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11話

 しばらくして、応接室の扉が小さく軋んだ。


 戻ってきた八十神社長は、先ほどよりもどこか態度が柔らかくなったように見えた。


「藤宮君、このあと、時間ある?」


「え……あ、はい。大丈夫ですけど」


 理由も目的も語られず、ただ時間だけを問われる。

 意図が読めず、思考が追いつかないまま返事だけが口をついて出た。


「じゃあ、ちょっと付き合って」


 答えを待つことなく背を向けた八十神さんを、俺は慌てて追いかけた。


(なんだ……本当に訳が分からない)


 気づけば、足は地下駐車場へ向かっていた。


「乗ってくれるかな」


 促されるまま、助手席のドアに手をかける。気づけば、そのままシートに身を沈めていた。


 ◆    ◆    ◆


 車が発進してからも、どこに向かっているかの説明はない。

 沈黙に満たされた車内では、エアコンの空調音だけが一定のリズムで流れ続けていた。


 八十神さんは、ただ前を見据えたまま、一言も発しない。

 説明がないまま進む時間が、少しずつ焦れを生む。


「あの、どこに向かっているんですか?」


「すぐに分かる。時間は取らせないよ」


 言葉自体はやわらかいのに、その奥にははっきりとした拒絶の気配があった。


(……今は、流れに身を任せるしかないか)


 説明を求めるのを諦め、ただ車窓を流れる景色を見つめながら時が来るのを待つ。


「すまないが、少し寄らせてくれ」


 そう言うと車は花屋の前に止まった。

 八十神さんは迷うことなく店に入り、淡い色の花束を手に戻ってくる。


(花……?)


 花束のやさしい色彩が、逆に不安を際立たせる。


 再び動き出した車が辿り着いたのは――病院だった。


 駐車場へ入ったところで、この先にある不穏な影を感じた。

 夏の湿気とは違う、冷たく乾いた空気が肌にまとわりつく。


 聞きたいことが喉まで出かかるが、八十神さんの横顔の硬さを見て、押し戻される。


「行こうか」


 その後は互いに何も言わないまま、足音だけを響かせて病棟へ向かった。


 ◆    ◆    ◆


 病室の扉の前に立つ。


「説明は後でする。中では何も話さず、ただ見ていてほしい」


 八十神さんはそう言い、静かに扉を押し開けた。


 温度も色味も一定に保たれた白い光が、無機質な壁と床を淡く照らし出す。


 ベッドの上には、一人の女性が横たわっていた。

 身体はわずかに上下しているものの、目は閉じられたまま動かない。


 人工呼吸器が規則正しく音を刻む。その明滅と気流が、この部屋に唯一の“動き”として存在していた。


(この人は……誰なんだ?)


 眠っているようにも見えるのに、その空気にはどこか重苦しさがあった。

 目をそらしたいのに、なぜか離せなくなる。


 八十神さんは花束をそっとベッド脇へ置き、優しい声で女性に話しかける。


「……やぁ。元気にしてたかい」


 女性が反応を示す気配はない。

 ただ機械の一定のリズムだけが、部屋の中をこだまする。


 その無反応さが、かえって“異質な静けさ”を強調しているように思えた。


「しばらく来れなくて悪かったね。いろいろ立て込んでてね」


(どういう関係なんだ……?)


 返事が来ないまま、八十神さんは穏やかな声で語りかけ続ける。


「この前のライブ……見てくれたかい? みんな、君が戻ってきたのを喜んでくれてたよ」


(ライブ……戻って……いや、まさか?)


 不吉な予感が形を持ち始めるのに、脳がまだそれを受け入れようとしない。

 理解と拒絶が同時に押し寄せて、足がじっとりと重くなる。


「ファンレターもたくさん届いていてね。今度まとめて持ってくるよ」


(この人は……どうして……どういうことだ?)


 女性はまったく反応を示さない。

 その沈黙に、俺は呼吸の仕方さえ忘れそうになる。


 その後もしばらく八十神さんは語りかけ続けた。

 しかし、穏やかな声色は誰にも届かず、言葉だけがはかなく消えていく。


「安心してくれ。君の願いは、ちゃんと叶っている」


 八十神さんはそう言うと、名残惜しげに小さく頷き、ゆっくりと立ち上がった。


 その間も女性は瞳を閉じたまま、微動だにしなかった。

 まるで彼女だけが、時間の外側に取り残されているように見えた。


 俺はただ呆然と、その光景を焼き付けるしかなかった。




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