完璧な才女、一ノ瀬すみれの秘密
県立星見高校の図書室は、放課後になっても独特の静けさを保っていた。古い本の匂いと、ページをめくる微かな音、そして時折響くキーボードの打鍵音。その中で、2年B組の一ノ瀬すみれは、窓際の席で分厚い参考書を広げていた。
彼女は学年トップの成績を誇る才女だった。常に冷静沈着で、物静か。質問には的確に答え、無駄な私語は一切しない。図書室の主と言っても過言ではないほど、放課後や休み時間はたいていここで過ごし、参考書や学術書に囲まれていた。その整然とした立ち居振る舞いは、まるで精密に作られた機械のようでもあり、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。男子生徒は彼女の知性に畏敬の念を抱き、女子生徒は彼女のストイックなまでに完璧な姿を目標にしていた。
誰もが彼女を「学問の女神」と称し、恋愛とは無縁の、知の探求者だと信じて疑わなかった。彼女の口から出る言葉は、常に論理的で、感情の揺れを感じさせることはなかった。彼女の辞書に「恋」という文字はない、と誰もが思っていた。
しかし、その完璧な「知の女神」の裏側で、すみれの胸中には、ひっそりと育まれた、そして誰にも知られてはならない「情熱」が隠されていた。それは、彼女の理性とはかけ離れた、甘く、そして時に刺激的な秘密だった。
今日の図書室は、いつもより生徒が多かった。中間試験が間近に迫っていたため、多くの生徒が参考書を広げ、グループ学習に励んでいた。 「ねえ、この問題の解説、どういうこと?」 「え、ここ、公式に当てはめるだけじゃない?」 囁き声が飛び交い、辞書を引く音がカチャカチャと鳴る。そんな喧騒の中でも、すみれは微動だにせず、集中力を保っていた。
彼女は今日のノルマである参考書を一通り終えると、カバンから小さなUSBメモリを取り出した。他の生徒に気づかれないよう、素早くノートパソコンのポートに差し込む。そして、いつもは無機質な学術論文やプログラミングコードが並ぶ画面に、今だけは、彼女だけの「秘密の世界」が広がっていく。 画面に表示されたファイル名は、「project_novel_20250617.doc」。 そのファイルを開くと、そこには彼女が密かに書き続けている恋愛小説の原稿が広がっていた。
ペンネームは「恋猫ふぉれすと」。 学年トップの才女が、こんなロマンチックなペンネームで恋愛小説を書いているなど、誰が想像できただろうか。しかも、その内容は、ただの純愛小説ではなかった。登場人物たちの心理描写は深く、感情の機微が繊細に描かれていたが、時に大胆な、「ちょっとエッチ」な表現も散りばめられていた。理性的な一ノ瀬すみれからは、決して生まれるはずのない、甘美で、刺激的な世界。それが、彼女の秘められた情熱の結晶だった。
すみれは、周囲に目を配りながら、キーボードを打ち始めた。指先は淀みなく、しかし感情を込めるように文字を紡いでいく。普段の彼女からは想像できないほど、その表情は生き生きとしていた。 彼女は、この小説を書いている間だけは、完璧な「一ノ瀬すみれ」という仮面を脱ぎ捨て、一人の少女として、恋の物語に没頭することができた。これは彼女にとって、誰にも邪魔されない、最高の息抜きであり、最も大切な時間だった。 時計の針は午後5時を指そうとしていた。最終下校時刻が近づき、図書室の利用者も徐々に減り始める。すみれは、キリの良いところで作業を終えようと、最後の数行を書き上げた。 「よし、今日はここまで……」 満足げに息を吐き、彼女は保存ボタンをクリックした。
そして、その時だった。 背後の棚から、分厚い本が音を立てて崩れ落ちた。 「あっ!」 すみれは驚いて振り返った。図書委員の生徒が、謝りながら本を拾い集めている。 その一瞬の隙だった。 彼女は、慌ててノートパソコンを閉じ、カバンにしまう。しかし、その際、差し込んだままだったUSBメモリが、何の抵抗もなく、スッとポートから抜け落ち、床に転がってしまったことに、彼女は気づかなかった。 完璧な才女、一ノ瀬すみれの、たった一つの、しかし致命的な見落としだった。