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追放令嬢と異種族と、辺境領で理想の国づくりを始めました  作者: 冷凍食品
第1章「白銀のエルフと辺境の坊ちゃん」
10/50

10話「ふわりと泡立つ、衛生革命」

 昼下がりの工房裏。

 

 陽は柔らかく差しているのに、空気にはひんやりとした冷たさが混じっていた。季節の変わり目。風の温度と光の角度が、少しずつ冬の終わりを告げている。


「へくちっ!」


 作業場の片隅から、かわいらしいくしゃみが聞こえた。


「うわ……大丈夫か?」


 顔を向けると、小さな女の子が鼻をすすりながら「へいきです」と笑ってみせた。けれど、その頬はうっすら赤く、目もどこか潤んでいる。微かに咳も混じっていた。


 周囲を見渡すと、他の子供たちも似たような様子だった。

 

 鼻をこすり、くしゃみを連発し、時折しゃがみ込んでぼんやりしている子もいる。


(寒暖差あるし、風邪が出始める時期ではあるけど……それにしても多すぎないか?)


 気になった俺は、子供たちの様子を見がてら、村の水場へと足を向けた。

 

 小川を引き込んだ共同洗い場。普段から洗濯、野菜洗い、手足の汚れ落としに使われていて、村の生活の中心の一つでもある。


 ──そして、案の定だった。


「……うわあ……」


 目の前に広がるのは、ある意味“想像通り”の光景だった。


 ひとつの桶の中で、じゃがいもと布と、そして誰かの足が、仲良く並んでジャブジャブと揉まれていた。


 その隣では、おばちゃんが濁った水に布を突っ込んで揉み洗い中。泡立ちはゼロ。洗ってるのか汚れを移し合ってるのか分からない状態。

 

 極めつけは、それを横で見ていた子供が、手を突っ込んで、指をぺろっと舐めた瞬間だった。


(ああもう……これ、完全にアウトだろ)


 内心で頭を抱える。


 せめて洗い場は用途を分けようよ、というツッコミを飲み込みながら、ゆっくりと呼吸を整えた。


(これはもう“衛生概念”の根っこから、手をつけないとダメかもしれない)


 この世界には“菌”や“ウイルス”という明確な知識はない。そもそも“汚れが体に害を与える”という概念そのものが、あまり共有されていない。


 ──まずい。子供たちの体力じゃ、風邪どころか感染症まで広がりかねない。


「エルミア、ちょっといいか」


 俺は急ぎ足で彼女の元へ戻り、問いかけた。


「はい、どうかなさいました?」


「エルフって、衛生管理ってどうしてた? 洗濯とか調理とか、風呂とか」


 エルミアは少しだけ首を傾け、まっすぐに答える。


「衛生……ですか? 基本は“自然の流れに任せる”という教えでした。流れる水は清めの力があるとされていて……特別な対処は、あまりしません」


「なるほど……」


 森の民としては、それがごく自然な価値観なんだろう。そしてきっと、村の人々も似たような認識で暮らしている。


 俺は額に手を当て、小さくため息をついた。


(流れる水=綺麗、って発想はファンタジーあるあるだけど……菌は流れても死なないんだよなあ)


 もちろん、そこまで言っても通じるわけじゃない。けれど、このままでは衛生悪化からの病気ループが避けられない。


「これは……まず“石鹸”からだな。あと、風呂もなんとかしないと」


 俺がぽつりと呟くと、エルミアが不思議そうに眉を上げた。


「石けん……? それは、何でしょうか?」


「汚れを落とす“泡”。魔法じゃないけど、泡で人間は病気に勝つんだ」


 そう説明すると、エルミアは少し考えるように黙ったあと、あきれたように笑った。


「人間は……体が弱いのですか?」


「ふふん。あとで分かるさ。泡の快感に溺れて、絶対に手放せなくなるからな?」


 俺はそう返しながら、すでに思考を全力で回し始めていた。石鹸に必要なのは、油と灰。あとは、鍋と根気。


(作れないことはない。物置の中に、古い油が残ってたはず……)


 風邪を止めるには、まず“汚れ”と“菌”の分断から。泡の力で、生活を根本から変えてやる。


 村の“衛生革命”、ここから始めるしかない。


 * * *


「石鹸を作るぞ」


 俺がそう宣言したとき、作業場の空気が一瞬ピタリと止まった。


「せっ……けん?」


 作業していた男のひとりが、ぽかんと口を開けたまま声を漏らす。

 

