図書館
図書館に着くと、みやりんは若干司書の人に怒られながらも、本を返すミッションは無事遂行された。お互いに分かれて、目当ての本を探しに本棚の間を歩いていると、ちょうど壁沿いの棚に新しく入荷された本が並べられているのを見つけた。入荷されたての本は結構借りられていたが、自分が読みたい本はまだ棚の中にあった。
本棚の右側にある窓からオレンジ色の光が差し込んで、私と本棚を照らした。窓から夕焼けがくっきりと見えた。太陽の周りの雲はオレンジ色に照らされているけど、紫だったり、赤だったり、その色が混ざっていたり、不思議な色だった。
「なにしてんの?」
振り返ると、みやりんが立っていた。どうやら、もうすでに自分が借りたい本を見つけて、私を探しに来たようだ。
「ううん、別に」
「本あったの?」
「あった。ちょうど借りられてなかった」
貸し出しカウンターでそれぞれ本を借りると、トイレに行くことにした。みやりんも行きたかったらしい。館内のトイレに行くには非常階段を横切って行かないといけない。非常階段は薄暗くて、私は少し苦手だった。だけど、今回はみやりんもいるからまだマシだ。一人でいると、いつも早足で逃げるようにして抜けて行く。
「ここ気味悪くない?いっつも私――」
カンカカンカッと何か硬い物が落ちる音がした。ヒールの音とは違って、何かがアクリルの階段を跳ねた感じだ。
階段は非常階段のランプで緑色に光っている。いつもと変わらないけど、なんだか怪しげに思えた。恐る恐る階段を数段上ると、踊り場に石が落ちていた。だけど、その辺の道端に落ちているような石とは違う。直径が七センチくらいあるし、何よりも石が緑色なのだ。ランプに照らされてではなく、石自体が緑色だった。
「なんか宝石みたい」
踊り場からさらに上段を見上げて、誰か居ないか確かめたが誰もいなかった。でも、自然にこんな綺麗な石が落ちて来るはずがない。きっと誰かが上る時に落として気付かなかったに違いない。何に使うのかはさっぱりわからないけど。
「ねえ、みやりん」
振り返ったら、みやりんはいなかった。私に気付かず、先に行ってしまったのかもしれない。
「あのう!誰かいませんか?」
誰からも返事が返ってこない。私の声が壁に反響して、何人も私がいるみたいだった。
なんだか気持ち悪い。薄暗いし、寒気もしてきた。石を右手に持ちながら、腕で身体を擦る。こんな夏に階段で怪談とかシャレにならないし、ダジャレでも面白くない。
元の場所へ置いておこうか。私は一瞬迷ったけれど、カウンターにまで持っていくことにした。ただの石じゃなさそうだし、高価なものかもしれない。
「これが落ちてたの?」
カウンターに座っていた三十代半ばぐらいの女性はフチなしの眼鏡をぐいっとあげた。
「はい」
「これに―――拾った場所と拾った日時、それとあなたの名前、学籍番号をここに書いてください。時間はだいたいでいいですから」
「はい」
女性はカウンターの引き出しから紙を出して、石を興味深そうに観察していた。
紙は図書館の忘れ物リストだった。そこには様々な物が書かれてあり、発見場所はトイレや自習机が多い。私は非常階段、と書いた。
「持ち主見つかりそうですか?」
「うーん、分からないわねえ。色や大きさからして誰かの持ち物なのは間違いないと思うけど―――落とし物ってあんまり持ち主見つからないから」携帯とかは別だけど、と付け加えた。
「そうですか」
私が書き終えると、女性は担当者名、という枠に鈴木と書いた。女性の名札を見ると、確かに鈴木と書かれている。
「トイレにいないと思ったら、ここにいたの?」
みやりんが用を足し終えたのか、私の隣にやって来た。
「落し物拾ったの。みやりん先に行っちゃうんだもん」
「こっちだって、気付いたらかをりいないんだよ。おかげで途中まで一人で話してた」
女性は一旦立ち上がり、何か手続きが終わったのか、またカウンターの椅子に戻ってきた。
