ユウトの「地味な」日常と、偶然の巡り合わせ
一方、同じく2年生の月城ユウトは、七瀬みこととは対照的な存在だった。 彼は学園内では「地味」という二文字で形容される生徒だった。成績は平均、運動能力も特筆すべき点はなく、部活動にも所属していなかった。クラスの中では、どちらかというと背景に溶け込むタイプで、友人も決して多くはない。彼が教室にいるのかいないのか、意識する者すら少ないだろう。
しかし、ユウトには彼なりの「特技」があった。それは、並外れた観察眼と、それによって培われた他者の「気配」を読む能力だ。彼は意識せずとも、周囲の人間関係の微妙な変化、声のトーンの僅かな揺らぎ、視線の動き、そういった些細な情報から、人の心の動きを読み取ることができた。決して他者を覗き見ようとする意図はなく、ただ、彼のフィルターを通すと、世界は人々の本音や隠された感情の色彩を帯びて見えたのだ。そして、何よりも彼は「誠実」だった。一度預かった秘密は、決して口外しないという強い信念を持っていた。それは、過去に経験したある出来事が原因だったが、今の彼にとってそれは当たり前の行動原理だった。
その日、ユウトは放課後、とある理由で学校に残っていた。 「ふぅ……これでようやく終わった」 彼がいたのは、1階の印刷室だった。担任の教師から、授業で使うプリントの印刷を頼まれていたのだ。単純な作業ではあったが、枚数が多く、さらに印刷機の調子が悪く、何度か紙詰まりを起こしたため、予想以上に時間がかかってしまった。
他の生徒たちはすでに部活動に向かうか、あるいは下校している時間帯だった。運動部の生徒たちが体育館へ向かう足音が遠くで聞こえ、文化部の生徒たちが活動する各教室からは、楽器の音や微かな話し声が漏れてくる。ユウトは汗を拭いながら、刷り上がったプリントをファイルにまとめ、事務室へ届けた。 事務室では、ベテランの事務員が残業をしており、「月城くん、ありがとうね。助かったわ」と優しい声で礼を言われた。
事務室を出たユウトは、そのまま昇降口に向かおうとした。だが、その途中で、ふと彼の観察眼が微かな「違和感」を捉えた。 それは、美術室の方向から聞こえてくる、かすかな、しかし連続した「ドンドン」という音だった。普段、放課後の美術室は静まり返っているか、あるいは美術部員が絵を描く音がするくらいだ。こんな規則的で大きな音は、記憶にない。
「ん?なんだろう?」 ユウトは首を傾げた。好奇心というよりも、その音の「種類」が気になったのだ。まるで、何かが地面に打ち付けられるような、いや、もっと規則的で、しかし力のこもった足音のような……。 彼は、美術室の窓から覗いてみることもできたが、覗き見はしない主義だった。しかし、そのまま下校するのも、何となく気にかかった。
教師たちの動向も、この時間帯は把握していた。生活指導の教師は部活動の巡回に出ているはずだし、他の教師たちも職員室で事務作業をしているか、すでに帰宅している者が多い。この時間帯に、こんなに大きな音を立てて何かをしている生徒は、あまりいないはずだ。
ユウトは、美術室を通り過ぎ、すぐ隣の校舎へと続く廊下へと足を進めた。音はさらに明確になる。どうやら、音源は美術室のさらに奥、音楽室から聞こえてくるようだった。音楽室といえば、吹奏楽部や軽音部が使用する場所だが、今日はどちらの部活も活動日ではなかったはずだ。彼らの活動日であれば、もっと賑やかな演奏音が響いているだろう。しかし、聞こえてくるのは、単調なリズムを刻む、力強い「足音」と、微かに響く「電子音」だけだった。
「誰か、個人練習でもしてるのかな?」 ユウトは、疑問を抱きながら音楽室の入り口へと近づいた。ドアはわずかに開いており、そこから光が漏れている。そして、彼の耳に、先ほどの足音と共に、ある「声」が届いた。それは、聞き覚えのある、しかし普段の「完璧な女王」とは全く異なる、熱気を帯びた、そしてどこか興奮したような少女の声だった。 「っしゃあ!ここ、完璧に決めるぞ!」 その声に、ユウトの背筋に、微かな電流が走った。