雨宿りの博物館
「雨だ」
空は薄暗く、今にも本降りになりそうだった。私は急いで、公園を抜けると、ここから一番近い雨宿り出来る場所へ走った。通り雨かもしれないが、ゲリラ豪雨のように降り注ぐ雨の中、歩いてバス乗り場まで行くのは不可能だ。
顔についている水滴を拭うと、建物のなかへ入ることにした。ここは公園のすぐ近くにある博物館で、公園が出来る前からたまに訪れることがあった。
エントランスで服の端を絞っていると、館員の人がタオルを差し出してくれた。
「すごい雨ですなあ」
「ありがとうございます」
振り返ると、この博物館の学芸員であろうか、六十代ぐらいの男性だった。ガラス張りの窓から雨が叩きつけられるように降っているのが見えた。
「いつもあなたはお一人で来られますね」男性は朗らかに言った。
どうやら私がたまにここへ来ていたことを覚えていたらしい。この博物館は規模としてはかなり小さいし、来訪客も普段は地元の高齢者ばかりだから、私が目立った存在だったのかもしれない。
「あまり友達がいないので」
私が小さな声でそう言うと、男性は声をあげてゆったりと笑った。
「いつも時計の間にいらしたでしょう。なにかわけがあるのですか?いつか理由をお尋ねしたいと思っておりました」
時計の間というのはこの博物館の展示室の名前で、江戸時代から現代に至るまで使われていた様々な時計が壁一面に飾られている。
「ここに来ると、あそこに行ってしまうんです。深い訳はありません」
「そうですか」と男性がうなずいた。
まだ雨は降り続いていて、雷が遠くで聞こえた。
「お嬢さん、今を生きなければなりませんよ。時計に魅入られてしまわないように」
私が男性の言葉を聞き返したとき、深刻そうだった男性の顔が笑顔に変わった。
「なあに、昔からの言い伝えなんですよ。時計には人を連れ去る魔力があるとね―――鏡にも似たような言い伝えがあってね。お嬢さんが毎回あまりにも真剣に時計を見てるもんですから」
まるでいたずらが成功したかのように男性は笑った。私よりも愛嬌がある男性は首に「ササモト」と名札をぶら下げていることに気が付いた。
「ササモトさんは時計の魔力を信じていますか?」
「さあねえ、どうでしょうかね。人の気持ち次第なんじゃないでしょうか。時計をただのアンティークにしか見ない人もいれば、針を人生に見立てる人もいます。時計の捉え方は人それぞれで、ごくまれに―――時計に背中を押されて、神隠しのように消えてしまう人間もいるんですよ。でもまあ、それはその人が時計をそのように見たからであって、その人が望んだ結果なのかもしれません」
「私は―――」
なにか言わなければならないと、見切り発車で言葉が口から滑り出たが、あとに続く言葉が思い浮かばなかった。何を言おうとしたのかは、自分でも分からなかった。
「これは古い言い伝えですから。ちょっと怖がらせすぎましたかね」
「いえ。あの、時計は魅力があります。どんな魅力かうまく説明出来ませんけど、でもそういう言い伝えに繋がったことも理解出来ます」
私があの展示室に行くようになったのは、小学生の頃からで、その頃から欠かさず行くようになったが、きっと何か説明出来ない魅力があるからに違いない。言葉にできたらどんなにいいだろうって思うけど、その魅力を人に伝えるのはなかなか難しいように思えた。
「少し観ていかれますか?」
「はい。せっかく来ましたし」
私は有難く借りたタオルを返して、あの展示室へ向かった。博物館は二階建てで、らせん階段をエントランスから上がってすぐ左手にある部屋へ入った。木目調の部屋に、所狭しと時計が並んでいる。小学生から変わらない風景だった。
「あれは何だったの?わかってるんでしょ」
―――入口はいつも傍にあると言っただろう。言っておくが、僕が何かしたわけじゃないぞ
「あの木が入口だったの?」
―――特に入口に決まりはない。入口が現れたのは君の心に変化があったからだ
私はヴェルデの言葉に何も言わなかった。口を開く代わりに、天井を見上げた。円形になった天井には万華鏡のように綺麗な絵柄が描かれている。このような天井は他の展示室にはない。この時計の間だけなのだ。
