8話「その力、規格外」
屋敷の裏手に広がる、草地の広場。
訓練用に並べられた木製の人形や丸太の間に、俺とエルミアは並んで立っていた。朝の空気はまだ涼しく、風が頬を心地よくなでていく。
「……ここが訓練場、でございますか?」
「まぁ、名前ほど大げさなものでもないよ。父さんが昔、剣の稽古してた場所らしい」
エルミアは周囲を見渡し、小さく頷いた。カルラの厳しい稽古のおかげか敬語もだいぶ様になってきた。
その表情は少し硬いが、どこか落ち着いている。
「それで、今日は……“魔法訓練”をなさるのですか? ノエルさま」
「ああ。エルミアに、教えてもらいたくてさ」
俺がそう答えると、エルミアはわずかに目を丸くした。
「ノエルさま、魔法は……苦手と仰っていましたよね?」
「うん。理屈は理解してるつもりなんだけど、いざやってみるとさっぱりで……」
苦笑いしながら肩をすくめる。
「昔、“火花”を出すだけの初歩魔法で、屋敷のカーテンを燃やしかけたことがあってね。それ以来、父さんから“魔法禁止令”が出た」
「……その、“火花”で……?」
「うん。火花が暴走して、窓ガラスまで全部割れた。自分でもビビったよ。それからは地下でこっそり練習してたけど、成果はゼロ」
エルミアは「想像以上でございますね……」とぽつり。けれど呆れるような声ではなかった。
俺は深く息を整え、両手を前にかざす。右手の手首には、初心者向けの制御補助用の魔道具を巻いている。
「じゃあ……ちょっとやってみる。火の初歩、火種」
魔力を練り、圧縮し、術式を展開――その瞬間。
──ボンッ!
鈍い破裂音と同時に、俺の手のひらから煙と風圧が噴き出した。
「うわっ! げほっ、ごほっ!」
視界が煤と煙で曇り、思わず後ろによろめく。エルミアが慌てて風魔法で煙を払ってくれた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「うん……いや、全然ダメだ……」
俺はその場にしゃがみ込み、手のひらを眺めた。
「やっぱり、向いてないのかな。魔力が暴れる感じで、全然言うことを聞いてくれない」
気づけば、自分でも驚くほど気落ちしていた。前世でもそうだった。“できない自分”を突きつけられると、すぐ心が萎える。
そんな俺の隣に、静かにしゃがみ込む気配があった。
「ですが……魔力の“反応”自体は、とても強い、です。暴発するほどに……力がある証拠でございます」
その声は、慰めではなかった。純粋な事実としての観察だ。
「私、最初はノエルさまに魔力が少ないのだと思っておりました。でも、違います。むしろ……ありすぎて、制御しきれていないのではと」
「……ありすぎる、か」
言われてみれば思い当たる節もある。
俺は立ち上がり、手のひらを見つめた。さっきまでの術式の名残か、指先にはまだ魔力の“余熱”がじんわり残っている。
「……でも、身体強化だけは、うまくいくんだよな」
「身体強化、でございますか?」
「うん。走るとか、力を出すとか……体の内側に魔力を流す系のやつは、わりと感覚がつかみやすい」
エルミアはしばし思案したあと、俺を真っ直ぐ見た。
「でしたら……それを、見せていただけませんか?」
その瞳には、どこか“探究者”のような好奇心が灯っていた。真剣で、どこまでもまっすぐな視線だった。
俺は静かに頷いた。
「──じゃあ、次は“身体強化”。見せてみるよ」
* * *
「……じゃあ、いくぞ」
肩を軽く回し、訓練場の中心に立つ。
草を踏みしめ、地面に足をつけて、息を吸い込む。
魔力を足に集中。熱が血流に乗って身体を巡る感覚。“跳べ”という衝動が、体の奥から湧いてきた。
「──せーのっ」
地を蹴った瞬間、風が背後で千切れた。
一気に視界が流れ、地面が滑るように遠ざかる。わずか一秒も経たずに、二十メートルほど先の杭の前に到達していた。
「っととっ……!」
勢い余ってバランスを崩し、膝をつく。地面がめくれ、土が小さく爆ぜた。
……だが、息は上がっていない。全身が軽い。まるで飛ぶために設計された身体のようだ。
「えっと……どう?」
振り返ると、エルミアは目を見開いたまま呆然としていた。
