12話「命、芽吹く」
レイフィールド邸の地下は、外界の喧騒から切り離された静寂に包まれている。
石畳の床、無機質な壁、わずかな明かり。湿り気を帯びた冷気が肌を撫で、まるで時が止まったような空間だ。
この場所で、俺はある仮説の検証を続けていた。きっかけは、先日の魔物騒動だ。
(獣が魔力を得ると魔物になる。じゃあ……植物は?)
もし、植物に魔力を与え続けたら何が起きるのか。
異常成長か、突然変異か、それとも——新たな“何か”が芽吹くのか。
室内の中央には粗末な木製の台座があり、そこに大小さまざまな鉢植えがずらりと並んでいる。
芽吹いたばかりのもの、青々と葉を広げたもの、そして……枯れかけたもの。どの鉢にも、日付と簡単な観察記録が書かれた札が挿してあった。
並んだ鉢のひとつに視線を落としながら、俺はつぶやく。
「……やっぱり、魔力を与えた個体の方が成長が早いな」
手帳を開き、昨日と今日の差分を丁寧に記録していく。成長速度、葉の厚み、色合い、茎の太さ。わずかな変化も見逃さず、魔力との関連を丹念に洗い出していく作業だ。
右端の鉢に咲いた、小さな双葉に指先をかざす。
「……少し、だけ」
掌に意識を集中させ、指先に微量の魔力を流し込む。術式も詠唱も必要ない。ただ“注ぐ”だけ。それだけで、変化は現れる。
双葉が震えるように揺れ、ほんのわずかに茎が伸びる。目を凝らさなければ気づかないほどの変化。だが、確かに命が応えている。
「……やっぱり反応する。けど、やりすぎると……」
すぐ隣に並ぶ鉢へ目をやると、そこには茎が不自然に太く膨れ上がり、自重で折れかけた苗があった。
先週、“多めに”魔力を与えた個体だ。
成長しすぎて支えきれず、土にのしかかるように倒れている。
「限界はある。植物の“器”以上の力を注げば、崩れるだけか……」
しゃがみ込み、支柱を取り出して慎重に茎の傍らに挿す。細い糸でそっと固定しながら、葉を傷つけないよう気を配る。手袋をしていても、指先は土と水にまみれていく。
――だが、この作業が嫌いではなかった。
芽吹きを見守り、成長を支えるこの感覚は、悪くない。
地下室の空気はひんやりとして静かだ。けれど、俺の内側はじんわりと熱を帯びていた。
魔力で生命を育てる。
それが何を意味するのか、俺自身にもまだ分かっていなかった。
* * *
いつもより少し早く目が覚めた。
まだ外は薄暗く、部屋の暖炉も冷えきっている。冷たい空気が肌を刺すようで、思わず布団を引き寄せたが――ふと、昨日のことが頭をよぎった。
(そうだ。魔力を注いだあの苗、どうなっただろう)
気になったら、もう止まらない。俺は上着を引っかけるように羽織ると、そのまま屋敷の奥――地下室へ向かった。
階段を下り、扉の前で一度深呼吸してから、そっと開ける。重い音と共にゆっくりと開かれた扉の先で、何かが違うとすぐに感じた。
(……なんだ?)
