3話「精霊の名を持つ少女」
階段を下りるたび、空気がひんやりと変わっていく。地下倉庫の石壁は、昼でも熱を持たず、しんと静まり返っていた。
ランタンの明かりを頼りに奥へ進むと、銀髪の少女は、昨日と同じ布の上で横になっていた。でも、昨日と違うのは──今日は、目を開けている。
気づいていたのかどうかはわからないが、俺が近づくと、その視線がゆっくりこちらに向いた。
「……よ。具合はどうだ?」
返事はない。けれど、目は閉じない。視線をそらすでもなく、じっと俺の動きを追っている。
俺はそっと腰を下ろし、持ってきた布包みを開いた。
昨晩の残り物をパンに挟んだ即席のサンドと、水の入った革袋。消化に良さそうな、やわらかいものを優先した。
皿の上にそっと置くと、彼女の視線がわずかにパンへ動いた気がした。でも、まだ手が上手く動かせなさそうだ。
俺がそっと上半身を支え、パンをちぎって口元に運ぶと──彼女は抵抗なく、口を開けた。そのまま無言で食べ、水も少しずつ口にした。
(……なんだか赤ん坊にご飯を食べさせているみたいだな)
そんなことを思いながらも、俺は黙って見守った。
ひと通り食事が終わったあと、少し考えてから口を開いた。
「お前、名前はあるか?」
少女は瞬きを一度だけして、それから小さく──ほんのかすかに、首を横に振った。
“話したくない”という意思表示かもしれない。でも、“嘘の名前でごまかす”ほどの敵意も感じられない。
「……じゃあ、勝手につけるぞ」
声に出してそう言いながら、俺はもう一度その銀の髪を見つめた。かすかな光を吸って、淡く透けるように揺れている。
「“エルミア”。──そう呼ぶことにする」
少女の表情が、一瞬だけ動いた。驚き? あるいは、意外そうな顔。
すぐに無表情に戻ったが、まぶたがふ、と少しだけ伏せられた。明確な拒否ではない。むしろ、名前を呼ばれるのが久しぶりだったかのような、そんな静かな仕草だった。
「気に入らなかったら、あとで言え。いくらでも変える」
彼女は、そっと目をそらした。けれど、その頬がわずかに緩んだ気がしたのは──きっと、気のせいじゃない。
俺はその沈黙を、“承諾”と受け取ることにした。
* * *
その日から、地下倉庫に通うのが日課になった。
朝は水と簡単な食べ物を。昼は体調に応じて、ポーションや薬草を混ぜたスープを。夜は静かに様子を見るだけの日もあれば、ぽつぽつと独り言のような話をする日もあった。
彼女──エルミアは、ほとんど言葉を発さなかった。けれど、確実に回復はしていた。
数日が経つ頃には、布団の上でゆっくりと上体を起こせるようになり、簡単な食事は自分の手でとれるようにもなっていた。
それでも、沈黙は変わらなかった。質問をしても返事はない。ただ、じっとこちらを見ているだけ。
だが、不思議と居心地の悪さはなかった。
(……こんな無言で、よく耐えられるよな)
心のどこかでそう思う。俺が子供であることも、正体が不明であることも、彼女はすべて理解したうえで──何も言わずにいる。
観察というより、“計っている”目だった。ここが安全か、信じてもいいのか、自分はどうすべきか。
でも俺は、その視線に反発を感じなかった。
「……まあ、言葉がないぶん、気を遣わなくて済むのは助かる。俺のペースでやらせてもらうからな」
そうぼやきながら、今日はランタンの位置を少しずらした。彼女の視線の先が、ほんのり明るくなるように。
毛布をもう一枚足し、床の湿気が上がらないように板を重ね直す。水の取り替え、傷の確認、薬の準備。少しずつ、この地下にも生活感が出てきた気がする。
そんな作業のひとつひとつを、エルミアはただ、じっと見ていた。何も言わずに、ただ、静かに。
* * *
その夜も、俺は地下にいた。
ランタンの明かりが石壁にゆらゆらと揺れている。外では風の音がしていたが、この場所だけは、まるで時間が止まったように静かだった。
