5話
星屑みさきの復帰ステージから、一か月が経っていた。
最初のSNSは、ただただ彼女の復帰を喜ぶ声でいっぱいだった。
けれど、その熱気も少し落ち着いてきた頃
──雰囲気が、どこか変わり始めていた。
あの告白のシーン。
ステージに落ちるスポットライト。
震えた呼吸の音。
『……どん底だった。誰の声も届かない暗闇で、息をするだけで精一杯だった……』
初めてその言葉を聞いたとき、彼女がどれほど苦しんだのか、本当の意味ではきっと分かっていなかった。
それなのに──そんな状態から、また戻ってきてくれた。
それだけで、本来なら十分だったはずなのに。
画面下のコメント欄には、冗談としても捨て置けない、心無い言葉が綴られていた。
>>(これは男に捨てられたんだろうな)
>>(妊娠発覚して捨てられたらメンタル病むっしょ)
>>(二年間の空白=育児休暇ってことでしょ)
机に置いた指先が、かすかに震えた。
「……バカ言えよ」
独り言は空気に溶けていき、誰にも届かない。
かつて彼女が卒業した理由は“療養に専念するため”とだけ公表され、それ以上の説明は一切されていない。
「せっかく戻ってきてくれたのに……」
悪意に満ちた中傷に、心穏やかにはいられなかった。
「お前たちは、いったい何様なんだ」
匿名で好き放題に他人を傷つける連中。俺は、その卑怯さがどうしても許せない。
気にするだけ無駄だと分かっていても、苛立ちが止まらない。
◆ ◆ ◆
「先輩先輩~、これ見ました?」
背後から声をかけたのは西田だった。ノートPCを持ってきて、俺の机の端に置く。
「ほら、これ。やばいっすよ」
ノートPCを俺の机の端に置き、よくあるまとめサイトの画面を開く。
不愉快なタイトルが視界に刺さり、不快を通り越して怒りが膨れ上がっていく。
嫌な響きの言葉ほど、なぜだか人間はよくクリックする。
画面中央の太字タイトルは、まるで“さあ読めよ”とでも言いたげだった。
スクロールするたび、白地に黒い文字が流れていく。
適当な“もっともらしい説”が並んでいた。
──事故で半身不随。
──声帯損傷で活動不能。
──家に閉じこもり、昼夜逆転。
──妊娠、出産、男に捨てられた。
乱暴な推測ばかりなのに、堂々と“事実”のように語られている。
「西田、おまえこんなの信じるなよ……」
「そうは言っても説得力ありますよ。ほら、これとか……」
「西田!」
「ち、ちがうんですって!俺は信じてないっスよ。ただ、その……すごい勢いで広まってて……」
「はぁ……もういい。さっさと仕舞え」
ただの八つ当たりなのは分かってる。
それでも収まらないものがあり、つい語気が荒くなった。
西田も空気を察したのか、肩をすぼめながら自席へ戻っていった。
(言葉の端を切り抜いて、都合よく並べ替えて、勝手な物語を作りやがって……)
弱った言葉ほど、叩きやすい。
“可哀想”にも、“裏切り者”にも、好きな役を押しつける。
痛みだけ拾って、自分たちの脚本を貼りつけて、人の人生を玩具みたいに扱う。
事情も背景も、その人が本当に抱えていた感情も、まるごと置き去りにして。
そういう消費のされ方が、ただただ嫌だった。
◆ ◆ ◆
次の日。
研究室にはキーボードを叩く音がまばらに響き、コーヒーの香りが薄く漂っていた。
そんな中、また西田がノートPCを持って近づいてくる。
「先輩、ちょっとお聞きしたいことが……」
「どうした」
昨日の八つ当たりを反省して、できるだけ柔らかい声を出す。
「実は、星屑みさきの転生先って言われてる人たちがいまして……」
その瞬間、眉がわずかに上がった。隠したつもりだったが、誤魔化しきれてはいなかった。
「いや、違うんです。卒論と関係あるかもしれなくて」
「そんな噂と卒論がどう関係するんだ」
西田は視線を泳がせながら、画面をこちらへ向ける。
「音声解析で星屑みさきと同一人物っぽいって証拠を並べてる動画があってですね」
画面には、似た声のVTuberを三人並べた“比較動画”が映っていた。
過剰な赤枠、強調フォント、煽りBGM。
どれも“真実を暴く”雰囲気を出す安っぽい演出ばかりだ。
波形を重ねただけのオーバーレイ。
乱暴なフォルマント比較。
数字を振っているだけのピッチ推定。
──どれも“それっぽく見せたい”だけの雑な作りだ。
「これって、どのくらい正確なんですかね?」
思わずこめかみを押さえる。
(こんなの真に受けるなよ……)
ため息が漏れる寸前で飲み込み、ざっと動画を確認する。
「環境条件がばらばらなデータを比較して、“正しい一致”なんて言えるわけないだろ」
フォルマントもピッチも、マイクの特性や部屋鳴り、ノイズ除去で簡単に揺れる。
ましてや配信音源同士の比較なら、条件はほぼ全部バラバラだ。
波形の形なんて、環境がひとつ変わるだけでいくらでも違うものになる。
画面を指先で軽く叩きながら、西田に向かって淡々と説明する。
「これじゃあ“一致しているように見せたい”っていう、最初から結論ありきの見せかけの検証だよ」
「はぁ~、確かにそうっすね。めっちゃ分かりやすいです」
俺の説明に素直に頷く西田に、思わず肩の力が抜ける。
(いや、もう少し疑えよ……)
「実はこの三人のうち一人が結婚してたらしくて、それでまた“みさきの卒業は結婚のためだった説”が燃えてるんスよね」
「お前は本当にこういうゴシップが好きだなぁ……」
うんざりした声を出したつもりが、本人には届いていないようだった。
西田は、ぱっと表情を明るくして得意げな表情を見せる。
「いやぁ、こういう情報だけはなぜか拾っちゃうんですよね!」
(西田……だからお前はアホなんだ……)
あっけらかんとした返答に、逆にこちらの肩が落ちる。
「……はぁ」
ため息が自然と漏れた。
粗い“それっぽいデータ”で人を誤誘導する。
そんなのはただの技術の無駄遣いだ。
――だが、その瞬間ふと考えが浮かんだ。
(正しい手順と正しいデータで、“同一人物ではない”と示せたら?)
この不愉快な噂の土台そのものを、崩せるかもしれない。
たとえ“別人”と言い切れなくても、
「配信音源だけで人物特定は不可能」という当たり前の事実さえ示せれば、
“それっぽい根拠”に飛びつく連中の勢いは確実に削げる。
「……研究範囲と重なる部分もあるし、無駄ではないな」
自然と口から言葉が漏れた。
不愉快な噂を振りまく連中へ、わずかでも冷や水を浴びせられるのなら──それはそれで悪くない。
「やってみる価値はある、か」
研究の足しにもなるし、俺自身の気晴らしにもなる。
(いや、これは案外……悪くない、どころか……普通に面白くなってきたな)
自分でも驚くほど、奇妙なやる気が沸きあがってきた。