空気の質が、いつもとまるで違っていた。
ひんやりとしたはずの空間が、わずかに温かい。
そして鼻をくすぐるのは、湿った土の匂いに混じる、ほのかに甘い花の香り。
俺はゆっくりと中に足を踏み入れた。
室内の中央。作業台の前で、足が止まる。
――鉢がひとつ、倒れていた。
土がこぼれ、根の切れ端が露出している。
だが、それよりも目を引いたのは。そのすぐ傍で、静かに横たわっていた――少女だった。
「……え?」
一瞬、言葉が出なかった。
状況が理解できなかった。
小柄な身体。薄く緑がかった肌。頭には若葉のようなものが生えていて、身体を覆っているのは布ではない。
花びらのような――まるで自然に“生えている”かのような衣装だった。
その姿は明らかに、人間の常識から外れていた。それでも、どう見ても“人の形”をしていた。
俺は無意識にしゃがみこみ、脈を確認する。指先が触れた肌はほんのりと温かく、呼吸もわずかに上下していた。
「生きてる……けど……明らかに、人間じゃないよな」
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「ノエル様」
振り返ると、エルミアが階段を降りてくるところだった。いつものように銀色の美しい髪をたなびかせて。だが少女の姿を一目見るなり、わずかに目を細める。
「これは……植物人、ですね」
「アルラウネ……?」
「植物と魔力の融合体。伝承では、深い森の奥……精霊域にしか存在しないとされる種です。普通、人の手が届くような場所には現れません」
エルミアは少女のそばにしゃがみ、そっと手を伸ばして若葉に触れた。すると、淡い光が少女の肌を走る。
「魔力に反応しています。……特に、ノエル様の魔力に強く」
「まさか……」
俺の視線は、倒れた鉢へと戻る。昨日、俺がいつもより多めに魔力を注いだ苗だった。
土の中には、抜け落ちた根の一部が残っていて、少女の足元に絡むように伸びている。
「俺の魔力が……植物を、変えた?」
「その可能性はあります。ノエル様の魔力は常人の数倍――いえ、異常なレベルです。制御が難しい分、影響も強い。下手をすれば、命を芽吹かせるほどなのかも」
「異常な魔力ってのは、やめてくれ」
皮肉っぽく言ったが、エルミアの表情は変わらない。
だが、どこか困ったような間があった。
「……魔力で命が生まれるなんて、常識ではありえません。けれど、この子は確かに生きている。それだけは、間違いありません」
俺は黙ったまま、少女の寝顔を見つめる。まるで夢でも見ているような、穏やかな表情だった。
俺の魔力が引き起こした結果なのだとしたら――
責任を持たなきゃいけない。
そのとき。
少女の眉が、ぴくりと動いた。
そして、花びらのようなまぶたが、ゆっくりと開かれていく。
* * *
淡い緑の光を湛えた瞳が、ぼんやりとこちらを見上げていた。
まだ夢の余韻にいるような、霞んだ視線がゆっくりと焦点を結び、やがて真っ直ぐに俺を捉える。その瞳の奥には、花びらのような模様がゆらめいていた。
そして、小さな唇が、ぽつりと動く。
「……おとうさん?」
まるで、それが当然であるかのように。問いかけでも確認でもない。呼びかけるような、やわらかな声音だった。
俺も、エルミアも、その場で言葉を失った。少女の声には、警戒も疑念もない。ただ、どこか懐かしさすら感じさせる“ぬくもり”があった。
少女は、恐れも見せずに微笑んでいた。
その表情には、生まれたばかりの命が持つ無垢さと、根拠のない安心感が宿っていた。
「……魔力の、におい。おとうさんの……まほう。……むね、ぽかぽかするの」
たどたどしく紡がれる言葉に、俺は目を細める。
魔力を“におい”と感じているあたり、これは本能的な感覚なのだろう。
魔力の波長、密度、揺らぎ――そういったものを彼女は“温もり”として捉えている。
自分を育んだ魔力を察知し、そこに“親”の感覚を重ねる。
魔物の刷り込みにも似ている現象かもしれない。だが――
この子は、明らかに魔物とは違っていた。
「ノエル様、軽々しく接触しない方が……」
エルミアが、抑えた声で警告する。その手は腰の短剣へと向かっていたが、俺は静かに手を上げて制した。
少女の目に、敵意も不安定さもない。あるのはただ、まっさらな存在。
