19.見慣れぬ客人と無自覚に呟く名。
今回のお話はベル視点となっております。
お時間御座いましたら、お目通し頂ければ幸いです。
レグルスの状態が落ち着いた事を確認した直後、どれ程眠っていたのか。
傍らで意識を手放したのだろうが、突っ伏した状態で目覚めた。
ベルの部屋に時刻が確認できる物は存在せず、正確な時間経過は分からない。
ぼんやりとした意識を引き上げながら、丸くなって眠るレグルスを優しく撫でる。
掌で確認しながら、改めて安堵した。
『ん~…どうしたのぉ?ベルお兄ちゃん⁇』
触れられた事で目覚めたのか、ゴロゴロと喉を鳴らしながらレグルスが大きく伸びをする。
申し訳ない事をしたと、思わず苦笑いしてしまう。
「ごめんね、気持ち良く寝てたのに起こしちゃったね。」
レグルスは自らの顔周りの毛づくろいを済ませ、ベルの傍らに擦り寄った。
そんな彼の背を、毛並みの手触りを堪能するように緩々と撫でる。
『大丈夫だよ。それより、助けてくれてありがとうベルお兄ちゃん。』
感謝を述べるレグルスに対して、ベルは小さく首を左右に振って見せた。
その仕草で、暗に感謝など必要ないという事を示す。
「…ごめんね、怖い思いをさせて。レグルス、何か飲み物でも持って来ようか。」
バタバタしていたせいで、ベル自身も若干の喉の渇きを覚えていた。
気分転換も兼ねて、話の矛先を別の事に振ってみる。
『じゃぁ、僕も一緒に行く。ミルクが飲みたいなぁ~♪』
耳をピンと立てると、レグルスはベルの側を離れてピョンとベッドを居りて先導しようとする。
ベルはそんなレグルスをそっと抱え上げて、自室の扉を目指した。
「まだ無理しないで。一緒に行くなら、僕が抱っこするから。」
優しく微笑み、腕の中に納まったレグルスに言い聞かせる。
廊下を静かに進みながら、階下へ降りてリビングを目指した。
普段通りリビングの扉を開けると、何時もと様子が違う事に少なからず驚きを覚える。
目の前にはカイとジークが揃ってソファーに腰掛けていた。
そうして、更に奥に見知らぬ誰かが居る事に気付く。
「あれ?こんな時間にカイもジークもどうしたの?…あ、お客さ……………?」
見知らぬはずの客人の顔を順に捉えて、思考が停止した。
最奥に座る少女の内の一人、その姿を見た瞬間無意識にとある名前が浮かぶ。
殆ど反射的に、それは口を衝いて出た。
「……ミ…ラ……?」
自分でも、何故その名前を口にしたのか分からない。
唯、思い浮かんだままを微かな声にした。
そうして誰も聞き取れなかったであろうはずの微かな声を発した直後、カイが一瞬愕いた表情を見せたのは気のせいだったのだろうか。
直ぐに少女達に向き直ってしまったので、それ以上の事は分からない。
「ベルもレグルスも、少しは休めたかい?此方は、私達が探していた人物だよ。」
ジークが笑顔で紹介してくれると、客人達が一礼して見せた。
それに合わせて、自らもレグルスを抱えたまま軽く会釈を返す。
お陰で、停滞気味になっていた思考が正常に動き出す切っ掛けとなった。
不躾にならない程度に確認すると、手前に座る女性は黒髪で左目の目尻に黒子がある。
それを視認して、成程と理解した。
同時に、微かに何かをこの女性にも感じる。
けれど、その正体には簡単に辿り着けそうもなく早々に思考を巡らせる事を諦めた。
「…夜分に失礼している。私は辛、連れは双子の姉妹でトワとクオンという。その…相棒殿の怪我は、大丈夫だろうか…?本当にすまなかった。申し訳ない。」
深々と頭を垂れる辛に、理解が及ばず多少の混乱が生じる。
困った挙句、助けを求めるようにジークを見遣った。
「辛君の責任とは言えないんだけどね、例の仕掛けを作ったのは彼女が行動を共にしている者なんだそうだ。だから、謝罪したかったようだよ。」
ジークから説明を受けて、嗚呼と思う。
多少の複雑な感情は残るが、直接の原因ではないという趣旨の説明にも関わらず謝罪をしたかったと言うなら悪い人間ではあるまいと思い至る。
