39話「父と息子」
静かな足音が、古びた木の階段に吸い込まれていく。
昼下がりの屋敷は、いつにも増して静かだった。庭で鳥が鳴く声だけが、かすかに聞こえる。空気は澄んでいて、どこか張り詰めたような気配すらあった。
そんな中、俺は無言で二階への階段を上っていた。
「……久しぶりに、父上とまともに話すかもしれない」
自然と漏れた言葉に、自分でも少し驚いた。声に出した途端、胸の奥に、鈍くざらついたものが広がる。
「私も、結婚式の時以来ね。あれから忙しかったから」
隣を歩くフレデリカが、変わらぬ調子で返してくれる。落ち着いた琥珀色の瞳が、こちらをちらと覗くように見上げていた。
彼女は、感情の読み取りに長けている。こちらが言葉にしなくても、気づかれることが多い。……だからこそ、あまり気取っても意味がない。
「あなたも緊張なんてするのね」
くすっと笑うその声に、思わず苦笑がこぼれる。
「息子と父親の距離感は、難しいもんなんだよ」
そう答えた俺の声は、少しだけ掠れていたかもしれない。
転生してこの世界に生まれてから、父との関係は──良くもなく、悪くもなく。ただ、どこか他人行儀だった。
それは俺が“普通の子ども”ではなかったせいかもしれない。
自分の中にある異質さが、父との間に小さな隔たりを作っていたように思う。あの人が何も言わなかったからこそ、余計に。
罪悪感……というほどのものではない。けれど、距離を詰めるには、ずっと気後れがあった。
それでも父は、俺の話をちゃんと聞いてくれた。
領地をどうしたいとか生意気な理屈を並べても、咎めることはなかった。むしろ「好きにしろ」と、広い意味での自由を与えてくれた。
──勿論、諦めていただけかもしれない。
この領地がどうあがいても変わらないと、そう思っていたからこそ、何も制限しなかったのかもしれない。
でも結果として、俺はその自由に救われた。
……だからこそ、今の俺がいる。そう思うと、何とも言えない気持ちになる。
「病気の父の見舞いをするときに、何を話せばいいかなんて、わからないんだ」
苦笑まじりの本音を吐いた俺に、フレデリカはふと足を止め、小さく首を傾げた。
「だったら、話すことは探さなくてもいいのかもしれないわ」
「……?」
「言葉じゃなくても、きっと伝わることがあるわ。特に、血のつながった親子なら」
それは、どこか実感を伴った響きだった。彼女にも、きっと似たような想いを抱えた過去があるのだろうか。
あえて聞くことはしないが、彼女の静かな強さは、そういう痛みの上に成り立っている気がした。
俺は小さく頷いた。
重いようで軽いような、そんな心持ちのまま、父の部屋の扉の前に立つ。
ノックの音さえ、少しだけ迷いを帯びていた。
* * *
ノックの音が、静まり返った廊下に吸い込まれていく。
「……どうぞ」
少し掠れた声が、中から返ってきた。
俺は扉の取っ手に手をかけ、静かに押し開けた。微かな軋みとともに、空気がゆるやかに変わる。
父──アベル・レイフィールドは、窓辺の椅子に腰掛けていた。
光の射し込む部屋は、思ったよりも整っていた。父の机には数冊の本が積まれ、花瓶には色とりどりの花が挿してある。
父は、以前にも増して痩せて見えた。
白髪の混じる髪と、深く刻まれた目元の皺が、年齢以上の疲れを感じさせる。けれどその姿勢は、意地のように崩れておらず、手にした古びた本は、しっかりと指に挟まれていた。
そして何より、こちらに向けられた眼差しは――穏やかだった。
「やあ……ノエル、久しいな。随分と立派になったか?」
俺を見た父の口元に、静かな笑みが浮かぶ。声はやや弱々しかったが、そこには確かなぬくもりがあった。
――その笑顔を、俺はどれくらいぶりに見ただろうか。
「そんなすぐには変わらないよ。でも……立派かどうかはともかく、領主の責任は、日々感じてる」
努めて自然な調子で返す。けれど、胸の奥が少しきゅっと縮んだような気がした。
ここに至るまでの時間と距離を、無意識に数えてしまったせいかもしれない。
隣に立つフレデリカが、一歩前へ出て、丁寧に頭を下げる。
「改めまして、お義父様。フレデリカです。ご挨拶が遅れてしまって、申し訳ありません」
その姿はいつも通り凛としていて、気品に満ちていた。けれど今日は、どこか柔らかな気配を滲ませていた。
