41話「帳簿を閉じて、今日は隣を歩く②」
――フレデリカ視点
視線を前に戻しながら歩いていると、再びノエルが、あちこちから声をかけられていた。
「ノエル様! 今朝採れたばかりの野菜です!」
「こっちの蜂蜜、ぜひ味見していってください!」
「領主様、試作品の石鹸ができました! お渡ししていいですか?」
それはもう、ひっきりなしだった。
屋台の主人に、買い物途中の婦人たち、近所の子どもまで。老若男女が笑顔でノエルに手を振り、気さくに声をかけてくる。
中には、自家製の野菜を籠ごと差し出してくる商人までいて、ノエルが慌てて受け取りつつ、礼を述べていた。
彼の立ち位置は、私の知る“貴族”という存在とは、まるで違っている。
それなのに――いいえ、それだからこそだろうか。人々の顔に、確かな信頼と親しみの色があった。
(でも、それを好ましく思っている自分もいる)
思わず、目を細めた。
ノエルはこの街で、間違いなく“領主”として認められているのだ。格式や家柄に頼らず、言葉と行動で、少しずつ積み重ねてきた信頼が、こうして形になって表れている。
そんなことを考えていた時だった。
通りの向こうから、ぱたぱたと駆けてくる足音が聞こえたかと思うと――
「あっ……!」
小さな影が前方を横切るように転びかけ、手に持っていたカップの中身が宙に舞った。
反射的に身を引く間もなく、赤紫の果汁のような液体が、私のスカートの裾にばしゃりと飛び散る。
セシリアが息を呑む気配が伝わってきた。ノエルが一歩踏み出しかけるのも見えた。
その直後、母親らしき女性が慌てて駆け寄ってきた。
「申し訳ありません! 本当に、申し訳ありません……!」
顔を真っ赤にして、息を切らしながら深々と頭を下げる。
転んだ子どもも、地面に手をついたまま、泣きそうな顔で小さくつぶやいた。
「……ごめんなさい、おねえちゃん……」
私は一瞬、言葉を失った。
視界の端に、淡いラベンダー色の生地へと広がっていく染みが映る。けれど、怒りも焦りも、なぜか湧いてこなかった。
静かに息を整え、表情を戻す。
そしてそっと、濡れたスカートの裾を見下ろした。
「大丈夫よ。これはただの布。洗えば落ちるもの」
そう言って、手のひらで軽く払ってみせる。
そして膝を折り、しゃがんで子どもの目線に合わせた。
「それより――あなたが怪我をしなくて、よかったわ」
そう言って、そっとその小さな頭に手を置いて撫でる。
子どもはきょとんとしたまま、私を見上げた。目元に涙をにじませながら、ぽつりと一言。
「……おひめさま?」
私はほんの一瞬だけ考え、そして人差し指を唇の前に当てて小さく囁く。
「実はそうなの。でもね、みんなには――内緒よ?」
片目をつぶって、ウィンクをしてみせると、子どもは目をまんまるにして、やがてこくんと頷いた。
母親は再び深く頭を下げ、「ありがとうございます、本当に……」と安堵の声を漏らす。
周囲にいた人々も、静かに見守っていた空気が少し和らぎ、どこか微笑ましいような雰囲気が広がっていく。
(昔なら、すぐに公爵家の威信のために対応を求められていたでしょうね)
でも、今はそういったしがらみはない。
(こういう触れ合いも……悪くないわね)
セシリアが何か言いたげに口を開きかけたが、結局そのまま口を閉じた。たぶん、黙認してくれたのだろう。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、ノエルがこちらを見ていた。
目が合うとすぐに視線をそらし、わざとらしくそっけない口調で呟く。
「……領民の反応は、上々だったな」
頬をかきながら、視線はどこか市場の向こうへ向けられていた。
私は、その反応に少しだけ眉をひそめる。
(……変な反応。何かしら)
いつもなら、もう少し皮肉を言いそうなものなのに。
私は少しだけ首をかしげて、再びスカートの裾に目をやった。
赤紫の染みはそのままだったが、不思議と気にはならなかった。わずかに漂う甘酸っぱい香りが残っていた。