「ここの博物館はたまに来るの。ついでだから、案内しとくけど」
制度が変わって、市が民間に運営を委託したとかしないとか、そういった噂は聞いたけど、運営自体にさほど変化は見られない。
「大きい展示室はないし、数も少ないけど、ここの時計の間が気に入ってるの。初めはお母さんに連れてきてもらったんだけど、小学生になってからは自分一人で来てた」
一人で時計を眺めることが好きだった。小学生なんかになると、女子同士で仲間外れのターゲットを決めたり、好きな男子のことを内緒話で授業中に話したり、下着をつけ始めた子が大人っぽく見えたり―――心がよく揺れていた。それも不規則に、時にはジェットコースターみたいな速さを伴って、グラグラ揺れていた。
そんな時、ここの時計の秒針の音を聞くと、乱れていた心は正確に、ゆっくりと安らぐのだ。それは私にとって、何にも代えがたいものだった。
時計が入っているガラスケースはほこりひとつなく、私の姿までくっきり映しだしている。
自分ってこんなまぬけ顔だったのか。
ここへ通うようになってから、随分経った。ここへたしかに来ていたはずなのに、ガラスケースに映る自分の顔は初めて見たかのようだった。幾度となく、このガラスケースの前に立ってきたはずである。だけど記念写真だって、撮るだけ撮って、あとは見ないで放っておくことが多々あるし、お土産だって買うだけ買って、部屋の隅に置きっぱなしのことが大半である。思い出ってその程度のものなのかもしれない。
博物館からバス停に到着する頃には、雨ももう止んでいて、バスを待っていると、ちょうどゼミ長の原田からメッセージを受信した。
ゼミ合宿を次の土曜日に開催するというものだった。その数分後、みやりんからもメッセージが来た。その内容は読まずとも分かる。メッセージを開くと、私の読み通りの内容である。私もめんどくさいよと返信して、やって来たバスに乗り込んだ。
家に帰ると、お母さんがキッチンに立っていた。今日は仕事が早く終わったらしい。洗面所で手を洗おうと鏡を見て、また情けない悲鳴を上げた。
「し、心臓が止まるかと思った」
お母さんが何事かと洗面所までやって来たが、私の様子を見て、眉に皺を寄せた。
「なに、何の悲鳴?」
「なんか、虫が―――いたような―――」
「虫ぐらいであんな悲鳴上げないで。虫のほうがあんたにびっくりしてるわよ」
お母さんは「中断して損した」と文句を言いながら、キッチンへ戻っていった。きっとお母さんには見えないだろうし、(見えていたとしたら、今はもう家中大騒ぎのはずだ)本当のことを言ったら、また変な妄想癖が炸裂していると思われるに違いないので、言わなかった。
鏡に映る私はまたあの、化物だった。鏡を見ないように、手を洗い、私はそそくさと自分の部屋に戻って、何もかも振り切るようにベッドへダイブした。
「そうだ、レポートやってないんだった」
ノロノロと大学用の鞄から、ノートパソコンを取り出した。五千字程度で資本主義について、論じよというお題だが、資本主義そのものが未だにきちんと説明出来ないので、書きようがない。あんなに授業で習ったはずなのに、何一つ頭に入っていないというのが、悲しき現状である。
きちんと授業を聞いていたら、レポートを書く直前に「資本主義について」なんて初歩の初歩を授業のレジュメで見直すなんてことしなくていいはずなのに。いつも睡魔に負けて、寝てばかりの自分が恨めしい自業自得な時間を二時間ほど過ごし、ようやくレポートに取り掛かった時はもう七時を回った頃だった。深夜三時までかかり、ようやく書き終えた。間に晩御飯やお風呂を挟んだので、自分のなかじゃ驚異的なスピードで書き終えたと言える。計画的に進めていれば、こんなことにはならなかったのに。私はいつもギリギリに切羽詰まった状況に追い込まれてから、過去の自分を悔やむことを繰り返している。
朝、いつもより一本早い電車に乗り込んだ。ぎゅうぎゅうの満員電車に揺られ、乗り換えをして、やっとの思いで学校に着くと、図書館のなかにあるパソコン室でレポートを印刷し、教室に入ると、ギリギリだった。
