音楽室の秘密、そして目撃
ユウトは好奇心に抗えず、開いているドアの隙間から、そっと音楽室の内部を覗いた。 薄暗い室内に、一台の大型モニターが煌々と光を放っていた。そして、そのモニターの前で、信じられない光景が繰り広げられていた。
そこにいたのは、紛れもない、七瀬みことだった。 しかし、彼女の姿は、普段の完璧な「女王」とは似ても似つかないものだった。 着ていたのは、星見高校の制服ではなく、白地に鮮やかなピンクのラインが入った、スポーツウェアのような上下。長い黒髪は、邪魔にならないように高めの位置で一つに結ばれ、額には汗が光っていた。そして、彼女の表情は、いつもの優雅な微笑みではなく、真剣そのものの、そして狂気すら帯びた、熱い情熱に満ち溢れていた。
モニターには、アニメのオープニングテーマらしき映像が流れている。画面に映し出されているのは、可愛らしいキャラクターたちが、キレのあるダンスを披露している様子だった。そして、七瀬みことは、そのアニメのキャラクターたちの動きを、一寸の狂いもなく、完璧にコピーしていた。
足の運び、手の動き、体の角度、顔の向き、視線、指先の細かな表現。全てが映像と完全に一致していた。床を踏み鳴らす力強いステップ、腕を大きく振り上げるダイナミックな動き、そして瞬時に重心を移動させるしなやかさ。そのどれもが、ただの「趣味」の範疇を超えた、プロフェッショナルな領域に達しているかのようだった。
「はぁ、はぁ……っ、ここっ!」 みことは、荒い息を吐きながらも、次の振り付けへと移行する。彼女の全身から発せられる熱量は、音楽室の空気を震わせているかのようだった。ユウトは息を潜め、瞬きも忘れてその光景に見入っていた。彼女のダンスは、完璧であると同時に、どこか悲痛なまでの執念を感じさせた。
そして、間奏部分に入ったときだった。 アニメのキャラクターたちが、決めポーズをとり、画面いっぱいにアップになる。それに合わせて、みことも完璧なポーズを決めた。その瞬間、彼女は大きく息を吸い込み、そして、これまでの冷静沈着な彼女からは想像もできないような、魂の叫びを上げた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!! ユ〇ルちゃん、推しーーーーーーっ!!!!!」
その叫び声は、音楽室中に響き渡り、ユウトの耳にも鮮烈に届いた。 あまりにも大きな、そして情熱的すぎる叫び声に、ユウトは思わず「ひっ」と小さな声を漏らしてしまった。 その瞬間、みことの動きがピタリと止まった。 彼女の顔が、ゆっくりと、ユウトが隠れているドアの隙間へと向けられる。
瞳は大きく見開かれ、さっきまでの情熱的な輝きは、一瞬にして恐怖と絶望の色に染まった。 「……え?」 その、普段では決して聞くことのできない、動揺に満ちた声が、静かな音楽室に響いた。 汗で濡れた前髪が額に張り付き、スポーツウェアの胸元は激しい呼吸で上下している。完璧な七瀬みことは、そこにはいなかった。そこにいたのは、誰にも知られてはならない秘密を、今、この瞬間に知られてしまった、一人の怯える少女の姿だった。
みことの視線は、ユウトを射抜いたまま固定されていた。 ユウトもまた、身動き一つ取れずに、彼女のその痛ましいほどの絶望的な表情を見つめ返すことしかできなかった。 音楽室に、重い沈黙が降り注ぐ。 最初にその沈黙を破ったのは、みことだった。
彼女は、はっと我に返ったように、駆け寄ってきた。その表情は、普段の完璧さとはかけ離れた、必死な、そして懇願するようなものだった。 ユウトの目の前まで来ると、彼女は両手をぎゅっと握りしめ、震える声で言った。 「あ、あの……月城くん……だよね?」 ユウトは、こくりと頷いた。彼女が自分の名前を知っていたことにも驚いたが、今はそれどころではない。 みことは、一歩、また一歩とユウトに詰め寄る。その瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの涙が浮かんでいた。
「お願い……お願い、月城くん!」 彼女の声は、震えていた。 「今、ここで見たこと……絶対、誰にも言わないで……!」 彼女の言葉は、まるで命乞いをするかのようだった。普段の彼女からは想像もできない、必死で、哀願に満ちた声。 ユウトは、その声と表情から、この秘密が彼女にとってどれほど重要なものなのかを悟った。それは、学園の女王としてのプライド、彼女が築き上げてきた完璧なイメージ、その全てを揺るがしかねない、致命的な「弱点」なのだろう。
ユウトは、反射的に口を開いた。 「……はい。言いません。誰にも」 彼の言葉は、偽りのない本心だった。彼女の絶望的な表情を見て、彼は直感的に、この秘密を守り抜くべきだと感じたのだ。 みことの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。安堵と、まだ僅かな疑念が混じり合ったような複雑な表情。 彼女は、ユウトの返事を聞くと、その場にへたり込むように座り込んだ。 そして、その瞳は、ユウトの顔を真っ直ぐに見つめ返していた。そこには、今まで誰も見たことのない、「七瀬みこと」の、ありのままの姿があった。
この瞬間、月城ユウトの日常は、完璧な「七瀬みこと」の秘密と出会い、大きく動き始めたのだった。 彼の脳裏には、アニメの主題歌に合わせて狂ったように踊り、魂の叫びを上げた七瀬みことの姿が、鮮烈に焼き付いていた。それは、彼の平凡な日々を、非凡な色彩で染め上げていく、最初の序曲となる出会いだった。