30話「帳簿の嘘と女王の眼①」
朝陽が斜めに差し込む執務室に、静かな緊張が漂っていた。
備蓄台帳の整備がようやく一段落し、次に取りかかるのは「収支帳簿」の整理だった。
領内の物流を数値化する作業の次は、金の流れを洗い出す──それは、領主としての義務であり、責任でもある。
年に一度、中央へ提出する“公式帳簿”。その作成に向けて、過去数年分の財政記録を精査しなければならない。
だが、朝から執務室に呼び出された文官たちは、どこか妙な空気をまとっていた。
「……えっと、それ……全部ご覧になるんですか?」
恐る恐るといった様子で、資料を持ってきた年配の文官が口を開いた。
彼の視線は、机の上に高く積み上げられた帳簿の山に向けられている。その目には、明らかな困惑と気まずさが浮かんでいた。
俺は椅子の背にもたれながら、手元の資料に目を通していたが、しばらくして小さくため息をついた。
「去年も一昨年も、収穫は悪くなかったよな? 石鹸の輸出も伸びてた。……それなのに、歳入が“横ばい”ってことあるか……?」
声は穏やかだったが、疑念は隠せなかった。現場を歩き、数字以上の感触を肌で知っているからこそ、腑に落ちない。
エルミアが記録資料を整理しながら、淡々と答える。
「はい。内部の収支では、作物の出荷量も税収も、明確に増加傾向にあります。ただ……」
彼女は別の帳簿をめくり、中央提出用の記録を開いて俺の前に差し出した。
「こちらをご覧ください。公式帳簿だけ、毎年“前年とほぼ同じ”に近い数字で固定されているようです」
「……固定されてる?」
俺が眉をひそめ、椅子を少し前に引き寄せる。
「歳入も歳出も、年度ごとの増減はせいぜい数千リル程度。明らかに不自然です。それが、少なくとも五年以上も続いていると見られます」
「そんな都合よく、収入と支出が毎年ピッタリ落ち着くわけないだろ……」
リル──この国の通貨単位。価値は日本円とほぼ同等と考えて差し支えない。つまり、数千リルの違いしかないというのは、家計簿で言えば“日用品レベルの誤差”しか見られないということだ。
そんな会話の最中、不意に紙をめくる音が、ひときわ鋭く室内に響いた。
フレデリカだった。彼女は黙ったまま、一冊の帳簿に目を通していた。
ページを次々とめくりながら、やがてぽつりと呟く。
「帳簿が、整いすぎてる。“見せるための数字”──そういう印象を受けるわ」
その言葉に、室内の空気がわずかに緊張を帯びる。
「帳簿が丁寧に書かれているのは、悪いことじゃない。でも……現実に即していなければ、それはただの“装飾”でしかないわ」
彼女は机に帳簿を並べ、指先で滑らせるように目を通していく。
「たとえばこの村。収穫は昨年より増えているのに、納税額は一リルも変わっていない。……これは、偶然じゃない」
俺も、無言で別の帳簿を手に取る。
確かに、どの年度を見ても、数字は“前年並み”で整えられていた。天候が違い、収穫量が違い、人口さえ微増しているのに──まるで氷のように波のない決算書だ。
「……本当に、何かが隠されてるのかもしれないな」
小さな呟きが、静かな室内に落ちる。
フレデリカの手が止まる。彼女の瞳には、静かながら強い光が宿っていた。
それは“追及者”の目だった。次の一手を、確信とともに読み解こうとする者の視線。
整いすぎた帳簿の山に潜む“綻び”を──彼女は、確実に見つけ出そうとしていた。
* * *
フレデリカの指先が、紙の上をすべるたびに、ぱらり、と乾いた音が響いた。
規則的なその音が、なぜだか妙に耳につく。朝の陽が差す穏やかな執務室の空気に、うっすらと冷たい膜が張っていくようだった。
机の上には、過去五年分の「公式帳簿」がずらりと並んでいる。その下には、裏付けとなる村ごとの収穫報告書や、納税記録、内部向けの精算明細。フレデリカは、それらをまるで“答えのあるパズル”を解くかのように、迷いなく照合していく。
