22話「静かなる婚礼の儀」
高い天井に反響するのは、わずかな足音と衣擦れの音だけだった。ひんやりとした空気が広がり、飾り気のない壁と床が、まるで祝福を拒むかのように静まり返っている。
フレデリカが屋敷に到着してから、まだ日も浅い。それなのに、結婚式はもう今日だ。
準備や式次第の確認に追われるなか、彼女とまともに言葉を交わす時間など、ほとんどなかった。
本来ならば、教会で神官を招き、盛大に執り行われるはずの婚姻の儀──
けれど今回は、そんな格式ばった段取りすらない。そもそもこの領に立派な教会などないが。
今朝、王都から派遣された文官と神官が到着し、無表情で帳簿を広げた。証人を前に、確認と記録を機械のように進めていく。
双方が所定の書状に署名を済ませれば──それで終了だ。
ただの形式。
ただの儀式。
感情も思い出にも残らない、“処理”にすぎない。
(……本当に事務的だな)
公爵令嬢と辺境の次期領主。少しは話題性のある組み合わせだ。
だが実際はこの通り、色恋など影も形もなく、国の都合で帳尻合わせをしているだけだった。
フレデリカは今、奥の控え室で侍女たちに囲まれ、着付けを受けている。布の擦れる音と、小声のやりとりだけが、この場にわずかな動きを与えていた。
今日から“妻”になる人間が何を思っているのか──それを知りたいと思う程度には、俺は彼女に関心を持っている。
けれど、その胸の内は相変わらず読み取れない。出会ったときから、感情を匂わせることはほとんどなかった。
(怒るでも、泣くでも、逃げるでもない……本来なら、どれかひとつはあってもおかしくないのに)
それどころか、率先して準備を進めているように見える。気高さか、完全な諦観か──あるいはその両方かもしれない。
この婚姻は、互いの意思によるものではない。俺と彼女を結びつけたのは、ただ一つの勅命だ。
(せめて、見苦しくはしないようにするか)
堂々と受け入れること。悔しさを飲み込み、黙って立つこと。それこそが、他者に未来を決められた者の、ささやかな抵抗だ。
* * *
昼の鐘が遠くで鳴った。
館の大広間に、使用人や領民代表が集まってくる。皆、礼服を整え、厳かな面持ちで席へと着いた。
壇の中央には、王都から派遣されたルミナ教の神官が立っている。白衣に銀糸の刺繍をまとい、声はよく通るが、表情に祝意はない。
ルミナ教──このグランゼル聖王国の国教である。かつてこの国を興したといわれる聖女ルミナを女神として崇める宗教だ。
「本日ここに──レイフィールド領主家嫡子、ノエル・レイフィールド殿と、ホーエンヴォルン公爵家ご令嬢、フレデリカ・フォン・ホーエンヴォルン嬢との婚姻を、女神ルミナの名のもとに記録いたします」
淡々とした口調。
まるで事務文をそのまま読み上げているかのような調子だった。
続けて、神官はルミナ教の基本的な教義を紹介する。
“隣人を愛せ”
“暴力を憎め”
“命は神の授かりものである”
“神の恩寵は知性ある者に等しく与えられる”──
ただし、ここで言う“知性ある者”とは、人間種──ヒューマンに限定されているのが、今のこの国における“解釈”だ。
もちろん、「いやいや、亜人にも知性はあるはず」と思うのが自然だが──それを口にした瞬間、異端者として槍玉に挙げられるのは目に見えている。
(宗教なんて、どこも似たようなものだな。)
そう考えているうちに、扉が静かに開いた。場が一瞬で静まり返る。──花嫁の登場だ。
使用人も、領民代表も、王都から派遣されてきた面々でさえも、息を呑んで彼女を見つめた。
その反応は、当然のものだった。
白を基調としたドレスは、控えめな装飾ながら纏う者の存在感によって自然と威厳を帯びている。
高く結い上げられた深紅の髪は、差し込む陽光を受けて宝石のように煌めいていた。
その鮮やかな紅と柔らかな白とのコントラストは、まるで絵画の一幕のようだ。
(……まるで彫像だ。完璧すぎて、少し怖い)
フレデリカはゆっくりと壇上を進む。
堂々とした歩みで俺の隣へ立ち、視線を逸らさず、背筋もまっすぐに。まるで“見られること”に慣れている、そんな仕草であった。
やがて、神官の合図で、互いに向き合う。
用意されたのは、レイフィールド家の家紋を縫い込んだ細い紐だった。
金麦輪に銀盾──麦で編まれた輪の中心に盾の意匠を重ねた図案。この地の“繁栄”と“守護”を意味するという。
古くからの貴族間の慣習に則り、その家紋の紐を妻となる者の左手首に結びつけることで、「縁を結び、その家に入る」とされていた。
「この結びに、誓いを込めて」
神官の声に従い、俺はフレデリカの手首にそっと紐を巻きつける。
……肌に触れているのに、まるで何も感じていないかのようだった。ただ、その瞳がふとこちらを見た。その一瞬、視線が交錯する。
しかし、その瞳は──やはり、何も語らなかった。
神官が静かに問いかける。
「互いに、婚姻の誓いを受け入れるか?」
短い沈黙ののち──
「……誓います」
「誓います」
俺とフレデリカの声が、静かに重なった。
そして神官が締めくくる。