授業が終わり、キャンパスを歩いていると、スーツ姿の男性に呼び止められた。それはゼミの先輩だった。佐倉勇樹という男は小太りで、汗っかきで、年齢は二個上だったが、気軽に話せる数少ない先輩の一人でゼミでの飲み会がきっかけで親しくなった。自分の体形やモテないという自虐的なエピソードをよく話す。女性にはモテないかもしれないが、きっと人望は厚いだろうと思う。私はいつもみんなの中にいる、この人が羨ましかった。
「佐倉さん、スーツということは就活ですか?」
「そうそう。こんなクソ暑い時期までやるなんて地獄だよ」佐倉さんはポケットから取り出した青いハンカチで額の汗を拭った。
「ニヤニヤすんな!お前だっていずれやることになるんだからな!」
「別に笑ってませんよ。ただ大変だなあって思っただけで」
「早い奴は春で内定出てるからなあ、ゼミの奴らも何人かは四月で就活を終えてたし―――まあこんな夏まで続ける俺は長すぎるけど」
佐倉さんは空を見上げた。私もつられて、目線を上げると、雲一つない空に飛行機雲が一直線に架かっていた。
「金融系を狙っているんですよね」
「うーん、まあな。中盤まではそうだったんだけど」
「今はまた別の業界見てるんですか?」
佐倉さんは腕組みをしている右手を喉もとに当てて「なんて言うかなあ」と呟いた。佐倉さんは何かを真剣に考えるとき、この仕草をする。飲み会で「好きなアニメはなんですか」と軽い気持ちで聞いただけなのに、この仕草をして四十分ほど熱く好きなアニメのキャラクターについて話されたのを思い出した。
「業界のなかでも、自分の行きたい部署があるだろ。でも、その部署は会社によって新人を募集していたりしていなかったりするんだよ。そんで、同じ業界だから違う部署でもいいやって応募するだろ。そういうことを繰り返しているうちに、初めの自分の理想と全く違う志望になってるわけよ」じゃあ思うだろ、別にこの業界じゃなくてもいいじゃんってさ、と佐倉さんが力なく笑った。
私はとても見てはいけない笑顔を見たような気になってしまった。佐倉さんも私に今の表情を見てほしくなかったかもしれない。
何も経験していない私は何も言う資格がないように思えた。「頑張ってください」も「元気を出してください」も。
「中心に自分の理想があって、そっからどんどん何十にも円を描いていったら、途中でふと気づくんだよ、どれだけ中心から離れているか。それだけ妥協しても、エントリーシートが通らなかったりしたらきっついぞー」
「―――そうですよね」
私が言えたのは、そんな冴えない言葉だった。こんな時、もっと上手く相手をフォロー出来たら、どんなにいいだろう。私はこんな場面で一度も人に気の利いた言葉を言えたことがない。
例えばみやりんだったら、相手にどんな言葉をかけるんだろう、とか考えてみても、所詮中身は私のため、何もいい言葉は思い浮かんでこなかった。だけど次に私が何か言う前に佐倉さんが私に謝った。
「悪い悪い。お前はまだこれからだからなあ。出来るだけインターンシップとかに行って、色んな業界見ておいたほうがいいぞ」
「分かりました、肝に銘じておきます」私がふざけて敬礼をすると、佐倉さんはいつもの表情に変わっていた。
「お前は案外警察官とか向いてるかもな」
「そうですかねえ、初めて言われましたけど」
それは今敬礼したからなんじゃないのか、と思ったが、佐倉さんなりの理由があるようだった。
「お前、結構正義感強いと思うし。この前の飲み会でも、花巻に怒って、早見さんのこと庇っただろ」
「いや、あれは庇ったっていうか―――」
佐倉さんの言った出来事は上回生も交えて開かれた飲み会で起こったことだった。花巻というのは佐倉さんと同級生で、つまり私のゼミの先輩にあたるわけだが、かなり普段からでもお調子者で、お酒が入ると、さらにお調子者になって、悪ノリがひどくなる。
その時もみんなお酒が入っていて、いつものようにどんちゃん騒ぎだった。三卓ぐらいの丸テーブルに分かれて座っており、同じテーブルに花巻さんと佐倉さん、それに早見友里という私の同級生が座っていた。そのなかで花巻さんが友里ちゃんのことを、例の悪ノリでからかい始めたから、私が怒ったのだ。
