 まるで押し殺していた想いが音もなく胸の奥から溢れ、震えとして滲み出てしまったみたいだった。

 その姿は、悔いと願いがひとつに溶けたような、触れれば崩れてしまいそうなほど儚い光景だった。


「みんなわたしよりずっと前を進んでて……わたしだけ取り残されてる気がして、焦ってたの」


 言葉が零れた瞬間、かすかに揺れた息が涙の気配を帯びた。

 その震えは、胸の奥に押し込めていた想いが今も燻り続けている証のようだった。


「だからかな。必死に前だけ見て、周りが全然見えてなかったの。だから……わたし、つばさに……あんなことを」


 つばさは、ため息に似た息をゆっくり吐いた。怒ってるでもなく、呆れてるでもなく。端正な眉がほんの少しだけ柔らかくなっていた。


「いいんだ。もう過ぎたことさ」


 暖かな声が優しく周囲を包む。


「それにみさきちゃんは戻ってきてくれたじゃないか。今度は絶対に行かせたりしないよ。オレ達、ずっと一緒だからな」


「つばさ……」


「だから、受け取ってくれ」


 つばさの目がギラッと光る。


「オレの赤甲羅!!!!!!」


「ちょっ、待っ──ぎゃああああああ!!」


 次の瞬間、視界の端で赤い弾丸がみさきのカートを直撃する。


「ふふっ、甲羅は『ともだち』だぜ」


「ボールは『ともだち』みたいに言うな!」


 みさきの抗議もむなしく、つばさのカートは颯爽と追い抜いていく。


「ちょ、つばさ! 行かないで! 最下位は嫌だあぁぁぁぁ~」


「ふざけんな! おまえがスターでぶつかったせいでオレは最下位になっちまったんだよ!! 恨みを思い知れぇぇぇ!!」


「わたしが超新星アイドルなのは元からよ! ぶつかってくるつばさが悪い! あはははは」


 みさきは悪びれる気配も見せず、言い訳にもならない言い訳でつばさに罪をなすりつける。


「おまえ、まったく悪いと思ってないだろ! 何が超新星だこのやろう。せっかく途中まで調子よかったのに。いったいオレが何したって言うんだ……」


「う~ん……ごめんね☆」


「『ごめんね☆』じゃねぇよ、おまえ、ふざけんなよ~。あはははは」


 ◆    ◆    ◆


(うん……やはり別人というのは俺の勘違いだな)


 日が落ち窓の外はすっかり暗くなっていた。


 誰もいない研究室でみさきの配信を見終えた俺は、ようやく胸のつかえが取れたような気がした。


 あのみさきの、メンバーたちとの軽妙なやりとり、あれは長い関係性の積み重ねがなければ絶対に生まれないはずだ。

 他人がそれを真似するなんて、出来るはずがない。


(大体、別人が本人と偽って復帰するなんて、バレたときのリスクが大きすぎる)


 こんなことがバレたら、炎上どころの騒ぎでは済まない。

 そんな極端なリスクを負ってまで、誰かがなりすまそうとするだろうか?


(愉快犯なら可能性はあるだろうが、そこまでして成り代わる労力と、得られる見返りがどう考えても釣り合わない)


 そもそも、そんな不自然な変化を事務所が見逃すはずがない。

 現実的に考えても、まず不可能だ。


「はぁ~~」


 俺は背もたれに体を預けてそっと安堵の息を漏らす。


 多少の腑に落ちない事実は確かに残っている。けれど、これ以上は追いようがない。

 疑いに答えつけたことで、ようやく満足がいった。


(もうだいぶ遅いな……軽く何か食べて、帰ったらすぐ寝よう)


 今日はよく眠れそうだ。そう思った瞬間──


「お、それが例の実験?」


「っうぉ!? か、神崎先生……いきなり背後から来ないでくださいよ……」


 誰もいないと思い込んでいたぶん、不意に声をかけられた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。


 准教授(せんせい)は、俺の驚きなど意に介さず、まるで引き寄せられるようにモニタへ視線を向けた。


「他の子たちから聞いたけど、なんか面白そうなことやってるじゃない」


「はぁ……? 割とよくあるやつじゃないですか?」


「あれ? そういう認識?」


 准教授は俺へ視線を向け直し、わずかに眉を上げた。

 その仕草には、驚きというより感心、淡い称賛の色さえ宿っていた。


(そんなにこの研究が珍しいだろうか?)


 収音環境のばらつきや、プラットフォーム側の圧縮による劣化、必ずしも理想的とは言えない条件で行った実験だからだろうか。

 確かに、珍しいと言えるかもしれないが、准教授も前に似たような研究をしていたような……?


 俺は、准教授の言葉がいまいち測りきれず、首を傾げるしかなかった。


「この音声がAIかどうか判定しようとしてるって、なかなか尖った研究だと思うよ?」


(……え?)


「まぁ、AIの研究は一気に広がったからね。流行に乗ってると言えばそうだね」


 准教授の声は聞こえているのに、内容が頭に入ってこない。


 言葉が形を作る前に、ふっと消えていく。

 理解が追いつく前に、思考がその衝撃をそっと遮断しているようだった。


 そして、思考がまとまらないまま、ほとんど反射的に言葉が口をついて出た。


「あ、あの……AIって、どういう意味ですか?」


「ん? この音声って、AIで作ったものなんでしょ? ほら、この波形とか──」


 准教授は音声の特徴をひとつひとつ丁寧に説明していく。

 だが、その声は遠く霞んで聞こえた。意味として捉える前に、頭の中で不快な波だけ駆けめぐり、感情が生まれては消えていく。


 彼女は、別人どころか “人でさえなかった”……そんなことがありえるのか──




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