彼女の集中力はすさまじい。ただ数字を追っているだけのように見えて、その目は「違和感」を拾い上げる獣のように鋭い。
「……これはおかしいわね」
ぽつりと落ちたその一言に、俺は思わず顔を上げた。
「人口は年々、確実に増えている。出生もあるし、他領からの移民も少なくない。それなのに、帳簿上の歳入は──ほとんど動いていない」
言われて、俺も手元の報告書に目を落とした。確かに、俺たちが進めてきた改革で農業は回復しつつあり、移民の受け入れも順調だった。村によっては、収穫量が過去最高を記録した年もある。
「たとえば、この村──三年前と比べて、収穫が一割以上増えてるはずだよな?」
「ええ。でも、帳簿に記された税収は“前年並み”のまま。まるで定規で引いたかのように、ぴったり一致しているの」
「……ぴったり、か」
俺は思わず口の中で繰り返した。五年間連続で、農業税・輸送税・市の利用料までが±数十リルの範囲で推移している。
リルはこの国の通貨単位で、感覚としては日本円とほぼ同じくらいだ。数百万リル以上の収入がある中で、その変動幅が数十リルって……常識的に考えておかしい。
「普通なら、収穫や人の出入りで多少は上下するもんだろ。……なのに、数字が波打ってない」
その異様さが、じわじわと現実味を帯びてくる。
フレデリカは、さらに数冊の帳簿を開いていく。村別の収支、年別の比較、補助金の移動──手際よくチェックしていくその様は、もはや調査官のようだった。
「おかしいわ。調整のされ方が、あまりにも“上手すぎる”の」
そう言って、彼女は一冊の帳簿を軽く叩いた。
「これは、“数字を整えることで、波風を避けてきた”記録よ」
揃いすぎた数字たちが、急に“作られたもの”に見えてくる。彼女の言葉には確信があった。
「たぶん、“予算化しやすいように”“上から怒られないように”って理由で、歳入を少なめに見せて──歳出も控えめに調整したのね。結果、帳簿は毎年ほぼ同じ額に収束する。これじゃまるで、“仕事を増やさない帳簿”よ」
冷静な語調の奥に、確かな怒りがにじんでいた。
現場の実態を“なかったこと”にするやり方──それが、彼女は許せないのだ。
俺は、喉の奥が少しつまるのを感じながら、ぽつりと呟いた。
「……増えたはずの金が、最初から“無かったこと”にされてたってことか」
「ええ。そして、それを“当たり前”として通してきた。この帳簿の整合性に、誰も疑問を挟まなかったなら……問題は相当に根深いわね」
思わず、父──アベルの姿が脳裏に浮かんだ。
あの人は、書類仕事を極端に嫌っていた。いや──たぶん、“数字”だけじゃない。仕事そのものに、どこかで心を折っていたのだと思う。
書類は文官任せ。異論も監査も、おそらく一度もしていなかった。
あれだけ整った帳簿が何年も提出されていて、何も感じなかったのだとしたら──それはもう、信頼というより“放棄”に近い。
責任者としての務めを、諦めていた。──現実に向き合うことを、どこかでやめてしまっていた。
けれど今、その帳簿の“静かな嘘”を前にして思う。
もしかしたら父は、こうなることを知っていても、もう立ち上がる気力すら残っていなかったのかもしれない。
つまり──誰も、この“整えられた現実”を止めようとしなかった。
今この瞬間、自分が座っているこの席が、過去の積み重ねの上にあることを痛感する。冷たい帳簿の山が、じわりと胸にのしかかってくるようだった。
「……こうなると、話を聞かないとな。帳簿をつけていた張本人に」
俺がそう言うと、フレデリカはすぐに頷いた。
「記録係だったのは、ルーベルトさんね。呼び出してもらえるかしら」
「ああ」と俺は返しながら、立ち上がった。




