7.不可思議な記憶。
カノープス達が訪れた日以来、ベルは庭や自室でぼんやりと過ごす日々を送っていた。
眠りに落ちれば度々魘され、泣きながら目覚める。
起きている時でさえ時折、幻影の様に見知らぬ光景が現れては消えた。
思い浮かぶのはカノープスらしき者だけでなく、優し気な女性や溌溂とした少年であったりと様々で一貫性はない。
けれどそのどれもがベルには何処か懐かしく、同時に痛みを伴う感情を付随させていた。
「…これは、誰の記憶なの…?」
呟いた言葉は、誰に聞かせるでもなく庭の木々のざわめきに消える。
『ベルは誰かの記憶を自分の記憶の様に覗けるの?』
気付かぬ間にスピカが、ベルの肩口から顔を出した。
多少の驚きを覚えつつ、自らの肩口を見つめる。
「…そんな能力は、持ってないなぁ。」
苦笑いしつつ答えて、思わずハッとした。
「ぁ…そうか、他人の記憶を…僕が知ってるはずないんだ。」
当たり前の事を呟いて、けれどその当たり前がしっくりくる。
未来を知る力など、ベルにはない。
今存在している自分も、知らない記憶。
だとするならば。
「…全部、僕の過去なんだ。」
ポツリポツリと呟くベルを、スピカが不思議そうな顔で見る。
『よくわからないけど、何だかすっきりしたみたいだね。』
僅かに晴れたベルの表情に、スピカが反応した。
「まだ全部じゃないけどね、多少はモヤモヤしたのが晴れたよ。ありがとう、スピカのおかげだ。」
小さな隣人の頬を、人差し指で撫でながら微笑む。
スピカはそんなベルの行為に、くすぐったそうに首を竦めた。
背中の透明な羽をパタパタと忙しなく動かし、クシャっと笑う。
『へへん!僕ってば、優秀だからね!』
そう言うとスピカは、ベルの肩に両手で頬杖をつく。
二人は同様にクスクスと笑った。
気付けば、次の満月が間近に迫っている。
洋館の門辺から、玄関へ続くレンガ道の脇を芝桜が彩り始めていた。
玄関先に座ったまま、門の向こうをベルは眺める。
屋敷を訪れてくれたカノープスを思い出し、今の自分の知らない小さなカノープスがベルへと笑い掛けている姿が重なる。
きっとこれも、過去の記憶なのだろう。
だとすると、それは何時の記憶なのか。
何故、思い出そうとすると痛みを伴うのか。
不明な事はまだ多い。
もう一度カノープスに会えれば或いは、この謎が解けるかもしれない。
ベルはそこまで考え、ふと思考を止めた。
思い出しても良い記憶なのだろうか、と。
痛みを伴う記憶なら、思い出さない方が良いのではないか。
そんな事を思いながら、静かに門の向こうの通りを見つめていた。
洋館の外は、忙しなく車が行き交っている。
時折、人や自転車も通るが、皆一様に洋館を意識する事はない。
目の前を通り過ぎるだけの存在。
これが、双子にとっての日常だ。
そういう場所に彼らは居る。
まるで、世界から切り離されたような、そんな感覚を常に伴う。
寂しい訳ではない。
ベルにはカイが居たし、カイにもベルの存在が支えになっていた。
加えて、屋敷の外へ出ない訳でもなかった。
気が向けば散歩もするし、買い物にだって出かける。
けれど、特殊な特徴を持つベルは、外へ赴く事を極端に避けた。
大人であるならまだしも、子供で赤毛に碧の瞳というベルの容姿はある意味コンプレックスを生んでいた。
一度外へ出れば、誰かしらはベルを振り返り好奇の目に晒される。
それが分かっていて、気軽に外出しようとは到底思えなかったのだ。
外へ出るなら帽子を目深にかぶり、カイと一緒という事がほとんどだ。
「考えてみたら僕ってカイが居ないと、何にも出来ない気がするなぁ…。」
スピカにではなく、ほぼ独り言として言葉が漏れる。
『そうかなぁ?ベルは人を明るい気持ちにさせられるじゃない。何にも出来ないなんて事はないさ!』
スピカは片肘をつきながら、人差し指でベルの頬をツンツンと突く。
『得意な事をそれぞれがやれば良いじゃない?』
そんなスピカをちらりと見やり、ベルは微笑んだ。
「そうだね、洗濯は僕の方が上手だし?」
言いながら縮こまった体をグッと伸ばす。
徐に両手を天に突き上げた。
筋肉の収縮を感じ取り、スピカが空中にふわりと飛び立つ。
『んもぅ!落っこちちゃう所だったじゃない。』
手足をバタバタさせて抗議するスピカに、ベルは悪戯っぽく笑った。
「ごめんね、スピカは感が良いから平気だと思ったんだ。」
忙しなく動いていたスピカの手足が、ピタリと動きを止めた。
にっと笑い、得意気な表情になる。
『もちろん!ベルが腕を上げるのなんて、お見通しだったけどね!』
言い終わるとスピカは、ベルの頭の上に胡坐をかいて座り込んだ。
二人して門の向こうの通りを見つめる。
相変わらず忙しなく車が行き交う。
穏やかに、午後のひと時が過ぎて行った。