エルミアは毛布にくるまり、壁にもたれて座っていた。顔色は良くなっていたが、やはり無言だ。
だから、今日も俺が一方的に喋る番だった。
「昼間、森の南側を見てきた。少し傾斜はあるけど、水は引けそうだ」
農地の話や、木こりの兄ちゃんの愚痴、屋敷のメイドのドジ話。どれも返事なんて期待していない。ただの“音”だった。
「……まあ、こうして喋ってると、自分の頭の整理にもなるしな。お前は、ちょうどいい相手だよ」
冗談めかしてそう言った、そのときだった。
「……なぜ、助けたの?」
ふいに、静かな声が落ちた。
あまりにも自然で、あまりにも突然で──思わず間が空いた。
顔を上げると、エルミアはまっすぐに俺を見ていた。目の奥に、熱も光もない。ただ、まっすぐな問いだけがあった。
「……お前が、倒れてたから」
俺は肩をすくめて、少しだけ笑った。
「理由なんて、それくらいだよ。別に、深く考えてたわけじゃない」
エルミアは何も言わなかった。
けれど、その視線が、わずかに揺れた気がした。
* * *
それからまた、何日かが過ぎた。
エルミアはようやく、自分の足で地下室を歩けるようになっていた。まだ体力は戻りきっていないけれど、顔色はほとんど普通だった。
そんなある日。
俺が薬草をすりつぶしていると、彼女がぽつりとつぶやいた。
「……私は、銀髪のせいで、村でも嫌われていた」
その声は、静かで、どこか遠くのものをなぞるようだった。
銀髪のエルフは忌み子として扱われ、同族の中でも居場所はなかったという。そんな時に人間の軍が村を襲い、森を焼き、彼女はひとり命からがら逃げ出した。
「……故郷の森が焼かれて……逃げて、ひとりになって、それで……」
語尾は濁ったが、すべてを語らずとも、伝わった。彼女がなぜこの森で倒れていたのか、その経緯がようやくひとつに繋がった。
彼女の故郷は、ここから北にずっと離れた場所にあったという。地図にも載っていない、小さなエルフの集落だったらしい。
しかし、ある日突然、人間たちに襲われ、森は焼かれ、家族も仲間も失った。
エルフは本来、森と共に生きる種族だ。狩りも薬草も知っているし、身を隠す術も持っている。実際、彼女もひとりでしばらくは生き延びてきたのだという。
けれど――
「……途中で、魔物に襲われて……そのあとは……記憶が、あいまい」
かすかに震える声。その先は言葉にせずとも想像がつく。
目的地もなく、誰にも頼れず、ただ逃げて、彷徨って、傷つき、倒れた。
この森は、人間の領地の中でもかなりの辺境。彼女のような存在がひとりでここまで来るには、どれほどの時間と苦労があったのか。
俺は口を噤んだまま、そっと彼女のそばに座り込んだ。この沈黙が、彼女にとって負担でないことを願いながら。
「……人間に、恨みはあるか?」
俺の問いに、彼女はかすかに首を振った。
「……私の居場所は、いずれにせよ……どこにも、なかった」
押し殺した声だった。悲しみよりも、空虚さが滲んでいた。俺は静かに息を吐いて、あえて軽く口にした。
「俺は、銀髪、綺麗だと思うけどな」
エルミアの目が、わずかに見開かれた。
「“エルミア”って名前も、そこからとったんだ。おとぎ話に出てくるんだよ」
「雪の日に現れる白銀の精霊が、迷子の子どもを助けてくれるって話。その精霊の名前が確か“エルミア”だった」
エルミアはすぐに視線をそらしたが──その頬が、ほんの少しだけ赤くなったように見えた。たぶん、気のせいじゃない。
「……名前」
エルミアがぽつりとつぶやいた。
「ん? 名前?」
「お前の名前は、何という?」
どうやら、俺の名前を訊いているらしい。
「ああ、俺はノエルだよ」
「ノエル……」
エルミアはその名を、何度か繰り返した。覚えようとするように、口の中でそっと転がしながら。
見た目よりもずっと幼い仕草で、それが少し、可愛らしかった。