 斧を構えていた男も、織物を干していた女も、薪を抱えた少年も、みんな動きを止めてこちらを見ている。


「坊ちゃん、それって……何ですかい?」


「泡が立つんだ。水に混ぜて、手をこするとぶくぶくって」


 俺の説明に、彼らはますます首をひねった。無理もない。この世界では“石鹸”なんてもの、存在自体が都市伝説に近い。聞いたことがあるだけでも博識だ。


 庶民どころか王都の貴族でも、使っているのはごく一部の衛生オタクらしい。


「……聞いたこと、あるような、ないような……泡で体を洗うってやつ……?」


「そんなの、ほんとにあるのか?」


 ざわつく空気に、俺は軽く胸を張った。


「あるんだよ。材料は全部、ここにある。あとは火にかけて混ぜるだけだ」


「火を……? 混ぜると泡が出るんですか……?」


 エルミアがやや疑わしそうに眉をひそめた。


 その後ろで、村人たちが「魔術か?」「まじないじゃねえのか」と小声で囁いている。


「まあ見てろって」


 俺は用意しておいた素材をずらりと並べてみせた。

 

 獣の脂──肉を焼いたあとに残った調理くずや、保存食の作成時に出た獣脂の残り。そして、かまどに溜まっていた白っぽい木灰。


「まずは、灰を水で煮る。“灰汁あく”ってのを作るんだ。灰の中には“アルカリ成分”があって、これが汚れを分解する働きをする」

 

「アルカリ……?」


 エルミアがつぶやくように繰り返す。意味までは分からなくても、説明は聞いてくれている。


「で、油と混ぜて熱を加えると反応が起きる。……まあ、難しいことはさておき、泡立つ白い固まりができるんだ」


「ほんとうに……そんなものが……」

 

「ちょっと獣臭いけどな」


 俺は鍋に水を入れ、灰を加えて火にかける。やがて、じわじわと色が変わってきて、上澄みにわずかにとろみが出てくる。


「これが灰汁だ。この液体を濾して、今度は油と合わせる」


 獣脂を加えながら、かき混ぜる。くつくつと音を立てながら、鍋の中で泡が立ち始め──同時に、強烈なにおいが立ち上った。


「うっ……これは、なかなか……」


 エルミアが思わず鼻を覆う。村人たちも明らかに距離をとりはじめた。

 

 脂と灰が混じった生臭さと焦げた匂い。石鹸作りの“儀式”として避けられるのも、正直ちょっと分かる。


「混ぜ方を間違えると分離するからな。……よし、エルミア、かき混ぜて」

 

「わ、わたくしが……?」

 

「俺、ちょっと煙にやられてるからさ」


「……まったく、ずるいです」


 文句を言いつつも、エルミアは棒を手に取り、しぶしぶ鍋をかき混ぜ始めた。数分もしないうちに、液体がとろりと白濁し、粘り気を帯び始める。


「よし、そのまま火から下ろして冷ます。あとは固まるのを待つだけ」


 そして──翌朝。

 

 鍋の中には、白っぽい塊がしっかりと固まっていた。


「できた……!」


 ナイフで切り分けていくと、やや不格好だが手で握れるサイズの“石鹸”が5つほど取れた。匂いはまだ残っているが、水をつけて手のひらで擦ると──


「……泡が……?」


 エルミアがそっと指でなぞった手のひらに、ふわりと白い泡が立った。


「本当に……ぶくぶくして……これが、汚れを落とすのですか?」


「そう。これが、“文明の泡”ってやつさ」


 石鹸のにおいにむせそうになりながらも、村人たちが次々と集まってくる。

 

 水をつけて、泡立てて、手の汚れをこすり落とす――その光景を見て、誰もが目を見張っていた。


「人間って……意外と、知恵深いんですね」


 ぽつりと呟いたエルミアは、不思議そうに、けれどどこか楽しげに指先の泡を眺めていた。


 * * *


 屋敷の裏手、日が傾きはじめた午後の庭先にて。


 堂々と設置された大きな木桶――村の木工班に無理を言って作ってもらった、“簡易風呂”がそこにあった。


 中には、火で温めたぬるま湯。隣には、昨日試作に成功した石鹸と、泡立て用の布袋。


 俺は袖をまくり、桶の縁にしゃがみ込む。


「じゃ、実演タイムといきますか」


 布袋に石鹸を入れ、ぬるま湯の中で優しく揉みこむと、すぐに白い泡がふわりと立ち上がった。水面にふんわり浮かび、風に揺れて揺蕩う。


「おお……」

 