「友里ちゃんも泣きそうだったし、花巻さんがあまりにも酷かったから言っただけですよ。庇ったとか大げさなもんじゃないです」
「思ってても、実際言える人間って少ないと思うぞ」
「それはそうかもしれませんけど。でも友里ちゃんのためを思ってというよりも、自分が腹立ったから怒っただけなんですよ」
要は相手のためよりも自分の心を優先したのだ。本当は友里ちゃんも事を荒げたくなかったのかもしれないし、花巻さんもコミュニケーションのために少しやりすぎてしまっただけかもしれないし。あそこで怒ったのはやりすぎだったのかもしれない、と思い返すたびに思う。だが佐倉さんは私のそんな後ろ向きの態度が鬱陶しかったのか、眉に皺を寄せた。
「お前、妙なところで頑固だな。見てた人間が庇ってたつうんだから、庇ってたってことでいいんだよ」佐倉さんは丸っこい指で私を指さした。
佐倉さんのほうが絶対に頑固だ。そう思ったが、これを言うとまた指をさされながら、反撃を食らいそうだったので、何も言わないでおいた。
「ともかく将来のこと、今から考えておいたほうがいいぞ」
「はあい」
佐倉さんはゼミの研究室へ行くと言って、私と反対側へ歩いて行った。それからお昼ご飯を一人で食べてから、午後の講義室へ入った。
みやりんが軽く手を振った。真ん中あたりの窓際に座っていて、私の席も確保してくれていた。
「そういえば佐倉さんに会ったよ」
「へえ、佐倉さんかあ。私、しばらく見てないな」みやりんは私の分のレジュメを渡してくれた。「元気だった?」
「うん。でも、就活で大変そうだった」
「ああ、まあねえ。この時期までやってるとなるとねえ」
みやりんはあまり佐倉さんに興味がないようだった。そういえばゼミでもみやりんは佐倉さんよりも花巻さんとのほうがよく話していたかもしれない。花巻さんは普通にしていればちょっとチャラいけど良い人だし、私もよく話しかけてもらっていた。正しく「モテる人」を体現しているような風貌で、確かダンスサークルに入っていたはずだ。
いつも通り授業を受けて、家に帰ると、六時を回っていた。家にはまだ誰も帰っていないようだった。
部屋に鞄を置き、カーテンを閉めて、ヴェルデを鞄から取り出すと、扇風機の前に置いた。何となく鞄の中に入れっぱなしだったから、お詫びのつもりだったが、余計なお世話だったらしい。ヴェルデは程なく赤く点滅し始めた。
―――何の嫌がらせだ。僕は何もしていないぞ
「鞄の中だと暑かったかなあと思って」
―――別に暑くなどない。人工の風に当たらされているほうが不愉快だ
「そりゃすみませんね」
机の上にヴェルデを置くと、点滅をしなくなった。勉強机のライトをつけると、ヴェルデはキラキラと緑色に輝いた。こうして見ると、本当にダイアモンドみたいだ。ヴェルデに反射して映る私の顔は化け物じゃなかった。けれど、じっと見つめていると、光の欠片に吸い込まれてしまいそうだった。
―――何か言いたいことがあるなら、思った時に言うべきだ
「どうして?」
―――残念なことに君が思うよりも、ずっと君の人生は短いんだよ。迷っている暇はない
少なくともヴェルデより早く死ぬだろう。それでも、私はあと少なくとも五十年は生きるつもりだった。それは短いのだろうか。私はまだ五十年という年月の速さが分からない。
「でも、あんまり分からないな。命の短さなんて」
―――死ぬ間際にようやく分かるさ、瞬きをするような命の短さだったと
「ふうん、そんなものなのかなあ」
私はどう死ぬのだろう。病気か事故か老衰か、考えられる死因はそんなところだけど、今のところ一番の希望は老衰で緩やかなに死にたい。でも「最高の死に方」を考える前に「最高の生き方」を考えるほうが今の自分にとっては必要だと思う。
「みんな将来ってどうやって決めるんだろう」
ヴェルデに相談するのは見当違いだと分かっていたが、人生は短いらしいから聞いてみる。答えは期待していなかったけど、ヴェルデは答えてくれた。
