ヴェルデの杞憂
次の日、二限目の講義を受け終わったあとに講義室を出ると、ちょうど原田と会った。赤と緑の色褪せたチェックのシャツが目に入り、すぐに原田だと分かった。どこにでもあるシャツだが、年季の入り具合と彼の着る頻度で分かったのだ。彼は週に四回はこのシャツを着ている。
「今日四限が終わったら、研究室に集合で。今週の土日で合宿をする予定だから、その打ち合わせな」
げっ、週末は梨沙子と約束してたのに。私の心の声がなぜか伝わっていたのか、一瞬原田の目が私を軽蔑するかのように細くなったが、何も言わずに講義室の一番前の席へ歩いて行った。
合宿のことをすっかり忘れていた。梨沙子に謝りの連絡を入れて、足早に講義室から離れた。キャンパスを歩いて、食堂へ向かうと人がごった返しており、私は辛うじて空いていた一人席を確保すると、親子丼の列に並んだ。レジを済ませ、お箸を取り、水をコップに注ぐと、また人込みを縫うようにして席にたどり着いた。
毎度二限終わりはちょうど昼頃なので、食堂はバーゲンセール中のショッピングモールのようになる。早く食べたつもりだったが、私が親子丼を完食した時、時刻は三限が開始される十五分前だった。
この授業は一般教養で、自分で学期初めに選択出来るので、やたら難しい数式などは予め避けておくことが出来る。私が選んだのは「哲学と倫理」という単位が取れやすいと評判の授業だったが、数式の代わりに小難しいテーマを教授が著した教科書に沿って、教授がひたすら力説していくという、これまた地獄のように面白くない授業だった。
肘をついて手で支えていた頭がガクンと下がったところで、背筋を伸ばした。胸を張って、小さく欠伸をすると、何度か瞬きを繰り返す。
その時、ヴーッとバイブレーションのような音が机を通して響いた。携帯を手に取ったが、正体は携帯ではなかった。鞄からヴェルデを取り出し、ゆっくりと机の上に置いた。周りの様子を窺ったが、誰も私のことなんて気にも留めていなかった。
「一体どうしたの?」誰も気にしていないとはいえ、出来るだけ声を小さくして、問いかけた。
―――この講義は興味深い。机の上に僕を置いておいてくれ
「いいけど。こんな話面白いの?」
私はもう一度前を向き直った。教壇の椅子に座っている教授は禿げているわりに、色白で肌ツヤが良い。頭だけ見ると、年齢はおおよそ四十代ぐらいと予想出来るのだが、肌ツヤのせいで私の脳内年齢予想メーターが行ったり来たりしている。
「分からないわー、面白さが」
教授の年齢予想はまあまあ面白いけれど。私のそんな言葉も今は聞こえていないのか、ヴェルデは何も反応しなくなった。でも、巡り巡って実は教授が二十代なのではないか、と私の脳内年齢予想メーターが馬鹿になったところで、ようやくヴェルデは反応を示した。
―――とても面白い。君は面白くないのか
「面白くない。どこがそんなに面白いの?」
―――その時代の人間を知るにはその時代の思想を知ることが一番近道であり、哲学もそれに通ずる
「ふうん。やっぱりヴェルデって何だかんだ言って、人間が好きなんだね」
―――好きというのは適切な表現ではない。なぜそのような結論になるんだ
「人間のことが好きだから、人間のことを知りたいと思うんじゃないの?」
私はものすごい軽い気持ちで言ったつもりだったが、どうやらヴェルデにとっては心外だったらしい。かなりの勢いで抗議のような文字をまくしたてていたが、難しくてよく分からなかった。
―――人間は僕の興味の対象でしかない
「人間になりたいと思ったことは?」
―――あるわけがないだろう。か弱き生き物になるのはもうごめんだ
ヴェルデの言い方からすれば、前はか弱い生き物だったと白状していることと同じだ。私が気付いたのと同時に、ヴェルデも口が滑ったことに気が付いたらしい。行動するのはヴェルデのほうが早く、私が言葉を発するのを遮るように文字を示した。
―――君と話していると、碌なことがない。講義に集中させてくれないか