「な、なに今の……? 速っ……!」
「……いや、普通……じゃない?」
俺にはその感覚が“基準”だった。だけど、エルミアは眉をひそめて丸太のほうを指差す。
「次は……あれを、持ち上げてみてください。確認したいことが……あります」
「いいけど……重そうだな。試してみるか」
俺は丸太のそばに歩み寄る。人の胴より太く、長さも五メートルはある。
膝を曲げ、腕を下に差し込む。魔力を腕と背に流し込むと、体の内側がじんと熱くなる。
「──よいしょ」
ミシッ、という音とともに、丸太が浮かび上がる。
肩の高さまで持ち上げても、重さは“そこそこ”。俺は片膝をついてバランスをとった。
「……こんなもん?」
振り返ると、エルミアの目が点になっていた。口元が開き、何かを言いかけて止まっている。
「ノエルさま、それ……軽く持っておられます……?」
「うーん、まぁまぁ? ちょっとバランス悪いけど」
「ふ、普通じゃ……ない……」
エルミアは衝撃を受けたような表情でそう呟いた。
「ノエルさま、通常の身体強化魔法は、肉体をほんの少しだけ補強するもの、です。……見ていてください」
そう言って、エルミアはすっと背筋を伸ばした。
彼女の両手が胸元で軽く組まれ、静かに呟く。
「身体強化」
風がふわりと撫でるような魔力の気配とともに、彼女の体が一瞬だけ淡く発光する。その光はすぐに消えたが、雰囲気がわずかに引き締まったように見えた。
「これで、筋力と動作が――少しだけ軽くなります」
エルミアはすぐ近くにあった薪の束を手に取った。それは、普通なら両手でやっと持ち上げられる太さだったが、彼女は片手で軽々と掲げてみせる。
「例えば、こういうことができます」
そう言うと、薪を抱えたまま、足場の悪い斜面をさくさくと駆け上がった。普段なら滑ってしまいそうな土の斜面だが、魔法によって身体のバランスが保たれているのが見て取れる。
斜面の上でくるりと振り返り、軽く微笑んだ。
「持久力も、わずかですが保たれます。長距離の移動や、軽作業を続けるときに便利なんです」
俺はその様子を見て、ひとつ頷いた。
「なるほど……」
「はい。戦闘で使うよりも、日常生活の中で役立つ“補助術”として、広く使われているものです」
そう言いながら、エルミアは軽やかに跳ねるような足取りで斜面を降りてきた。
そして、ふと俺がさっきまで持ち上げていた太い丸太に目を向ける。
「ですが……ノエルさまの身体強化魔法は、詠唱もなく、効果もまるで別物に見えました」
そう言いながら、彼女はその丸太に手をかけるが、ぴくりとも動かせない。
「もはや、“身体強化”というより……ノエルさま固有の魔法に近いのかもしれませんね。……少々魔力量を見せてください」
そう言うとエルミアはそっと手をかざし、空に複雑な軌跡を描いた。
彼女の瞳の奥に、淡い光の紋章が浮かぶ。おそらく “魔力量測定”の術式だ。
「…………っ」
エルミアの表情が崩れる。
「え、なんか変だった?」
「……いえ、大丈夫、でございます」
声がかすかに震えていた。だが次の瞬間、彼女はその顔を引き締め、すっと距離をとる。
「──ノエルさま。模擬戦、お願いできますか?」
「え、模擬戦?」
返事をする前に、彼女はすでに構えを取っていた。
(──本気だ)
その表情には、明確な意図が宿っていた。俺という“未知”を、正面から確かめようとする意志。
俺もまた、体の奥がわずかに熱を帯びていくのを感じていた。
(ああ、やっぱり……こういうの、嫌いじゃないかもな)
* * *
エルミアは軽く肩を回し、ゆっくりと一歩前へ出る。
「……では、模擬戦、始めましょう。最初は手加減いたしますが、気は抜かないでくださいね?」
「ああ。よろしく頼む」
俺は木剣を構え、呼吸を整えながら返す。エルミアは俺の正面に立ち、指輪にそっと触れた。
それは、“導魔の指輪”。魔力を効率よく媒介・増幅する高純度の魔導具で、魔法精度を大きく高めるものだ。
家の倉庫に転がっていて、誰も使用していなかったため、彼女に与えたものだった。
「“風刃”」
鋭く発音される詠唱。直後、空気が唸りを上げ、鋭利な風の刃が一直線に俺の胸元へと突き進んだ。
(速い……!)