「ほんとに、ぶくぶくしてますね……」


 物陰から覗いていたエルミアが、思わず感嘆の声を漏らした――が、すぐに表情を引き締めて言い放つ。


「けれど……そんなものに頼るのは、やはり甘やかされすぎです。ぬるま湯と泡で体を洗うなど……それでは野性が衰えてしまいます」


「いやいや、野性いらんからな。今は文明に寄せてほしいんだわ」


 苦笑交じりに返すと、彼女は誇らしげに鼻を鳴らす。


「私は、冷たい泉に飛び込んで体を清めて育ちました。風と水、そして祈りで――」


 そう語りかけた彼女の声が、ふと止まる。


 視線が、桶の泡に吸い寄せられていた。


 白い泡が、ふわりふわりと風に踊る。静かに、やわらかく、水面に浮かぶ泡の群れを、エルミアはじっと見つめる。


「……ちょっとだけ、触っても?」


「ええっ!? さっきまで“野性派”だったのに!?」


「い、いえ。これは、質感の確認というか……研究目的でして」


 そんな言い訳を口にしながら、エルミアはそっと指先を泡の中へと滑り込ませた。


「……ぬる……?」


 まるで別世界に触れたような顔で、彼女は目を丸くする。


「これ……やわらか……?」


「それ、泡って言うんだよ」


「泡……」と呟きながら、もう一度、今度は両手を使ってすくい上げる。そして指の背で泡をなぞっては、手のひらをじっと見つめた。


「……なんか、指が……つるつるに……」


「それが石鹸の力。汚れも落ちるし、肌にも優しい。すごいだろ?」


「……石鹸、すごいです」


 そのまま数秒、泡を見つめていた彼女は、やがてふいに真顔になって、髪の結び目に手を伸ばした。


 そして、するりと銀の髪をほどいた。


「……少しだけ、全身……試してみたい、です」


「えっ、今ここで? 俺いるけど……?」


「桶、空いてますので」


 そう言ってためらいもなく靴を脱ぎ、服を脱ぎ、片足をそっと桶に沈める。

 

 まあ看病の時に何度か裸は見ているからか――というより、彼女自身がそもそも“見られる”ことにそこまで頓着していないのかもしれない。


 森の民として育ったせいか、恥じらいの感覚が俺たち人間とちょっと違う。

 

 “水浴び”はただの生活の一部で、隠すより先に体を清めることが大事――そんな価値観が根底にあるのだろう。


 エルミアは静かに腰を落とし、肩まで湯に浸かった。彼女の周囲に、泡がふわりと広がっていく。


「~~っ……これは、気持ち……いい……っ」


 ぬるま湯のなか、泡に顔を埋めてとろけるような表情を浮かべる彼女。さっきまでの野性主義はどこへ行ったのか。


 湯に浮かんだ髪がきらきらと光を受け、白い泡が肩や頬にそっと貼りついている。


「ふふ……これ、遊べますね」


「……いや、遊ぶもんじゃないけどな、本来は」


 でもまあ、楽しそうならそれでいいか。


 エルミアは泡で顔を包み、泡玉を指でなぞり、水面を軽く叩いて小さな波をつくる。


 そのたびに、楽しげな笑い声が零れた。


「泡、すごいです。魔法みたい……ふわふわで、あたたかくて……」


 完全に落ちたな、と思いながら俺はひとこと。


「どの口が“人間は甘やかされすぎ”って言ってたんだよ……」


「……この口、ですね」


 と、いたずらっぽく笑った彼女は、泡まみれの指で俺のほっぺをぺたっと押しつけてきた。


「お、おいっ!? 冷たっ、泡っ!」


「ふふ、ノエルさまにも、泡の良さを教えてあげます」


「いや、教えたの俺だからね!?」


 ――そんな掛け合いが続く中、夕暮れの庭には、泡と笑い声がふわふわと浮かんでいた。


 * * *


 それから数日後。

 

