その石、ヴェルデ
次の日は土曜日で学校は休みだった。それにゼミ合宿へ行くつもりだったから、バイトもこの二日間入れていない。八時過ぎに目覚めると、もう家族はみんな居なかった。
パンを焼いている間に歯を磨いて、顔を洗う。小学生のころから変わらない、休日のルーティンだった。今日も同じようにトースターにパンを入れて、洗面台へ向かう。水でばしゃばしゃ顔を洗って、いつものようにタオルで顔を拭って、ふと鏡を見ると、私は情けない悲鳴を上げて勢いよく床に尻もちをついた。
間違いなく自分だったのに、自分ではない。鏡のなかの自分は口が裂けるくらいにやりと笑っていたような気もする。思わず自分の頬に手を当てた。ひんやりとしていた。自分の手が冷たかったのか、頬が冷たかったかは分からない。でも、頬に手を当てたおかげで自分の手がとても震えていることに気が付いた。
鏡に映った自分は自分ではなかった。どこがどう自分ではなかったのか、上手く言い表すことが出来ない。まるで自分の皮を被った、得体の知れない塊がいたような感じだった。自分の顔の肉を引っ張っても、何も剥がれることはない。
洗面台につかまって、ゆっくりとまた立ち上がった。鏡にはまた「私の皮を被った何か」が映っていた。私が両手を恐る恐る挙げると、鏡のなかの私もゆっくりと両手を挙げた。私が右手を振ると、鏡のなかの私は左手を振った。
「どういうことなの」
私だけど、私じゃない。鏡の前に立つ私とは全くの別人が映っている。まさかこれ私の妄想?幻覚を見ているのかもしれない。極力、鏡を見ないようにして洗面台を使い終えると、パンを急いで食べ終えて、逃げるようにして家を出た。
玄関を出ると、すぐに陽射しが私の肌をじりじりと焼いた。いつもなら汗がだらだら流れて嫌だけど、今は私を正気に戻すにはちょうどいい気温だった。陽射しに当たったことで、ようやく血が巡り始めたような気がした。
どこへ行こうか決めずに出てきてしまったが、家には戻りたくなかった。携帯と財布は一応持っていて、財布の中を確認すると、三千円と小銭がいくらか入っていた。交通機関で使える電子カードも入っている。私は家から五分ほどのところにある地下鉄で、図書館に行くことにした。ちょうど到着した電車に飛び乗ると、すぐに出発した。扇風機に当たると、身体が芯から冷えて、まるで氷漬けにされたような感じになった。カチコチになりながらも、空いている座席に座って、周りを伺ったが、誰も私を気に留めていない。でも、電車の窓に映る自分はやっぱり得体の知れない塊だった。
窓ガラスに映る、乗客はみんな化け物だった。騒ぎ立てる人は誰もいなかったし、写真を撮る人もいなかった。それどころか誰も気付いていないみたいだ。おかしい。みんな、おかしくなっちゃったんだ。
降車駅に着くと、ドアが開くなり飛び出すようにして改札口へ向かった。図書館は駅に隣接している。幼稚園の頃から母親に連れられて通ったため、私が休日に図書館へ行くことは普通のことだった。真面目だからとか何か目的があるからとか、そんなことではなくて、一人で電車に乗るようになってからは気が向くと、図書館へ足を運んでいた。
地元にある図書館よりも大きくて、広いこの図書館は自習席もあって、中学や高校時代はよくテスト勉強をしていた。私は自習席に座ると、手当たり次第に取ってきた本を積み上げて、上から目を通していく。『精神の病』『疲れているあなたへ』『精神疾患とその症状』『やばい幻覚百選』に目を通したが、あまり似たような症状は見つけられなかった。
図書館のトイレで鏡を見ると、やっぱり鏡に映る私は私じゃなかった。私はゆっくり鏡に近づいていた―――
ポケットが急にぽうっと温かく感じ、手を入れるとあの石が出てきた。持ってきていないはずなのに、ずっと私のポケットにいたようだった。
「全部あんたの仕業なの?」
石は何も答えなかった。
「私がこんなふうに幻覚を見るのは、あんたがしてることなの?」
―――僕が直接手を下してこうしているのかと言われれば、それは違う
「どういう意味?」
―――「僕」という異物と触れ合ったことで解離が起きているんだよ。本来は息を潜めている君が鏡に映っている