それは彼女なりの、敬意の表し方だったのだろう。
父はゆっくりと目を細めた。
「“嫁殿”か……」
その言葉には、実感を噛み締めるような響きがあった。
「……こんな辺境ですまないね。王都育ちの君には、大変だったろうに」
自嘲混じりのその声は、冗談めいているようでいて、深い後悔を含んでいた。この土地の困難さを、父は誰よりもよく知っている。
そして、どうにもできなかったこともまた、理解している。
だがフレデリカは、少しだけ口元をほころばせて言った。
「いえ。思っていたよりも、ずっと暖かい土地でした」
その言葉に、父の目がわずかに揺れた。驚いたというより――何か、心の隙間に沁み込むような顔だった。
社交辞令としてではなく、彼女の本心がそこに込められていたのを、父も察したのだろう。
「……そうか。それは、良かった」
ぽつりと呟くように、父がそう言った。
父の視線が、再び俺へと戻る。何かを言いかけたような気配があったが、結局そのまま口を閉じた。
俺もまた、言葉を飲み込む。
言いたいことがなかったわけじゃない。ただ、どれから切り出せばいいのか分からなかっただけだ。
静かな沈黙が、部屋に落ちた。それはけっして、居心地の悪いものではなかった。
むしろ、言葉を必要としない時間だった。
* * *
――それを破ったのは、思いがけないほど軽やかな気配だった。
ノックも前触れもなく、扉が勢いよく開く。
「おじいちゃん、きょうのおはな、これー!」
両手いっぱいに花を抱えて、フィーネが飛び込んでくる。その声も、笑顔も、部屋の空気を一気に変えるほどに明るかった。
俺は思わず目を見開いた。
「……フィーネ?」
「んー? あ、おとうさまもいる!」
ぱっとこちらに気づいたフィーネが、小さく手を振る。そのまま迷うことなく、椅子に座る父のもとへと駆け寄っていった。
「今日も来てくれたか……」
驚いたように見開かれていた父の目元が、次第にやわらいでいく。ぎこちなく、けれど確かに笑みが浮かんでいた。
「フィーネ、毎日ありがとう。本当に……ありがたいよ」
「うん! きょうはね、赤と白のまぜまぜー!」
花束を誇らしげに差し出すフィーネは、小柄な体でテキパキと動く。
花瓶の水を替え、茎の長さを丁寧に整えてから、新しい花を活けていく。
椅子に少しよじ登るようにして、その小さな手が慣れた仕草で花の向きを整えている姿は、見ているだけで心が和む。
次第に部屋には、ほのかでやさしい花の香りが広がっていった。
「おじいちゃんのへや、いいにおい〜」
「……ああ。フィーネのおかげで、毎日が明るくなる」
その声は、まるで孫をあやす祖父のようだった。
だが、俺はふと違和感を覚える。
「……毎日?」
「ん? うん。フィーネね、いつもきてるよ? おじいちゃん、よわいから、おはなでげんきにするの」
何気なく告げられたその一言に、俺は思わず父の方を見る。
父は少しだけ視線をそらし、肩をすくめた。
「……ああ。内緒にするつもりはなかったんだが、言いそびれてな。気がついたら……習慣になっていたんだ」
「……そうだったのか」
知らなかった。
フィーネが、そんなふうに誰かを想って動いていたことも。父が、それを拒まずに受け入れていたことも。
俺の隣で、フレデリカが小さく息を呑んだ気配がした。何も言わなかったが、その横顔はどこか、やわらかく綻んでいた。
そのとき、父がふとこちらに向き直る。
その視線には迷いもなく、けれどどこか、遠くを見据えるような静けさが宿っていた。
「……正直なところ、昔はな。亜人なんて忌々しい存在だと思っていたんだ」
静かな口調だった。ただ、素直な“振り返り”のような声音。
「この国の教えが、そうだったからな。血も違えば、言葉も違う。いつか牙をむくものだと……ずっと、そう思い込んでいた」
フィーネは何も知らず、鼻歌まじりに花の位置を整えている。その無垢さが、父の言葉をより静かに沁み込ませていく。
「でも、そんなことはなかった。……無知とは罪なことだな」
そう言った父の横顔は、どこか遠い記憶を手繰っているようだった。
「今は……考えを改めたよ。こんなふうに、心を和ませてくれる存在が傍にいるなんて、思ってもみなかった」
そして、そっと目を細める。
「……ほんとの孫ができたみたいだ。フィーネを見ていると、活力が湧いてくるよ」
