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第1章  海の上で生まれた少女①

 奈都芽(なつめ)は、母と手をつないだことがない。

 同じ布団で寝たこともない。

 記憶がないだけかもしれないが、お風呂に入ったこともない。

 そのぬくもりすら感じたことがない。



 代わりといってはなんだが、そばにはいつも父がいた。


 だから、小学校に上がるまで、同じ布団で寝るのも、幼稚園に迎えに来るのも、お風呂に入るのも、母ではなく父だった。



 母(川田多江(たえ)というのがその名前だ)と会話をすることもほとんどなかったが、奈都芽はそのことに疑問をもつことはなかった。いつも隣にいる父も、母と会話をすることがまったくといっていいほどなかったからだ。

 同じ食卓でご飯を食べはしたが、その際にも母は厳しい表情を一ミリも崩さず、早々に席を立った。


 母との交流がない。


 子供のすこやかな発育に望ましい母との関係が明らかに希薄である。もちろん、淋しくなかったわけではない。嬉しいことがあり駆け寄ろうとしてその冷たいまなざしを向けられたときに、それをよく痛感した。

 だが、三人家族で、母との関係がこのようであるにもかかわらず、奈都芽の心はどうにか壊れずにすんだ。壊れないどころか、そのような環境にもかかわらず、彼女の心の中にはいくつかの楽しい思い出すらあった。


 その思い出を紡いでくれたのは、(もちろん母ではなく)父だった。


 電車やバスに乗るとき少しお辞儀をするように頭を低くするほど背の高い父は、物心ついたときから身体が大きく、運動神経が発達していた。父の父から手ほどきを受けた空手では有段者となり、それ以外のスポーツも何をしてもすぐに上達した。


「弱いものをいじめるな」


 祖父から叩き込まれたこの教えを父は忠実に守った。そのため、小さい時から、その腕力が発揮されることは滅多になかったそうである。自らに向けられる暴力にはすぐに頭を下げ、平和を維持していた、と奈都芽はよく聞かされた。

 だが、一転、ガラの悪そうな連中が気の弱そうな友人に暴力を振るう場面に遭遇すると、体を張ってその友人を守った。一対一はもちろんのこと、ときには数人の男たちと闘い、その巨体から繰りだす突きや蹴りでそれらを完全に排除した。


「おまえの父さんは怒ると鬼になるから」

 何度か、街で会った父の友人が笑いながらそう言うのを目にしたことがある。


 だが、奈都芽はそういった話を聞かされはしたが、信じることができなかった。父の顔から笑顔が消えたことがなかったからだ。母の笑顔をいっさい見ることがなかった奈都芽だが、父の笑顔が彼女の心の支えとなった。


 父は祖父を尊敬していた。


 だから、父は大学を卒業すると、祖父と同じ会社に入った。コンビナートの一画にある大手メーカーに部品を納入する下請け会社だったが、父はその仕事に誇りを持っていた。敬愛する祖父と同じ職場で働くことが楽しくてしょうがなかった。だが、入社して一年と経たないうちに祖父が亡くなってしまった。祖母は父が中学生の時に病気ですでに亡くなっており、兄弟もいなかったことから父はひとりで実家に住むことになった。

 独りぼっちになってしまった父の心の支えとなったのは、小説家になるという夢だった。体を動かすのも好きだったが、それと同じぐらい父は小説を愛した。祖父が愛した仕事と小説家という仕事を両立させることがその夢となり、仕事が終わると毎晩執筆をつづけた。


 自然、奈都芽は父が本を読む姿をよく目にすることになった。


 普段は笑顔しか見せない父だったが、読書をするときはそうではなかった。

 時には眉間に皺を寄せ、時には憤り、時には泣いた。

 本を読むときには、いつもタバコの匂いがした。ふたをカチッと開け、ジュッという音がするとあたりにオイルの香りがほのかに漂った。愛用のシルバーのライターは炎を揺らめかせ、その影が父の頬に映し出された。その炎に顔を近づけ、ゆっくりとタバコを吸う父の姿を見るのが、奈都芽は好きだった。



 幼少期から列の一番後ろで頭ひとつ飛び抜けていた父とは対照的に、奈都芽はいつも一番前に立っていた。列を揃える時は、腰に手を置いてばかりだった。母の威圧的な態度のせいではないだろうが、少し猫背で、体の線は細かった。なぜかはわからないが母が用意する服がいつも何サイズか大きかったので(その理由を安易に聞けるものは誰もいなかった)、ますますか細く見えた。母の代わりに父が管理するせいもあってか、肩より少し下ぐらいの髪はいつも跳ね、ボサボサだった。


 父の見よう見まねで、奈都芽はよく読書をした。

 その影響かどうかはわからないが、幼稚園のころから突然視力が悪化し、メガネをかけることになった。本を読むことは知性を育む基本となるのだが、

「奈都芽ちゃんって……たくさん本読むのに……勉強苦手だね」

と、友人たちに言われることが多かった。

 そのことが気になり、父に相談したこともあったのだが、

「元気であればそれでいい」

と、父は笑顔で答えるだけだった。

 たったひとりで数人の男たちとでも闘う父とは違い、奈都芽はドアがバタンとしまっても、ビクッとするような子どもだった。冷ややかで厳しい母の視線が張り巡らされていることもあってか、奈都芽は早くから人の顔色を伺う癖を身につけていた。



 奈都芽は()()()()()()()()。いや、()()()()()()()()()()()()()


 瀬戸内海に顔を向けるこの街には、遠くどこまでも見渡せる大陸のような平野がある。海や川との高低差もほとんどない。だが、よく見るといくつかの小高い丘が見えてくる。その小高い丘の麓まで行き、登りきった頂上で、ある歴史的な事実にぶつかる。

そこはかつて『島』だったところだ。

必然的に、そこには『島』の地名がつけられている。


 (たいてい、いや必ず)『島』とその対岸にはそれらを隔てる()がある。


 江戸時代以前、機械もろくにない時代から、この地に住む人々は、人の手のみで『島』と陸を繋ぐことを決意した。だが、その方法は土砂や廃棄物などを投げ入れる『埋立(うめたて)』ではなかった。古代ローマ時代よりオランダ人がそうしてきたように、『干拓(かんたく)』で手に入れることにした。浅瀬に仕切りをつくり、水を抜き、干上がって出てきた土地を徐々に増やしていった。


 かつて海に浮かんでいた島々は、このような度重なる『干拓』により、平野の中の小高い丘へと姿をかえた。

 本州に飲み込まれるようにして陸と繋がり、『島』は『島』でなくなった。


 この街に立ち、耳を澄ませてみると、その土地がこう囁くのが聞こえてくるような気がする。海と陸には差がないのではないか、と。たとえ海があったとしても、人の手で『干拓』してしまえば、そこは陸になってしまう、と。



 母なる大地という言葉がある。

 大地は母である、と。

 だが、奈都芽が生まれたこの土地は、『大地』ではなく、かつて『海』だったところだ。

 『海』か『大地』か、どちらかよくわからないその不安定さは、まるで奈都芽と母の関係のようでもあった。


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