君は蛹
いつもよりゆとりを持って、家を出ることが出来たが、駅に着いたところで忘れ物を取りに家へ戻ったので、結局いつもと変わらない時間に学校へ着いた。あれからヴェルデとは特に会話を交わしていなかったが、別に険悪なムードが漂っているわけでもない。特に会話することがないから、今朝から会話をしていなかっただけだ。
ただ心に吹き出物が出来たみたいだ。顔に吹き出物が出来たら、化粧をして、一生懸命誤魔化すが、突起した吹き出物は隠しきれず、うじうじと自ら結局触ってしまう。
それは心に出来ても、同じようだった。私は何度も何度も昨日のやり取りを頭のなかで反芻している。ヴェルデは初めから今まで私のことを興味の対象としか捉えていなかった。心に出来た吹き出物はそれが原因みたいなのだ。だけど、そのことをヴェルデにどうこう言ったって仕方ないことだ。相手をどう思うかは個人の自由だし、誰も強制出来るものではない。
だがヴェルデは私のことを思って、自分が滅んでしまうことも言わずにいたのだから、私のことを興味の対象以上に見ている可能性もあると考えられないだろうか。
「―――いや、ないな」
講義中にぽつりと呟いた。自問自答のようになっても、答えは否である。しかしそれでも、私はヴェルデのことを「ただの使者」と思うことが出来ない。まるでプレイボーイのフレンドリーな振る舞いに、彼は自分のことが本気で好きなのかもしれないと思い込んだ、勘違い女のようだが、逆上していないだけまだマシだと思いたい。
私が行っても行かなくても、ヴェルデはどうせ私の前からいなくなってしまうけど、その居なくなり方はヴェルデからしてみれば雲泥の差だと思う。私が行かないと―――
「かをり!聞いてんの?」
横から顔を覗かれて、我に返った。時すでに遅し。みやりんは怪訝そうな顔で私を見ていた。講義が終わり、一人で食堂でご飯を食べていると、みやりんとその友達がやって来て、一緒に他愛もない話をしていたのだ。
私は途中から全く話を聞いていなかったため、怪訝な顔のみやりんを曖昧な笑顔で見つめ返すことしか出来ない。ヘラヘラ笑う私に、みやりんが痺れを切らした。
「ヨウダイが学園祭実行委員だから、金券を何枚かタダでくれるの。だからまだ先だけど、学園祭一緒に行かない?って誘ったんだけど」
「あー!うん、行きたい。いいね」
みやりんの友達はヨウダイというらしい。今時の男の子といういで立ちだが、柔和そうで話しやすい雰囲気だった。私と目が合うと、にこりと笑った。私は目を逸らす。
ヨウダイという名前は以前から聞いたことがあった。私は直接会ったことはなかったが、みやりんの話に何度か出ていたはずで、確か一回生の時、クラス分けされた時に同じクラスになって、仲良くなったと言っていた。私と梨沙子のような感じってわけだ。
「本当は誰か他の友達と行く予定だったから断りにくかったんだよなあ?」
ヨウダイは私に助け舟を出すように、にっこり笑った。フォローの仕方までスマートだ。
「お前が無理やり誘うから、困ってたんだよ」
「なんで私のせいなのよ」みやりんがヨウダイの腹にパンチした。
「いや、ちょっと私がボーっとしてただけだよ」
ヨウダイとみやりんがヒートアップしそうだったので、慌てて声を上げた。私はこの二人が結構いいカップルになるのではないかと思うのだが、みやりん曰く、そういう関係ではないらしい。
そういえばヨウダイとヨウダイの元彼女とみやりんというメンツで遊んだこともあると聞いて、色々と頭がこんがらがったことを思い出した。しかも、その元彼女と遊ぶまで全く面識がなかったというから驚きである。その時みやりんって豪快な一面があるんだな、と認識を改めた。私なら、たとえ百パーセント友情感情しか抱いていない男友達でも自分が面識のない男友達の元彼女と遊ぶのは嫌だ。
