13話「ひだまりの庭と、小さな姉妹」
――エルミア視点
その朝、ノエル様は早くから外出されていた。
屋敷の裏庭に建てられた小さな温室には、春のやわらかな光が静かに差し込んでいる。
私は手袋を外し、小さなジョウロで苗床に水をやっていた。湿った土の匂いと、葉擦れの音。魔力をほんの少し流し込むと、芽を出したばかりの苗たちがぴんと背を伸ばす。
「ふふ……いい子たちですね」
思わずこぼれた独り言。その頃、背中に小さな気配が近づいてくるのを感じた。
「エルミア~」
ふわりとした声に振り返るまでもない。予想通り、フィーネがにこにこと笑いながらやってきた。
「おはようございます、フィーネ。今日もお早いですね」
返事の代わりに、彼女は私の隣にちょこんと座り込む。草の上に膝をつき、薄緑の髪を陽光に透かしながら、まるで花そのもののように微笑んでいた。
「ねえねえ、聞いて。さっきね、お花とおしゃべりしてたの」
「……お花と?」
私は思わず目を細めて問い返す。
「うん。『今日もあったかいね~』って言ったら、『うん、ぽかぽか~』って返ってきた」
小さな手が土に触れ、ふにっと押して感触を楽しんでいる。その姿は本当に、どこか花の精霊のようだった。
「エルミアの手も、あったかいね」
そう言いながら、ふいに私の指先へそっと触れてくる。思いがけない接触に、わずかに心臓が跳ねた。
「……そう、ですか?」
「うん、ぽかぽかしてて、やさしいの」
言葉の一つひとつが、まっすぐ心に届く。裏も飾り気もなくて、それがかえって少し恥ずかしい。
「ねえ、エルミア。わたしも……お花みたいに大きくなれるかな?」
「え?」
手を止めて彼女の顔を見つめると、フィーネは土の上に手をついて空を見上げていた。あどけないその横顔には、どこか不安げな影が宿っている。
「このおうちに来てからね、土があったかくなって、空がきれいで、エルミアも、おとうさんも優しくて……だから、わたし、咲けるのかなって思ったの」
私は、そっと微笑みを返した。
「ええ、きっと育ちます。陽の光に向かって、まっすぐ伸びて、きれいな花を咲かせるわ」
「ほんとに?」
「ほんとです。お約束します」
フィーネは一瞬だけ黙って、それから、ぱっと笑顔になった。その表情はまぶしいくらいに無垢で、あたたかい。
そして、ぽつりと――
「ねえ……エルミアって、お姉ちゃんみたい」
その言葉に、私は思わず動きを止めてしまった。
「……お姉ちゃん?」
「うん。なんか、そんな感じがするの。やさしくて、あったかいひと」
少しだけ目を伏せ、それから、静かに微笑む。
「……光栄です。こんなに可愛い妹を持てるなんて」
温室の中には、相変わらず春の光が満ちていた。苗たちは風に揺れ、足元のハーブがほのかな香りを運んでくる。
フィーネが「ふふっ」と楽しげに笑いながら、小さくくるりと回る。花びらのような衣がふわりと舞い、空気に彩りを添えた。
「今日も、いい日だね」
私はその言葉に、静かに頷いた。
「ええ。……とても、いい日ですね」
* * *
その日、ノエル様の許可をいただいて、フィーネと共に村へ出ることになった。
目的は“お使い”という名目だったが、本当は――外の空気に触れさせるための、小さな第一歩だった。
温室だけが世界ではない。もっと広くて、もっと複雑であることを、彼女に知ってほしかった。
村の市場通りへ足を踏み入れたとたん、その一角にさざ波のようなざわめきが広がる。
「……あれが、例の……?」
「見ろよ、肌の色。あれ、亜人だろ?」
「エルミア様はもう慣れたけど……あっちはちょっと、な」
そんな囁き声が、確かに聞こえてきた。
けれどフィーネ本人は、まるで気づいていないかのように、とことこと前を歩いていく。両手に小さな袋を抱えて、まるで遠足にでも来た子どものような足取りだ。
その背中が、妙に頼もしく見えた。私は思わず微笑んでしまう。
薄緑色の肌。陽に透ける淡い髪。花びらを思わせるワンピース姿。
確かに人間とは異なる。
けれどそれは恐怖や忌避を生むものではなく、むしろ――瑞々しい美しさをまとっていた。
