28話「机上の理 vs 泥の現実」
軋む音とともに、執務室の扉が閉まった。
この部屋に、“主”として足を踏み入れるのは──今日が初めてだ。
父が使っていた重厚な机。そのずしりとした木の質感には、いまだ彼の気配が色濃く残っている。
けれど、その椅子に腰かけるのも、今日からは俺の役目になる。
「今日から、正式に“領主”として、ここを使うことにした」
口にした言葉に、自分の声がほんの少しだけ引き締まっていたことに気づく。
形式的な継承はすでに済んでいた。父アベルは療養に入り、ここ数か月の政務は、実質的に俺が担ってきた。
だがこうして、自分の意志で椅子に座るとなれば、やはり背筋に来るものがある。
隣の机に視線をやる。そこではエルミアが、既に書類の山を静かに分類していた。
彼女は元は文官ではない。
けれど、父が床に伏せてからは、俺の隣で懸命に支えてくれた。
最初こそ慣れない様子だったが、彼女の吸収力はすさまじかった。記録の整備、調整文の起草、住民とのやりとり──
いまや間違いなく、右腕と呼べる存在になっている。
几帳面な筆跡、無駄のない動き。この執務室をまわしてきた功労者のひとりだ。
「これからは、俺が公印も押すし、責任も持つよ。……フレデリカ、君もまずは自由にやってくれ」
そう声をかけた先、部屋の奥──
新たに設えた3つめの机に、彼女はいた。
フレデリカ。
王都育ちで、知識と論理を備えた“戦う貴族令嬢”だ。
彼女のために用意したのは、使われていなかった予備の文官机を磨き直したもの。
椅子には、長時間の作業にも耐えられるよう薄手のクッションを添えた。
この部屋は、俺と、エルミアと、そして彼女──三人で使う政務の拠点になる。
「……じゃあ、遠慮なく働かせてもらうわね」
彼女は少しだけ目を見開いた後、すぐに静かな笑みを見せた。けれどその瞳には、既に“次の一手”を考える光が宿っている。
机には、布で装丁された分厚いファイルが三冊。帳簿に分類済みの資料束、村単位でまとめられた人口統計の集計紙──
もはや小規模な文官室に匹敵する装備だった。
「……早いな」
思わず漏れた本音に、彼女は書類を整理しながら、涼しい声で返してくる。
「今まで学んできたことを実践で試せるんだもの。やる気が出ない方がおかしいわ」
言葉に刺はない。ただ純粋な熱意と自負があるだけだ。
それが、少し誇らしげに響いた。彼女はこの領地に“貢献すること”を、心から望んでいる。そう思うと、俺は自然と口元をほころばせていた。
──これで三人。
父からの引き継ぎを終え、いまこの小さな執務室が、本当の意味で“動き出す”。
冬が来る前に、やらなければならないことは山ほどある。
これまで通り、現場でなんとかやりくりするだけでも、きっと最低限は凌げるだろう。けれど──
それじゃ足りない。
今まで以上に、効率よく。戦略的に。この領地を、もっと良くしていくために。
今日からは、俺とフレデリカ、そしてエルミア。
三人の手で、この場所を動かしていく。
この執務室が、その“心臓”になるのだ。
* * *
執務室の中央机に、領地の地図を広げた。
羊皮紙の上に墨で描かれた農村、道、川、倉庫の記号──どれも粗く簡素なものだが、いまこの領を動かすすべてがそこにある。
その上に手をかざしながら、俺は静かに口を開いた。
「少し早いが冬の備えを始めよう。今日の議題は、備蓄管理と村の冬越えについてだ」
隣に座っていたフレデリカが、すっと姿勢を正す。机に置かれた分厚い書類の山が、ぱらりと音を立てた。
――やる気満々だな。
思わず心の中で呟く。
「まず優先すべきは、倉庫ごとの備蓄台帳の整備じゃないかしら」
フレデリカは迷いなく言った。すでに自分の手元には、人口分布や家族構成、昨年比の収穫量がまとめられた統計資料が用意されている。
「場所ごとに在庫を登録し、消費と残量を明確に管理するの。配給ルールも必要よ。家族構成に応じて等級制を導入すれば、不公平感なく配れるはず」
その内容は理路整然としていた。けれど、俺は地図の上に指を滑らせながら、即座に首を振った。