「かをり、このあとは授業?」
「うん」
みやりんはそっかあ、と唇を尖らせた。キャンパスの近くに出来たカフェに誘いたかったらしい。
「二人で行って来たらいいじゃない」
「嫌。それにヨウダイは甘いもの苦手だしね」
本人がいる前で堂々とそこまで拒否していいのか、というのは置いておいて、甘いものが苦手というのは意外だった。
「生クリームとか嫌いなの?」私は目の前にいるヨウダイに尋ねた。
「めっちゃ苦手。チョコレートも食べないし、飲み物もブラックコーヒー一択だから」ヨウダイは甘い食べ物を想像したのか、顔をしかめた。
「意外だね、彼女とかに付き合ってカフェとかケーキバイキングとか行きそうなのに」
「俺のイメージ、そんな感じなんだ。まああながち間違いでもないけど」俺って優男だから、と笑った。「意外と言えば、美弥とかをりちゃんが仲良いのも、意外だなあと思ってたよ」
「どうして?」私がそう尋ねると、ヨウダイが頭を掻いた。
「えー、何となく?雰囲気も違うしさあ。どっちかを悪く言ってるわけではないけど、美弥はクラスでもうるさい感じで、かをりちゃんはそういうの嫌いそうじゃん」
まあ、それもあながち間違いではない。私が頷きかけた時、みやりんが「それは違うよ」と言った。
私はみやりんを見た。
「かをりは嫌いなんじゃなくて、遠いところで皆を見てんの」
「美弥、何言ってんの?」ヨウダイは分かりやすく、首を捻った。
「かをりは女子同士のいざこざとかそういうのをね、もう遠ッいとッから眺めてんの。そういうところに関しては男に近くて、無頓着」
「いや、さすがにそんなことは。色々気にしてるし―――」
色々の中身を尋ねられると困るが、女子同士はやっぱり気を遣うし、自分自身が無頓着だと感じたことはない。こちとら伊達に十数年も女子をやってきてはいないのだ。
「でもかをりは遠くから見ている分、目の前に人がいたらその人の全部を見ようとするんだ。あっちでハブられてるから私も喋んないとかしないと思う」
だから、女友達少ない私ともフツーに仲良くしてるんだよ、とみやりんが言った。何となくだが、みやりんは思ったよりもこれまでの学生時代に苦い思い出が多いのかもしれないと思った。そう思えば、高校時代の話などあまり聞いたことがない。
「へえ。なんか分からないけど、かをりちゃんって仙人みたいな感じなんだね」ヨウダイは感心したように私を見た。
いや、それは絶対に違う。明らかに私が間違ったように伝わっている。
「まあちょっとそういうところもあるかもね」
「いやいや、ないでしょ」しれっとヨウダイに返答したみやりんに突っ込みを入れた。「それにみやりんは友達多いじゃない」
私なんかよりも顔は広いし、男友達も多いだろうけど、女友達が少ないようには見えない。
「かをりからはそんなふうに見える?」
「めっちゃ見える」
私が二度大きく頷きながら言ったからか、みやりんは噴き出した。
「ならそうなのかな。でも私がそうなら冗談じゃなく、かをりもそういうところあると思うよ」
「いやあ―――うーん。そういうことになるのかあ」
絶対違うと思うんだけど、とは付け加えないでおいた。私自身にはそんな人格者の片鱗すら見えてきていない。
みやりんとヨウダイはこのあと授業がないから一緒に帰るらしい。私も再度みやりんから一緒に帰らないかと誘われたが、丁重にお断りした。行かないでも済む授業なら喜んでみやりんと帰るが、この授業はいつも小テストを授業の残り五分で出すため、それを提出しなければ、出席が認められないのだ。
私はその後、睡魔と戦いながら授業を受け、周りの声に聴き耳を立てて若干カンニングしながら小テストを終えると、家路についた。
部屋の電気をつけて、いつも通り勉強机にヴェルデを置く。
「今日さあ、みやりんが私のこと仙人みたいって言ったんだけど、本当かなあ」
