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第3章  黒い影の正体②

 黒い影の正体は『(よう)ちゃん』だった。


 笹岡(ささおか)陽子(ようこ)というのがその名前だったが、奈都芽はいつも親しみを込めて『陽ちゃん』と呼んだ。



 父ほどではないものの、陽ちゃんは百八十センチ近い高身長で、骨格のしっかりした馬でも担げそうなほど力の強い大きな女性だった。

「さすがに馬は担げないだろう」

 そう奈都芽は思ったが、江戸時代、この地で活躍した有名な相撲取りの末裔らしく、その先祖が「馬を担いだ」逸話が残っているのを陽ちゃんは自慢げに話した。

「もう子供じゃない私を軽々と肩に乗せて歩くのだから、まんざらウソじゃないのかも」

 陽ちゃんの肉付きのよい大きな背中を見ながら、奈都芽はよくそう思った。



 母が手続きをすませたのは、離婚と実家の売却だけではなかった。

 父が逮捕されたあの冬、春が来ると奈都芽は中学生になる予定だった。何もなければ近くの中学に入学するところだったが、母の実家の近くにある中高一貫校に進学をした。そこは母の母校でもあったが、地元では伝統のある名の知れた進学校でもあった。

 父の影響で読書はよくする奈都芽だったが、学校の成績はとても人様に見せられるものではなかった。だから、入学試験を受けた時は合格することはないと確信をした。塾にすら通ったことのない奈都芽が答えられる問題はほとんどなかった。

 だが、奈都芽は無事合格をした。


 入学式の日、保護者席で頭二つ飛び抜けた陽ちゃんが誇らしげに何度も手を振っていた。

 近くの席の生徒たちが、

「ねえねえ、見てよ。あの人の手。うちわみたいに大きくない」

 と騒ぎになった。

「おじょうさーん!」

 と、大声で何度も陽ちゃんが叫ぶので、誰の保護者かが確定してしまった。

 恥ずかしさのあまり、奈都芽はずっと下を向いていたのだが、恥ずかしいのはそれだけではなかった。

 陽ちゃんが制服を用意してくれたのだが、

「あたしもそうでした。中学生ともなると、すぐに大きくなります」

 と言って渡された服は、少なくとも奈都芽が三人は入るほどの大きなサイズだった。

「ねえ、あの子の服……後ろに人が入れそうだよね」

「あれ? そんなのって何て言ったけ?」

「ほら……和服の後ろに人が入って、前の人に何かを食べさせる……」

 と、言う声があちこちから聞こえてきた。

 中学生になっても、あいかわらず背が伸びず、髪はボサボサで、黒いメガネをかけた奈都芽の学生生活はこの日ですべてが決まったようなものだった。

 自信なさげに俯く奈都芽の姿がそれを物語っていた。



 成績のよくない奈都芽がこの私立の名門校に入学できたのは、あらゆる手続きを早急にすませてきた母のおかげだった。

 入学式、保護者席ではなく、来賓席で堂々と中央に座っている母は着物を着ていた。実家に戻ってきて以来、母は着物以外の服を着ることがなくなった。


(しろ)(ほり)の家元さま」


 まだ住みはじめて二ヶ月しか立っていないのに、周囲の人は母をそう呼んだ。

 母の実家は江戸時代から続いてきた茶道の家柄で、亡くなった祖母のあとを継いだ母は茶道の家元になっていた。

 代々続く茶道の旧家とあって、家はかつて殿様が住んだ城のすぐ前にあった。城と家の間に堀があることから、


「城の堀の家元さま」


 と、呼ばれていた。


 奈都芽はこの話を陽ちゃんから聞いたとき、「母はよく平気でいられるな」と思った。奈都芽の心には父が逮捕されていたあの警察署のことが深く刻まれていた。あの陽ちゃんに車で連れ去られたときにいた駐車場のことが忘れられずにいた。

「——(じょう)とあの(ほり)

 あの夜の記憶を思い出すと、自然と父のことが気になった。

「お父さんは今頃、なにをしているんだろう?」

 だが、母はそんなことを気にしている様子はなかった。同じ情景を見ていたはずの母の気持ちを奈都芽はさっぱり理解できなかった。


 理解できないのはそれだけではなかった。


 祖母のあとを継いだ母だったが、奈都芽は生まれて一度も祖母に会ったことがなかった。祖母は早くに亡くなったと思っていたのだが、実はそうではなく、二年前に体調を壊し、去年の正月前に亡くなっていたとのことだった。