「これにてこの婚姻は記録され、女神ルミナと王命のもとに保護されることを、ここに誓約いたします。──祝福あれ」
拍手はなかった。けれど誰ひとりとして動かず、真剣な面持ちでそれを見届けていた。
直後、文官がフレデリカのもとへと歩み寄る。手にした箱を開けながら、恭しく述べた。
「ホーエンヴォルン公爵閣下より、ご令嬢へのご結婚祝いとして贈られた品です」
箱の中には、信じられないほど精緻な細工の施された宝石の髪飾り。一目見ただけで分かる。恐ろしく高価な品だった。
(……なるほど。立ち会えないかわりに、精一杯の意思表示というわけか)
きっとフレデリカの父にとっても、この婚姻は本意でなかったのだろう。
その髪飾りを見たフレデリカの表情が一瞬だけ――歪んだような気がした。
「これにて婚姻の儀は閉幕とする」
神官の宣言とともに、場の空気がふっと緩む。
だが、式はこれで終わりではなかった。
控えていた文官が静かに前に出て、書状を開く。
「続いて、王都の許可をもって、アベル・レイフィールド殿よりノエル・レイフィールド殿への領主継承が執り行われます」
父の名が読み上げられた瞬間、場が一瞬ざわつく。
俺は一歩前へと出て、文官の差し出した書状に静かに署名した。
父の体調が思わしくないことは、以前から伝えられていた。そして今日、この場で俺に領主職が正式に継承されることも。
本来であれば、別日により正式な形式で執り行われるはずだったが──
王都から文官が来ているこの機会を逃すまいと、急遽“同時進行”となったのだ。
またひとつ、背負うものが増えた。
その重みを、確かに意識しながら、俺は静かに頭を垂れる。隣のフレデリカも、その流れをすでに知っていたのだろう。微動だにせず、落ち着いた様子だった。
──こうして。
誰に祝福されたわけでもない、政略と処理の婚姻式は、粛々と幕を閉じた。
* * *
式が終わると同時に、王都から来ていた文官と神官は、挨拶もそこそこに、そそくさと帰っていった。
まるで「こんな辺境には一秒たりとも居たくない」とでも言いたげな足取りで。
そしてその背を見送った瞬間、会場の空気はほんの少しだけ和らいだ。深く息をつく音が、あちこちで聞こえる。
続いて始まったのは、立食形式の簡素な祝宴。
料理は領内で用意できる限りの上等な品を揃えたつもりだが、きっと王都のそれには遠く及ばない。
酒も控えめで、花も少なく、楽団の代わりに農民の青年たちが用意した小さな楽器が奏でる調べが流れていた。
けれど──この田舎で、短い準備期間のなかでは、上出来な方だ。少なくとも、新たな領主の結婚を祝おうとする気持ちは、ちゃんとあるのだから。
主役の俺とフレデリカは壇上の椅子に並び座る。周囲との距離はある。
ようやく会話の機会が訪れた。
「……あらためまして、ノエル様。式、お疲れさまでした」
「ああ。そっちも……正直、もっと怒ってるとか、そんなふうに思ってたよ」
俺がそう言うと、彼女はほんのわずかに目を細めた。それは“笑った”というよりも、皮肉混じりの表情に近かった。
「……怒っても、泣いても、王命が覆るわけではありませんから」
「それでも、我慢できなかったら叫んでもいいと思うけどな。俺だったら、たぶん叫んで暴れてる」
「まあ、それは男性の方が……そういう意味では、素直ですものね」
くすっ、と控えめな笑い声が漏れた。ほんの一瞬だが、それは“仮面”ではない、素の彼女に近いような気がした。
それで、少しだけ肩の力が抜ける。
「……巻き込んでしまったこと、申し訳なく思っています」
不意に、フレデリカが目を伏せた。どこまでも気高く冷静だった彼女が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「本来なら、縁もゆかりもない貴家に、こうして押しかけること──本意では、ありませんでした」
「……知ってるさ。王命ってのは、当事者の意志なんて踏みにじるためにあるんだろうし。特にうちは辺境だから、中央に振り回されるのはもう慣れっこでね」
「……それは、その……なんといえばいいか」
短い沈黙が落ちた。けれど、不思議と気まずさはなかった。
ふと、彼女が視線を窓の外に移す。陽が傾きかけた庭園には、遠巻きに立つ兵や使用人たちの姿が見える。
「けれど、こうして“形”ができてしまえば……もう、戻れませんわね」
「そうだな。──でも、中身はこれから作っていける。そう思いたいけど」
その言葉に、フレデリカは一瞬、目を見開いた。何かを言いかけて、けれど、結局は言葉にならないまま、そっと首を横に振った。
「……甘いですわね、ノエル様は」
「かもな。でも、甘くなきゃ、こんな理不尽には付き合ってられないだろ?」
その一言に、彼女は小さく笑った。
* * *
宴が終わり、夜の静けさが屋敷を包む。
自室へ戻ったあと、服を着替え、俺は廊下を歩いた。向かう先は、フレデリカの部屋。
──結婚初夜。
この国でも意味は同じだ。夫婦として夜を共にし、儀式を終える日。
逃げ道がないことは分かっていた。だが――中身を“どうするか”は俺が決められる。
短く息を整え、木の扉へと手を伸ばす。静かにノックを打った。




