6話「地下から、日の当たる場所へ」
翌日の昼過ぎ、俺は屋敷の奥にある応接間の扉の前に立っていた。ノックの音が、静かな廊下に控えめに響く。
「……入れ」
低く、くぐもった声が返ってきた。
扉を開けると、部屋の奥の椅子に父が座っていた。白髪交じりの髪、優しげな眼差し。年齢の割には老け込んだ印象だが、それは疲労の蓄積というより、諦念に近い影のようだった。
俺は扉を閉め、正面の椅子に腰を下ろす。
「珍しいな、自分から来るとは」
そう言いながら父は手元の文書から目を離して、俺の方を向いた。
「話があるんだ。少しだけ時間をもらえる?」
その目は、いつもと同じだった。何も言わずに全てを見透かすような、沈黙。
俺は、逃げずにそれを受け止めた。
「エルフの少女のことは……もう知ってると思う。村じゃもう噂になってるから」
「当然だ」
短い返事。それ以上は促してこない。
「彼女の名前はエルミア。あの森で倒れていたのを俺が見つけて、助けた。今は助手として、開拓を手伝ってもらってる」
父は黙って聞いている。
「魔法も使える。土地の知識もある。村の者にも説明した。彼女の力があれば、俺たちの領地は少しずつでも、確実に変えられるはずだ」
言いながら、自分の声に熱が帯びているのを感じた。
「大事なのは種族や身分じゃない。何ができるかだ。エルミアは、この土地に必要な人材だと思ってる」
静かに、けれど確かな決意を込めて言葉を重ねた。
「俺は、このレイフィールド領を“生きた土地”にしたい。だから……彼女を、正式に俺の“協力者”として認めてほしい」
父の眉が、わずかに動いた。
「生きた土地、か」
その声には皮肉も含まれていたが、否定だけではなかった。
「前、俺が“村を豊かにしたい”って言ったとき、父さんはなんて言ったか覚えてる?『好きにしろ』って」
「……言ったな」
「あのときの“好きにしろ”を、もう一度もらいたい。今回も、本気でやるから」
父はしばし沈黙したまま、目を伏せ、窓の外を見つめた。
「……この土地は、何度も見捨てられてきた。私も、お前の祖父も、何をしても報われなかった。だからもう、期待なんてしなくなった」
それは投げやりな言葉ではなく、ただ事実として口にしたような声だった。
「だが、お前がやりたいなら、好きにすればいい。ただし責任は、お前が取るんだ」
その瞬間、俺は深く頭を下げた。
「ありがとう、父さん」
「まったく……お願いごとをするときの顔は、シエラそっくりだな」
亡き母の名前を出されたことで、胸の奥がわずかに温かくなる。父の目が、優しさを宿していた気がした。
* * *
その足で俺は、地下倉庫へと戻った。
ランタンの光が揺れる中、エルミアは黙々と地図と羊皮紙に目を通していた。俺が入ってくる気配に気づき、彼女が顔を上げる。
「……どうしたの?」
「父さんに会ってきた。ちゃんと報告したよ。お前のことも」
エルミアの瞳が、わずかに緊張で揺れた。
「で……?」
「許可、もらえた」
俺は自然と笑みを浮かべる。
「『お前の責任でやれ。好きにしろ』だってさ。いつも通りの言い方だけど、あれがうちの父さんなりの“了承”だよ」
「……本当に、いいの?」
「ああ。少なくとも邪魔はしないってさ」
自分でも驚くほど心が軽くなっていた。前世でずっとできなかった“最初の一歩”をようやく踏み出せた、そんな感覚だった。
「それで……私に何を?」
「改めて、お願いしたい」
まっすぐにエルミアの目を見る。
「お前の力が必要なんだ。魔法の知識も、土地の感覚も、全部。俺一人じゃ、この土地を変えるなんて夢でしかない。でも一緒なら……本当にできる気がする」
エルミアは、しばらく黙って俺を見つめていたが、やがてふっと目を細めて微笑んだ。
「……一応、もうそのつもりだったけど?」
その声には、からかうような温かさがあった。
「そっか。じゃあ、改めて任命だ。“助手”のエルミア嬢」
「はいはい。がんばるわ、族長様」
肩をすくめた彼女の横顔は、どこか誇らしげで──ちょっとだけ、照れているようにも見えた。
* * *
翌朝、俺はエルミアを屋敷の地上階へと連れていった。目的はただ一つ──家政婦たちへの“紹介”である。
「……本当に、大丈夫?」
階段を上がる途中、エルミアが不安げに問う。
「ああ。いずれ誰かと顔を合わせるのは避けられないし、変な噂が先に立つ前に、ちゃんと俺の口で説明しときたい。こういうのは事前に話を通すのが大事なんだ」
俺は振り返りもせずに言う。しばらくの沈黙。やがて、ぽつりと声が落ちた。
「……前から思ってたけど、あなた、本当に子どもなの?」
足が一瞬、止まりかけた。けど、笑ってごまかす。
「年齢的にはね。でも、中身はちょっと古いのかも」
「それ、冗談?」
エルミアの目は笑っていなかった。だけど、完全な敵意でもない。観察するように、測るように、俺を見ている。
「まあ……“坊ちゃま”って便利な立場なんだよ。今はそれを、目いっぱい利用してるだけ」
「……ずる賢いのね」
「そう言われると気が楽だな。さ、行こうぜ。大丈夫なことは、俺が保証するから」
苦笑しながら階段を登り、広間の扉を開けると──すでにメイド長のカルラが、腕を組んで待っていた。レイフィールド家に何十年と仕える、影の実力者である。
「……また坊ちゃまが妙なことを始められましたか」
俺が口を開くより先に、深いため息が漏れた。
「妙とは心外だな。理に適った最善策だよ、これは」
そう言って、俺はエルミアを前に出した。
「紹介する。彼女はエルミア。俺の“助手”だ。開拓の実務にも関わってもらう。屋敷内の取り扱いも、必要な範囲で頼みたい」
カルラの視線が、じろりとエルミアをなぞった。尖った耳を見て、一瞬だけ眉が動く。
だが、それだけだった。
「……坊ちゃまのご判断には口を挟みません。ただし、この屋敷は貴族の館です。“外部の者”にふさわしい礼儀作法は必要でしょう」
「それも承知の上。指導をお願いできるかな」
「……ならば、適任をつけましょう」
手を打つと、控えていた若いメイドが一歩前に出る。
「彼女はクロエ。日常作法や身だしなみなど、基本は任せてあります」
「よろしく頼む。……エルミアも、大丈夫か?」
エルミアは一瞬むっとした表情を浮かべたが、すぐに頷いた。
「……わかった。従う」
カルラはその様子を見て、わずかに口元を緩めた。
「では、当面は“見習い”ということで。恥はかかせません。まずは坊ちゃまに対する言葉使いから直す必要がありそうですね」
「……厳しいけど、ありがたいよ」
「当然です。レイフィールド家の名に泥は塗らせませんから」
最後にカルラが静かに言い添える。
「坊ちゃま。私は、あなたに期待しているのですよ。ご自覚くださいませ」
……ああ、プレッシャーがすごい。
けれどその言葉は、何よりも背中を押してくれた気がした。
こうして、エルミアは“レイフィールド家の住人”として、ようやく地上にその一歩を刻んだのだった。