24話「体ではなく心を」
しばらくの沈黙ののち──ようやく、彼女の唇がわずかに動いた。
「……知りたいって、どういう意味ですの?」
その問いかけは静かで穏やかだったが、奥底に潜んでいる警戒は隠しきれていない。
けれど、先ほどまでの張りつめた“覚悟”とは、少し違っていた。
そこには、ほんのわずかに──戸惑いの色が混じっていた。
俺はその視線をまっすぐに受け止めながら、息を整えてから言葉を選ぶ。
「君と、ちゃんと話をしておきたかったんだ。……なし崩しに、結婚したからさ」
その一言に、フレデリカの表情がわずかに揺れた。
視線を伏せ、ひとつ深く息を吐く。そしてまた、ゆっくりとこちらを見つめ返してくる。
「……なるほど? じゃあ、“価値のある夜”というのは?」
まだ棘が残る声音。
けれど、それは攻撃のためのものではなかった。
疑いと、期待と、ほんの少しの希望がないまぜになったような響きだった。
俺はごまかさず、飾らず──ただ、正直に言葉を返す。
「お互いのことを、少しでも知れれば──それだけで、俺にとっては十分価値があると思ってる」
たったそれだけのこと。けれど、今この状況でそれを口にするには、少しばかりの勇気が必要だった。
フレデリカは、わずかに目を見開いた。
「……私は、貴族の──妻としての務めを果たす覚悟でここにいますの。それを、踏みにじるおつもり?」
声は落ち着いていた。だが、その瞳の奥には確かに迷いが見えた。
恐れているというより、今まで信じてきた“正しさ”が揺さぶられている──そんな不安定さ。
「踏みにじるなんて、そんなこと思ってないよ」
俺はそっと首を横に振り、できるだけ優しく続けた。
「君の覚悟を否定する気はない。ただ……俺自身が、まだ戸惑ってるんだ。こうして形式だけが先に進んで、気持ちが追いついてないっていうか……頭じゃ理解してても、身体がついてこない。そんな感覚なんだよ」
こんなふうに打ち明けるのは、情けないかもしれない。でも、これが今の正直な自分だった。
「せめてこの部屋の中では、肩書きや責任じゃなくて──“フレデリカ”というひとりの人間として、ちゃんと向き合いたい。……それに、君には……興味があるんだ」
フレデリカは目を伏せ、しばらく黙っていた。
ただ静かに、膝の上で指を組み直し、細く長い呼吸を繰り返す。
その仕草のひとつひとつが、慎重で、繊細で──まるで、自分自身と対話するかのようだった。
やがて──
ほんのわずかに、彼女の唇がゆるんだ。
それが“笑み”だったのか、“安堵”だったのかは、分からない。
けれど確かにその瞬間、仮面の奥からふっと顔を出した、素の彼女の気配があった。
夜は、まだ深く。
そしてこの会話は、ようやく、始まったばかりだった。
* * *
沈黙のあとに生まれた空気は、さっきまでとは少し違っていた。
張りつめた緊張の糸が、ほんのすこしだけ緩んでいる。
隣に座るフレデリカは依然として姿勢を崩さなかったが、その目元には、先ほどよりもわずかに──やわらかさがにじんでいた。
俺は、ふと口を開く。
「……長旅、大変だったろう? ああ、口調は崩してもらって構わない。ここには俺と君しかいないからさ」
言いながら、彼女の表情を窺う。
この屋敷に来てから、まだほんの数日。初対面、初夜、そしてこの密室――気を張っていないはずがない。
「お気遣い痛み入りますが、私はこのままで構いませんわ。言葉遣いは、そう簡単に崩せるものではありませんので」
凛とした声。さすがは公爵令嬢というべきか。
だが、それでも俺は一歩踏み込んだ。
「……でも俺は、素の君と話してみたい。誰でもない、君自身の言葉でさ。じゃないと相互理解が深まらないだろ?」
一瞬、沈黙が落ちる。彼女は視線を伏せ、わずかに眉を寄せた。
やがて――
「……そこまで言われては、お断りするわけにもいきませんわね。でも――後悔しても知りませんわよ?」
その言葉に俺がうなずくと、フレデリカはわずかに口元をゆるめ、小さく吐息をこぼす。そのまま視線を戻し、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えるわ。馬車の揺れには慣れてるけど……それでも、さすがにちょっと疲れたわね」
語尾が、わずかに鋭く崩れる。
そこにあったのは、さっきまでの“気取った貴族”ではない。
少しだけ尖った、けれど確かに素の彼女の響きだった。
