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第6章  飛び立つ奈都芽・開きかけた夢への扉②

 高校を卒業するまで友人がひとりもいなかった奈都芽だが、大学生になってからもそれは変わることはなかった。

 もちろん、弁護士の勉強をするために時間がなかったのもある。だが、たとえ時間があったとしても結果はほとんど変わらなかったに違いない。あいかわらずボサボサの髪にメガネをかけた奈都芽はだぶだぶの服を着て、誰に話しかけることも、そして話しかけられることもなく、本ばかり読んでいた。

 結局、話し相手は毎日のように電話をかけ、月に一度会いに来る陽ちゃんだけだった。


 大学生になった奈都芽は当初の予定通り弁護士の勉強を始めた。入学と同時に専門学校にも入学をしたが、勉強が得意でない奈都芽にとってそれは苦しい日々だった。学校の授業についていくのさえやっとなのに、さらに放課後に受験用の授業を受けなくてはいけなかったからだ。大学、専門学校ともに散々な成績で「とてもじゃないが、弁護士なんて」と奈都芽は落ち込む日々を送っていた。


 そんななか、藁をも掴む思いで手にしたのが『合格体験談』だった。

 書店で目にしたことをきっかけに、大学の図書館に行ってみると、『体験談』の本がずらりと並べられていた。気をつけてみてみると、専門学校にもそのような本がたくさんあった。そこには苦しんだ末に夢を手にした合格者たちの物語があった。

 動機は様々(とはいえ、父の冤罪をはらすためという人はいなかった)だったが、合格者の多くは「まさか自分が弁護士を目指すことになるなんて」と言う人が多かった。それが奈都芽の心を強く惹きつけた。さらにそれ以外にも強く惹かれることがあった。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だけど、あるとき、学習のコツがわかるようになって、徐々に勉強ができるようになりました」


 こう答える人が圧倒的に多かったのである。

 ……私だけじゃないんだ……。新しい体験談を読む度に勇気が出てきた。

 苦労の末、合格というゴールに行きついたそれぞれの物語は本が大好きな奈都芽の心に大いに響いた。感動するたびに、奈都芽はその物語をノートに書き込んでいった。時には深夜を過ぎ、朝までその作業をすることもあった。

 だが、あるとき、奈都芽は重大なことに気がついてしまった。

 それは、大学四年生の夏前のことだった。


「体験談を読んでばかりで、いっこうに勉強していない」


 私は何をしていたのだろう? 冷静に部屋を見渡すと、体験談を記したノートが山積みになっていた。『合格体験談』評論家としてテレビに出られそうなくらいの量だった。


 もちろん、在学中に司法試験を受験した。だが、(あらためて言うまでもなく)合格には至らなかった。

 卒業後は、『ロースクール』に入学して、弁護士を目指すという道もあった。

 だが、大学の学費や生活費を母に出しもらっていることすら気に病んでいる奈都芽にとって、これ以上学生生活をつづける選択肢はなかった。

 つまり、奈都芽は働きながら受験をする道を選ぶつもりだった。


 問題は就職先だった。

 できれば法律事務所で働きながら、勉強をしたかった。しかし、これまで一切就活をしてこなかったせいで、条件の良い事務所はほとんど残っていなかった。周囲を見渡すと、一気にドミノが倒れていくように、どんどん就職が決まっていった。

「やばいかも」

 奈都芽は焦り、毎日のように大学に通い、事務所を探した。

 だが、朝から晩まで、どれだけ書類に目を通してみても、見つかることはなかった。

 しかし、あるとき、就職先をつづった青のファイルを誤って床に散乱させてしまった時にちょっとした奇跡が起きた。

 これまで、誤ってどこかの書類の裏に挟まっていたようで、

道上(みちうえ)克己(かつみ)法律事務所」

 という求人票が出てきたのだ。さらにそこには

「社員募集 司法試験希望者優遇」

 と、赤で書かれた文字が見えた。

「神様」奈都芽はこの幸運に心の底から感謝し、すぐに連絡をした。



 その法律事務所は日本でも有数のビル群が立ち並ぶ一角にあった。その街の中心には森からニョキッと飛び出るように二本の塔が『H』のようにそびえ立っていた。

 その事務所は、言葉を慎重に選ぶなら、年代物の雑居ビルの一階にあった。高所恐怖症の奈都芽にはありがたい『高さ』だった。


 応接室の机の向こうに座った男は、奈都芽との年齢差で考えると『おじいちゃん』と呼ばれてもおかしくなかった。

 髪は少し薄いが、真っ白い口ひげは綺麗に整えられており、年齢の割に肌はつやつやしていた。奈都芽が部屋に入っていったときは上下白いスーツを着ていたが、すぐに上着をハンガーにかけた。白のカッターシャツの上に黒のサスペンダーがしてあり、お腹が少し出ているのが目についた。