―――君が仙人なら、僕はがっかりだ
「なんで?」
―――人間としての君に向こうへ来てほしいからだ
ヴェルデの言う、「人間」が何を意味するのか、私は分からなかった。抽象的過ぎるのだ。
「仙人のほうが無敵だし、多分一人でどんな困難にも打ち勝てるよ」
そのほうがヴェルデにとっても好都合だろう。私だって普通の人間と仙人みたいな人間がいたら、仙人のほうを取ると思う。何かしら試練をくぐらせようとしているなら、なおさらそうだ。でも、ヴェルデはそうではないという。
―――人間ひとりひとりの個性は欠点だ。欠点がみんな持っていないなら、向こうへ行くのは誰でも良い
「じゃあ、私は欠点も含めて向こうへ呼ばれてるってこと?」
―――そういうことさ。前から何度もそう話しただろう。君であることに理由があると
君であることに理由がある、とは案外深い言葉だということに今更気が付いた。表面的に言葉のまま受け取れるが、ヴェルデの言葉の奥にはたくさん意味が詰まっているみたいだ。
「ヴェルデの話す言葉はなんか昆虫みたいだよね。同じ言葉でも、ヴェルデの言葉は聞いているうちに意味が変わるし。卵から幼虫になって、蛹になるみたいな感じ」
この比喩表現にヴェルデは偉く感動していた。いつもなんとなくヴェルデのほうが上手だったので、ヴェルデを見返せたようで嬉しかった。
―――なるほど。だがそれは僕の言葉ではなく、君の思考が変化したからそのように感じるんだよ。君は差し詰め、まだ蛹といったところだな
「まだ言葉の意味は変わる?」
―――君の背に羽が生え、空を自力で飛べればね
ヴェルデはなかなか洒落が利いている。
―――ところで君はもう怒っていないのかい
「何の話?」
―――昨日は不満げだっただろう
そこでようやくあれほど悩んでいたことを思い出した。みやりんと話したことですっかり頭から吹っ飛んでいた。
「もういいんだよ」
―――そうか、ならいい
落ち込んでいても仕方ないし。第一忘れられる悩みなのだ。大したことじゃない。だがヴェルデのことを抜きにしても、私が向こうへ行くか否かは大した悩みだ。何をするかも分からないし、どんな場所かも分からないし、本当に帰って来られるのかも不安だ。それとも普通ならもっとすんなり皆行くんだろうか。
―――まだ何か悩みでも?
「こちとらちっぽけな人間ですからね」
石のあんたとは違うんだから、と悪態までついたが、ヴェルデには響いていないようだった。本当に人間だったのだろうか。石になると悪態が通じなくなるのか、寛容になるのか、はたまた悟りを開いたような境地に陥るのか、それとももともとこういう人間なのか分からないが、なぜか私がやっぱり負けたような気分になって、悔しい。
ヴェルデはそんな私を闘牛士のようにひらりと交わし、いつも通りゆっくりと文字を表した。
―――君は蛹だろう。その内側には既に答えがあるように思うけどね
ゼミ合宿が明後日にまで迫り、みやりんの憂鬱さがピークに達したらしい。授業終わりにどうしても行きたい、とこの間誘われたカフェに連行された。想像していたよりもカフェは薄暗く、ウッド調で、隠れ家風の造りだった。私たちと同じ大学の学生も何人かいて、比較的若い客層だった。
「ここ、ブリュレが美味しいんだって」みやりんはそう言って、二人掛けの席に通されるやいなや、私にメニューを渡してくれた。
「みやりんはメニュー見ないの?」
「私はもうブリュレって決めてるから」
みやりんの決意は揺るがないようだった。入口のほうにショーケースがあり、チョコレートタルトがとても美味しそうだった。でもメニューを見ると、マカロンに目が行く。
「マカロンのセットにしようかな、このピスタチオとラズベリーのやつ」
「マカロン好きだね。前も遊んだ時に入った店でマカロン食べてなかった?」