 その話を陽ちゃんから聞いた奈都芽だったが、祖母に孫を会わせようとしない、ましてや、その存在を『()()()』として扱ってきた母に不信感を抱くようになった。


 だが、さらに奈都芽の母への不信感が決定的なものとなる出来事が起こった。


 威風堂々、凛と澄ました母の佇まいからか、周囲の人が

「家元さまは口には出さないが、どうも夫が病死したらしい」

 という噂を口にしだした。

 その噂はあっという間に広がり、奈都芽の耳にはもちろん、母の耳にも届いた。

 中には

「家元さま、大変でしたね。旦那さん、ずいぶん苦しんだそうで」

 と、母を励ますように声をかけてくる人までいた。

 そんなとき母は、じっとその話を聞くと、静かにうなずいた。そして、何も言わず、ゆっくりと頭を下げた。

 奈都芽はそんな母の様子を見て、唖然とした。



()()()()()()()()()()。祖母のことをそうしたように、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 中学、高校とそれでなくても多感な時期に、奈都芽は母への不信感を強く持つようになった。そして、無実である父を取り戻すことができないのはこの『ウソをついてばかりの母のせいである』とまで考えるようになった。



 母の実家は、江戸時代から続く名家とあって、街の一等地に広大な敷地を有していた。

 門下生がずらりと一堂に会することができる部屋があるほど大きな平屋で、敷地内には茶室や鯉の泳ぐ池もあった。そのうえ、監視カメラのついた玄関から入った車が五、六台は停めることのできるスペースがあり、家の周りにはバスケットゴールぐらいの高さの生垣が植えられていた。

 さらにその敷地のすぐ隣には、茶道の門下生たちのための駐車場まであった。その駐車場は城の堀のすぐ前にあったことから、奈都芽はよくあの日の駐車場のことを思い出した。敷地の隅っこには街灯まであり、あの時の記憶を消そうとするように奈都芽はいつもその駐車場の前を足早に通り過ぎた。


 実家に戻った母の生活は、一転、華やかなものになった。

 箪笥の中には和服がぎっしりとつまり、同じ柄の着物を見ることはほとんどなかった。街の名士と言われる人たちを招いての茶会や、高級料理店へと食事によく出かけた。地元の新聞や雑誌にも度々顔を出した。そんな時の母は伝統を重んじる重厚な語り口を見せた。

 ……家ではひと言も話さないくせに……。

 奈都芽はそのような記事を手にすると、


「ウソつきの二重人格者」


 と、母を罵ったが、するとすぐに

「なんということを。家元さまに向かって。言葉を慎んでください」

 と、陽ちゃんにたしなめられた。



「家元さまがあたしを拾ってくれた」

 これが陽ちゃんの口癖だった。

 茶道の門下生として入門した陽ちゃんだったが、何かの理由で(奈都芽が何度聞いても決して明かされることはなかった)、主に掃除や食事を作ることなどが仕事となっていた。

 先代の祖母から引き継いだ際に

「この際に、辞めさせるべし」

 という旨の引継書があったようだったが、母はこれを無視し、その敷地の一角にある使用人用の小さな家に住みつづけることを許可した。

 そのため、陽ちゃんはいつも

「家元さまほど素晴らしい方はおられません。人格者です」

 と、絶賛したが、その度

「あんなウソつきのどこが人格者よ」

 と、奈都芽と口論になった。

 母のいないところで、かつ、陽ちゃんが相手の時だけは奈都芽は自分の思いを素直にぶつけることができた。



 中学、高校時代の奈都芽の生活はどれだけひいき目に見ても、楽しいものとはいえなかった。

 背は相変わらず伸びず、いつも一番前なのに、陽ちゃんの『自分の経験』に基づいた『少し大きめの服』はいつもダブダブだった。あいかわらず読書はするが、成績は伸びず、運動もできないことから注目を浴びることはほとんどなかった。さらには成績が振るわないのに進学校に入学していることから

「どうやら、母親の力で入ったらしい」

 と、噂をされたことから友人もほとんどいなかった。


 そんなパッとしない学生生活も五年が経ち、奈都芽は高校三年生になろうとしていた。



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