石が話すことはまるで理解出来ない。言語は通じ合っているはずなのによく分からない単語の羅列で何一つ頭に入って来なかった。
―――私たちの世界がすぐ近くに在る者は他にもいる。君ひとりではない
こんなものは私の単なる妄想だと考えながらも、やはり同じ境遇にいる人がいるなら気になる。もしかすると、この石は本当に幻覚で見る存在とかじゃないのかもしれない。到底、実際に存在しているこの世の物とも思えないけど。
「その人はどこにいるのよ、会わせてほしいんだけど」
大事なところだったのに石はまるでいきなり停電したみたいにぱっと灯りを消した。
「ちょっと!」
うんともすんとも言わなくなった石はまるで普通の石みたいになってしまった。何度も問いかけたが、返事がない。
「ねえ、どうしたの?そこまで言っておいて言わないなんて無しだよ!」
おーい、とまた声をかけた時、私自身が声を掛けられていることに気が付いた。
「大丈夫ですか?」図書館員の女性が私の肩に優しく腕を回していた。
「どうかなさいましたか」
「いえ、別に何もありません」
館員の女性は優しい微笑みを浮かべながら、一生懸命に私の話を聞く姿勢を貫いている。まるで不審者の気を逆なでないようにしているみたいだ。
そこで私は気が付いた。私は一人で図書館の女子トイレで石に話しかけている不審人物だと思われているらしい。カッと顔が赤くなるのを感じた。誰かが私を見て、通報したのかもしれない。
なぜトイレの個室に籠らなかったのかと悔やんでも、全て後の祭りである。
「どうかなさいましか」
「いやあ、その―――」
もごもご私は言い訳を言おうと口を動かしたが、言い訳しようとすればするほど、女性の微笑みがより聖母に近づいていく。
「これは違います」
落ち着いた口調できっぱり言ってみてはどうだろう。取り乱せば余計怪しまれるはず。渾身の落ち着き払った声を出した。
「もしも体調が優れないようでしたら、こちらへどうぞ」
効果は全くなかった。
「違うんです。私を不審人物だとお思いでしょうが、違うんですよ!」
「顔色が真っ白ですよ。とりあえずこちらへ」
私は半ば連行されるようにして女子トイレから連れ出された。
自分が不審人物だと思っている人は不審人物じゃないでしょう!私は自分の心のなかで叫んだ。仮にそれをここで叫んだとしても、余計に不審人物だと思われてしまうに違いないって分かっているからだ。ほうら、不審人物じゃない。
何を言っても余計に怪しまれると分かっていたから、どうにかこうにか女性の館員の言うことに反論しないように、うんうん頷いて、図書館から脱出した。
「人が来ていたなら教えて―――教えてくれたらよかったじゃない!」通行人に怪しまれないように小声で石に訴えた。
―――君はひどく興奮していた。そんな時に何を言っても無駄だと分かっていたから言わなかった
いやいや、そこは言うべきでしょう。おかげで不審者扱いされたじゃない。ひどく事務的な返答にがっかりしつつも、不審者に間違えられるほど興奮した理由を私は思い出した。
「私以外にもなんかいるって言ってたじゃん。僕らの世界に近いどうのこうのって」
―――いるさ。君も知っていると思うな
石は意味深な文字を浮かび上がらせた。
電車に乗って、また自宅の最寄り駅まで変えると、カラカラに喉乾いていた。無理もない。不審者に間違えられて、必死に弁明してたんだから。駅にある自販機に小銭を入れると、オレンジジュースのボタンを押した。
なんでこんなことに巻き込まれてるんだろう、私。全てはこの石のせいだ。よく分からない石に興味本位で近づいたのが運の尽きだった。今からでも遅くないし、どっかに捨てちゃおうかなあ。
「でも、どうせ捨てたところで戻ってきそうだしなあ」
まるで正解だとでも言うようにポケットのなかで石がじんわり熱くなった。家までの道のりでジュースを全部飲み干したから、途中のゴミ箱で捨てようと少しだけ迂回して、公園を通ることにした。公園にはゴミ箱がある。私みたいに公園を利用していないのにゴミだけ捨てる人もいるのが問題だと、この前区長さんが町内新聞のインタビューで言っていたのをふと思い出した。
「でも、ポイ捨てよりはいいじゃんねえ」
そうやって理由をつけて、公園のゴミ箱へ向かうと誰かがゴミ箱の中を覗いているようだった。業者の人にしてはごみ収集車も近くに止まっていない。
