47話「迷いの森の縫い目」
南辺境の地図に、ぽっかりと空白がある。古い道が森に飲まれ、そこから先の情報が途切れていた。
報告では、猟師が方角を失って戻らなくなったり、伐採隊が丸一日歩いて同じ倒木の前に立ち尽くしたりしたという。
村の古老は肩をすくめて言った――「森そのものが人を拒んどる」。曰く、迷いの森。
ただの怪談なら放っておいてもいい。だが領路を南へ延ばし、亜人との交易を開く計画を進める俺にとって、この空白はそのまま損失だ。人が恐れて近づかない土地が領内にあるのもよろしくない。放置は最悪だ。なら確かめる。
報告が正しければ、何らかの魔力的要素が働いている。結界、幻惑、あるいは意図的な封鎖。可能性は絞れる。ならば現地で見て判断するのが早い。
同行は三人。エルミア、フレデリカ、そしてフレデリカの護衛であるセシリア。
エルフのエルミアは森の異常を暴ける術者で、頼もしさは折り紙つきだ。フレデリカは現地の視察に興味があると言い、自ら同行を申し出た。元公爵令嬢の行動力は、いまだに俺の想定を越える。
何があるかわからないため、武装は万全にした。エルミアはいつものブレスレット型魔道具に加え短剣を腰に二本。フレデリカは指輪型魔道具と長剣。セシリアは防御・支援が得意で、杖型魔道具を携え後衛を務める。
俺は――形の上では剣を下げているが、いざとなれば魔力強化で殴り込む、いつものやり方だ。
領の主要人物がいなくなることは問題だが、文官も育ってきているし、急ぎの案件は片づけてきた。最悪二、三日空けても大丈夫だろう。
麓の村で馬を預け、昼のうちに森の縁へついた。村の子どもが遠巻きにこちらを見て、母親に手を引かれて家へ戻っていく。人の気配が薄れるほどに、風の音が耳に残った。
森へ入ってしばらく歩く。報告にあった異常地帯は、このあたりのはずだ。
耳を澄ますと、違和感はすぐに見つかった。風が梢を揺らすのに、葉擦れの音が薄い。鳥の鳴き声がしない。小動物が駆け抜ける気配もない。生き物のざわめきが、どこにも見当たらない。
光はあるのに明るくない。枝葉の影が不自然に濃く、何かを覆い隠している。
俺が口を開く前に、エルミアがぽつりと言った。
「……精霊の気配がありませんね」
「精霊?」と俺。
エルミアの淡紫の瞳が細くなり、森の奥を探るように動く。
「木霊も風精も、ひとつも。自然の森なら必ずいるはずのものが――ここから先には全く見えません。境界線が引かれているみたいです」
フレデリカが小さく息を呑む。
「そんなこと、あり得るの?」
「通常なら、あり得ません」
エルミアの声は静かに強い。
「誰かが、あるいは何かが、ここを“閉じて”いる。そう感じます」
俺は鞘口に親指をかけ、呼吸を整えた。
「戻るか?」
「いえ、進んでみましょう。ただし――場所を選んで」
エルミアは周囲の風を測るように視線を払った。
「森のことならエルミアに従おう。フレデリカはどうだ」
「私も異論はないわ」
フレデリカは短くうなずく。セシリアも目で「問題なし」と伝えてきた。
「じゃあ、エルミア、案内を頼む」
「はい。……意図的に膜を張って閉じている、とするなら縫い目があるはず。そこを探します」
歩き出すエルミアの後に続く。踏み出すたび、足裏の感覚がわずかに浮つく。地面の傾斜と視界の印象が噛み合わない。右に上っているはずなのに膝が沈む。
目印を兼ねて、フレデリカが麻紐に白布を結んでいく。振り返ると白布は風に揺れていたが、二本目、三本目を結んだあたりで、最初の布が視界から消えた。距離を詰めたわけでも、曲がり角を曲がったわけでもないのに。
「見えていないだけです」とエルミアが言う。
「視界が曲げられている。歩く方向は合っていても、これでは迷うのも無理はありません」
フレデリカは背筋を伸ばして歩く。表情は崩さないが、革手袋の指先がきゅっと丸まっている。
「……緊張してるのか?」と俺。
「少し。実戦の演習はしたけど、ここまで深い森じゃなかったから」
「俺も子どものころから森には入っていたが、ここまでのやつは初めてだ」
「後ろはお任せください」
セシリアが小声で告げる。気配探知の術式を回しつつついてきているのは分かる。だが魔力の漏れはほとんどない。公爵令嬢の従者を一人で務めてきた腕は伊達じゃない。
湿った匂いが強くなる。腐葉土ではなく、乾いた石の冷たさが鼻腔に張りつく。呼吸のたび、肺が少し痺れた。エルミアは歩調を落とし、木々の幹にそっと耳を当てては離す。
「……自然の風は右から左へ。ですが膜の向こうの風は左から右へ。だから風の音が二重に聞こえるのかもしれません」
二重の風。耳を澄ませるほど、その違和感ははっきりした。
やがて、太い古木の前でエルミアが立ち止まる。根は岩を抱き込み、幹の皮は縄のようにねじれていた。
腰の小袋から白い粉――乾かした香草を挽いた粉――を取り出し、ひとつまみ指先に取り、空へ投げる。粉は風に乗って広がり……ある一点で不自然に止まった。目に見えない何かに貼りついたみたいに、薄い膜の輪郭を描き出す。
「どうやら、ここが縫い目のようです」
幹の表皮が、光の糸で細かく縫い合わされているように見えてくる。淡い光が走り、呼吸のたびにごく僅かに脈打つ。森全体を閉じる巨大な繊維の、一番弱い継ぎ目。
「解除できそうか?」
「……おそらく可能です。何が起こるかは分かりませんが」
「なるほど。じゃあ頼む。フレデリカとセシリアも備えてくれ」
「ええ」「承知しました」
「ただ、戦闘にならないのが一番いい」
俺は二人に念を押す。
「ここは誰かの庭かもしれない。勝手に踏み込む以上、こちらが礼を尽くす」
エルミアがうなずき、幹に掌を滑らせる。
「……膜の張力は強いけれど、縫い目の端は甘い。最小でいけます」
彼女は深く息を吸い、吐く。肩の力が抜け、指先が静かに立つ。
俺は一歩前へ出て、三人の前に半身をつくる。何が起きても、まず矢面に立つのは俺だ。領主だからではない。俺がそうしたいからだ。
……あとは俺が一番頑丈だからだ。
「行こう」
エルミアの指先に淡い光が集まる。見えない精霊の力が、細い糸のように絡みついていくのが分かった。
「ノエルさま、三歩下がってください」
「分かった」
素直に従い、フレデリカの肩に軽く手を置く。冷えているが、震えてはいない。セシリアは斜め後ろにずれ、俺たちの脇と背後を守る角度へ。
森の匂いが強まる。二重の風鳴りが耳に刺さる。遠くで水が滴るような音がして、すぐ消えた。
エルミアの睫毛がかすかに震える。俺は息を浅く、静かに整えた。
「――裂きます」
針のように細い声だった。森全体が耳を澄ませたように、音が凪いだ。