「確かに記録は大事だけど──帳簿だけじゃ腹は膨れないよ」
その一言で、フレデリカの眉がわずかに動いた。だが俺は構わず、地図の一角──幹線農道に当たる場所を指さす。
「この農道、去年の収穫期には馬車が三回もぬかるみに沈んだ。あの道が塞がれたら、いくら配るものがあっても届けられない」
そのまま指を滑らせ、村の井戸の位置を示す。
「それに、こことここ。水量が減ってるうえに、去年は凍結もした。水の確保が不安定なままじゃ、配給所を設けても無意味になる」
「それは対症療法よ」
フレデリカがきっぱりと返す。声色は冷静だが、そこにはしっかりと信念があった。
「応急処置を優先してばかりでは、いずれ回らなくなる。根本的な改善のためには、制度の整備が必要よ。読み書きができる住民を補佐役に任命し、役人の二層化を進める。現場に近い記録係を配置すれば、誤配や不正も防げるはずだわ」
「その制度を動かす道がなきゃ、意味がないだろう」
俺も譲らず、少し語気が強くなる。地図を見下ろす目が自然と鋭くなるのが、自分でも分かった。
「物資があっても、届かないなら意味がない。現地の足場を整え、水源を確保することが先決だ。まずは“道”と“水”。それがなければ、どんなルールも絵に描いた餅だよ」
「……その場しのぎで終わる政策は、未来を腐らせるの」
フレデリカも、静かに、しかし強く言い返す。
「ルールが無ければ、混乱と不満を招くだけよ。現場にすべてを委ねてしまえば、声の大きい者だけが得をする。そうなれば、本当に助けが必要な家庭が見落とされてしまうわ」
その指摘は鋭かった。けれど、それでも俺は──現場の“声”を優先したいと考えていた。
どちらも、正しい。だからこそ、かみ合わない。
俺たちは地図を挟んで、真正面から向かい合っていた。語気は冷静のままだが、空気には確かな緊張が張り詰めている。
フレデリカの視線も、俺の視線も──
地図の上ではなく、その先にある“現実”を見ていた。
* * *
意見の応酬が一段落したところで、室内に静けさが落ちた。
けれどそれは、言葉を尽くし終えたからではない。ただ、互いに譲れないものを胸に抱えたまま、次の言葉を探していただけだった。
フレデリカは視線を地図から外し、まっすぐこちらを見ていた。その眼差しは澄んでいて、強い。だが、決して攻撃的ではなかった。
「……私が都で学んだことは、“秩序”の重さよ」
彼女がぽつりと口を開いた。
「人の善意や体力に頼る仕組みは、脆いの。だからこそ、制度で支えるのが“統治”だと教わった。……それは、現場の痛みを見てきたあなたには、机上の理想に思えるかもしれないけれど」
語尾は静かに落ちたが、その奥にあるのは、誇りだった。行政を学園で学び、理論を積み上げてきた自負。そして、それが誰かの命を救えると信じている強さ。
だが、俺もまた──そう簡単には引けなかった。
「……俺は、目の前の子どもが飢えてるのを見たんだ」
低く、けれど言葉を噛みしめるように、俺は応じる。
「凍えた手で硬い芋をかじる子がいて、母親が水汲みに行って倒れた話を聞いた。その時に必要だったのは帳簿じゃなくて、ただの温かい粥だったんだよ」
フレデリカが、目を見開く。
「……それでも、目の前の苦しみに手を伸ばし続ければ、いつか“全体”が崩れるわ」
彼女の声は揺れていた。怒っているのではない。
むしろ、俺の言葉に心を動かされながら、それでも理論を曲げられない自分を叱るような、そんな声だった。
「帳簿も、台帳も、配給制度も──すべては“全員を守る”ための網なの。目の前の一人のためにその網を破れば、今は救えても、いずれもっと多くの人が……」
「分かってる」
遮った俺の声は、思っていたよりも優しかった。
「君が理屈で動いてるなんて思ってないよ。君は本気で、この領地の未来を考えてる。俺だって……そうだ」
ほんの数秒、沈黙が降りた。
静かな、けれど深い“理解”が、そこに流れた気がした。
立場も、育ちも、学んできたものも違う。だからこそ、見えている道筋は交わらない。