 村の共同洗い場の片隅に、“泡用”の大きな桶が一つ、ぽつんと置かれた。


 脇には、木板に墨で書いた簡単な注意書きが立ててある。


 「この桶は“泡を使う洗い場”です。使う前に手をすすいでから。石鹸の布袋は干しておきましょう」


 俺が書いた文字を見て、最初は「なんだこりゃ?」という反応だった。


 けれど、少しずつ、変化が起きていく。


 水場に来た女性たちが、そっと泡をすくって手を濡らし、興味深そうに指先をすり合わせる。


「……なにこれ、指が、つるんってなる……?」

 

「この香り、ちょっと獣臭いけど……なんか、癖になるかも」

 

「あの泡のやつ、ちょっといいわね」


 最初はひそひそ声だった噂が、日ごとに“評判”へと変わっていった。


 子供たちの手足の荒れが減り、しつこかった咳が収まった。


 風邪が続いていたあの女の子も、今では元気に石を並べて“泡屋さんごっこ”に夢中になっている。


「ねぇ、坊ちゃん。もうちょっと、あの石鹸……作れないかね?」

 

「この指、見てみな。すべすべだろ?」

 

「この前、うちの孫も“お風呂楽しい”って、なかなか出てこなくてさぁ」


 女性たちの顔が、少し明るくなっているのが分かった。


 まだ試作段階で、生産数も少ないけれど。それでも確かに、衛生革命がこの村で起こり始めていた。


 * * *


 夜の風は、ほんの少しだけ涼しかった。


 村の外れ、屋敷の縁側に腰かけて、俺は湯上がりの髪をタオルで拭きながら、月を見上げていた。

 

 隣では、同じく湯上がりのエルミアが静かに膝を抱えている。


「……病気が減るだけじゃないんだよな」


 ぽつりと呟いた俺の声に、エルミアがちらりと目を向けた。


「清潔って、気持ちも軽くなる。顔を洗って、泡で手をこすって、服も清いものを着て……それだけで、なんかちゃんとした気分になるっていうか」


 風に揺れたエルミアの髪が、少しだけ俺の肩にかかる。その動きすらも、湯あがりの空気に溶け込んで、どこか心地よかった。


「そういえば……村の人たち、なんだか最近ちょっと元気ですよね。顔つきが明るくなった気がします」


「だろ? たぶん、あれが“見えない力”ってやつなんだよ」


 清潔にするって、見た目だけじゃなくて、気持ちまで変える。それが積もれば、きっと未来も変わる。


 ふと、エルミアが膝の上に置いた手の甲をクンクンと嗅いだ。


「……でも、やっぱりちょっと……においます」


「あー、それはごめん。石鹸の匂い、まだ改良の余地ありって感じだな」


 俺も自分の手をそっと鼻に近づけてみる。うん、やっぱりちょっと獣くさい。脂と灰の名残が、ほのかに残ってる。


「……泡は気持ちいいのに、匂いで全部持ってかれるの、なんだか惜しいですね」


「そうだな。次はハーブか……香りづけ、ちゃんと考えよう」


 エルミアがくすっと笑った。


「最初は“人間は甘やかされている”とか言ってましたけど……泡、案外いいものでした」


「でしょ。文明の力、偉大なんだよ。泡とぬるま湯のくせに」


「……たしかに、泡に勝てる者はいませんでした」


 その言い回しが妙にツボに入り、俺も笑ってしまった。


 ふと、視線を村の方角に向けると、洗い場の近くに灯された小さな灯火がぼんやりと揺れていた。

 

 石鹸用の布袋が干されて、桶もきちんと伏せられている。


 最初の一個は試験用だったけど、次はもっと使いやすく、香りもいいものが作れるはずだ。

 

 いずれは色や形、用途で選べる“商品”として、村の外に広げることもできるかもしれない。


 ──武器でも魔法でもない、“暮らしを変える力”。


 見えないけれど、確かにそこにあって、人の気持ちや意識を少しずつ前に進めていく。


「こういう“小さなこと”の積み重ねを続けることで、ここを変えていこう」


 月を見上げながら、俺はぽつりとつぶやいた。


 エルミアは何も言わず、ただ静かに隣に座っていた。

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