「美味しいじゃん、味もいっぱいあるし。量少ないのが嫌だけど」
シャレた小さなベルで店員さんを呼ぶと、みやりんはブリュレとアイスティーを頼み、私はマカロンセットにプラス五十円でロイヤルミルクティーのアイスを頼んだ。店内は混んでいなかったからか、すぐに運ばれてきた。
「おぉいしぃー、来た甲斐があったあ!」みやりんはブリュレを一口食べると、声をあげた。
「みやりん、そんなにゼミ合宿が嫌なの?」
「嫌だよぅ。だって教授の勝手で動くし、前回だって散々だったじゃん」
まあ、それは頷ける。バスを貸切るとか、電車で移動とかならいいが、教授がピストン輸送でゼミ生を小分けにして、合宿中は移動する。しかしこれは先に移動したほうはみんなが揃うまで待ちぼうけだし、後に運ばれるメンバーは教授が戻ってくるまで待ちぼうけという、非効率極まりない手段なのだ。
「でも今回は反省を活かして、原田もレンタカー運転するって言っていたし」
二台も車があれば、一気に移動出来るし、全員の移動時間が短縮される。だけど、私の言葉で原田のことを思い出したのか、みやりんはまた頭を抱えた。私もそうだが、みやりんも原田が苦手らしい。
二人で他愛のない話をしていると、あっという間に二時間も経過していた。バスで最寄り駅まで着くと、十八時を回っていた。ホームには溢れかえりそうなほどサラリーマンや学生がいた。しかしやって来た電車に乗り込むと、座ることこそ出来なかったが、車内は案外空いていた。補助席は使用出来ない時間帯だから、補助席に二人でもたれかかった。
「かをり」
不意に名前を呼ばれて、横を見ると、みやりんがモジモジしていた。文字通り、モジモジしているのだ。
「何よー、なんかあったの?」
やっぱりモジモジしている。
「あのさあ」
みやりんがそこから数十秒だか数分だか、黙り込んでいる間私も辛抱強く黙り込んでいた。やがて、みやりんは小さな声で「ヨウダイと付き合ったの」と言った。
「えー、おめでとう!良かったじゃない!」
みやりんの両手を握ると、みやりんの顔が赤く染まった。昨日一緒に帰った時に、二人で映画を見て、告白されたらしい。その時はびっくりしたけど、手を握られた時に不思議とホッとしたという。
「それでまだ恋愛感情かは分からないんだけど、付き合ってもいいかなって」
「ほら!やっぱりベストカップルじゃん。私の勘は間違ってなかったのよ」
みやりんはありがとう、といつもより小さい声で言った。ヨウダイのことは正直よく知らないが、優しそうだし、みやりんの話からも付き合った女子は大切にしていることは知っていた。
「ゼミ合宿のあと、デート行くんだ。絶対新しく出来たケーキ屋のケーキバイキング連れてってやる」
「やめてあげなよ、苦手って言ってたでしょ」
本当はヨウダイとのことを言うためにカフェへ誘ったんだろう。だけど、去り際にはヨウダイとのことよりもゼミ合宿の愚痴を話していたため、ゼミ合宿が憂鬱だったのも嘘ではないようだ。
「じゃあね」
私がそう言うと、みやりんも同じ言葉を繰り返した。そしてもうすぐ開くであろう、私たちがいるドアと反対側のドア付近に立ったが、私の方を振り返った。
「デートのことまた聞いてくれる?」
「もちろん。当たり前じゃない」
デートでヨウダイを甘い物攻めでいじめないことを祈るばかりだ。電車が駅に着くと、今度こそ前を向いて、みやりんは開いたドアから人込みに紛れていった。
みやりんはもともと交友関係の幅も広いし、いつ彼氏が出来てもおかしくなかった。今までいなかったのが、不思議なくらいである。私は社交的なみやりんが羨ましかったが、誰でも私には見えないコンプレックスを持っているのかもしれない。だけど、私はそれでも生まれ変わるなら、自分ではない誰かに生まれ変わりたい。