「はい、ではこちらで預かっておきますね」
「じゃあ、よろしくお願いします」
最後に振り返ってみると、まるで合図かなんかみたいに石がキラリと光ったような気がした。
私が借りたい本を借りて、用を足すと、みやりんと二人で図書館を出た。もう夕日は沈んで、外は薄暗くなっていた。
「明日のゼミ合宿やだねえ」
「そうだね。でも寝坊しちゃ駄目だからね」
私がそう言うと、「分かってるってば」とみやりんが口を尖らせた。日が沈んでも、蒸し暑い。私は襟元をつまんで、ぱたぱたと仰いだ。バスはもう空いていて、すぐに乗ることが出来た。二人掛けに腰掛けると、みやりんはすぐに携帯を取り出した。
「うわあ、明日の持ち物とか連絡来てるよ」
「いつもドライヤーとか持っていくか迷うんだよね」
「かをりってどうでもいいことで、ものすっごく悩むよね」
そうだろうか。思い返してみても、思い当たるふしは無い。だけど確かに細かいことでよく悩んで、ぐちぐち考えてしまうことはあるかもしれない。
一着服を買う時も、三時間悩んで、結局何も買わずに帰ったり、外食する時も一番最後までメニューと睨めっこしているのは私だったりする。
「でも髪の毛は突然ショートカットにしたりするし、よく分かんない」
「思い立ったが吉日って言うし―――それに髪の毛は別に大したことじゃないよ。また伸びるんだから」
私は三週間ほど前に突然ショートカットにしたくなり、伸ばしていた髪を肩口あたりまで切ってもらったのだ。あまりにも突然だったので、みやりんやその他の仲良い友達は初め、髪が短くなった私に気づかなかったらしい。そしてなぜかみやりんは私が髪を切ったことに怒っているようだった。
みやりんに言わせれば、ヘアーカットする前日に会う友達に髪を切ることを知らせることが「普通」だという。だけど、「もっと私に相談してくれば、アドバイスしたのに」とぷんぷん怒りながらも、しっかり褒めてくれるところはみやりんらしい。でも、私は未だにみやりんがどうしてあんなに怒ったのか理解出来ないでいる。
「みやりんは将来アパレル系とか向いてるんじゃない?」
「実はちょっと目指してたんだあ」
みやりんはよく人にネイルもしてあげているし、ファッションセンスもピカイチで、いろんな人にファッションアドバイスをしている。頼まれてもいないのに、アドバイスは口から滑り出してしまうらしい。
「かをりは?なんか考えてんでしょ、将来」
「んー、まだ今のところは何も。就きたい職業もないしねえ」
「かをりが働いてるところ、想像出来ないなあ」
「人に話題を振っておいてなにそれ。一応バイトだってやってるんだけど」
パン屋のバイトはオープンからずっと続けていて、もうすぐ一年になる。それまでに個人経営のイタリアンでもバイトはしていたけど、経営難で潰れてしまった。でも、それは私が好きで辞めたわけじゃない。
私のバイト遍歴はそんなに豊富じゃない。まず初めに居酒屋でバイトを始めたけど、人間関係が面倒で辞めてしまった。バイトメンバーが多いと楽しいけど、それなりにグループも出来るし、上下関係もあったりして、小さな学校みたいになる。そこに私はうまく馴染めなかった。その次はイタリアンで経営難で潰れたけど、バイトのなかでも仲が良かった子と店が潰れてから、ランチを食べに行ったら、先輩から私が裏で陰口を言われていたということを聞かされて、店が潰れて結構日にちが経っていたのに、心が深手の傷を負った。
「いや、なんて言うかさあ」みやりんはそう言うと、黙り込んだ。そして、誤解与える言い方かもしんないけど、と前置きをしてから口を開いた。
「なんかかをりの今までのバイト先のこと聞いててさ―――もちろん向こうが悪いんだよ。仲間外れにしたり、悪口言ったり、そういうのはおかしいと思うんだけど―――かをりと話してるとさ、時々自分がすごい間違ってるような気分になるんだよね」
