15話「エルミア回想① 白き花は、炎のなかで」
――エルミア視点
視察団が帰った夜。ノエル様と話した後、私は過去のことを思い出していました。
* * *
私が生まれた村は、小さな谷間に咲いた、静かな花園でした。
澄んだ水音。葉擦れのささやき。枝の上からこぼれる陽光と、穏やかな笑い声。
私たち〈エルフ〉は、森の奥で自然とともに、慎ましく暮らしていました。
基本的に狩りをすることはなく、木の実や果実を摘み、必要な分だけいただく。
畑も作っていました。
といっても人間のように大地を耕すのではなく、風と土と月の流れに寄り添うように――
草花や薬草、果菜類を自然のリズムにあわせて育てていく、まるで“森の庭”のような畑でした。
森の精霊に祈りを捧げ、風の気配に耳を澄ませ、季節の移ろいとともに目覚め、眠る。争いも奪い合いもなく、ただ静かに、森の時間とともに生きていく。
けれど、その理想の花園の片隅で、私は“咲くこと”を許されていませんでした。
生まれつき、私は他の子たちとは違っていました。
髪は銀に近く、肌は雪のように白い。瞳は、紫の光を宿していると恐れられました。私は“呪われた忌子”とされたのです。
「名を与えてはならぬ」
「近づけば災いが降る」
「視線を交わすだけで、厄がうつる」
そんな言葉を、陰から幾度となく浴びせられてきました。子どもたちが名前を呼び合い、畑の手伝いをし、歌を歌っている声を、私は木の影から見つめていました。
私に与えられたのは、エルフの古い言葉で「無名」を意味する蔑称だけ。誰かであることすら、村の中では許されていなかったのです。
けれど――それでも私には、たったひとり、味方がいました。
母です。
母だけが、私を恐れず、抱きしめ、そして語りかけてくれました。
夜になると、ふたりだけの小さな寝床で、母は優しく髪を梳きながら、たくさんのことを教えてくれました。
花の名前。薬草の効能。土の見分け方。雨の匂いでわかる気候の移り変わり。
さらに、言葉の意味、精霊への祈り方、エルフの昔話や歌。
――私がこの世界について知っていることは、すべて、母から教わったことです。
「お前は、この森に咲いた、たったひとつの白い花よ」
「人と違うからこそ、美しいの。……それを恥じてはいけないわ」
母のその言葉だけが、私を私としてつなぎとめてくれていました。
私は村の誰からも拒まれていたけれど、母の声と、歌と、ぬくもりがあれば、それでよかった。
――だからこそ。
あの村が、やがて炎に包まれ、二度と戻れない場所になるなんて。そのときの私は、そんな未来を想像することすらできなかったのです。
* * *
それは、春と夏のあいだ――森が最もよく香る季節のことでした。
木の葉の隙間から差す光が、湖面のように揺れる午後。私たちの村の境界に、異質な気配が流れ込んできたのです。
それは、〈人間種〉の一団でした。
よれよれの衣服。擦り切れた靴。背負う袋は空っぽで、足取りはよろよろと、今にも倒れそうでした。男がひとり、先頭で手を挙げ、倒れこむように地面に膝をつきます。
「……お願いです。どうか……どうか、命だけは……」
掠れた声で、泣くように、縋るように。
「子どもがいるんです。女もいます。食べ物はもう何も残っていないんです……」
「森に迷い込んだのは、意図的じゃない……魔物に追われて……ここしか……!」
その場にいた者たちは、皆一様に息を呑みました。私も、森の端の木陰から、その光景を見ていました。
エルフの長老たちは、冷静でした。
幾人かが杖を構え、魔力の波がひそやかに地を満たす。人間という種が、私たちにとって何をもたらしてきたか。それは言うまでもありません。
長老のひとりが、静かに口を開きました。
「この森は、異種の者の立ち入りを許していない。そなたらが誰であろうと、立ち去れ」
けれど、その言葉に、人間の男は必死に額を地に擦りつけました。そのまま崩れ落ちそうな体で、呻くように叫びます。
「――分かってます……でも、それでも、お願いです……! こんな形で……子どもを死なせたくない……!」
