ヴェルデと私
私はその日特に早く寝ることもせず、普段通りの時間だったが、起床時間は普段の休日と違って、かなり早かった。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
いきなり大きな音が鳴り響いて、枕元の携帯を取った。時刻は六時三十八分で、まだアラームをかけた時間ではない。それにこの不愉快な音は携帯が発生源ではなかった。
「お願いだから、寝させてってば」布団を頭から被ったけど、音は鳴り続けている。「ねえ、お願いだから。あと三十分―――」
絶え間なく音が響いている。
「ヴェルデ!起きるからやめて!」ぴたりと音が止んだ。
私はありったけの力を振り絞って、布団から上半身を起こした。何度か深く息を吸って、ようやく顔を上げて、「音の発信源」を目で探した。置いたはずないのに、ヴェルデは勉強机の上に鎮座していた。山積みになったプリントの上で緑色に輝いている。
「なによ、どうしたの?」
あくびをしながら、ヴェルデのもとへのろのろと歩み寄った。こんな朝早い時間に起きたのは久しぶりだった。
―――この町を案内してほしい。見てみたくなった
「はあ?」と素っ頓狂な声を出した。なんで朝っぱらからそんなことをしないといけないんだ。それより何より朝一にたたき起こして伝えるほどのことではない。
「そんなの別に午後からでも出来るでしょ。分かったから、もう少し寝かせてよ」
私は布団のほうへくるりと向き直った。でも足を前に出した瞬間、なんだかとてつもなく嫌な予感がして、もう一度振り返った。山積みのプリントの上でヴェルデは輝いている。今度は緑色じゃなくて、燃え上がる赤色だった。
私はバスのなかで重いため息をついていた。手にはヴェルデを乗せている。このバスは市営で近辺をぐるぐる回る。黄色いこのバスに乗ったのはいつぶりだろう。乗客はまばらで、高齢者ばかりだった。この市営バスは、この町の高齢者に発布される証明書を見せれば、乗車賃がタダになる。それで市営バスの乗客はいつも高齢者ばかりなのだ。
ヴェルデにどうやってこの町を案内するのか悩んだ結果、この市営バスに乗って、目ぼしいところで降りて、ぶらぶらすることにした。そもそもヴェルデがこの町のどこを見たいのかも分からない。思えば、誰かに自分の町を案内するなんてしたこともないし、想定したこともなかった。
「ねえ、本当に私の町を見たいと思ってる?」
ヴェルデにそう問いかけながら、窓からの景色を見た。まだ代わり映えしない景色である。もう少し進めば、あまり普段行かない場所へ行けるはずだ。
「あ!ここの駄菓子屋美味しいんだよ。ねえ、見えた?」
最近は駄菓子屋なんて行くことはなかったし、記憶のなかに埋もれていた。でも、実際に見ると、思ったよりも思い出があるものだ。
バスに乗車して、約十分ほど経過した。街並みはかなり見覚えのない景色だった。普段普通に過ごしていたら徒歩で五分圏内のコンビニか、ドーナツ屋か、駅ぐらいしか行かない。狭い私の生活圏内から抜けると、地元だけど私の知らない町だ。
バス内でアナウンスが鳴った。「―――次は藤ばたけ、藤ばたけ」
「ここで降りるよ」私はヴェルデに声をかけてから、降車ボタンを押した。
藤ばたけは、「ばたけ」というほど藤の花があるわけではない。ただ大きな花壇が何個か並んだ円形広場があって、その広場を覆うようにして建てられたコンクリートの屋根に藤が垂れ下がっていて、区民憩いの場になっているというわけだ。
広場の真ん中にベンチが立てられていて、何人かが既に腰かけていた。鳩にエサをあげているおじさんと、競馬の新聞を読んでるおじさんが大半を占めてるけど、待ち合わせしてるであろう若者も、ベンチに腰かけていた。
「藤はこの区の象徴なんだって」ベンチのゴミを払って、座った。
江戸時代からこの周辺は全国でも藤の三大名所に入っていたらしい。ナントカ天皇が花見に訪れて、えらく感動したという。そして感動のあまり歌を詠んだって、小学生のうちから耳にタコが出来るぐらい授業で聞いた。