バスがガタンと大きく揺れた。ちょうどタイヤの上にある座席に座っていたため、衝撃は大きかったが、私は気にならなかった。
「いや、あれだよ。かをりが私にそういうふうに思わせようとしてるとかは全く思っていないし、むしろ私はそういうところがかをりの個性だし、良いなって思っている部分っていうか―――人間合う、合わないがあるし」
「つまりどういうこと?もし私がみやりんを傷つけるようなことを言っていたなら―――」
「違う違う!そういうことじゃない!」みやりんは慌てて自分の顔の前で手を大きく横に振った。「伝えるって難しいなあ。なんか私が思っていることは感覚的なことなんだよね――かをりは深海から陸に打ち上げられた深海魚って感じなんだよ」
私の頭には突然チョウチンアンコウが浮かんできた。ただみやりんはずっと「かをりは何も悪くないことだけは誤解しないで」と繰り返していた。
「なんて言うのかなあ。深海ではピューって泳ぐのに、陸に上がった途端、苦しくて口とかパクパクさせてる感じがかをりに当てはまるなあって思うんだよなあ。なんかここでは生きづらそうだなっていうか―――私が勝手にそう思ってるだけだけど」
私って傍から見たら、そんなふうに見えるんだ。ショックではないけど、べつに嬉しくもない。何とも言えない気持ちだった。
「ああ、私の語彙力じゃ誤解無しには伝えきれないな。ただなんか時々―――価値観がものすごく違うなって思うことがあるんだ。誰とだって価値観は違うけど、それより遥かに違うなって思うことがあるんだよ」みやりんはまるで何かを閃いた名探偵のように指をパチンと鳴らした。「そう、価値観!価値観って便利な言葉だよね。もっとかをりの価値観にピッタリ合うところがあるんじゃないかなあって思う。それが外国で見つかるのか、大学で見つかるのか、就職で見つかるのか、分からないけど」
みやりんは私の推測だけど、と付け加えた。自分の思ったことが上手く言えたらしい。満足気だった。私自身、別にコミュニケーション能力は問題なかったと思うのに、急に自信が無くなってしまった。。
「もしかして私、かなり余計なこと言っちゃった?」
「そんなことないよ。ありがとう、自分じゃ気付かないことだったし」
私がそう言うと、みやりんはほっとしたような顔をした。窓にもたれかかると、すぐに眠気がやって来た。バスで駅まで二十分ほどだ。うたた寝をしていると、みやりんに起こされて、起き抜けにエスカレーターをダッシュして、改札の前で少しもたついて、何とか電車に乗り込んだ。ゼイゼイ上がる息を抑えながら、二人で空いていた椅子に座りこんだ。
「バスで涼んだのに、また汗だくだよ」みやりんは顔を真っ赤にして、そう言った。
「でも、乗れてよかったじゃない」
「まあそれはそうだけどさあ」
私たちの大学の最寄り駅には快速と普通の二種類しか止まらない。しかも普通なんて、私が走ったほうが速いんじゃないかってぐらい鈍間で、快速を乗り過ごしたら、次に来る普通を見送って、快速を待たなきゃいけない。
四人掛けのシートには私たちしか座っておらず、周りにも乗客はそれほどいなかった。扇風機の風を受けて、前髪がふわっと浮き上がると同時に汗がひんやりとした。
しばらく私は窓の外を見つめていたが、そのうち目をつぶってしまっていたらしい。すっかり眠り込んでいた。肩を叩かれたような気がして、目を覚ますと、みやりんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?なんかうなされてたけど」
夢から覚めた途端、今度は一体どんな内容だったのか、綺麗さっぱり忘れてしまった。うなされてたってことはきっと悪い夢に違いない。その証拠に汗をびっしょりかいていた。
住宅地にはもう明かりが灯っていた。まもなく窓ガラスにぽつりぽつりと水滴が落ち始めて、すぐに大粒の水滴が窓一面に張り付き始めた。ゴロゴロと、雷の音もする。遠くの方で光っているのが見えた。大きな渦巻く雨雲が電車を丸ごと飲み込んでしまいそうだった。