―――この世界は先が見えすぎている
「でも先が見えるから、安定した将来が選べるんじゃない」
―――何でもかんでも先が見えると、かえって迷うこともあるんだよ。君の先輩みたいに
ヴェルデは鞄の奥底で佐倉さんとの会話を聞いていたらしい。皮肉たっぷりな言い方に私はむっとした。
「どうしてそんなふうに言うの」
―――本当のことさ。選択肢が多ければ多いほど、己の気持ちと真逆の選択をする可能性が大いに高い
「それは誰か有名な人の格言?」
―――いや、ただ愚かな人間をずっと観察し続けた僕から君への助言だよ
相変わらず感情の起伏が読めないが、特に見下しているわけでもなさそうだった。ヴェルデはいつだって、客観的に物事を見ている。でも、だからこそ私は「そうではない」と抗いたくなるのだ。
「ヴェルデ、人間は確かに愚かな部分もあるかもしれないけど、愚かなだけじゃないよ」
ヴェルデのほうが私よりもずっと長く生きている。きっと人間の愚かさというもを私よりよく分かっているだろうけど、私はそれでも、どうしても反論したかった。
「そんな人間ばかりじゃないよ」
―――君の本気でそのようなことを信じているところ、実に僕の興味を引くよ
「それ私のこと馬鹿にしてる?」
戦闘モードに突入しかけた私をあっさりとかわすようにヴェルデが軽快に文字を表した。
―――いいや、感心しているんだ。綺麗ごとを全く綺麗ごとだと思っていない
ヴェルデは悪びれずにきっぱりと言い切った。
「感心しているようにはとても思えない言い方だけど」
―――僕は単純にずっと不思議なんだよ。どうしてそう思えるのかがね
「ずっと?」
―――あの御方もそうだった。いい加減分かるはずなのに、それでも綺麗ごとを最後まで信じていた。そういう人間はまれに存在する
ヴェルデは馬鹿にしていないと言うけど、私は馬鹿にされているようにしか思えなかった。それでも、ヴェルデはきっと「あの御方」を馬鹿にするようなことは決して言わないだろうし、馬鹿にしていないというのは本当のことなのだろう。
「一番自分に合った選択をするにはどうしたらいいの?」
―――一つ君に言っておくが、全く後悔しない選択は存在しない。その証拠に自らの選択で苦悩する人間を僕は山のように見ている
「じゃあ何かを選択する時、どういう基準で選んだらいいの?」
私は何か特別な技でもあるのかと期待したが、ヴェルデの技は至ってシンプルなことだった。
―――自分に与えられた選択肢のなかで自分の好きなほうへ進むことだ
「たったそれだけ?」
―――たったそれだけが出来ないのが君たちなんじゃないのかい
そもそも先が見えるせいか、自分に与えられる選択肢は多いような気がしていたけど、実際はそうでもないのかもしれない。「自分に与えられた選択肢」には、先を見越して「手に入りそうな選択肢」は入らないだろう。
―――君たちは何でも手に入れようとする。そんなこと出来やしないのに
「そう言われると、何も返す言葉は見つからないけど」
ヴェルデの至極真っ直ぐな言葉は矢のように、物凄い威力でぐさりと私の心に刺さる。
「でも、自分の選択で自分以外の誰かを幸せに出来るかもしれないとか考えることもあるよ。私利私欲だけで選択肢を選ぶんじゃないから、余計に迷うんだと思う」
他人のことも考えるから、迷うことだってきっとある。自分だけのことしか考えないほうが早く決断出来るような気がする。
―――君は分かりやすい人間だな、綺麗ごとを貫く点においてブレがない
ヴェルデは相変わらず冷めた口調だったが、私を馬鹿にするような態度は見せなかった。肯定的な意見が私にとっては意外だったが、ヴェルデは嘘をつかないから、本心を言っているんだと思う。
―――良いんじゃないか。綺麗ごとを事実だと信じられるのは限られた人間の才能だ
「そりゃどうも」
私は見事に膨れっ面だったが、ヴェルデはじわっと赤くなった。手に取ってみると、温かくなっている。もしかすると、ヴェルデは笑っているのかもしれない。だけど私の全くの見当違いの可能性が大いにある。表情や声から読み取れない以上、ヴェルデの気持ちはヴェルデにしか分からないのだ。