* * *
夕食を終えたあと、私はひとり、寝室の奥にある小さなバルコニーへと出た。
昼間の賑わいが嘘のように、夜の空気は静まり返っている。風にはわずかな冷たさが混じり、肌をなでていった。上空には薄い雲が漂い、その合間に星が滲むように瞬いている。
欄干に両肘をつき、身を預ける。意識しなくても、肩の力が自然と抜けていくのが分かった。
今日の出来事が、次々と思い返されていく。
活気あふれる市場。蜜根芋を頬張って笑う子どもたち。プリンを大事そうに持っていた少女。そして――果汁をこぼしてしまったあの子。
そのすべてを思い出すたび、胸の内に残るのは、不思議な温かさだった。
そして――
黙ってこちらを見つめていた、ノエルの視線。
何かを言いかけて……けれど結局、言葉にはしなかった。その時の彼の表情が、妙に記憶に残っている。
私は、わずかに息を吐いた。
「……帳簿の上で分かったつもりになっていたけれど、実際に見てみるとやっぱり違うものね」
ぽつりとこぼれた言葉は、夜の静けさに吸い込まれていった。
民の生活、政治、経済。どれも“数字”でしかなかったはずのものが、今日という一日で少しだけ、別の形になって心に残っていた。
私たち貴族は、民の上に立ち、導く存在だと教えられてきた。私もそうあるべきだと理解していたつもりだった。
でも、今日初めて、それが“どういうことなのか”を――肌で感じた。
(……この街に来てから、少しずつ価値観が変わってきている気がする)
私は目を閉じる。
耳に届くのは、風の音と、遠くで響く夜鳥の鳴き声だけ。静かなその世界に、胸の奥の小さな温もりが、じんわりと灯っていた。
* * *
――トン、トン。
控えめなノックのあと、部屋の扉が静かに開いた。
「お嬢さま、温かいお茶をお持ちしました」
銀の盆にティーポットとカップを載せたセシリアが、落ち着いた足取りで近づいてくる。
「ありがとう。……ちょうど冷えてきたところだったの」
私は小さな丸椅子を引き寄せ、カップを受け取る。
湯気とともに立ちのぼる香りが、少し張っていた気持ちをやわらげてくれる。カップを両手で包み込むと、それだけで体の芯まで温まるようだった。
セシリアも私の向かいに腰を下ろし、少し間を置いてから、ぽつりと口を開いた。
「お嬢さま……最近、表情がやわらかくなられたように思います」
私はカップに口をつけながら、目を細める。
「そう見える?」
「ええ。こちらに来てから……ずいぶん、生き生きしておられますね」
私はカップを胸元で軽く持ち直しながら、昼間の光景を思い浮かべた。
市場で交わした何気ない会話。街の人々の声。笑顔。甘い香り。ささやかな触れ合い。
「確かに……学園では、本音で話せる相手なんてほとんどいなかったわね」
言葉にした瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
あの場所では、すべてが“家柄”で測られ、“立場”で語られ、“戦略”で動くのが当然だった。誰かに気を許すことすら、ほとんどなかった。
セシリアは静かに頷く。
「この街では――いいえ、レイフィールド家の方針としても、そういったものはあまり意味を持ちません。人は“自分自身”として生きているのです。お嬢さまには、きっと……その空気の方が合っておられるのでしょう」
私は黙ってカップを見下ろした。
「……最初は悔しかったの。負けて、辺境に送られるって」
その言葉に込められたのは、かつての自分を振り返る冷静な視線だった。
「でも――今は違う。ここに来てよかったって、思い始めてる」
静かに告げたその言葉に、セシリアは目を細め、穏やかな声で返す。
「私も、同じ気持ちです」
たったそれだけの言葉が、胸の奥に静かに染み込んだ。
私はもう一度だけ、夜空を見上げ呟く。
「……ここは、居心地がいいわね」
カップを傾けると、あたたかな香りが、静かな夜の空気の中にやさしく広がっていった。