私がまだ幼稚園ぐらいの時に、絵本の読み聞かせで読んでもらった絵本の話に似ている。確か有名な話だったはずだけど、どうしても思い出せなかった。
「あちゃー。雨だ、傘持ってきてないよう」
「私も持ってきてない」
「かをりが降りるまでには止んでるかもよ。多分通り雨だろうし。問題は私だよ。次降りるんだもん」
みやりんはぶつくさ文句言いながらも、乗り換えの電車の時刻を携帯で確認し始めた。
「やった!特急が来る。駅から駅まで乗り換え三分弱で済むかな」
「めっちゃ走ったら出来るんじゃない?そんなに離れてないし」
「電車ついたら、扉開いた瞬間ダッシュだな」
電車が徐々にスピードを落とし、ちらほらと座っていた人がドア付近に立ち始めた。雨は一向に降り止む気配は無い。
「じゃあね!また明日」
「うん。寝坊しちゃだめだよ」
「そっちもね」
みやりんが乗り換える駅は結構大きな駅で、多くの乗り換え路線と繋がっているため、車内にいた少なかった乗客もほとんど降りてしまった。普段ならここでまた新たに乗客が続々と乗車してくるのだが、今日は別の線で事故があったらしく、あまり乗ってこなかった。きっと、これよりも一本、二本後が地獄のように混むだろう。
電車が発車しても、雨は強くなるばかりだった。空に浮かぶ黒い雲を見ていると、絵本の内容を思いだした。ノアの箱舟だ。幼いながらにも、結構神様って残酷なんだな、と思った記憶がある。ノアに選ばれなければ、津波に飲まれて死んでしまうのだから。もし実際にそうなったら、私は舟に乗ることが出来るかな。もしノアがみやりんならば、乗せてくれるかもしれない。梨沙子でも乗せてくれるかもしれないけど、ゼミ長の原田なら、助けても役に立たないとか言って、見捨てられそうだ。
というか、それよりも将来のためにはこんな馬鹿げたことを考えるよりも、先に考えなきゃならないことはたくさんある。資格とか取ったほうが良いって友達は言っていたし、今のうちからビジネスマナーを身につけておかなきゃ就職してから苦労するとも聞いた。かく言う私は今のところどちらも習得出来ていない。自分が本当に役立たずの無能に思えてきた。出来ないことはゴマンとあるのに、満足に出来ることはひとつもない。かと言って、「何が出来ないのですか?」と改まって聞かれても、答えに詰まってしまう。そういうものなのだ。
みやりんの予想は外れて、私が降りる駅に到着してもまだ雨は降り続いていた。そういえば、みやりんは特急への乗り換えに間に合ったのだろうか。私はカバンを頭の上に抱えて、雨に濡れぬように家路についた。
最寄り駅から十分ほど歩いたところに自宅がある。家には誰もいなかった。私は母親と父親、それに妹との四人暮らしだが、家族揃っての夕食はここ最近行われていない。少なくともここに半年は家で夕食の際はいつも一人だった。何てこともない一軒家だけど、子供のころはマンション暮らしで私が中学生へ、そして妹が小学四年生へ進学するときに、両親が奮発し、頑張ったのだろう。この一軒家へ引っ越してきた。
二階のリビングの電気をつけると、テーブルの上に作り置きの夕ご飯とメモが置かれていた。夕ご飯はオムライスで、コンソメスープも付いている。メモにはパート先の友達とご飯に行くことと、冷蔵庫にサラダが入っていることが書かれていた。きっと妹は部活だろうし、お父さんはまだ仕事だろう。服を着替えて、手を洗うと、冷えてしまったオムライスを電子レンジに入れた。
「疲れたあ」
椅子に座って、携帯をチェックすると、みやりんから連絡が入っていた。明日の合宿のことだった。シャンプーを持っていくかどうかの確認で、私は持って行かない、とだけ返信してテーブルに突っ伏した。