泣き声が、森に吸い込まれていくようでした。
その後ろでは、痩せ細った子どもが、小さな手で母親の服を握り、何も言えずにこちらを見ていました。
母親らしき女性もまた、膝をついていました。背筋を伸ばし、懸命に涙をこらえながら。
「あなた方がどれだけ私たちを恐れているかは、わかっています。けれど――私は、どうしても、我が子を失いたくないんです」
その声は、まるで風のない湖面に落ちた小石のように、静かに広がっていきました。
やがて、長老のひとりが、眉をひそめながら言いました。
「……どう思う、セリア。これは、試されているのかもしれん」
呼ばれた名前は、私の母のものです。母は長老の娘でした。母は少しのあいだ目を閉じ、それから、静かに答えました。
「恐れと怒りが生むものは、争いだけです。助けることで得られるものが、少しでも残るのなら――私は、手を差し伸べたい」
その言葉をきっかけに、空気が変わりました。
畑でとれた果実や、備蓄していた穀類を、魔力で長持ちさせて渡すことになり、疲弊しきった人間たちには回復の術も施されました。
エルフの魔力は、人間にとっては馴染みにくいものです。
けれどその日ばかりは、拒絶も痛みもなく、ただ――誰かを助けたいという思いだけが流れていたように思えました。
そのあいだ、私はひとり、木の影からその様子を見ていました。
母は、以前こう言っていたのです。
「人間だって同じよ。血も涙もある、私たちと同じ命なの」
けれど私は、正直に言えば、怖かった。彼らの持つ力が、どれほど鋭く、世界を壊していくのか――知識としてしか知らなかったから。
けれど、その人たちは違っていました。
差し出された果実に、両手を震わせながら感謝する姿。ひと口食べて、ぽろぽろと涙を流す子どもたち。何度も、何度も、深く頭を下げていく親たち。
「……いつか、必ず、恩を返します」
「こんな場所があるなんて……ありがとう……ありがとう……」
その声は、嘘偽りのない、本当の感謝に満ちていました。誰かの命が助かったときの、あたたかく、痛切な、祈るような感情。
あれを、忘れることはできません。
人間たちは、回復と休息を得たあと、村の者に案内されて、森の外れまで静かに去っていきました。
何も壊さず、何も奪わず、静かに――まるで、夢のように。
けれど。
その夢は、やがて地獄の前触れだったのだと、私は後になって知ることになるのです。
あのとき、本当に救った命があったと信じたからこそ――
私たちは、疑わなかったのです。
“裏切られる”かもしれないということを。
* * *
それは、人間たちが去り、その記憶がようやく村から薄れかけたころのことでした。
村の広場では焚き火の支度が進み、どこからともなく、夕餉の香ばしい匂いが漂っていました。
そんな穏やかな時間帯――私は、村の奥の森にひとりで足を踏み入れていました。
表向きの理由は、「薪を拾いに行く」ことでした。けれど、本当はただ、誰にも会いたくなかったのです。
また、あの子たちに「無名」と囁かれたから。また、大人たちの目が、私を見ようとせず、するりと逸れていったから。
村の暮らしの中に、私はいないものとして扱われていました。だから私は、なるべく気配を消して過ごす術を、いつの間にか覚えてしまっていたのです。
唯一、母だけが、私を抱きしめてくれる。そのぬくもりだけを心の支えに、私は今日も森を歩いていました。
木々の隙間から差し込む夕陽は、柔らかな金色に染まり、風が葉を揺らして、小さなざわめきを奏でていました。
その時間だけが、胸の痛みを和らげてくれるような気がしたのです。
――けれど、その静けさは、あまりにも唐突に破られました。
焦げたような、乾いた匂いが鼻をつきました。風が変わったのです。森の奥から、黒く重たい気配が押し寄せてきました。
私は顔を上げました。
空が――村の方向の空が、赤く染まっていました。
陽が沈むにはまだ早すぎます。その赤は、あまりにも不自然で、不吉な色をしていました。