私はかなり近づいて、ようやくそれが誰だかわかった。「独り言おじいさん」である。おじいさんは何やらぶつぶつ唱えながら、一心不乱にゴミ箱の中を漁っていた。
うわあ、絶対声かけられたくない。初めて独り言おじいさんを見かけたが、このおじいさんに声をかけられた母親は結構怖かっただろうな、と思った。あの時もっとちゃんと話を聞いて、「怖かったんじゃないの?」とか言ってあげればよかった。
私はゆっくり独り言おじいさんから離れたが、おじいさんは急にゴミ箱に突っ込んでいた顔を上げた。さらに私のことをじっと見つめた。
なにこれ、こわいこわいこわい!心の中の私は走り出したい衝動に駆られたが、身体は動かなかった。
「なぜそれを持ってる!?」
独り言おじいさんは私の目の前にまで近づいてきて、そう叫んだ。目をかっぴらいているのも怖いけど、白目が淀んだ黄色で、全く白くないのも怖い。トータルで気味が悪い。
「それどこで拾った!?」
おじいさんに圧倒されて声を出せないでいると、ポケットのなかの石が振動した。まさかこの人が言っていた人なの?
「―――ええー」
私はそんな言葉しか出なかった。この人と一緒の次元にいるってなんか色々な意味でショックなんだけど。
「そ、そ、そ、それ!」
おじいさんはひどく興奮したように何かを要求してくる。目は微動だに私から目を離さないから、何のことか分からないけど、きっと石のことだ。私はゆっくりポケットから石を取り出して、おじいさんの目の前に出した。
「とりあえず落ち着いてください。これのことですよね?」
石は私の手のひらの上で煌々と存在感を放っている。
「もしかしてこれのせいで、独り言を言うようになったんですか?こうやってゴミを収集するようになったのも、このせいですか?」
きっとそうだ、石のせいに違いない。石がそういうふうにこのおじいさんをしてしまったんだ。そうと分かれば、私はこのおじいさんが気の毒に思えてきた。こんな理由があったなんて―――こんな理由話したって、きっと他人からは理解されない。
「私もそうなんです。あの一緒に解決策を―――」
「この缶はなかなか見つからないレア物だ!早くよこさんか!」
おじいさんが私が言い終わる前にそう言って、私の右手の上に乗る石には目もくれず、左手からオレンジジュースの缶を抜き取った。私があっけにとられていると、石は私を馬鹿にするように赤く点滅した。絶対に馬鹿にしている。
私は独り言おじいさんから缶をぶん取ると、家まで全速力で走った。後ろからおじいさんの声が聞こえたが、意地でも振り返らなかった。
部屋に入ると、自分のベッドに石を放り投げた。
「違ったら言っててば!」
石の前に胡座をかいて座ると、石は文字を浮かび上がらせた。
―――間違っていない。僕が君以外にもいると言ったのは、さっきの者だ
「でも、あなたに反応しなかった」
―――みんながみんな僕の声が聞こえるわけじゃない
「行こうと思えば、あのおじいさんもその、あなたの世界に行けるってこと?」
―――あの者はここで居場所を見つけたようだから、もうここを離れることは出来ない。ここで「執着」を見つけた者はどこへもいけない
「執着って缶のこと?」
―――なんでもそうだよ。それが缶であろうと、金であろうと、友人であろうと。大抵みんな何かに執着している
「なんか難しい。急に哲学的になった」
―――君には一番簡単に話したつもりだよ
石はまるで旧知の仲であるような答え方をした。事務的かと思えば、私をよく知る古い友人のように話す。一体石は何者なんだろう。私を待っている人の持ち物なのか、全然関係のない人の持ち物なのか、未だによく分かっていない。
「もしだよ、もしそこへ行っても帰って来れるんだよね?」
―――君が望めばね
望めるものなら望んでごらんよ、と言っているみたいだ。
「ねえ、あなたは今までどういうふうにして暮らしてきたの?」
―――僕はある御方の持ち物なんだ。その御方が君を案内するように僕を遣わせた。その御方はもう亡くなってしまったけど、その孫娘に僕は受け継がれた。あの子はとても賢く、優しい。きっと君も分かる
「あなたの名前は?」
―――僕に名前なんてない