合宿は地元の公民館に泊まるらしい。布団とか冷蔵庫とか一通り揃っていて、夜は地元のスーパー銭湯に行く、とゼミ生の連絡網で回ってきた。スーパー銭湯ならば、シャンプーとドライヤーくらいあるだろう。髪の毛はガシガシになるかもしれないけど。
軽快な電子レンジの音が鳴り、立ち上がった。
「あっちっち―――布巾、布巾!」
台所から慌てて布巾を取り出して、布巾ごしにお皿を取り出した。入れ替わりにスープを温めなおしている間にサラダとドレッシングをテーブルに持ってくると、ちょうどスープが温かくなった頃だった。
「いただきまあす」
図書館で拾った石のことなんてすっかり忘れていた。記憶の彼方へ行っていたのに。嫌なこともすぐに忘れてしまうのが自分の良いところだった。母親にも「あんた、いい性格してるわね」と言われたことがある。この言葉は盛大に皮肉が籠っているけど、どんなことでも明日まで持ち越さないことが結構自分の長所だと思う。
しかしオムライスを半分まで食べ終わった時、なにかの視線を感じで顔を上げると、あの石がいた。あの時、きっちり図書館のカウンターに届けたのに。だけど、冷静にこの状況を受け止めている自分がいる。こんなの夏の特番に出てくる怖い話よりよっぽど恐怖体験だと思うけど、案外落ち着いて見れるものだ。
「どうしたの?」
私は石に問いかけた。石とは会話が出来る気がした。きっと普通の石なんかじゃない。特別な石なんだ。
「何か言いたいことがあるから、ここに来たんでしょう」
石は何も言葉を発さない。ぴくりとも動かない。もしかして、本当にただの石?こんなふうに問いかけている私が馬鹿みたいだ。
「おーい」
不安になって、何度か呼び掛けたり、話しかけたりすると、石に文字が浮かび上がった。
やっぱりただの石じゃなかったんだ。人生で初めて自分が日頃考えていた馬鹿な想像が本当になった。いつもなら、これは絶対に普通の石ころで、私の問いかけなんかに反応しなくて、また自分にがっかりするところだったのに。
―――君は行かねばならない
「どこに?」
―――君を待つ者たちのところだよ
「どっかの離島とか、無人島とか、海外ってことかなあ」
あ、そうか。ゼミ合宿が面倒だからこんな妄想をしてるんだ。私は妙にガッテンがいった。おかしいなあ。こんなさぼり癖はなかったはずなんだけど。だけど、最近授業は寝てしまうし、この前久しぶりに会う友達との約束には遅れたし、心当たりがないわけではない。
―――君を必要としている者たちがいるんだ。行けば、自ずと分かるだろう
「なんで私なの?理由が分からないんだけど」
英語も話せないし、数学が出来るわけでもないし、その辺の一般的な大学生に何かを救えるとは到底思えなかった。誰をどう救うのかよく分からないけど、私が救えるなら、きっと私以外でも救えるはずということは確かなところだ。
―――君であることに理由はない。強いて、理由を挙げるなら、君だからということだけだ
なんか大それたセリフだ。深いようで深くないような、小難しくて、私にはよくわからなかった。とりあえず私であることに理由はないということなのだろう。それだったら、別に私じゃなくてもいいじゃないか、と思ったが、次から次へと疑問が溢れ出る。
「いつ行くの?というか、なにするの?」
―――君の心の準備が出来次第、迎え入れよう
赤い文字で浮き上がった文字は炎に彩られた。
「待って!これってまた私のヘンな妄想だよね?」
想像が行くところまで行き着いて、こんな幻覚を見るようになったとか?一種の病気とか、そういうの?とうとう頭おかしくなったのかもしれない。本当は目の前に石なんて無くて、勝手に一人で話してるとか、そういうオチが一番しっくりくるかも。
そんな私の心を読んだみたいに、石は文字を映しだした。
―――君はヘンじゃないよ
文字がパッと小さな花火のように破裂音を鳴らすと、一階の玄関が開いた音がした。
「かをり?帰ってるの?」