そして次の瞬間、森全体を揺らすような怒声が響き渡りました。
「亜人どもを焼き払え!」
私は、その場に立ちすくみました。
村から、炎の柱が上がっていました。
爆ぜる音。軋む木々。耳慣れたはずの声が、次々と悲鳴に変わっていくのを――私は、確かに聞いたのです。
気がつけば、私は走っていました。
夢中で森を駆け抜け、枝に腕を裂かれても、足がもつれて転びそうになっても、ただ、母のもとへと戻ろうとしていました。
けれど、間に合いませんでした。
母はすでに、血に染まった姿で、村の外れの小道に現れていました。服は焦げ、背中には深く裂けた傷がありました。
「……無事で……よかった……」
母は、かすれた声でそう言い、私を見て微笑みました。痛みをごまかすように、それでも優しく、安堵を滲ませた笑みでした。
私は駆け寄って、母の腕を取りました。
「逃げよう……いっしょに……!」
そう叫んだつもりでしたが、声が詰まって、上手く出てこなかった気がします。
それでも、母は私を見つめながら、首を横に振りました。
ゆっくりと、何度も、何度も。
「……私は、ここまで……。でも、あなたは……生きて……。ちゃんと、生きて……」
「……いやだ……いやだよ……!」
涙が、熱く頬を伝いました。
それでも、母の顔は穏やかでした。痛みを押し殺したわけではなく、ただ、私を想うまなざしだけがそこにありました。
「……あなたは、私の……白い花。いつか、咲いて……。それが……私の願いだから……」
その声は、もうほとんど掠れていました。
私は、母の手を、最後まで離せませんでした。
それがもう動かないとわかっていても、ずっと、握っていました。
けれど。
空は赤く染まり、風は熱を帯び、村からの叫び声がすぐ近くに迫っていました。
私は、歯を食いしばって立ち上がりました。
そして――誰もいない森へ、ひとりで駆け出しました。
涙で視界が滲んでも、足が震えても、母が「生きて」と願ったから。
私は、その願いだけを胸に抱いて、走り続けたのです。
* * *
森を、私は彷徨っていました。
あの夜――母を失い、村を焼かれてからというもの、私はただ、生きるためだけに歩いていたのです。
どこへ向かえばいいのかもわかりませんでした。
けれど、戻れる場所も、頼れる誰かも、もういないことだけは、痛いほどに理解していました。
森は、美しく、そして残酷でした。
木漏れ日が揺れ、花が咲き、鳥がさえずるその場所で、私はひとり、生き延びることに必死でした。
水は澄んでいても、飲める小川はそう多くなく、実をつける木も、見極めを誤れば毒に侵されて命を落とします。
私は、小さな果実を慎重に選び、葉にたまった雨水をすくって啜り、木の根元や岩陰に身を潜めて夜を越えていました。
衣服はいつしか泥にまみれ、裾は破れ、足は棘や石で傷だらけになりました。
鋭い枝で裂けた腕には、いつの間にか黒く乾いた瘡蓋ができていて、剥がせば痛みが走りました。
夜になると、森は別の顔を見せます。獣の遠吠え、魔物の気配、風にのって届く名も知れぬ羽音――
私は何度も耳を塞ぎ、目を閉じて、ただ朝が来るのを願って震えていました。
ひとりで眠る夜は、想像していた以上に、怖くて、寒くて、寂しくて――
気がつけば、いつも同じ夢を見ていました。
炎に包まれた村。
血に濡れた母の背。
掠れた声で、私に「生きて」と願った最後の言葉。
忘れようとしても、忘れられませんでした。
忘れたくないとも思っていました。
でも、どうしても、あの夜の赤が、今も視界に焼きついて離れません。
やっぱり、人間を信じてはいけなかったのでしょうか。あれは、私たちが間違っていたのですか。
――いいえ、母は、違うと教えてくれました。
「人間も、私たちと同じ。血が通い、涙を流す、命なのよ」
そう微笑んでいた母の声を、私は何度も心の中で反芻していました。
けれど、あの裏切りの炎が、その言葉を打ち消そうとするのです。
私は、その答えを見つけられないまま、時間だけが、静かに過ぎていきました。
魔力にも、限界がありました。