「私、なんでこんな幻覚見てるんだろう」
気温は十七度で、少し蒸し暑い。去年の夏、設置されたデジタル温度計は鳩の糞で汚れていた。屋根があるせいか、クーラーをつけないで家にいるよりかは涼しい。コンクリートの骨組みの間から見える青空は雲一つない。
「幻覚相手に律儀に案内するとか、あの独り言おじいさんと同じゾーンに入ってるよ」
―――君がこのままここに留まれば、同じように何かに執着するだろう
ヴェルデは唐突にそう言った。
私はふと、随分と歳を取った自分が公園でパンくずを鳩に投げている姿が浮かんだ。きっと目の前にいる鳩とおじさんのせいだ。
「執着しちゃいけないの?」
―――執着は心を硬くしてしまうからね
「ヴェルデの世界で生きてる人は執着してないの?」
―――してるよ。生きることは執着することと同じだ。でも、どこかへ行くには何にも執着していない者しか行けないんだよ
「どうして?」
―――執着はそこに人を留まらせる力だ。その力を持つと、もうどこへも行けない。でも、執着する前ならば、曇りなき眼で見定められるだろう
私はやっぱりヴェルデが何を言っているのかさっぱり分からなかった。しかも、その理論だと、私の目はもう曇りきっているはずだ。油がこびりついたキッチンのタイルと同じようにベタベタして、綺麗に視界は歪んで見えていることだろう。
私はここで生まれてから、数十年暮らしてきて、お世辞にも純粋な心や目を未だに持っているとは言えない。しかも、タイルはお掃除グッズでどうにかすれば綺麗になる可能性がある。でも、目の汚れを取ることは不可能だと思った。目薬でとれるなら、みんな曇りなき眼だろうし。
私は遠くを見つめた。子供が携帯ショップの前で、風船を配る店員から風船を受け取っていた。母親はベビーカーを押しながら、「絶対手を放しちゃだめよ!まーくん、いっつも飛ばしちゃうでしょう」と走り回る子供に声をかけていた。
まーくんは絶対もう一度風船を飛ばすだろうな。私はあの女性の母親としての苦労が想像出来た。もちろん子供を育てたことはないから、想像の気持ちでしかない。でも、小学生や中学生の頃は、きっと親子を見ても、子供の気持ちのほうが分かっていたような気がするのだ。それぐらい自分が大人になったということなのかもしれない。
あれぐらいの子供なら、曇りなき眼を持っているかもしれない。まだ何もかも学ぶ前で、見るものすべてが新しい子供なら、確かに眼は新築のキッチンの壁よりも綺麗だろう。でも、いろいろなことが分かる、今を曇ってるとも思いたくない。
それはまだ短いけど、生きてきたなかで、嫌なものや嫌いな人や、辛いことがあったから、分かるようになったことじゃないかと思うのだ。そう思うものの、きっとヴェルデは私の意見を一蹴するだろう。
―――どうして君なのか、僕にはトンと理由が分からなかったが、少しだけ理由が分かったような気がするよ
「なにが?」
―――あの御方が君のもとへ僕を遣わした理由さ
「教えてよ、その理由」
―――僕もまだ不確かだから、言えない
ヴェルデの「曇りなき眼」の定義がよく分からなくなった。私のどこをそんなに買っているんだろう。
鳩が足元へやってきた。カバンを漁ってみたが、何もあげられるようなものはない。それでも鳩は私の足元で餌を待つかのように何度も行き来している。
電子時計がポーンと軽快な音を鳴らして、正午を知らせた。
「ここで生まれたのに、どこか他のタマシイが持つとかあるの?」
―――必ずしも生まれた土地が永住の地になるとは限らないだろう。生まれた土地だけにこだわってしまったらいけないよ
バスに乗って、二駅先にある大きな公園に移動した。三年前の都市開発の際に、子育て世代を誘致しようとした際に計画されて、建設された公園である。広い敷地面積の半分は芝生になっていて、休日はいつも子供連れの家族や小学生でにぎわっている。
この公園が出来た頃、私はもう公園で遊んで喜ぶような歳ではなかったため、この公園に来たのは一度だけ、建設された当初だけである。売店でサンドウィッチを買って、芝生に座った。こういう施設内で買うご飯は大したものじゃないのに、特別美味しい気がするのはどうしてだろう。買ってきたばかりのたまごサンドをひとくち口に運んだ。