「ひょっとして、昔人間だったの?」ヴェルデは私の問いかけに勿論、反応しない。「ねえ、そうなの?否定しないってことは認めることになるんだよ」
この件については一切話さないつもりなのか、ヴェルデはどれだけ私が話しかけても、ただの石になったように沈黙を貫いた。
人間でなくとも、石とは別の「か弱き生き物」だったに違いない。私は何が何でもヴェルデの口を割らそうとしたが、講義が終わってもまさにヴェルデの口は石のように堅く、絶対に何かヒントになるようなことを洩らさなかった。
人間や他の生き物が石に変えられるようなことなんてあるのだろうか。いや、ヴェルデの世界ならあり得るかもしれない。自分が望んでそうなったのか、偶然何かの拍子に変わってしまったのか、誰かの悪意で変えられてしまったのかは分からないが。ヴェルデを遣わせた「あの御方」は知っていたのだろうか。ヴェルデがもとは石以外の何かで、なぜ石になってしまったのかを。
ヴェルデのことは気掛かりだったが、直接尋ねても埒が明かないため頭の片隅に置いて、一旦保留にしておくことにした。三限が終わると、図書館で時間を潰して、研究室へ向かった。
研究室に入り、私が席に腰かけると、その右隣に遅れてやって来たみやりんが座った。前回もこんなミーティングを行ったので、集合時間や場所、合宿の日程などを確認しただけだった。思ったよりも早くミーティングは終了したものの、四限終わりから始まったので、家に着くと、もう辺りは真っ暗だった。
相変わらずヴェルデは自分のことについては何も言わなかったが、それ以外のことなら普段通り話すようになっていた。私はそれでもやっぱりヴェルデに本当の姿のことを教えてほしかった。
「ヴェルデ、言いたくないのは分かるけど―――本当は人間だったんじゃない?もし私が向こうに行く理由があなたを本当の姿に戻すとか、そういうことなら―――」
何か出来ることがあるかもしれない、とヴェルデへ言葉を落した。正直のところ何も役には立たないだろうけど、万が一の可能性もあるし、力になりたいと思った。
―――僕はそんなつまらない要件で君を迎えに来たわけではない。それに戻りたくもない
「でも!」
―――君をそんな小さなことのために迎えに来たのではない。それに君が向こうへ行けば、僕はお役御免だ
「い、一緒に着いてきてくれるんじゃないの?」
―――それは出来ない。言ったように、僕は君を連れ出す役目を仰せつかっただけだ。本当はあの御方が亡くなる時、一緒に葬ってもらうはずだった。だが、あの御方の頼みで君のもとへ来た
「そんな!もし向こうへ行っても、きっとあなたがいないと何も出来ないし。何をしたらいいかさえも分かっていないのに!」
―――大丈夫だ。向こうでは君を皆必要としている。何をすればいいか、どうすればいいか、君の本能が分かっている
「分かっていなかったら?」
そういう場合だって当然ある。どんな安全とされている策でも、それが駄目だった時の案を用意するのは常套手段だ。プランAが失敗したら、プランBがあるのだ。
当然ヴェルデも何かを準備しているはずだ。例えば、ヴェルデに呼びかけると一度だけ応答出来て、何か私に指示を送るとか、確実に誰か助けてくれる人がいるとか。そんな私の期待をよそに、ヴェルデはきっぱりと言い放つ。
―――その場合、君を見込んだ僕の見る目がなかったということになる
「それだけなの!?」
―――いいかい、向こうはシナリオのあるゲームや絵本の世界とは違う。シナリオに沿って動くキャラクターなら、君以外でもいいんだ。君が向こうに行く意味は、君自身にあると前も言ったはずだ
何をするのかは検討もつかないが、私が何か大それたことを決断出来るようにも思えない。そもそも大それたことが出来るならこんな人生を送っていないはずである。きっと向こうへ放り出されても、私は何も出来ない。
「ヴェルデは私を買いかぶってるんだよ」
―――先が決まっていない世界や不安定な世界でこそ、必ず君は生かされる