小さな結界を張って、夜のうちだけでも魔物から身を守る。擦り傷に癒しの術を使い、少しでも動けるようにする。
でも――食べるものも、眠る場所も満足にない中での魔力の行使は、まるで自分の命を削っているような感覚でした。
身体が、冷えと飢えで徐々に重くなっていくのがわかりました。手先は震え、足も思うように動かなくなってきていました。
そんなある日、私はいつもより少し深く、森の奥へ入りすぎてしまったのです。
果実の匂いがした気がした――ただ、それだけでした。
それが、どれほど愚かな選択だったかは、すぐに思い知ることになります。
「……ッ!」
草むらの奥で、何かが蠢いたと思った、その直後でした。
黒い塊のような魔物が、ぬるりと姿を現しました。
毛もなく、赤黒い皮膚に覆われたそれは、唸るような気配を纏い、牙をむき出しにしてこちらを睨んでいました。
名前も知らない、森に棲む“それ”。魔力の匂いに反応して、私を獲物と見なしたことは、一瞬でわかりました。
私は、走りました。
振り返る余裕もありませんでした。木々の間をすり抜け、足を取られながら、必死に逃げました。
死にたくない――
それだけが、頭の中を支配していました。
けれど、足元はもう限界でした。
魔力はとうに底をつき、身体は飢えと疲労で重く、視界も滲んでいました。
目の前に開けた崖に気づいたときには、もう遅かったのです。
足を滑らせ、体が宙に浮く感覚がして、私は咄嗟に空を掴むように手を伸ばしました。
「……あ……」
次の瞬間、視界がぐるりと反転しました。
落ちていく途中で何かにぶつかり、岩肌を擦り、枝に引っかかり、空と木と地面がめまぐるしく混ざって――
最後に、強い衝撃とともに、世界が暗転しました。
* * *
目を覚ましたのは、森の中ではありませんでした。
ひんやりとした空気が、肌をなでるように流れています。鼻をつくのは、湿り気を帯びた石の匂い。
私は、ゆっくりとまぶたを持ち上げました。
視界に映ったのは、石造りの、簡素な部屋でした。
地下室のような雰囲気です。壁のあちこちに苔が這い、天井は低く、窓もありません。外の気配すら感じられませんでした。
あるのは、控えめなランプの灯りと、簡素な寝台、そして――
視界の端で、何かが動いた気配がしました。
その瞬間、心臓が跳ね上がります。
私は反射的に身を起こそうとして――
「……ッ、あ、ぐ……!」
全身を貫くような激痛が走りました。頭、背中、脚。どこもかしこも、鈍く重く、ひとつ動かすたびに軋むような感覚が広がります。
「無理に動くな。まだ、傷が塞がっていない」
そう言って、隣にいた人物が、そっと身を乗り出してきました。
人間――でした。
それも、私よりもずっと幼く見える少年です。
黒髪に整った顔立ち。けれど何よりも印象に残ったのは、そのまなざしでした。
恐れも、怒りも、侮蔑もない。ただ静かで、まっすぐな――不思議な目をしていました。
私は、思わず息を呑みました。
(……捕まった……?)
身体は思うように動かず、魔力も残っていません。ここがどこかもわからないままでは、抵抗も逃亡も叶わない――けれど。
少年は、私の表情に浮かんだ警戒心を察したのでしょう。両手を広げて見せ、ゆっくりと、丁寧に言葉を紡ぎました。
「安心しろ。危害を加えるつもりはない」
その声は、あまりにも穏やかでした。あの夜、燃え盛る村の中で聞いた怒声や罵声とは、まるで別の言葉のように感じられました。
「……」
私は、返す言葉を持っていませんでした。
喉はひりつき、息を吸うたびに肺の奥がきしむようで、声を出すこともままなりません。
ただ、もう一度だけ、少年の顔を見つめました。
そこに敵意がなかったからか、それとも、もう何もかもどうでもよくなっていたのか――自分でも分かりません。
けれど、何より不思議だったのは、こんな状況なのにどこか安心している自分がいたことです。
やがて、まぶたが重くなり、視界はじわじわと闇に染まっていき――。
――でも、暗闇は、前より少しだけ、あたたかく感じられました。