年増
その瞬間、花の香りが漂ってきて、私は思わずクシャミをした。
「何か用かい」
そう言った老婦人は白い髪を一つにまとめ、黒いワンピースを着ていた。
「あなたがルールラですか?」
「そうだよ」
ルールラは大きな椅子に座って、眼鏡をかけて新聞のようなものを読んでいた。
広い部屋の壁一面には棚が取り付けてあって、ガラス瓶が所狭しと並んでいる。中には様々な花が種類ごとに入っているように見えた。ホルマリン漬けみたいにされている花もある。
「あんたがそこにいるとドアが閉まらないから、入るか出るかどっちかにしてちょうだい」
壁を見つめていた私は急いで、部屋の中へ入った。
「あの、元の世界へ返してほしくてここへ来ました」
「元の世界?」
ルールラはそこでようやく新聞から顔を上げた。
「ここを訪ねると、帰れると聞いたのですが」
「ここに迷い込んだのかい?」
ルールラはややびっくりしたような口調でそう言うと、「こっちへ来てちょうだい」と私を呼び寄せた。私がルールラのほうへ歩み寄ると、ルールラはじっと私の顔を観察するように見た。
「あんた、いくつだい」
「十八です」
私の年齢のどこが面白かったのか知らないが、ルールラはすまし顔から一変して大笑いした。
「てっきり私はあの愚王の使いかなんかかと思ったけどねえ」
ルールラは「そこへお座り」と私の背後を指さしたが、そこは何も無かったはずだ。でも私が振り返った時には赤い一人掛け用のソファが用意されていた。
「そんな年増が迷い込むなんて、長く生きてりゃ驚くこともあるもんだね」
十八で年増呼ばわりされるのは心外だ。私は座らずに黙り込んでいたが、ルールラはしこたま笑って、ようやく私に向き直った。
「ここに迷い込むのは年端もいかない子供たちばかりさ。十八なんてもういい大人じゃないか。もしここへ来ても、洞窟や森で私んところまではたどり着けないと思うけどねえ」
ルールラは煙草を手に取り、口へ加えた。そして鼻から出た煙は私の目の前で優雅に一輪の花を描いた。
「どうやってここまでたどり着いたんだい」
「それを言えば、私を元の世界へ帰してくれますか」
「さあねえ、でも言わなきゃ帰さないよ」
ルールラはサイドテーブルにある薔薇の模様が施されたゴールドの小さな地球儀みたいな灰皿に煙草を押しつけた。円の一部が蓋としてくるりと回転し、煙草を受け止めている。サイドテーブルに置かれている瓶がゆらゆらと独りでに持ち上がった。フラスコみたいな透明のガラス瓶だったが、ついている持ち手は綺麗な曲線を描き、注ぎ口には銀色の鳥のくちばしがデザインされている。ティーカップに水を注いだ。やがてティーカップに入った水は薄いピンクになり、湯気が立った。
「頑固はあまり得策じゃないと思うけどね」
ルールラの背後からピンクの花びらが詰まったガラス瓶が飛んできた。ルールラは蓋をあけて、花びらを二枚掴むと、ティーカップの中に浮かべると、瓶はまたふらふらと自分の居場所に帰っていった。
「この石のおかげです。この石が無ければ、きっと洞窟からは逃れられなかったと思います」
私はヴェルデを出すかどうか迷ったが、結局右ポケットからヴェルデを取り出し、ルールラの手に乗せた。
「これはまた―――どこでこれを手に入れたんだい」
ルールラは外していた眼鏡をもう一度かけて、石をまじまじと見た。
「私の前に落ちてきたんです」
「落ちてきた?それは故意に落ちてきたというわけかい」
「まあ、多分―――はい」
逃げようとしている私が、そんな説明するのは自分が役不足だったということを認めざるを得ないうえに、私を選んだヴェルデに対しての罪悪感が物凄く湧き上がってくるので歯切れがかなり悪い。
ルールラはふうんと私を見てから、石に片手をかざした。「汝の全てを解放し、我に誠の心を見せよ。我、一点の曇りもなき眼で見定めよう」ルールラがまじないのようにそう呟くと、石のなかで爆発が起こったかのように、凄まじい光を放った。
私は思わず目を瞑ったが、ルールラは光の中をじっと見つめていた。
石の光が収まると、ルールラは石を私に返した。そして、サイドテーブルにあるティーカップを持ち、一口飲み込んだ。
「ここに望んで来たね。あんたはここに迷い込んだのではない。ここに望んで来たんだ」
「ヴェルデは私の心が準備出来れば、入口が開くと言いました。でも、私は何も準備なんか―――」
「だいたいのことはその石から教えてもらったよ。あんたのこともね」