同じ頃、洋館の二階からベルを見下ろす者が居た。
玄関の斜め上、カイの自室だ。
「ジーク、ベルに何かしたの?」
静かに窓辺に立ちながら、カイが言った。
視線はベルを捉えたままだ。
「唐突に何だい?ベルにハグならしたけど?」
カイの自室に呼ばれたジークは、陽気に返答をよこす。
「答えるなら慎重にね。ジークが相手だろうと返答次第で、ベルを傷付ける者は容赦しないよ。」
冷たくカイが言い放ち、ジークは肩を竦めた。
「悪かった。ちゃんと答えるよ。」
その言葉を聞いて、ようやくカイはジークを振り返った。
ジークが窓際の壁に背中を預ける。
「何かした…と言うよりは、何かして貰ったって言う方が正しいかな。」
聞いた途端、カイが顔を顰めた。
ゆっくりとジークににじり寄る。
「ベルも了承済みでね。」
続けられた言葉に、カイが歩みを止めた。
目を細め、ジークを睨む。
「『了承させた』の間違いじゃなくて?」
カイの問い掛けに、ジークが小さく頷く。
それを見て、カイは徐に瞼を伏せた。
「詳しく教えて。」
ジークが再び小さく頷いた。
「不可視化の綻びがあったろう?私が此処を訪れた日、スピカが不信な行動を取る女性を見た。無関係とは思えなくてね。知り合いのケットシーに女性の特徴を伝え、見かけたら報告してくれるよう依頼した。猫の目は何処にでもあるし、情報を集めるなら一番効率的だからね。事前にベルにも伝えたら、此方も何か出来る事がないかと言われた。だからベルに伝えたんだ。ケットシーの息子が病に伏せっているとね。」
聞き終わると同時に、カイはカッと目を見開き、ジークに詰め寄ると胸倉を掴み上げた。
「事前にベルに話した?了承済み?そう仕向けたんだろう?何故僕にそれを話さない!ベルに言えば、その病の息子を助けると!必ずそう言い出すって分かってたんだろ⁉ジークだって知ってるはずじゃないか!!ベルが何を犠牲にして命を与えるのかを!!」
その口調は明らかに怒気を孕んでいた。
カイの表情は苦悶に歪んでいる。
ジークはそんなカイを静かに見下ろした。
「…そうだね、分かっていた。でもね、カイ…。依頼したケットシーはベルの古い友人なんだ。」
瞬間、カイが怯えた様な表情を見せる。
ジークの胸倉を掴んだ手が、小さく震えた。
「…古い、友人…?」
呟いたカイを見下ろし、ジークがほんの少しの間目を閉じた。
そうしてゆっくり瞼を開き、自らを掴むカイの手をポンポンと軽く叩く。
ゆっくりとカイの手が離され、力なく重力に従い落下した。
「カイなら覚えているだろう?始まりの土地でベルが助けた灰色と白の猫。それが依頼したケットシー、カノープスだ。カノープスの事を覚えていたなら、ベルはきっと病の息子を救うと言うだろうと思ってね…。でも、カイの言う通り。ベルに私の独断で話したのは、出過ぎた真似だったよ。すまなかった。勿論、昔の事は何も話してないよ。」
静かに語るジークの話にカイは驚いた様に目を見開き、そうしてギュっと瞼を閉じた。
「…ただ、問題が起きた。」
ピクリと肩を震わせ、カイが目を開く。
「問題…?」
ゆったりとした動作で両腕を組み、ジークは窓の外を見やる。
「カノープスがベルに向かって、『お前は変わらないな』と言ったんだ。」
弾かれたようにカイは、自らの額近くの髪をクシャりと片手で掴んだ。
「・・・・・・ッ。」
何かを押し殺す様に、唇を噛みしめる。
暫く、二人の間に長い沈黙が続いた。
カイの視線も、玄関先のベルへと向けられた。
焦点のぼやけた状態で、ただぼんやりとベルを見つめる。
「…ジークも気付いてるだろう?最近ベルが夜に魘されているのを。」
視線は変えぬまま、カイが口を開く。
ジークはそんなカイを見つめた。
「何となくね。起きててもぼーっとしてる事が増えた、とは思うよ。」
窓辺にそっと移動して、カイは冷たいガラスに額の一部をコツンと預けた。
ふぅ、と小さく息を吐く。
ガラスは薄っすらと白く曇った。
「…ねぇ、ジーク。ベルは、昔の事を思い出したと思う?」
無表情でカイが問い掛けた。
ゆっくりと片手で自らの顎に手を遣り、ジークが少し考える。
「定かではないね。今までそんな事は一度も無かったから、私には何とも言えないけど…。ただ可能性の一つとしては有り得ると、それくらいしか言えないな。」
聞き終えると、カイはゆっくりと目を閉じた。
「…そう。話してくれてありがとう。」
カイの言葉を受けて、ジークは無言で部屋を出た。
後ろ手に扉を閉めて、少しの間立ち止まる。
足元を見つめ、自らの額に手を遣った。
暫くそうして考え込むと、客間へと姿を消した。
その日の夕刻、洋館の入り口に小さな客が訪れた。
『赤毛の…じゃなかった、ベルお兄ちゃん!会いに来たよぅ♪』