「そうか。王都からだと……二十日近くかかるもんな、この辺境の領地」
「ええ。街道の舗装も整ってないところが多くて……とにかく揺れたわ」
「……道の整備は、目下の課題です」
思わず苦笑してしまう。けれど、そんな他愛のないやり取りこそ──今は、ちょうどいい。
「王都って、どんなところなんだ?」
素直な疑問だった。俺はこの領を出たことがほとんどない。
「……賑やかよ。賢者の塔に、旧王宮の庭園。市場や劇場、それに舞踏会も。夜になっても明かりは絶えない。欲望と虚飾の街、って言えば少し格好がつくかしら」
「それは……ちょっと怖い表現だな。やっぱ、立場上いろいろ見えてたのか?」
「まあ、ね。何も知らなければ“華やかな都”で済んだかもしれないけど。私には、そうは見えなかった」
その一言には、どこかにじむものがあった。
「ノエル様は王都に?」
「一応、夫婦になったんだから“様”はいらないって。……恥ずかしながら、行ったことはないんだ。だから興味はある」
「ふふ……そう。じゃあ今度、旅先として行ってみるといいわ。後ろ暗いところも多いけれど、観光資源には困らない街だから。楽しめると思うわよ?」
私はもう行けないけど、とどこか遠くを見るような口調。
軽やかに見せかけたその言葉の奥に、わずかな諦観がにじんでいた。
でも──ほんの少しずつ、“素”の彼女が顔をのぞかせている。
「君のことも、少しだけ調べさせてもらった。なんでも王都の学園では──灰燼の乙女とまで呼ばれた才女だったそうじゃないか」
「……その2つ名はやめて。炎で全てを灰にしたとか、野蛮すぎるわ。年頃の乙女につける呼び名じゃないでしょう?」
唇を尖らせ、少し不機嫌そうに言う彼女に──俺は初めて、年相応の少女の顔を見た気がした。
「確かに。俺も最初に見たときは、なんて物騒な2つ名だと思ったよ」
自然と笑みがこぼれる。
少しずつ──確実に、距離が近づいている。
──そろそろ、核心に触れてもいいだろうか。
「……君の件、王都での裁判記録も読んだ」
空気が変わった。しんとした沈黙が、部屋の温度すら下げた気がする。
「──あれは、真実なのか?」
フレデリカの指先が、わずかに震えた。
言葉を探すように、けれどその唇はしばらく閉ざされたままだった。
「……聞き方を変えよう」
「この短い時間でも、君と接してみて……正直、記録と一致しないことばかりだった。いや、むしろ記録を読んだ時点で、もう“おかしい”とは思ってた」
長く、深い呼吸ののち。
彼女はようやく口を開く。
「……まさか、聞かれるとは思わなかったわ。ここに来るまで、味方なんてひとりもいなかったのに」
小さく笑って、手にしたグラスを軽く揺らす。琥珀色の液体が照明を受けてきらめいた。
「でも──そうね。お酒の入った妻の戯言として、旦那様に少しだけ愚痴らせてもらおうかしら」
ぽつりと落とされた声は、乾いた静けさを帯びていた。
「全部、身に覚えのないことだったわ」
その声は、氷を擦るように淡々としていた。
「証人も、証拠も……最初から“用意されていた”の。私が何を言っても、誰が何を訴えても、最初から“結論”だけが決まっていた」
俺は静かにうなずいた。
「──不要になったから、捨てられた。都合のいい厄介払いってわけか」
「……ほんと、言い得て妙ね」
「やっぱりな」
あえて軽い調子で言うと、フレデリカが目を見開いた。
「……なによ、その反応」
「あれを読んで、本気で信じる方が難しいよ。うん、俺は信じる。君のことを」
真っ直ぐに、言葉を返す。彼女は──言葉を失ったように、こちらを見つめていた。
「……お酒が入ってるから。これ、ただの世迷い言かもしれないわよ? それでも信じるの?」
わずかに震えたその声音。心のどこかで、まだ信じることを恐れているようだった。
「うん。むしろ、あれが“全部本当”だったとしたら──そっちの方がよっぽど怖い」
「どういう意味?」
「だって、記録通りだったらさ──“嫉妬深くて常識知らずの箱入り娘”、魔力と知能だけは高い、制御不能のじゃじゃ馬が俺の嫁になるってことだろ? それは……さすがに、勘弁だ」
おどけてそう言うと、フレデリカは一瞬ポカンとした顔をして──
ふっと、肩を揺らして笑った。
「ふふ……確かに。想像しただけで、気苦労が絶えなさそうね」
「だろ?」
──笑い合ったのは、これが初めてだった。
ようやく本当の意味で、“ふたりきり”になれた気がした。