「レグルスは無事です、ご心配ありがとうございます。どうか、頭を上げて下さい。」
静かに言葉を投げかけると、辛達は一拍置いて頭を上げた。
自然と、視線が辛からトワへと移る。
紹介を受けた名前と、自らが微かに口にした名前は別物だ。
一体何故、その名前を思い浮かべたのかと考え始めた所でレグルスが「ミャォ。」と一声鳴いた。
「あ…そうだった。カイ、ミルクあったかな?レグルスが欲しがってるんだ。」
我に返って、当初の目的目指してリビングの奥にあるキッチンへ向かう。
そうして数歩進んだ所で、後ろを振り返った。
「カイ…?」
何時もなら直ぐに返事をくれるはずの人物から、まったく反応が無い。
不審に思ってカイを見つめていると、やや置いてから視線がかち合った。
「……え…ぁ、ミルク?あるよ、冷蔵庫に入ってるはずだ。取って来る。」
そう言って立ち上がりかけたカイを、ベルは首を左右に振る事で押し止めた。
何処か虚ろで、様子が何時もと違う気がしたからだ。
「大丈夫、僕がやるから気にしないで。それより、何か話していたんじゃないの?」
ベルの言葉に、我に返ったようにカイが辛を見遣る。
それを見届けて、レグルスとキッチンを目指した。
カイの様子も気になるが、まずは当初の予定通りレグルスにミルクを。
作業の邪魔にならないようにか、レグルスは自らピョンと床に飛び降りた。
収納棚から小鍋を取り出し、そこに冷蔵庫から取り出したミルクを適度に注ぐ。
手際が良いとは言えずとも、その後は難なくミルクを人肌に温めた。
食器棚から手頃な深さの陶器皿を取り出し、そこに温めたミルクを注ぎ入れる。
そうしてもう一つ、自分用の陶器のカップに同様にミルクを注ぐ。
直ぐにはレグルスに差し出さず、移動してカイ達が居る場所より手前にあるダイニングチェアーに腰掛けた。
ベルを追いかける様にしてダイニングチェアーの足元に、レグルスがちょこんと陣取る。
そこで初めて、彼にミルク入りの陶器皿を差し出した。
満足そうにミルクを飲み始めるのを見届けて、自分も持ってきたカップに口を付ける。
何気なく視線をカイに向けると、ベル同様にカイも此方を見つめていた。
特に何かを話していた様子は無く、暫く考えを巡らせてみてカイ達が自分を待っていてくれていたか自分が聞いてはいけない内容なのか二択の可能性があると思い至る。
「あ…えっと、僕も聞いていい話なの?もし待たせてたなら…悪い事しちゃったかな⁇」
言いながら皆の居る方向へ体ごと向き直ると、カイは苦笑いしながら左右に首を小さく振って見せた。
その仕草だけでは判断が付かず、カイの言葉を静かに待つ。
「一緒に聞いて貰って構わない。待たせられたと言う程待ってもいないさ。」
居合わせた人物の顔を順に追っても、皆同様の意見の様子で一先ずほっと胸を撫で下ろす。
そうして、ジークからシオンという人物がレグルスを弾き飛ばした仕掛けを作り上げた事等の経緯を説明して貰った。
辛達がシオンと行動を共にした発端が、庚という少女達の母を助けたいという気持ちであったという事も。
「そのペンダントを僕が借りて、直接シオンという人物の娘さんや庚さんを助けられれば解決したりしないかな?」
何となく、そうする事で全てとは行かないだろうが直面している問題の今後は解決出来る気がした。
特に深く考えず思ったままに言葉にしたのだが、それが思わぬ反論を買う事になる。
「ベル、軽率にそんな発言をしてはいけないよ。辛君の説明から推察するなら、庚君もだが…恐らくシオンという者の娘も人格と呼べるものは肉体に既に存在していない可能性がある。人格というのは、所謂その人物の心であり精神と言うべきものだ。本来、精神と肉体は切っても切り離せない。だけど庚君の場合、内からライラが肉体を生かす補助をしていたという話だ。シオンの娘も、交渉の結果としてライラが世話をしていたのだろう?本来切り離せないものを上手く体だけ繋ぎ止めていたのは、確かにライラという存在なんだろうね。」