壊れそうなほど繊細で、だからこそ――触れてみたいと、そう思ってしまった。
この子は、俺の魔力から芽吹いた。偶然だったかもしれない。だが、結果として“俺が生んだ”。
だったら――
名を与えるのは、俺の役目だ。
「……お前は、フィーネだ」
その名前が自然に口をついて出たとき、不思議と迷いはなかった。
「ふぃーね……?」
少女は目をぱちくりとさせて、俺の言葉を反芻するように小声で繰り返す。
「ああ。春の終わりに吹く風みたいな、やわらかくて、心地いい音だろ。寒さの中で芽を出して、少しずつ伸びて、やがて咲く。……お前は、そんな名前が似合うと思った」
フィーネは、小さく口を動かしながら、何度もその名前を呟いた。
「ふぃーね……ふぃーね……」と、舌の上で転がすように。まるでそれが、自分自身の音だと確かめるかのように。
やがて彼女は、ぱっと笑った。
「むずかしいこと……よくわかんない。でも……フィーネ、すき。うれしいの」
その声から伝わってきたのは、ただの嬉しさだった。誰かのためでも、何かのためでもない。
自分が“名前をもらえた”という、その事実だけを喜んでいる。
少女――いや、フィーネは、そっと手を伸ばしてきて、俺の指先に触れた。
その指は小さくて、柔らかくて、確かにあたたかかった。
魔力の熱じゃない。“命”としての体温だった。
「……この子は、ノエル様の魔力で芽吹いた存在です。ですが、それが“命”であるのなら……」
エルミアが、珍しく迷いを滲ませた声で言う。彼女にとっても、これは前例のない現象なのだろう。
俺は、無言でうなずいた。
「俺が生んだ。だから俺が、名を与えた。……だったら――責任も、俺が持つよ」
思わず口に出たその言葉は、不思議と胸の奥にしっかりと沈んでいった。軽くはない。けれど、どこか心地よかった。
創造者としての責任。
名を与えた者としての覚悟。
そして――ほんの少しの、父性のようなもの。
「……まだ俺、十歳なんだけどな」
そんな冗談めいた言葉が、口をついて出る。
けれど――隣にいるフィーネが、嬉しそうに笑っていた。
それだけで、心が少し温かくなった。
* * *
翌朝。
フィーネは目を覚ますと、真っ先に地下室の隅に置いてあった枯れかけの鉢を覗き込み、不思議そうに首をかしげた。
「おはな、しょんぼりしてる……かわいそう」
そう言って、小さな手をそっとかざす。
すると――枯れていたはずの花が、見る見るうちにしゃんと葉を広げ、色を取り戻していった。
「今のは……」
その光景に、俺は思わず息を呑む。同時に、ひとつ試してみたいことが浮かんだ。
そして今――。
俺はフィーネとエルミアを伴い、屋敷裏に広がる試験農地に足を踏み入れていた。
気候や土の性質を確認するために整備されたこの場所では、数人の農民たちが朝の作業に取りかかっているところだった。
「ノエル様、お連れの方は……?」
顔なじみの中年農夫が、手を止めてこちらを見てくる。
その目には、驚きと――若干の警戒。
また変わった亜人を連れてきたぞ、という色と、今度は何をやらかすつもりだという期待とが混ざり合っていた。
フィーネはその視線に気づいたようで、一瞬だけ身をすくめた。だが、畑に近づくにつれて表情がやわらぎ、足取りが自然と軽くなる。
「……ここ、いいにおい。あったかい……」
そう呟いて、裸足のままふらりと土の上へと踏み出す。
俺が声をかけようとした、そのとき――。
「お、おい! あれ……見てみろ!」
農民のひとりが叫ぶ。
視線の先では、萎れていた葉がゆっくりと立ち上がり始めていた。
「うそだろ……病気気味だった苗が、元気に……?」
「おい、こっちは花が咲いたぞ! まだ時期じゃないのに!」
畑のあちこちでどよめきが起きる。
俺は思わずフィーネに目を向けた。彼女は土を見つめながら、ほのかに微笑んでいる。
「おはな、よろこんでる……ね」
陽光の下で、彼女のミントグリーンの髪がふわりと揺れる。その身体の周囲に、微細な魔力の粒子がにじみ出ているのが見えた。
「……これは」
エルミアが、低く呟く。
「この子の魔力波が、土と植物に直接作用しています。意図的な魔法ではなく――呼吸のように、無意識に拡がっている」
俺は畑を見渡しながら、小さく息を吐いた。
「これは……使えるな。だが――」