母親が帰ってきたらしい。階段を登る重い足音が聞こえると、リビングの扉が開いた。
「やだ、あんた。ご飯食べてないじゃないの!」
私は椅子に掛けたまま、目の前のラップがかかったオムライスと向かい合っていた。電子レンジでチンしたはずなのに全く温かくないし、スプーンだってまだ出していなかった。
「体調でも悪いの?」
「いや、そういうわけじゃ―――半分くらい食べたんだよ!」
「なにを?」
「オムライスを」
私の答えに、母親は怪訝そうな顔をした。
「また変なこと言って。熱は?測ったの?」
「だから、体調は悪くないんだって」
「駄目よ、今日は早く寝なさい。明日もあるんでしょう」
刺すような母親の視線を受けて、私は渋々お風呂に入って寝る準備を始めた。
たしかに食べたのに。お腹だってそれなりにいっぱいだし、手はレンジからオムライスを取り出すときに火傷したからまだ痛みが残っている。もしかして、火傷は夢だったのかな。忘れ物として届けたはずの石が一人でにやってきて、会話して、助けがどうのこうのっていうのは夢なはずだし―――
どこまでが現実で、どこまでが夢だったんだろう。ものすごくリアルな夢を見た感覚によく似ている。起きた時に、ここがどこか一瞬分からなくなるあの感覚だ。
石がもし現実だったらオムライスが丸々残ってるなんておかしい。でも、おなかにはオムライスが間違いなく入っている。今すぐ胃の中身を見れたらいいのに、と今日ほど思ったことはない。今、この空間もよく出来た夢だったらどうしよう、と考えたが、それはさすがに漫画か映画の見過ぎだと自分自身に突っ込みを入れた。
三階は妹と私の部屋があって、私の部屋の方が少し広い。妹はぶつくさ言っていたけど、先に生まれた長女の特権だと私は思っている。
まだ雨は降り止まない。雨風が強く、窓がガタガタと揺れていた。ベッドに横になって、携帯をみると、みやりんからなんと十三通もメッセージが来ていた。開いてみると、まず一通目にはゼミ合宿が中止になったらしい、と興奮気味の文面で、理由は今日の天候が悪く、ゼミ合宿で泊まる公民館の近くの山が土砂崩れを起こすかもしれないので中止になったという。二通目からは興奮を表した顔文字が永遠と続いていた。散々めんどくさいだの、だるいだの言っていたが、なんとなく行く気になっていたため、中止になって嬉しいような悲しいような難しい気持ちだ。
結局石は自分のなかでよく出来た夢だったと結論づけた。それ以外、考えられないからだ。幻覚とかを見るような日常生活に支障を来すほどの病気に突然なったなんて、あまり考えられる可能性ではない。となると、やっぱり夢だった、というオチがしっくりくる。きっとものすごくリアルな夢を見て、オムライスを食べた気になってしまったんだ。そう思うと、だんだんお腹が空いてきたような気もする。
もし、万が一こんな幻覚が続くようなら、その時に考えよう。そのうちきっと何も見なくなるだろう。あんまりにも綺麗な石を拾ったから、夢にまで見るようになったのかもしれない。
「かをり、お風呂入っちゃいなさい!」
二階から声をかけられて、下へ降りると、母親は頭にバスタオルをターバンのように巻いていた。
「その巻き方変だって前も言ったのに」
「何が変なの。あんたの言うこと、お母さんはいっつも分からない」母親は冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して、一気に飲み干した。「そうだ、近所のゴミ捨て場にいつも一人で喋ったりしてるおじいさんいるって言ってたでしょ?」
母親はいつも唐突に話し出す。直前まで話していたことと、全然別のことを話し始めるが、母親のなかでは何かしら繋がりがあるらしい。
私にはその関連性が分からないことが大半だけど、深く突っ込むと、余計に面倒なことになる確率が高いため、本当に意味が分からない時でも、適当に相槌を打つようになっている。
「それがどうしたの?」