 奈都芽が席に座ったのを確認すると、名刺を渡しながら奈都芽に挨拶をした。

「弁護士をしております、道上(みちうえ)克己(かつみ)と申します」


 奈都芽は履歴書を持参していったが、先生は机の上に置いたそれをチラッと見ただけでほとんど目を通すことはなかった。その様子を見て奈都芽はすぐに「落ちた」と思った。

 あまりにも興味がなさそうだったので、帰ろうと奈都芽が思ったほどだった。

 だが、そう思い席を立とうとしたとき、突然、先生が口を開いた。


()()()()()()()()()


 そう言うと、奈都芽の顔をじっと見た。

 どういうこと? 奈都芽は動揺した。だが、言われたように両方の手のひらを上に向けてテーブルに置いた。だが、

「失礼。説明が足りなかったようですね。爪を上に向けるようにして置いてください」

 と、先生は言った。


 言われるまま、奈都芽は爪を十本、相手に見せるように置いた。

 すると、先生は右手の人差し指を一本立て、ゆっくりと奈都芽の右手の小指の爪に置いた。

 もちろん、奈都芽は驚いた。

 だが、先生はそんなことは気にしていないようで、その隣の薬指に人差し指を移動させた。その後も順に、中指、人差し指へと動かしていった。その動きは軽やかで、滑らかで、まるでピアニストがやさしく鍵盤を撫でるような動きだった。

 最後の左手の小指を触り終えると、先生はゆっくりと目を閉じた。もう触れられていないはずなのに、奈都芽の十本の爪の上に、どこか温かい不思議な感触が残っていた。先生はしばらく目を閉じていたが、静かに呼吸を整え、ゆっくりと目を開けた。


「奈都芽さん。あなたは、将来、立派な弁護士になりますよ」



 大学卒業後、奈都芽はこの事務所で働きはじめた。

 奈都芽を入れて三人しかいない事務所には、どれだけ早く出社してもいつも先に来ている年配の女性の事務員がいた。先生とほぼ同年代の茶色のべっこう眼鏡をかけた事務員は、無口で一日中ほとんどしゃべることはなかった。

 一方、先生はこの事務員とは逆で、いつもゆっくりと出社をした。

 白の上下のスーツに茶色の革製のカバンとステッキを手にし、頭には(これまた)白のハットを被っていた。


 仕事を始めた奈都芽だったが、自分でも呆れるほどミスを連発した。

 野鳥の会の会員が(かず)取器(とりき)を持ったとしたら、すごい勢いで押し続けることが容易に想像された。

 だが、いくらミスをしようとも奈都芽が怒られることはなかった。

 先生はいつも笑顔で

「いいです。いいですよ、奈都芽さん」

 と優しく言った。

 そう言うときの先生はいつも決まった動きを見せた。



 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 自分の爪に置かれたわけでもないのに、なぜか奈都芽はその動きを見ると心が落ち着いていった。


 先生はいつも夕方になると、

「さて、さて、奈都芽さん。カラスも家に帰る支度を始めましたよ。おウチに帰って、勉強してくださいな」

 とニコニコしながら言った。

 奈都芽はその先生の言葉に甘え、早々に帰宅をし、毎日、受験に向けて勉強をかさねた。

 先生に恩返しを、と思い、奈都芽は奈都芽なりに一生懸命努力をした。そうして数年間受験したのだが、残念ながら一次試験を突破することはなかった。

「先生に申し訳ない」

 と、思うと同時に

「このままでは弁護士になってお父さんを助けることができない」

 と、奈都芽は落ち込む日々を送った。



 奈都芽の机の中にある数枚の不合格通知書に新たな一枚が加わったある年のこと、昼休み、事務所で昼食を食べていると、先生がふらりと現われ机の向こうに座った。

 そして、奈都芽をじっと見てこう言った。


()()()


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