20話「誇りこそが、我が剣(side:フレデリカ)」
(side:フレデリカ)
──それは、“断罪の儀”から三日後のことだった。
王都の北端にそびえる白亜の王城。その隣に連なる、格式高きホーエンヴォルン公爵家の邸宅。
その執務室に、一通の勅命が静かに届けられた。
「……辺境の次期領主、ノエル・レイフィールドとの婚姻を命ずる、だと?」
低く唸るような声で書状を読み上げたのは、ギルベルト・フォン・ホーエンヴォルン。
“炎の戦斧”と恐れられた歴戦の将であり、そしてフレデリカの父でもある。
その豪胆さで王国を支えてきた男の顔が、怒りに染まっていた。
「くだらん罪状だけでも我慢ならぬというのに……これは、まるで奴隷の売買だ!」
机を叩いた拳の衝撃で、厚い天板がわずかに軋む。家臣たちは顔を引き締め、フレデリカの弟たちは騎士剣に手をかけた。
「王家は教会の顔色を窺ったな……!」
「姉上を貶めた報い、刃で返して然るべきです!」
「兵を動かしましょう。王都の守りは薄い、奇襲なら勝機はある!」
怒りと忠誠が入り混じったその場は、まさに“決起”の空気に満ちていた。
──だが、その熱を断ち切ったのは、当の本人だった。
執務室の片隅。沈黙を守っていたフレデリカが、音もなく立ち上がる。
騒然とする空気に動じることなく、ゆっくりと父の前へと歩み出る。
「おやめください、父上」
静かな声だった。だが、その一言だけで、空気が凍った。
凛とした声音は、燃え上がる怒りをたった一息で鎮める“冷気”のようだった。
「名門ホーエンヴォルン家を、このような形で終わらせるおつもりですか?」
ギルベルト公爵が目を見開く。
「だが、フレデリカ……これは明らかな侮辱だ。王家は我らを見下している!」
「ええ、ええ。理不尽で、侮辱的で、到底受け入れがたいものです」
それでも、フレデリカは首を横に振った。
「けれど──これは“私ひとりを斬ることで、家全体の破滅を避ける”という選択肢。王家のなかでは、最低限の“情け”ですわ」
まるで他人事のように、淡々と。けれど、その瞳には、一切の諦めも揺らぎもなかった。
「この程度のことで、国家を割る気ですか?」
重苦しい沈黙。
父も、弟たちも、次の言葉を出せなかった。
「私が、耐えれば済むことです。……貴族とは、そういう生き物ではありませんか?」
その言葉は、ただの達観ではない。フレデリカの中で、長く、深く、積み上げられてきた“覚悟”そのものだった。
「私は女。弟や妹たちがいて、家が存続するなら──“捨て駒”で構わない」
笑っていた。
けれど、その笑みには、怒りも悲しみも含まれていない。ただ一つ、“矜持”という名の強さだけが宿っていた。
家臣たちの視線が揺れる。弟たちは唇を噛み、拳を震わせながらも、反論の言葉を見つけられない。
「どうか、早まらないでください。お父様」
静かに一礼し、フレデリカは背を向けた。
涙を流すでも、剣を取るでもない。ただ、ホーエンヴォルン家の長女としての責務を、その背中に宿し──
黙然と、執務室を後にした。
その足音は、軽やかでも重くもない。ただ、“覚悟”の重さだけが、音になって響いていた。
* * *
──場面は、再び、揺れる馬車の中へ。
傾斜が変わったのは、つい先ほどのことだった。
舗装のない土の街道から、いつしか石畳へと変わり、車輪の軋みも、わずかに軽やかさを取り戻している。
それはすなわち、旅路の終わりが近いということ。
窓の外には、ちらほらと木造の家々が見えはじめる。
遠くには羊を放つ牧草地、その奥に、風に揺れる塔の影。
灰色の空は依然として低く重たいが、その下に広がる風景には、確かな生活の息吹があった。
(……もうじき、着くのね)
その事実が、はっきりと胸を打つ。
けれど同時に──別の実感は、まだ遠いままだった。
(会ったこともない男の、妻になる……)
思考の端に浮かびあがった言葉は、あまりに唐突で、どこか滑稽ですらある。
現実味がない。
どこかの誰かが書いた物語の登場人物になったような気さえしていた。
(どんな人なのかしら……。剣ばかり振り回す荒くれ者? 無愛想な学者? それとも──)
視線を落とす。膝の上には、分厚い書簡の束。
レイフィールド領の政治、経済、地理、作物、住民構成──
これまで何度も繰り返し読み返し、今やページの角は擦れて丸くなっていた。
(……数年前までは、ただの寂れた辺境地)
それが今では、王都の一部では“注目の領”として語られている。貴族たちが集うサロンでも話題になっていた。
(“レイフィールド印の石鹸”──)
香りが良く、肌に優しいと評判の品。王都の商人が買い占めに走り、ついには模倣品まで出回ったほどの人気ぶりだ。
(まさか、その開発者が、私の“夫”になる人だなんて)
ノエル・レイフィールド。