大丈夫だ、とヴェルデは確信したように話すが、他人事だからそんなことが言えるだけなのだ。
「私自身のことは私がよく分かってる」
自分が何が出来て、何が出来ないのか、ヴェルデよりも分かっている。数少ない出来ることのなかで、向こうへ行って何かが出来ることがあるとも思えない。
卵焼きを作ることぐらいなら出来るかもしれないが、きっと卵焼き対決をわざわざしに行くわけではない。あとは小学生のころにハマっていたけん玉もまだ出来る分野かもしれないが、けん玉の技術が何か役立つこともないだろう。
「私は、私はあなたが思ったような人間じゃない」
―――さあ、それはどうだろう
「ヴェルデは私が何かを出来ると思っているの?」
―――僕は今の君が何を出来るのかは知らない。そんなもの、何かを成し遂げてからでないと分からないだろう。結果を見て、人々は言うのだ。あの人は偉大なことを出来る人だと思っていたと
その逆もある、とヴェルデが言った。きっとヴェルデの表情が見えたなら、苦虫を嚙み潰したような顔をしてるのではないかと思った。何か思い当たる節があるのかもしれない。人間だった時の経験したことかもしれない。私はとても気になったが、きっとヴェルデは聞かれたくないだろう。
私はヴェルデの言ったことの意味を余すことなくきちんと理解出来ているかと聞かれればそうではないけれど、「うん」と一度頷いた。頷いてあげることが一番ヴェルデの味方になれると思った。
―――大事なことは、その何も出来ない君が向こうへ行くことに意味があるというところだよ。君は必要だ、これからの向こうでは
「これからの向こう?」
聞き返しても、ヴェルデは何も説明してくれなかった。だけど私がもし向こうへ行っても、卵焼き対決をしないのは決定的だ。もしかして、私が考えているよりも遥かに重大な任務があるのではないだろうか。想像もつかないけど。
「もしも私が本当に行くことを断ったら、あなたはどうなるの?」
ヴェルデはやや間を空けて、文字を示した。
―――石自体は砕ける。それと同時に僕の魂も消滅するだろう。ミッション失敗というわけだ
私は何も言えなかったが、ヴェルデは快活な笑い声が今にも聞こえてきそうなほど、さっぱりとしていた。私が行ったところで、ヴェルデはいなくなってしまうが、石が砕け、ヴェルデの魂が消滅することとは全然違うだろう。
―――このことを君に教えることは君にとって良くないと思っていた。君と対話するうちにどうやら君は心の一部を他者のために使用したがる者だと分かったからだ。君はきっと僕に心の一部を使い・・・
「つまりあなたに私が情を感じて、本意じゃないけどあなたのために向こうへ行くと決断するかもしれないって?」ヴェルデの長ったらしい文章を遮るように私がそう言った。
またやや間を空けて、ヴェルデが答えた。
―――つまり、そういうことだ
罰が悪そうな顔でも見れれば、私の腹の居所もまだ収まったかもしれないが、こうも簡単に答えられると、腹が立つ。でも、私はそんな簡単に感情に振り回されたりしない。
口から熱い何かが勢いに任せて飛び出そうになったが、寸前で息を深く吸い込んで、お腹の底まで押し込めた。
「私はそんなこと思ってない」まるで熱を全く帯びていないロボットみたいな声だ。「全く思ってない」
―――そうか、僕の杞憂だったようだ。ただやはり君は向こうに必要だ。僕のことは関係なく、向こうへ行ってほしい
私は何も言わなかった。ただ何故だか分からないが、掌が鉄板のように熱くなっていた。机上にあるヴェルデを手に取ろうとしたが、手に取ってしまえば、私の心の内が全て掌の熱からヴェルデへ伝わる気がして、ぎゅっと拳を作った。
「もう寝る」
机上にヴェルデを残したまま、椅子から立ち上がりベッドに視線を移した。しかし、もう一度ヴェルデを見ると、「おやすみ」という四文字だけを映し出していた。
あんな早い時間に寝れるわけもないが、目をつぶってしまえば、きっちり睡魔に襲われて、次に目を覚ますと、朝の四時だった。