避けきれないと判断して構えを崩さずそのまま受けた――が。
刃は俺の身体に触れた瞬間、ふわりと音もなく拡散し、ただの風へと還った。
「……なるほど」
風が収まった後、エルミアが小さく肩を落として呟いた。
「今のは、四割程度の出力。でも……まったく通らないということは……」
呆れではなく、むしろ何かを確かめるような声音だった。
次の瞬間、エルミアの目が鋭くなる。指輪に再び魔力を流し込むと、周囲の空気がきりきりと鳴るような緊張感に包まれる。
「次は、本気でいきます。“真風刃・散弾”!」
同時に五発の風刃が舞い上がり、複雑な軌道を描きながら俺を包囲する。
一発一発が細かく制御されていて、どれを避けても他が命中するように仕組まれている。
(……うわ、避けるの無理だろ!)
とっさに体をひねるが――結局、すべて被弾した。
だが、やはり――結果は変わらない。
風刃が触れた瞬間、俺の周囲に薄く漂っていた魔力が震え、まるで膜のように風を弾いて散らした。
「……これでも、ダメ?」
エルミアの声が、ひどく静かに響く。だがその声音には、驚愕と困惑、そして……焦りが混じっていた。
彼女がゆっくりと近づいてきて、俺の胸元にそっと手をかざす。
「……やはり。これは、魔力の“鎧”です」
「魔力の、鎧?」
聞き返すと、彼女はゆっくりと頷いた。
「ノエルさまの“身体強化”に使われた魔力が、体の表面から漏れ出している……というより、滲み出ているのです。それが、まるで防御結界のように魔法を弾いています」
「そんなことって……あり得るのか?」
「……普通は、ありえません。けれど、ノエルさまの魔力量と“密度”は規格外です。制御しきれず溢れ出した魔力が、結果的に自動防御の役割を果たしている。そうとしか、説明できません」
彼女の瞳は真剣そのものだった。理屈を理解しつつ、まだ信じきれない――そんな迷いも滲んでいた。
「今までに、これほどの“自然放出”を見たことがありません。……本当に、人間なのですか?」
「いやいや、俺も困ってる側なんだけどな……」
苦笑まじりに答えると、エルミアはふっと表情を戻し、今度は木剣を持ち直した。
「……では、近接で。私、剣も多少は扱えます。村で我流でしたが、ずっと一人で練習してきたので」
「そっか。じゃあ、こっちも手加減するよ」
「手加減は、不要です。私は本気で参ります」
その言葉に、俺は頷いて構えを取り直す。足元に魔力を満たし、一気に踏み込んだ。
――風が裂ける。
爆発的な加速で俺の木剣が彼女の懐へと迫る。
だが、エルミアも迷わなかった。冷静に受け太刀を放つ。
……が。
バキィン!!
空気を裂くような破裂音。
エルミアの木剣は、俺の剣を受けた瞬間に、真っ二つに折れていた。
「──っ!」
手元を失ったエルミアが、たたらを踏んで大きく後退る。俺は慌てて剣を引き、距離を取った。
「ご、ごめん! 手加減したつもりだったんだけど……!」
俺が駆け寄ろうとすると、彼女は無言で立ち止まり、折れた剣をじっと見つめていた。
数秒――。
「……これほどまでとは……!」
かすれた声。けれどそこには、感情に押しつぶされたような弱さはなかった。
「……私の、負けです」
静かに、けれど確かにそう言って、肩を落とすエルミア。
俺はゆっくりと木剣を下ろした。
「ありがとう。俺、色々と……自分のことがわかったよ」
「はい、です……」
彼女はまだ納得しきれない表情だったが、そこに浮かぶのは悔しさではなく、何か別の決意のようだった。
「これからも教えて欲しい。エルミアの得意な魔法とか、身体強化を使わない剣術とか」
「……はい。ですが……負けたのは、正直、悔しいです。私は、もっと強くなりたい、です」
その言葉には、にじむような誇りと意志があった。
俺はその目をまっすぐ見返し、静かに言った。
「じゃあ、お互い教えあって、一緒に強くなろう」
「……わかりました。頑張りましょう、ノエルさま」
そう言って、ふっと微笑んだエルミアの頬に――
いつのまにか傾きはじめた夕陽の光が、柔らかく差し込んでいた。