10話
──七月
俺は最終面接のためにミラージュ本社にやってきた。
入口まえに立ち止まり、本社ビルを見上げる。ビルの先に広がる空は、梅雨明け前のようなどんよりした灰色をしていた。
「本当に、ここまで来てしまった」
生ぬるい風が頬を撫でる。汗をかくほどでもないのに、やけに肌がざわつく。
「……もうやるしかない」
やれるだけはやった。可能な限りのデータを揃えたつもりではいる。
このデータを突きつけて八十神を問い詰めたところで、うまくかわされるだけかもしれない。
だが──本当に怖いのは、かわされることよりも“真実を告げられる瞬間”だった。
もし八十神の口から「星屑みさきは偽物だ」と告げられたら──
その瞬間、自分の世界が壊れる光景が容易に想像できてしまう。
「やばいな……逃げ出したくなってきた」
◆ ◆ ◆
最終面接会場は、本社の奥にある落ち着いた応接室だった。
木目調のテーブル、深い色のカーペット、壁に飾られた抽象画。
その中央に、スーツをきっちりと着こなした中年男性が静かに座っていた。
「藤宮君、どうぞ」
声は穏やかで、意外なほど柔らかい。
急成長企業の特集で見た印象そのままに、きちんと整えられたひげがよく似合う落ち着いたビジネスマン──そんな佇まいだった。
(たしか40代くらいだったよな。それにしては貫禄がある……)
俺は、目の前の男を静かに見定めた。
そして、緊張を抱えたまま面接が始まった。
しかし俺の気負いとは裏腹に、やり取りそのものは驚くほど淡々としていた。
研究内容、志望動機、働き方の希望──尋ねられることはどれも定型的で、俺も落ち着いて答えていく。
気づけば、張りつめていた緊張はゆるやかにほどけていた。
やがて一通りの質問が終わり、八十神社長が穏やかに微笑んだ。
「では藤宮君、最後に……何か質問はあるかい?」
来た。
「ひとつだけ、お聞きしたいことがあります……」
俺はゆっくりと鞄からノートPCを取り出し、起動する間に息を整える。
心臓の鼓動が嫌に騒がしい。だが、ここまで来たらやるしかない。
「実は、星屑みさきさんの件です」
八十神社長の指先が、わずかに止まった。
「先日、復帰なさいましたよね。しかし、彼女の声を音声解析にかけたところ、“別人のように”変わっているのがどうしても気になっています」
波形グラフを表示し、俺は説明を始める。
卒業前と復帰後──スペクトル包絡の分布が明らかに違う。
フォルマントの山の位置、生体的特徴とされる揺らぎのパターン、そのどれもが変化していた。
「興味深いデータだね。機材が変わった影響なのかな?」
八十神社長の表情は変わらない。
穏やかな声のまま話すその様子が、むしろ不気味に感じられた。
しかし、俺も無策で来たわけではない。この程度は想定内だ。
「そう思い、機材差分のデータも取ってみました。
同じマイク、同じインターフェース、別機材比較……
しかし、このような変化は起きませんでした」
「……なるほど、それは面白いね」
八十神社長の笑みが、ほんの少しだけ硬くなった。
「では藤宮君は、何が原因だと考えているんだい?」
今ならまだ「勘違いでした」と引き返せる。
だが、この一言を口にしてしまったら、もう後戻りはできない。
覚悟はある。
それでも、喉の奥でためらいがわずかに残っていた。
ここで進まなければ、一生悔やむ──その確信だけが背中を押す。
息を整え、揺れる心を押し込めるようにして、言葉を慎重に紡いだ。
「……星屑みさきさんは、卒業前と復帰後で“別人になっている可能性が高い”と……そう、考えています」
言葉にした瞬間、“これしかない”という確信が固まった。
「ただの違和感と言われればそれまでですが、数値を見る限り、その可能性は否定できません」
部屋の空気が一瞬固まった。
空調の低い唸りだけが、取り残されたように部屋を満たしていた。
八十神社長は、ふっと笑った。
「ははは、なかなか面白い話だね」
そんなことはありえないと笑い飛ばすが、その目だけは微動だにせず、冷たい光を宿していた。
「声が酷似しただけの別人と入れ替えるなんて、本来は不可能です。
──ですが、AIを使えば、その不可能は越えられます」
不安を悟らせないよう、意識して声をまっすぐに保った。
◆ ◆ ◆
八十神社長は視線を落とし、しばし沈黙した。
「藤宮君、出してくれたデータはね……証拠としてはとても弱いよ」
穏やかな声のままだったが、その響きには先ほどとは違う確かな重みが宿っていた。
俺は即座に頷く。
「そう思います」
「それで……君はどうしたいんだい?告発でもするのかい?」
「いえ。何もしません。ただ──真実が知りたいんです」
胸の奥に、長く刺さっていた棘がうずいた。
「どうしても気になってしまうんです。
彼女は本当に“帰ってきた”のか。
俺が信じたものは……何だったのかを、確認したいだけなんです」
声が震え、机の縁を握りしめる指先が汗ばんだ。
八十神社長は口を閉ざしたまま動く気配はない。
この停滞がずっと続くかと思えた。
その硬直を自分で断ち切るように、俺は椅子を降り、床に手を突き、額をこすりつけるほど深く頭を下げた。
「お願いします。本当のことを教えてください……!」
◆ ◆ ◆
長い沈黙が続いた。
時計の秒針がやけに大きく響く。
やがて八十神社長が、ゆっくりと口を開いた。
「藤宮君は……わたしが言ったことを、本当に信じられるのかい?
わたしは嘘を言うかもしれないよ」
「……信じます」
顔を上げ、できるだけ落ち着いた声で自分の思いを伝える。
「嘘でもいいんです。俺を騙してもかまいません。
真相がどうであれ──八十神さんが“そうだ”と言うなら、俺はそれを信じます」
心から出た偽りのない気持ちだった。
ここまでやってなお、「ただ機材の影響だ」と言われるなら──
俺は、それを信じるつもりだった。
八十神社長は黙ったまま、深い影を落とした目で俺を見つめていた。
その視線は、優しさと、警戒と、決意と……何か得体の知れないものが混ざり合っていた。
再び沈黙が続いた。
張りつめた空気の中、八十神社長はそっと立ち上がる。
「少し待っていてくれ」
それだけ言い残し、扉を開けて部屋を後にした。