農民たちの驚きは、次第に“興味”の色へと変わっていく。無邪気な好奇心に見えて、その実、そういう視線は――異物を測る目でもある。
「目立たせるわけにはいかないな」
この子の存在が王都や教会に知れれば、面倒なことになる。人間ですらない存在が、魔力で作物を操っていると知られれば、それだけで“異端”として扱われかねない。
だからこそ、守らなければならない。
そのとき、不意に袖が軽く引かれた。
「……わたし、ここにいてもいいの?」
フィーネが、不安そうに俺を見上げていた。さっきまであんなに嬉しそうだったのに、急にしぼんだように肩をすぼめている。
俺たちの雰囲気や、周囲の視線が――彼女なりに、怖かったのかもしれない。
俺は一拍だけ間を置き、短く、だがはっきりと答えた。
「もちろんだ」
その言葉を聞いた瞬間、フィーネの顔がぱっと明るくなる。目を丸くし、ほっとしたように、またふわりと笑った。
春の陽に照らされたその笑顔は、あまりにも自然で――あまりにも、あたたかかった。
その笑顔を守るためなら。
俺は、必要であれば――この領地全体にだって戒厳令を敷いてやる。
* * *
屋敷の裏庭。
つい最近まで雑草が生い茂り、誰にも見向きされなかった一角に――小さな温室が建っていた。
造りは質素だが、壁と天井には淡く透き通る“ガラス”がはめ込まれており、春の陽光をやわらかく取り込んで、室内をぬくもりで満たしている。
……もっとも、“綺麗なガラス”ではない。
俺の知識をもとに、作り方を説明し、エルミアが手作業と魔力で仕上げてくれた特製品だ。
「……言われた通り、砂を焼いて灰を混ぜて、冷ましながら魔力を均等に流しました。合ってると思います」
エルミアが袖をまくった腕を見せてくる。火傷こそないが、指先は煤と細かな傷で黒ずんでいた。
「ああ、よくやった。本当に、初めてとは思えない出来だよ」
俺は心からの賞賛を返した。作り方を説明しただけで、材料と魔力制御のみでここまで再現するとは――恐れ入る。
「温度の加減と魔力の流し方が難しくて……何度か割れましたけど、どうにか、形になりました」
「十分すぎるよ。エルミア、本職になる気は?」
「その冗談は、やめてください」
呆れたように目を細めながらも、彼女の口元には小さな誇らしさが浮かんでいた。
温室の中では、フィーネが柔らかな土の上で丸くなり、静かに眠っていた。
花びらのような衣に包まれたその姿は、まるで植物が根を張るように、そこへ“馴染んでいる”。
胸元の蕾模様が、ゆっくりと上下に揺れていた。呼吸のたびに淡く光を灯しながら。
そこは、間違いなく彼女の居場所だった。
「……また坊ちゃんは、変なものを作って……」
背後から溜息混じりの声が聞こえ、振り返ると――案の定、カルラが腕を組んで立っていた。
「エルフの次は、魔力で作物を育てる少女? 次はなに、今度は空から龍でも拾ってくるつもりですか?」
「それはそれで、面白そうだけどな」
「おやめください」
カルラはこめかみに手を当てて苦笑しながらも、視線の先にいるフィーネを見て、表情を和らげた。
「……でもまぁ。坊ちゃんがやると決めたことなら、私たちは従うしかありません。どうか変な騒ぎにならないことを祈ります」
その一言が妙に頼もしく聞こえて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
領地にも、静かに、だが確実な変化が現れている。
畑の苗は例年より早く育ち、日当たりの悪い土地ですら緑が根付いている。
中庭のハーブは香りを増し、料理人たちは厨房で驚きの声を上げるようになった。
そして何より――
農民たちの顔に漂っていた“諦め”の色が、ほんの少しずつ、溶けはじめていた。
「……この子が根を張ることで、また少し領地も変わっていくのでしょうか」
エルミアの声に、俺は静かに頷いた。
そうだ。
変わるための芽は、もうここに生まれている。
だからこそ、俺たちも変わらなくてはいけない。
恩恵だけに甘えるのではなく、彼女の存在に見合うだけの責任を果たすために。
名前を与えた以上――俺には、守る責任がある。
「ようこそ、レイフィールド領へ。……フィーネ」
その小さな声は、やわらかな春風に乗って温室の天井を抜け、晴れ渡った空の向こうへと静かに溶けていった。