まるで諭すように、穏やかにジークは言葉を紡ぐ。
一つ一つ丁寧にズレた論点の修正が行われる。
「肉体に対して、魂を誤認識させる事には成功していたんだろう。でもね、それも未来永劫可能という訳ではないはずなんだ。例えそれなりに猶予が出来たとしても、本来別物の精神が庚君達の肉体を動かし続ける事は不可能になる。現に、庚君は近時で目を覚まさなくなっていたという話だからね。ライラの協力を以てしても目覚めなかったシオンの娘に至っては、尚更その限界が近かったのかもしれない。別物の精神が代行出来ていたとしても、いずれ肉体が拒絶し始める。庚君が目を覚まさなくなったのは、その結果という事だろう。」
間違った解答に対する答え合わせを聞いている感覚だった。
そうして、思考的方向性の誤解は顕著なものとなって行く。
「ベルが治癒を行ったとしても、肉体の完治は見込めても一度離れた精神を戻す事だけは不可能だ。そもそもだけど…恐らく、肉体に問題は無いはずなんだと思う。そうなると、ベルが手助けしようと庚君やシオンの娘は元通りにはならないだろう。…それにね、ベルがそんな事をするとカイの心配性に歯止めが利かなくなるんじゃないかな?」
最後は茶化すように、ジークは見解を言い終えるとベルに向かって軽くウィンクして見せた。
どうにも自分が述べた内容が的外れだった事に、顔を覆いたくなる。
自身の能力を過信するにも程があったと、俯くばかりだ。
「…ごめん、僕何にも分かってなくて……。」
僅かに紅潮する頬を知覚しつつ、叱られた子犬の様に項垂れた。
とはいえ看過出来る事ではないという皆の総意である事に代わりはなく、解決策が必要となるのも確かだ。
「そう気落ちする必要もないよ。ベルがリビングに来た時、丁度その話をしようとしていたんだ。これから直面している不特定多数の命の搾取という最悪の状態を、どう解決しようかってね。」
顎に手を添えると、ジークは考え込むように湾曲したラインを何度か撫でた。
それを見遣り、一度は降下していた気持ちを立て直す。
穏便に問題を解決出来ないとなると、話は施された仕掛けをどうこうという話だけでは無くなって来る。
「あの…僕が治癒出来ないとなると……その、庚さんやシオンという人物の娘さんは……。」
思い至った考えを口にしようとしたが、全てを言い終える事は出来なかった。
それを声に出して言ってしまえば、確実に辛達は苦しい選択を強いられる。
分かっていて、全てを伝える事は躊躇われた。
「…気遣い感謝する。ある程度覚悟は出来ていたんだ、私達も。シオンが現れる以前から、庚がこの先そう長く持たないかもしれないという事は。恐らく、それを理解していたのはトワ達も同じだと思う。眠り続ける庚を目にする中で、少なからずそうなる事は覚悟していたと思う…。決して悲しくない訳では無いが、腹は括っている。きっとシスイ達も同じだ。だから、私達の事はこれ以上の気遣い無用で構わない。」
言葉を紡ぎながら、辛はそっと姉妹達を見遣る。
その視線の先で、緩々とクオンが小さく頷いて見せた。
クオンの片手が、膝の上で握りしめられたトワの片手をそっと包み込む。
その掌の温もりを感じる様に暫く置いて、トワも静かに頷いた。
齢十にも満たぬ身の上で近く訪れる母との決別を覚悟する事は、どれ程の悲嘆を伴う現実と向き合わなければならないのか。
成人した辛でさえ、その感情を受け止めるのは容易ではないだろう。
それでも、この三人は現実から目を逸らさず受け止めようとする強さを持っている。
その達観したとも言える精神力に衝撃を受ける一方で、心中を思うと胸が痛んだ。
「そうなると問題は、やっぱりシオン側に絞られるね。あの仕掛けを私達がどうにか出来たとしても、シオンの娘への思いが続く限りイタチごっこに成り兼ねない。根本的な解決には、酷な話ではあるがシオンにも辛君達と同等の覚悟を受け入れて貰う必要があるという事になるかな…。」