俺は、せっせと花を生け続けるフィーネの小さな背を見つめた。
たったひとりの少女の優しさが、人ひとりの価値観を変え、日々の光になっている――
ふと視線を横に向けると、フレデリカと目が合った。
彼女もまた、微笑んでいた。言葉は交わさずとも、その想いは確かに通じていた。
* * *
「できたよー!」
最後の一輪を差し終えると、フィーネは満足そうに花瓶を覗き込み、くるりとこちらを振り返った。
「おみず、いれてくるね!」
ぱたぱたと軽快な足音を響かせながら、あっという間に部屋を出ていく。
その姿が見えなくなった廊下の奥から、遠ざかる鼻歌が微かに聞こえた。
扉が静かに閉じられ、再び部屋に静寂が戻る。
けれど、さっきとは違っていた。張り詰めていたものが緩み、どこかふわりと、やわらかな気配が残っている。
フィーネが活けた花の香りが、ほんのりと空気を染めていた。
「……変わったよ、この館も、領も」
沈黙を破ったのは、父だった。窓の外へと視線を向けながら、懐かしむように言葉を紡ぐ。
「昔は荒れ放題だった。誰も目を向けようとせず、ただ“古くからのやり方”にしがみついていた」
その声音には、懐古と悔いがないまぜになった静かな響きがあった。
「私も……私の父も、ずっとそうだった。変えようとすれば反発を受け、何もしなければ少しずつ壊れていく。わかっていても、どうにもならなかったんだ」
父は椅子の背にもたれ、目を細める。
「……だがお前は、昔から違ったな。十にも満たないうちから、もう“先”を見据えていた。……どうしてそんな風になれたのか、今でも正直よく分からない」
ゆっくりと目を開けると、まっすぐに俺を見る。
「私には、何もできなかった。けれど――お前なら、きっとできる。そう思ってる」
それは祈りにも似た言葉だった。失われた希望を、自分ではなく次に託す、静かな覚悟の表れ。
父の視線が、今度は隣に立つフレデリカへと向けられる。
「嫁殿……君も、来たくてこんな辺境に来たわけではなかっただろう」
フレデリカは、その問いかけに言葉を返さなかった。けれど否定もせず、ただ真っ直ぐに父の目を見返す。
沈黙の中、その意思はしっかりと伝わっていた。
「それでも、こうしてノエルの隣にいてくれる。本当に、ありがたいと思ってるよ」
父は、小さく笑った。
「……こいつは少し照れ屋でな。きっと本人の口から感謝の言葉なんて、そうそう聞けないだろう。けど、ちゃんと感謝してる。……私には分かるよ」
思わず、口を開きかけて……やめた。反論するのも、肯定するのも、なんとなく気恥ずかしくて。俺はただ、小さく息を吐いて、目を伏せた。
父はさらに肩の力を抜いて、ため息まじりに言った。
「嫁殿……ノエルのことを、どうか頼む。昔から夢中になると一直線で、まわりが見えなくなるやつでな。悪気はないんだが」
フレデリカがくすっと微笑んだ。
「ええ……承知しておりますわ」
そして、ゆっくりと膝を折り、まっすぐに頭を下げる。
「この地と、あなたの息子を守れるよう、努めさせていただきます」
その静かな言葉に、父は穏やかに頷いた。
「……ああ。任せたよ」
少し掠れた声だった。だが、その奥にある安堵の色は、はっきりと感じられた。
「もう……私の役目は終わりだ。最近は体も思うように動かんしな。……身勝手で済まないが、あとはお前たちに託す」
静かに、そして自然に語られたその言葉は“時代の継承”だった。
俺は小さく息を吸って、言葉を探すように目を閉じる。
そして――口を開いた。
「……まだまだ、この領を発展させていくつもりだよ」
父が、少しだけ目を見開き、笑ったように目を細める。
「……しっかり見ていてくれ、父上。あなたが守ってきた土地が、どんなふうに生まれ変わっていくのかを」
その声に、父はゆっくりと目を閉じた。
どこか満ち足りたような、静かな微笑が、口元に浮かんでいた。
「ああ……楽しみにしているよ」
しみじみと、噛み締めるようにそう言ったあと、ふっと息を吐く。
「頼りない父ですまなかったな」
その言葉に、俺は少しだけ目を伏せて、穏やかに返す。
「……そんなことないよ」
短く、それだけ。
けれど、それで――通じた気がした。
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