「お母さんも話しかけられたのよ!さっき帰って来る時にね、おはようございますって!この缶は五グラムなんですよ、もう一個あなた持ってますか、って聞かれて、怖くてびっくりしちゃった」
「ふうん。缶が五グラムってどうやって分かったんだろうね」
「お母さんはそういうことを言ってるんじゃないの!あんたも気をつけなさいよ。近頃物騒なんだから」
「独り言おじいさん」は結構前からこの近辺に出没している。ゴミ置場で夜な夜な缶やらペットボトルやらを集めながら、一人で話しているらしい。私はまだ一度も出くわしたことはない。母親が近所から噂を聞いてきて、その噂をまた母親から聞いて、存在を知っているだけだった。
「はいはい。お風呂入ってくる」
一人で話してる人はそりゃ変だけど、大きな駅に行くと、一人はそんな人いるし。ああいう人って元からそんな感じなのか、歳をとって痴呆になってしまったのか、それとも何か精神的な病気を持っているのか、謎だ。いつも疑問に思うけど、直接その人たちに聞く勇気は微塵もない。
お風呂から上がったらもう二十二時半を過ぎたぐらいだった。自分の部屋にあがって、少しずつ用意していた合宿用の荷物の荷解きを始めた。携帯がピコピコ鳴り、画面にはみやりんからのメッセージが映し出されている。
合宿が中止ではなく、延期になったというのだ。詳しくはまた原田から話されるらしい。みやりんに返事だけすると、携帯を放り投げて、ベッドに横になった。
「もう荷物そのままでいいや」
ベッドでウトウトしていたが、いつの間にか眠っていた。目が覚めて、時計を確認すると、もう夜中の二時で家族はみんな就寝してしまったようだった。携帯に手を伸ばそうとした時、自分が何か硬い物を握っていることに気が付いた。恐る恐る手を顔のもとまで持ってくると、それを電気にかざした。
「うわあ!」思わず、石を放り投げた。
予感は的中だった。石は無残にも私が投げたせいで、布団の上で寂しげに転がっている。心臓がドキドキ音を立てている。まるで心の内側からノックをされているみたいだった。
「これって全部私の夢だよね?私、本当に頭がおかしくなったのかな」
どう考えても、石が話すっておかしいもん。非現実的でありえない。私が何かおかしくなって、幻覚を見ているとしか考えられない。
だけど、私いつからおかしいんだろう。でも、みやりんと帰って来た時は普通だった。私は変じゃなかった。だってきっとおかしかったら、みやりんだって、他の友達だって、何か言うはずだから。私はまともだ。おかしいところなんて何一つない。誰とも違わない。
―――きみはよく分からない人間だな
よく分からないのはそっちじゃない。私が言葉に出す前に続けて、石は文字を出した。
―――チグハグは生き場を狭めるんだよ
「それはどういう意味?」
―――そのままの意味さ
オウム返しのように尋ねると馬鹿にされそうだったから、しばらく言葉の意味を考えた。だけど、それでも意味が分からなかった。石はなぜかがっかりしたみたいな言い草だった。声音なんかも分からないし、文字だけだったけど、なぜか石の気持ちが分かったような気がした。
―――今回ばかりはあの御方も間違っていたいたみたいだ
「あの御方?」
―――君を迎えに行くように言った御方だよ
君は相応しくない、向こうへは行けないだろうと石は立て続けに言った。
「相応しくない?勝手に連れて行こうとしておいて、その言い方おかしいんじゃないの?」
―――君の魂はここが随分とお気に入りのようだ
いや、そもそもこの石の話だって、私が頭のなかで創り上げたことに違いない。一度冷静にならなきゃ。自分の妄想と会話して、勝手に怒るなんて、自分自身に腹を立てているのと、同じだ。
「私って頭おかしくなったんだ」
しばらくぽうっと明かりを灯していた石は暗くなった。もう私とのお喋りはお終いらしい。最後の文字がゆっくりと薄くなっていった。