「そうはいかないよ。みんな呼ぶときには名前がいる。いつまでも石のままじゃヘンだよ」
そう言うと、石はまた長考モードに突入した。名前を言うのに、こんなに時間がかかるものなのだろうか。それとも本当に名前がないのかもしれない。しばらく経ってから、石はようやく名前らしき単語を教えてくれた。
「ヴェルデね。いい名前」
あの御方がつけてくれたのだと、教えてくれた。いつもと変わらない様子だったけど、ヴェルデはすごく嬉しかったのではないかと思った。
それから名前を授けてもらってからの日々を少しだけ教えてくれた。
―――あの御方は奇妙な方だ。私にまず挨拶をした。人にするみたいな挨拶だ。そして名前を聞いた。そんなことを聞かれたのは初めてだった
ヴェルデはその御方とよく話をしたらしい。人間はとても面白い、とヴェルデが言ったが、「面白い」というより「滑稽」という単語のチョイスのほうが今のニュアンスには合っているような気がした。
「何歳なの?」
―――数えたことはない。ただ君よりもはるかに長く生きていることは確かだ
「だいたい寿命はどれくらいなの?」
―――君が死んでからも、きっと僕は生きているだろう
石のヴェルデからすれば、人間なんて一瞬で死んでしまうのかもしれない。石がそもそもどれくらい生きるのか分からないけど、この石が瞬きしているような時間で私の人生は終わると思うと、とても不思議な気分だった。
―――君の心が準備出来れば、どこにでも入口は現れる
「どこにでも?」
―――いつでも、どこにでも
「あとは私次第ってこと?」
―――僕は君をここから連れ出すために君の前に現れた。でも、僕は君の中に在るカギを呼び覚ますだけだ。あくまでも君がしっかりしてくれなきゃ、いつまで経ってもここから出られないぞ
「でも、行かないって選択肢だって私にあるわけでしょ」
私が自ら動かなければ、このままここで暮らせるはずだ。変な妄想か、現実かも分からないところへ行かないで済むわけだ。
ヴェルデのことを自分の妄想だと思っていたが、私はいつの間にか現実に存在している物のように話しかけている。自分が本当におかしくなってしまったのか、ヴェルデが現実に存在しているかどちらかだけど、残念ながら、前者のほうが有力な気がした。
―――入口は出口に比べてせっかちではないが、気は短いから気をつけろ
ヴェルデはそれだけ言うと、自らの灯りを消した。もう今日は店仕舞いらしい。
入口は気が短いってどういう意味なんだろう。「気が短い」って生きてる人に使う言葉であって、物とかに対しては使わない。ヴェルデはいったいどんな世界から来たんだろう。
階段を上ってくる音がした。母親が帰って来たらしい。ヴェルデが店仕舞いしたのはこのせいかもしれない。母親はノックすると、顔を覗かせた。「なんだ、いるんじゃない。返事しなさいよ」
「あーうん」
私は急いで、石をポケットに滑り込ませた。母親はそのまま部屋に入ってくると、ベランダから洗濯物を取り込み始めた。
「そういえばあんた今日、合宿かなんかじゃなかった?」
「あーうん。延期になった」
ベッドにごろっと横になって、そう答えても、母親から返事はなかった。慌ただしくベランダと部屋を出入りして、洗濯物を取り込み終わると、母親は私の顔を見た。「ねえ」
「延期になったんだって。さっきも言ったよ」
「あらそうなの。いいじゃない、もう一回言ってくれたって。聞こえなかったんだから」
「それはそうだけど」
「お母さんはこうやって仕事から帰って来て、やることたくさんあって、まだ夕飯も作らないといけないし、かをりがそのどれか一つでもやってくれるんなら、一言一句聞き逃さないようにするけど」
母親は目力のこもった顔で私の返事を催促した。もうこの言い争いは何回もしているから、勝敗は分かっている。お母さんのこの返し文句が出た時点で、私の完全敗北は決定したも同然なのだ。そしていつも私が「ぅむぁ」と訳の分からないことを物凄い小さい声で呟いて、母親の勝ち誇ったような笑顔で終焉を迎える。
こんな小さな音を拾えるぐらいの能力を持っているなら、もっと私の声を聞き取れるはずだと思うが、またそれを言えば勝てない試合に持ち込まれる危険性が大なので、言わないでおく。