49話「聖獣―ミコト―」
フレデリカの声が、断崖の空気を震わせた。
「ノエルっ!」
その直後だ。
(――ノエル……?)
胸の奥に、やわらかな声が落ちてきた。耳ではない。意識に、直接。
「……いまの、聞こえたか?」
「はい。頭の中に、直接……」
「なんだ、これ……」
三人――フレデリカ、エルミア、セシリア――それから上段の桟道にいた翼人たちまで、同時にざわつく。
そのときだ。居住区の奥、板屋根と桟道が折り重なる一帯の向こうから、淡い光の柱が立ち上がった。白だけではない。虹をひそませた光が、断崖の冷気を押し広げながら昇っていく。
「あの方角……翼座か!?」
「一体、何が――」
翼人たちが顔を見合わせ、「翼座だ」と慌てて名を呼んだ。俺には聞き慣れない語だが、奥で“何かが動いた”ことだけははっきり分かる。
光がふっと褪せ、白い影が跳ね上がる。屋根と屋根のあいだの空を、見えない段を踏むように駆けてくる。蹄は空を打っているはずなのに、乾いた等間隔の響きが返ってきた。額に短い一本角をもつ純白の馬――鬣には淡く虹が差し、目を奪われる。
羽根はない。けれど落ちない。空気が支えているのか、あれ自身が足場を生むのかは分からない。ただ、一直線にこちらへ向かってくるのは確かだった。
「あれは、聖獣様――!? 封印が解けたのか!」
上段で弓を構えていた翼人の一人が声を裏返す。矢先は下がり、弦は引かれない。「聖獣」という単語が、里にとって特別であることを一瞬で理解した。
白馬は俺の前で止まり、鼻先をそっと寄せてくる。温い息が頬に触れた。角の根が、カシャンと小さく鳴る。金具を合わせたような、癖のない澄んだ音。短かった角が一節だけ伸びて止まり、俺の頬をやさしく押した。
敵意はない。俺はゆっくり手を上げ、額に触れる。滑らかな毛並みの下で、角の根がわずかに脈打っていた。
「……」
白馬の耳がぴくりと動き、こくりと頷くように首が揺れる。次の瞬間、輪郭が淡くほどけて形が入れ替わった。一拍。そこに立っていたのは白髪金眼の少女――角は飾りのように小さく残り、白の簡素な巡礼服。見た目は十歳前後だが、立ち姿は妙に整っている。
目の前で馬が人へと変わった。思考が一瞬、空白になる。
少女は鼻をすん、と鳴らし、俺の胸元に頬をすり寄せた。子どもの体温が、そのまま伝わる。支えるように手を添えると、袖口を小さくつままれた。
「ノエル! ノエル!」
あまりにもまっすぐで、息がこぼれる。
「……君は?」
「ミコトだよ」
「俺のことを知っているのか?」
「知ってる。けど、知らない」
それ以上は言わない。問い直すより早く、ミコトは顔を上げ、フレデリカの方へ向かった。フレデリカは姿勢を崩さない。ミコトは彼女の手の甲をくんと嗅ぎ、頬を軽く押し付ける。フレデリカの口元が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……こ、こんにちは?」
「……ん」
続けてエルミアにも頬を寄せる。エルミアは「問題ありません」と短く告げ、指先で一度だけ頭を撫でた。セシリアへは視線だけを送り、すぐ俺の隣へ戻ってくる。誰に、どこまで近づくか――距離の取り方がはっきりしている。
上段の翼人たちは、音を立てずに矢を外した。肩が一斉に落ち、投槍が下がる。誰も次の矢を番えない。
「聖獣様……本当に……?」
「封が……いや、奴らはいったい……」
ざわめきが広がる。戦意が抜けていくのが分かった。
ミコトが俺の袖を軽く引く。そこで甘えた気配がすっと切れ、金の瞳が静かに細まった。幼い表情が引き、場を測る冷ややかな静けさが前に出る。空気が一段、締まる。
彼女は上段の翼人たちを見回し、角をわずかに傾けた。言葉はない。あれは挨拶だと分かった。
羽を畳んだ男が一人、上段から降りてくる。先ほどこちらに警告を発していた代表格だ。弓を地に置き、両手を胸の前で組む。膝を折りたい衝動をこらえているのが、遠目にも分かる。
「……聖獣様。どうか、お言葉を」
ミコトは男を真っ直ぐに見た。さっき俺に頬を寄せたときと同じ距離なのに、印象はまるで違う。甘さは消え、きっぱりとした静けさだけがある。角の根が、もう一度だけカシャンと鳴る。そして俺の袖をつまんだ指に、小さく力がこもった。
「ノエル、話す」
ミコトが対話の機会を示したのだと理解する。俺はうなずき、代表の翼人へ視線を合わせた。
「先ほども言ったが、争いに来たわけじゃない。ただこの地を調査に来ただけだ。――そして可能であれば、友誼を結びたい」
翼人は目を伏せ、深く息を吐く。背後で、何人かが武器を下ろす音が続いた。桟道の板がきしみ、吊橋の綱がかすかに鳴る。飲み込まれた息が、すぐ静まる。
フレデリカが肩越しに囁く。
「どうやら、戦いは避けられたようね」
エルミアは頷き、前面の風の結界を弱めた。セシリアは斜め後方で退路と足場を見守り、緩みは作らない。
代表の翼人が顔を上げる。目の色に決意が戻っていた。
「……分かった。我らは天羽の民。この里に住む翼人族だ。まずは事情を互いに確かめよう。――武器を下ろせ」
号令に従い、周囲の翼人が次々と弓を地に置き、投槍を束ねる。敵意は消えていないが、話す準備は整った。
「案内する。広場のそばに集会所がある」
「ああ、助かる」
ミコトはもう一度だけ俺に額を預け、すっと一歩下がった。甘えの名残をそこにしまい、金の瞳だけが前を見る。
俺は呼吸を整え、うなずく。ここからは、言葉の仕事だ。
翼人の代表が踵を返し、内へ戻る道を示す。俺たちは互いに目配せして、その背に続いた。