十七歳。若くして領地改革を成功させたと話題の貴族。商才もあるが、付きまとう悪い噂も少なくない。
(“亜人ばかり重用する変人”──だったかしら)
口元に影が差す。
人間と亜人との溝はいまだ深い。わざわざ波風を立てるような真似をしてまで、何を得たいのか──それとも、何か信念でもあるのか。
(……せめて、“話の通じる相手”だといいのだけれど)
その時だった。馬車の窓に、やわらかな光が差し込んだ。
「……っ」
開けた丘の向こう、一面に広がる藤色の花畑。
アレンカ──香料や薬草として重宝される、新たなレイフィールド領の特産品。
なだらかな丘陵地に広がるその景色は、灰色の空の下でさえ、まるで夢のように輝いて見えた。
風に揺れるたび、ほのかな香りが馬車の中にまで届く。
「……綺麗」
思わず漏れたその感想は、飾り気のない、本心からのものだった。
資料にあった“整然とした水路と畑の景観”──なるほど、これはただの田舎ではない。
確かに、手が入っている。統治の意志を感じる土地だ。
ガタン、と馬車が小さく跳ねた。
フレデリカは背筋を伸ばし、ゆっくりと目を閉じる。そして、ひとつだけ深く、息を吸って、吐いた。
「私に残されたものは、誇りだけ──」
その言葉は、小さく、しかし確かな響きを持って、馬車の空間に溶けていく。
「ならば、どのような場所であっても。どのような相手であっても……恥じぬ生き方を」
これは逃げではない。
誰かに強いられたのではない。
選び取ったのだ、自分の意志で。
フレデリカ・フォン・ホーエンヴォルン。
かつて“王子の婚約者”であり、いまや“辺境の令嬢”として売られる身。
けれどその眼差しには、ひとかけらの曇りもない。
少女は今、ただその誇りを胸に──
知らぬ地での、新たな人生を迎えようとしていた。
* * *
──ぎしり、と。
乾いた音が、馬車の車輪から立ち上った。それは、長い旅路の果てに鳴る“到着”の音。静かな幕開けの合図だった。
車体がかすかに揺れ、そして──止まる。
御者のくぐもった声が、木張りの壁を通して届く。
「……着きましたぞ」
フレデリカはすぐには返事をせず、ひとつ深く、呼吸を整えた。
無意識に、手が膝の上で握られている。解いて、また握る。
心臓が、脈を打っていた。
こんなにも静かな空間で、自分の鼓動だけがひときわ強く、耳の奥で響いていた。
窓の外に目を向ける。
灰色一色だった空は、いつの間にか薄く金色を帯びていた。雲の切れ間から、午後の光が斜めに差し込み、大地の輪郭をやわらかく照らしている。
その光のなか──馬車の前に、一人の男が立っていた。
その背後には、何人かの使用人らしき者たちの姿も見える。
──長身。
泥にまみれた作業着、肩にかけた道具袋。
黒い髪は風にあおられ、無造作に揺れていた。
およそ、貴族の装いとは程遠い。
貴族の令嬢を迎えに来た者の姿としては、あまりに粗野で無骨。隣のセシリアが「ありえません」と言わんばかりに眉をひそめたのも、無理はない。
──だが、その“目”だけは違っていた。
彼は、まっすぐにこちらを見ていた。飾らず、逸らさず。値踏みでも、媚びでも、拒絶でもない。ただ、静かに、真正面から。
王都で出会った、あらゆる者たちとは違う。
公爵令嬢として、虚飾と打算に満ちた視線ばかりを見てきたフレデリカにとって──
その目は、あまりにも異質だった。
──それなのに、懐かしいような温もりを感じた。不思議と、目が離せなかった。
まだ言葉も交わしていないのに。まだ名乗りすら受けていないのに。それでも、その目の奥には、諦めを知らない“光”が確かに宿っていた。
(……あれが、ノエル・レイフィールド)
旅のあいだ、幾度となく読み返した文書に記された名。
冷たい紙の上の文字列だったその名が──ようやく、“ひとりの人間”として脳裏に立ち上がる。
御者が馬車の扉に手をかける音がした。金具がかすかに軋む。
その音に合わせるように、胸の奥で、またひとつ脈が跳ねた。
まるで世界が、静かに、しかし確かに──動き出すかのように。
扉が、開かれる。
フレデリカは、ゆっくりと立ち上がる。
スカートの裾を整え、背筋を伸ばし、扉の向こうへと一歩を踏み出した。
靴の先に泥が跳ねた。
だが、もう気にならなかった。
この一歩は、自身の意志で選んだもの。
フレデリカは、誰にも聞こえぬよう、小さく呟く。
「──血ではなく、意志が我らをホーエンヴォルンたらしめる」
それは、ホーエンヴォルン家に生まれた者にだけ許された、矜持の言葉。
運命を選べぬ者の誓いではなく、運命に“立ち向かう者”の誓い。
風が吹いた。
藤色の花の香り──アレンカの香りが、そっと鼻をくすぐる。
そうして王都を追放された令嬢は、馬車から光の中へ──降り立った。