解決に至る道をジークは示すが、それは至極難しい事の様に思えた。
子が親に対して抱く思慕を含む感情は、確かに強い絆として双方を繋ぐ要因だろう。
しかし親が子に対して抱く感情は、果たしてその感情と同質なのだろうか。
どちらがどうと優劣等つけるつもりは毛頭ないが、親が子に抱く感情は慈愛や庇護意識を多大に含むだろう。
その愛情の深さは自分等には計り知れず、容易に我が子の死を受け入れられるものではない気がする。
一言で言うなら、それぞれが同等であれど似て異なる性質を持っているはずだ。
更に言及するなら、シオンは近付く娘の死を受け止められなかったからこそ現状の仕組みを作り上げたのだろう。
とてもじゃないが娘を近い内に失うかもしれないという、恐怖や不安を抱きながら早急な覚悟を決める事は不可能に思えた。
「……きっと、それは難しいんじゃないかな…。」
その場に居た誰もが思ったであろう事を、ベルは代弁するように口にする。
皆が皆、辛達のように強く在れる訳では無い。
我が子が人格といえるものを無くす事になるまでの間にも、ありとあらゆる感情がシオンにも沸き起こっただろう。
何が原因でそうなったのかは分からずとも、結果として最終的に突きつけられた現実に悲しみだけではなく後悔も覚えたかもしれない。
もしかすると、自責の念を抱えていたかもしれないとも思う。
その全ての感情が出した結論が、他者の命を搾取してでも我が子を生かすという選択だったのではないだろうか。
「成功する補償は無いが、教会を取り巻く仕掛けさえ何とか出来たら…シオン自身の説得は私が引き受けよう。私にも、責任の一端はあるんだ。それくらいはさせてくれ。」
唐突に、最初からそのつもりだったとばかりに辛は鍵となる役割を買って出た。
一同の視線が、一斉に辛に集まる。
その隣で、姉妹が不安そうな表情を浮かべていた。
「……まぁ、シオンに警戒心を抱かせないという意味でなら辛君が最適なんだろうが…。逆に言えばシオンがもしも何らかの理由で警戒心を辛君に持った時は、最も危険な役割となる事を承知しているかな?それに、こんな時間に今ここに居る事自体が既にシオンに警戒心を持たれる要因に成り得る可能性もある。」
僅かに目を細めながら、ジークは起こり得る未来を示唆した。
辛はというと、全て織り込み済みだとばかりに大きく頷く。
傍らの姉妹を交互に優しく撫でてやりながら、辛の視線がジークを捉える。
「其方に負傷者を出した時点で、私やシスイ達の腹は決まっていた。だから、この子達を連れて来たんだ。」
辛が告げた言葉の意図が飲み込めず、姉妹の表情は益々不安気な物になる。
そんな三人の様子を暫く見つめていたジークだったが、不意にカイへと向き直った。
「成程。……処で夜も更けて来た事だし、三人共このまま客間に泊まって行くといいと思うんだけど…どうかな?」
軽い調子でウィンクして見せながら、ジークは視線の先にいる人物に返答を求める。
当人はというと、一瞬驚いた様な表情を見せていたものの幾何もしない内に小さく頷いて見せた。
「それがいいと思う。ベル、悪いけど先にトワとクオンを空いてる客間に案内して貰える?レグルスもミルクを飲み終わったみたいだし、案内が終わったらベルも自分の部屋に戻って休んだ方がいい。まだ万全の調子という訳じゃないだろう?それと辛さんにはちょっとだけ、まだ聞きたい事があるから残って貰いたい。」
ジークの一言から、急遽と言っていい様な話が次々と提示される。
しかしトワ達の年齢を考えるなら、そろそろ起きているのも辛い時間だろう事も事実。
それに何か事を起こすなら、関わる全ての者の体調が万全である方が良いのは当然だ。
幾分腑に落ちない思いもあるが、ベルは納得してカイの言葉を受け入れる事にした。
「一番大きい客間でいいかな?あそこなら、後から辛さんが来ても三人で眠れるだろうし。」
