6.笑う猫。
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桜の花びらが散り落ちて若葉が枝を彩りだす頃、風変りな客が洋館を訪れていた。
頭に小さな王冠を乗せ、二本足で歩く灰色と白のハチワレ猫。
門の柵をヒラリと飛び越え、いとも簡単に庭へとやって来た。
出迎えたのは洋館の主ではなく、ブロンドのポニーテール姿の人物。
ジークであった。
「やぁ、カノープス。わざわざ遠くまで悪かったね。」
到着したばかりの来訪者は、まったくだと言わんばかりに大仰に溜息を吐いた。
『注文通り、一族が例の特徴の女を見かけたらすぐに連絡が来る手筈だ。今回は特例だからな、ジーク。』
両腕を組み仁王立ちするカノープス。
よく見ると、その肩に小さな子猫が乗っている。
子猫は『にゃぁ』と弱々しく一声鳴くと、カノープスの肩で力なく目を閉じた。
「その子が例の…?」
ジークの後ろ、玄関の石畳に腰掛けていたベルが誰へともなく問い掛けた。
ゆっくりと立ち上がり、カノープスへと近付く。
「お目にかかれて光栄です猫の王、触れても構いませんか…?」
徐に頭を垂れるベルの言葉を受けて、カノープスが小さく頷いた。
その表情はジークへ向けられた物と違い、とても穏やかである。
「ごめんね、ちょっとだけ触らせてね。」
言いながら、ベルが子猫の背を撫でる。
ゆっくりと、何かを浸透させる様に。
何度か子猫の背を撫でていると、徐々に前足が伸びたかと思うやしっぽがピンと立ち上がる。
『んなぁ~…ぽかぽかするぅ。』
言葉と同時に、大きな欠伸を一つ。
それを見て、カノープスが瞳を潤ませた。
『おおぉぉ!話せるまで回復したか!心配したぞ、レグルス!良かった、本当に良かった!礼を言わせてくれ、ベル。ありがとう!』
片手でレグルスを抱き寄せ頬を寄せながら、もう片方の手でカノープスが目頭を拭う。
そんな猫の王を見て、ベルは小さく首を横に振った。
「此方も助けて頂いてます。お礼を言うなら僕の方だから…。」
柔らかく微笑むベルを見つめ、カノープスが目を細めて笑う。
『お前は変わらないな…。』
呟かれた言葉に、ベルが目を丸くする。
刹那、洋館の玄関からカイが声を掛けた。
「昼食の準備が出来たけど…、何してるの?二人とも。」
慌ててジークとベルが振り返る。
「もうすぐ若葉が綺麗な頃だねって、ジークと話してたとこ。」
言いながら、ベルは背後を見やる。
丁度本来の猫の様にして、カノープスとレグルスが柵の向こうへと去って行く所だった。
姿が見えなくなる直前、カノープスが『にゃぁ』と一声鳴いて居なくなる。
その表情は、笑っているかの様だ。
「冷めてしまうよ、帰っておいで。」
催促するカイの声に二人は一瞬見つめ合って苦笑いし、洋館へと引き返した。
洋館から少し離れた路地裏をゆったりとした足取りで移動しながら、レグルスが不思議顔で話しかける。
『父上ぇ…赤毛のお兄ちゃんと、前にも会った事があるのです?』
するとカノープスの動きが、ピタリと止まった。
『そうとも言えるし、そうでないとも言える。どうした、ベルが気になるか?』
質問を質問で返されて、レグルスが困り顔になった。
『会ったのか会ってないのか、どっちなのか分かんないよぅ!お兄ちゃんはぽかぽかしてたから、また会いたいなぁとは思った!』
無邪気に笑って答える我が子に、カノープスも自然と笑顔を返した。
『そうか、ぽかぽかだったか。また、会える事を願うばかりだ。今度は、交換条件等なく…な。』
来た道を振り返り、カノープスは春の終わりの力強さを含み始めた日差しにそっと目を細めた。
旧知の友を見るように洋館の方角を見て、満面の笑みを浮かべる。
『さぁ、帰ろうレグルス。今回は遠出をし過ぎた。』
そう言って路地裏の向こうへと、二匹の猫は姿を消した。
その日の夜、ベルは自室のベッドに横たわり月のない窓の外を眺めながら眠れない夜を過ごしていた。
日中に出合った猫の王の言葉が、頭から離れずにいる。
「…初めて…じゃないのかな?」
言葉に出してみるが、当然答える者はなく静寂が広がるばかりだ。
どんなに思い返しても、カノープスとの記憶へ辿り着かない。
そうしてふと、思い至る。
自我が芽生える以前の、幼い頃の事なのかと。
けれど、それでは『変わらない』と自分が言われた理由が見つからない。
自室へ戻ってから、幾度も堂々巡りの思考が続いている。
そうしている内に、頭の片隅に何かが思い浮かぶ。
ぼんやりと、霧の中の映像の様に。
ベルは目を閉じ、脳内のイメージへと集中し始める。
ぼやけた映像が、ゆっくりと鮮明さを帯びてくる。
輪郭がはっきりとし始め、カメラのピントが合う様に鮮明な像を結ぶ。
そこには、今日出会った猫の王よりも幾分小さなカノープスの姿が在った。
満面の笑みを浮かべ、カノープスは笑っている。
「ベル、大丈夫?」
突然、声を掛けられて像が霧散する。
肩を揺り動かされ、ベルがゆっくりと目を開ける。
そこには、心配そうな顔のカイが居た。
きょとんとしながら、カイを見つめる。
「…カイ?え…大丈夫って…?」
その言葉を聞いて、カイが眉を顰めた。
「…気付いてないの?」
言いながら、ベルの目尻を拭う。
カイの指先は、透明な液体に濡れていた。
ぼんやりとそれを見つめるが、暫く思考が追い付かない。
「泣いてたんだよ、ベル。」
指摘されて、初めて自らも頬に触れる。
確かに、しっとりと濡れた感覚。
その事実にベル自身が驚いた。
「ぁ…どう…して…。」
何故自分が泣いているのか、上手く状況が呑み込めない。
戸惑うように、ベルはカイを見上げた。
そんな様子をみて、カイは苦笑いしつつベルを抱き起こす。
ベッドサイドのテーブルからマグカップを一つ運んで、ベルへと手渡した。
「今日は少し冷えるから、ホットミルクでもどうかなって。飲んだら少し落ち着くかもよ。」
言いながら、カイ自身もマグカップに口をつけた。
渡されたホットミルクの温度が、じんわりと手のひらを温める。
その温度を感じながら、徐々にベルは平常心を取り戻す。
両掌でカップを包むように持ち、そっとホットミルクを口に含んだ。
「…うん、ありがとうカイ。もう大丈夫だ。」
静かにベルが微笑んで見せた。
カイも、柔らかな表情を浮かべる。
それ以上何を聞くでもなく、何を答えるでもない。
只、穏やかに時間を二人で過ごす。
それが、何よりも幸せだと思えた。
互いが今はそれで良いと、納得している様に。
部屋の外、扉一枚隔てた廊下で、ジークはそっと天井を見上げた。