フィーネがふと立ち止まる。店先に並ぶ苗木に気づいたのだろう。彼女はしゃがみこみ、そっと小さな苗に話しかけた。
「よしよし……がんばってね。おひさま、いっぱい浴びるんだよ」
指先で、葉に触れぬように優しく土を撫でる仕草。まるで風が通り抜けるように静かなその声に、通りすがりの老婦人が思わず足を止めた。
「……あらまあ」
驚きというより、頬が緩むような言葉だった。
そのとき、少し離れた場所から子どもの声が響いた。
「ねえ、お姉ちゃん! 頭の葉っぱ、味するの?」
茶化すような声ではなかった。ただの、無垢な好奇心だ。止めようとした大人の手が動くより先に――
「うん。ちょっとだけ甘いよ」
フィーネは真剣に答えた。にっこりと笑いながら。
あまりにも自然で、あまりにも真っ直ぐなその表情に、私は思わず吹き出してしまいそうになった。
そして、笑いが生まれた。
くすり、と誰かが笑い、次いで「聞いたか?」と誰かが声をあげる。
「甘いんだってさ、あの葉っぱ」
「なんだ、喋るし、笑うし……ただの可愛い子じゃないか」
「中身、ふつうの女の子だな」
ゆっくりと。確かに空気が変わっていく。最初のざわめきは、冷たい警戒から、あたたかな好奇心へと変わりつつあった。
やがて、野菜売りの夫婦が声をかけてくる。
「はいはい、お嬢ちゃん。これはおまけ。今日は暑いから、冷やした甘いトマトだよ」
差し出された小さな袋を、フィーネは両手でそっと受け取った。
「……わぁ……ありがと!」
その瞬間、ぱあっと笑顔が咲いた。
本当に、そこだけ陽が差したような――そんな明るさだった。
私はその横顔を見つめながら、胸の中でひとつ、静かな想いを抱く。
(この子は――私とは違うのかもしれない)
私は、魔法という“便利さ”で信頼を得た。
けれど彼女は――“やさしさ”だけで、人の心をほどいていく。
ノエル様の掲げる理想は、果てしなく遠くて、茨の道だ。
けれど――もしかしたら。
この子のような存在が、そこに花を咲かせてくれるのかもしれない。
市場のざわめきの中。春の風に舞う花びらのように、フィーネの髪がやさしく揺れていた。
* * *
――ノエル視点
夜の帳が降りて、屋敷はすっかり静けさに包まれていた。
書斎のランプだけが、小さく淡い光を灯している。俺はその明かりの下で、地誌の一冊をめくっていた。政務の書類ではない。気まぐれに手に取った、ただの趣味の本だった。
――そのとき、扉をノックする音が、静かに響いた。
「入っていい?」
少し控えめな声。扉が開いて、小さな影がそっと顔をのぞかせる。フィーネだった。
昼間、エルミアと一緒に村へ出かけた疲れが出たのか、少しだけまぶたが重そうだった。でも、その足取りには迷いがなく、まっすぐに俺の方へと歩いてくる。
そして何も言わず、もぞもぞと俺の隣に腰を下ろした。肩がくっつきそうな距離で、小さな体が俺の隣にすっと馴染んでいく。ふわりと花の香りが漂った。
「……今日、いっぱい頑張ったの」
ぽつりと落ちた、か細い声。
「そうか。偉いな」
俺は本を閉じて、彼女に向き直る。
フィーネは、小さく「えへへ」と笑って、ほんの少しだけ体を傾けた。
「じゃあ、ちょっとだけ……」
そう言って、俺の膝の上に頭を預けた。
薄緑の髪がふわりと広がり、膝の上に伝わる体温がじんわりと温かい。
一瞬だけ戸惑い、それから、俺はそっと彼女の髪に手を伸ばした。
するりと指が通る。しっとりとした感触で、どこまでも柔らかい。まるで摘みたての葉のように、瑞々しいぬくもり。
「……まったく。自由すぎだろ」
そんなふうに呟いてみたけど、声は自然と緩んでいた。
フィーネは、もう目を閉じていた。すぅすぅと、穏やかな寝息が聞こえてくる。
頬にはうっすらと日差しの名残。市場でたくさんの人に会って、気を張っていたのだろう。けれど今は、すっかり安心しきった顔で眠っている。
俺はもう一度、彼女の髪を優しく撫でた。
本を読む気はすっかり失せてしまっていたけど――代わりに、何ともいえない安らぎが胸の中に灯っていた。
こんな夜も、悪くない。
そんなことを、ふと思った。
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