適切であろう場所を示して、静かに立ち上がる。
飲みかけの温めたミルクは、すっかり冷めてしまっていたが構わず一気に飲み干す。
喉の渇きが癒えた事を感じつつ、空になったカップと足元の陶器皿を重ねてキッチンの流しへと持ち運んだ。
手早くそれらの洗浄をすませて、足早に元居た場所に戻る。
「あれ…レグルス……⁇」
ダイニングチェアーの脇に居たはずのレグルスが見当たらず、予期せず困惑してしまう。
辺りを見回すように視線を遣りながら、思わぬ人物の膝の上にその姿を見つけた。
「あの、何だか気に入って貰えたみたいで…さっき私の膝の上に来てくれたの。」
おずおずと遠慮がちに、トワが説明してくれる。
その間レグルスは上機嫌でゴロゴロと喉を鳴らしながら、自らの頬をトワの掌にすり寄せていた。
暫くその様子を見つめ、レグルスがトワを気に入ったのは本当なのだろうと理解する。
『だって、何だか落ち着くんだも~ん。このお姉ちゃんのお膝の上♪』
当の本人は、のほほんとしっぽを揺らしながらそう零した。
欲求に忠実な言葉に、何とも言えず笑いが込み上げる。
レグルスの言葉に少しでも気持ちが和んだのか、トワも僅かに微笑んで見せた。
「フフ…新しい友達が出来て良かったね、レグルス。トワさんも、もし嫌じゃなければですが…良ければレグルスを抱いて客間に移動して頂く事は出来ますか?」
あまりに居心地の良さそうなレグルスを見て、やんわりとトワに提案してみる。
すると、トワは思いの他驚いた様子を見せながらもしっかりと頷いた。
「敬語は…その……使わなくて大丈夫…です。……あ…あれ?それなら、私が使うのも変か…。と、兎に角!レグルスちゃんは、私が抱っこしてるね。」
しどろもどろになりつつ、トワは言葉遣いに対しての希望を述べると共にレグルスの事を了承した。
年齢も近い事を考えて、無駄な距離を作らない意味でもトワの提案には同意出来る。
「分かったよ。レグルス、良かったね。じゃあ、これからはトワとクオンって呼ぶね。僕の事もベルって呼んでくれると嬉しい。」
ニッコリ笑ってトワに話し掛けると、何故かトワは直ぐに俯くようにしながら何度も頷く。
急に馴れ馴れしかっただろうかと、少しばかり後悔した所でトワが俯いたまま口を開いた。
「わ、分かったわ!ベル。」
その返答で、馴れ馴れしいと思われている訳ではなさそうだと胸を撫で下ろす。
しかしそれならとトワの態度が不思議に思えたが、追及するのも気が引けたので指摘するのは止める事にした。
「じゃぁ、客間に案内するね。行こうか。」
声を掛けると、トワ達は立ち上がってベルの案内に従う。
リビングの扉の手前まで移動した所で、一度後ろを振り返った。
「おやすみ。あんまり無理しないで、皆も早く休んでね。」
徐に声を掛けると、トワとクオンも「おやすみなさい。」と短くベルに倣って居残り組に声を掛けた。
短い挨拶を残して、リビングを後にする。
客間に向かって暫く歩いた処で、トワに抱かれていたレグルスが口を開いた。
『そういえばベルお兄ちゃん、さっきちょっとだけ呼んでた『ミラ』って誰の事だったの?僕何処かで聞き覚えがあるんだけど…ゔ~ん……思い出せないなぁー……。』
振り返ると、該当する人物の事を思い出そうとしている為かレグルスの表情は眉間に皺を寄せてとても真剣そうだ。
しかしそうしていたのも暫くの間で、直ぐに気の緩んだ表情に変化した。
『ゔー…もういいや!思い出せなさそう。』
言うや否や、トワの腕の中にコテンと頭を預けて項垂れてしまった。
「あらら…考えるの疲れちゃったかな?でも、よくさっきのが聞こえてたね。」
立ち止まり、不貞腐れ気味のレグルスにやんわりと声を掛ける。
実際、流石としか言い様が無かった。
誰にも聞こえない程の声量で、小さく呟いた名前のはずなのだ。
聞いた者が人であるなら、その内容を正しく聞き取れた可能性は低かっただろう。