「ここは名所ってわけじゃないけど、この町じゃ一番今にぎわってるところだよ」
となると都市開発は成功したと言えるのかもしれないが、私の近所を見ていると、成功したとは言い難いのかもしれない。特に賑わっているとは思えないし、ファミリー層が増えたような感じもしない。
風が強く吹いて、私は思わず目をつぶった。隣に置いてあるリュックは土埃がついていたが、膝の上に置いたたまごサンドは私が手でガードしていたため、無事だった。
「私は何も出来ないよ。特別な能力もないし」
何かを成し遂げられる人間じゃない。それは自分が一番分かっている。薄々感じていた、ヴェルデのいた世界、私が誘われている世界はこの世にないと思う。無人島や海外じゃなくて、もっと私が知らないところなんじゃないかと思う。
―――なぜそう思う
「なぜって、だって私は特別な人間じゃないから」
―――君のいう特別な人間は具体的にどういう者のことを言うんだ
「そうだなあ、例えば誰にも負けないことがあるとか、いつも人の中心にいるとか、分け隔てなく誰とでも話せるとか、そういう要素を持つ人が特別な人間になれるんじゃない?」
自分のぶよぶよとした醜い部分と対峙し、観察して、報告する監察医のような気分になった。観察したことと真反対のことを報告しているのだ。何とも情けない気分だ。自分の根っこを見つめることは苦しい。自分が何もない人間なんだと、再確認させられる。ヴェルデと話していると惨めな気分になってくるので、切り上げようとしたが、ヴェルデは文字を表した。
―――特別ということは持つ要素では決まらない。結果を他人が見て、感じることだ
「そんなの嘘だよ」
私はつい強い口調になってしまい、ごめんと言った。でも、ヴェルデはさほど気にしていないようだった。
―――それに「特別」と「平凡」は紙一重だよ、カヲリ
ヴェルデは私の名前を初めて言った。石の表面に浮かび上がった私の名前は、ぐるぐると渦を巻いて石の中に吸い込まれていく。代わりにまた文字を浮かび上がらせた。
―――雑木林の中へ
「雑木林?あそこのこと?」
芝生を囲むように木々が植えられている。夏休みの今だと、カブトムシとかクワガタとか虫捕をする男の子がたくさんいる。この公園が出来るまで虫捕りが出来る公園なんてあまりなかったが、このあたりでは虫かごを持った幼稚園ぐらいの子から小学校六年生ぐらいの子をちらほら見かける。私もさっき小学生の男子三人が首から虫かごをぶら下げて、雑木林のなかへ入っていくのを見かけている。
「そこに入れってこと?私、虫とか苦手なんだけどなあ」
小学生男子と一緒にしないでほしい。虫捕りはおろか、芝生で遊ぶなんて何年もしていないのに。
私は残りのサンドウィッチを口に詰め込むと、重い腰をあげて、雑木林へ向かった。雑木林はうっそうとしていたが、芝生にいるより遥かに涼しかった。小さい子供の声も聞こえる。
「こんなに木が植えられていたなんて知らなかった」
上を見上げると、生い茂る葉の間から青空が見えた。風が吹くたびにざわざわと木が揺れる。幹に触れると、ひんやりして気持ちいい。頬をくっつけて、ゆっくり息を吸い込むと、良い香りがした。
耳を押し当てていると、幹から音が聞こえてきた。ミシミシなのか、ゴロゴロなのか、よく分からないが、とにかく何かが裂けるような音だ。
驚いて木から離れると、木は大きな音を立てながら、地響きとともに幹の真ん中が大きな円状にぱっくり割れた。
「いったい、何なの?」
木の周りをぐるりと一周したが、何の変哲もないただの丸い穴が木の幹に突如開いたようだ。
円を覗き込むと、一瞬だけ向こう側がぐにゃりと曲がったような気がした。向こう側がまるでどこかに繋がったような―――私は手を円の中に突っ込もうとした。ゆっくりゆっくり、左手をあげて、指先が円に入りかけた時、ぽたりと冷たい液体が指に触れた。
はっと周りを見渡してから、空を見上げた。