『耳はいいんだ、僕。猫だからね。』
トワの腕の中で項垂れたまま、もぞもぞとしながらレグルスが答える。
そんな彼の背を優しくなでながら、トワは微笑んでいた。
「…猫は好き?トワ。」
あまりにレグルスを抱くトワの姿が、しっくり来た所為もあるかもしれない。
不意に、聞いてみたくなった。
特に深く考えた訳では無いが、心に思った瞬間口を衝いて出た衝動的な質問。
「えっと…うん。飼った事は無いんだけど、好きみたい。何でかな?でも、レグルスちゃんの事とっても可愛いと思う。クオンも、そう思わない?」
唐突に質問された為か、トワは一瞬驚いた表情を見せて答える。
慌てた様子で隣を歩くクオンに視線を移しながら、話の矛先はクオンに移った。
そんな中少なからず可愛いと言われた事が嬉しかったのだろう、レグルスが耳をピンと立てながら顔を上げる。
「…ごめんなさい、私はあまり動物は得意ではないみたい……。」
申し訳なさそうに、そして多少不自然に距離を空けた状態でクオンは答えた。
その言葉で、レグルスの耳はシュンと下がり頭が再びトワの腕の中に沈んでしまう。
敏感にその事を感じ取ったトワが、慌ててレグルスの頭を撫でた。
「そっか、そうだよね…ちょっと苦手な物があるよね、誰にでも。でも、私はレグルスちゃんとっても大好きだな!」
オロオロとしながら、それでもトワが必死にフォローをしていた。
そんな様子を見て、何となく微笑んでしまう。
何処か懐かしいような、それでいて新鮮なような。
けれど、それが何故なのか自分でも分からない。
「レグルス、さっき呼んだ「ミラ」って名前も誰のなのか分からないんだ。どうしてあの時口を衝いて出たのかも。……ごめんね、思い出せたら話すね。」
正直に分からないと伝えると、返答代わりなのかレグルスはしっぽピンと立てて何度かそれを左右に振って見せた。
少なからず、クオンに得意ではないと言われたショックがあるのかもしれない。
それを見届けてから、それ以上の反応は期待するのを止めてトワ達を客間に案内した。
ほんの少し元気がなくなったレグルスをトワから受け渡して貰い、互いに軽く挨拶をして自室へと戻る。
ベッドに入りレグルスを優しく撫でていたが、暫くすると静かに眠ってしまった。
一人になって、改めてリビングで口にした名の事を考える。
「……ミラ………。」
掻き消えそうな程の小声で、呟いてみた。
しかし、やはり誰の名なのかまでは分からない。
そのはずなのに、口にしてみた名前はやけに馴染みがあるようにも思う。
まるで掴めそうで掴めない、風に揺れる細い糸に必死で手を伸ばしている気分だ。
確かに其処にあると分かっているのに、今一歩届かない。
けれど、それに手を伸ばして良いのかと自問する自分が何処かにいる。
正体を探求したい自分と、それを拒みたいような奇妙な感覚。
心の中で、もう一度『ミラ』と唱えてみる。
何故自分は、トワを見てその名を口にしたのか。
その先へと思考を辿りたいのに、掌に感じる温かさが基本的欲求を刺激する。
指先はレグルスの毛並みを堪能して、柔らかな体毛に沈みつつあった。
思考が徐々に鈍り、自然と眠りに落ちる感覚。
これ以上、その名の事を辿る集中力がプツリと途切れた。
重力に従い、完全に力の抜けた体がベッドに沈む。
負荷の掛かったベッドが、微かにギシリと音を立てた。
『おやすみ、私達の愛しい子。良い夢を。』
何処からともなく、優しい声が眠りに落ちたベルに投げ掛けられた。
懐かしい名前が出てきました。
設定的な小話とかもあるんですが…気が向いた時に旧Twitterにでも呟くかもしれません。
読んで下さった方がいらっしゃいましたら、今回も心よりお礼申し上げます。
追伸。
前回のお話UP後に評価下さった方がいらっしゃいました、お礼申し上げます。
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