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16.繋がれる想い。

前回のお話より、辛さん登場してます。

お気付きの方もいるかもしれませんが、15~16話は辛さん達との過去の繋がりのお話です。

お付き合い頂ける方がいらっしゃれば、幸いです。

どうぞ、宜しくお願い致します。

屋敷に着いてからは、慌ただしい時間が過ぎた。

まず体温を上げる事を最優先に、保温効果のある寝具で庚と辛に暖を取らせる。

その後ベルが行ったのは、治癒を施す為には既に見せた通り体に触れなければならないという説明と、その承諾を得る事。

次に、庚と辛の全身の大まかな負傷具合の確認。

そして、庚のお腹の子の出産予定時期の確認だった。

場合によっては、選ぶ事も出来ないまま新しい命を切り捨てなければならない可能性もある。

例えその可能性が現実になろうと、ベルが納得する可能性は低いが。

しかし、それでも必要な情報であった。

カイは屋敷に戻るなり大量の湯を沸かしながら、得られた情報を頭に入れて行く。

「身重になって、もうすぐ十月です。」

ベルの問い掛けに答える庚の声が、カイの耳にも届いた。

それは幸いであると言えたが、同時に最悪の悔いにもなり得る。

「……そうですか、分かりました。」

短く答えて、ベルは僅かに沈黙した。

治癒が施せるとはいえ、ベルは医療に携わっているわけではない。

何が正しいのか手探りのまま、必死で彼女達を最大限治す方法を考えているのだろう。

そうして数分も経たぬ内に、ベルはカイを見遣った。

「カイ、辛さんの傷は足の凍傷を除けば比較的軽傷だと思う。少し熱めのお湯に足を浸して、他の傷は薬品での手当を頼める?」

ベルが指示した事に、即座にカイは頷いた。

そうして、指示された内容以上に素早く動く。

暖炉に火を入れ、その直ぐ傍に大きめの一人掛けの椅子を二脚用意した。

椅子の前には、沸かしておいた湯を張った金盥をそれぞれ並べる。

その間に、ベルは庚の負傷具合をより詳しく把握した。

二人を椅子に座らせると、カイは一旦部屋を出て直ぐに必要な薬品やタオルを運んで来る。

ベルの側に運んで来たそれらの中で庚に必要そうな物を纏めて置くと、自身は辛の消毒や治療に当たった。

段取りの良いカイに、ベルが改めて一言「ありがとう。」と感謝の気持ちを口にする。

「大丈夫、こっちは気にしなくていい。」

カイはそれに対して小さく頷くと、手短にそれだけ答える。

余計な負担を与えずベルが動きやすい様に、カイはなるべくサポートに徹していた。

けれど余力のある時とは違い、予想外の事態は起こるものだ。

「……ッ……。」

湯に足を浸けた途端、辛が小さく呻き声を漏らす。

庚の方も、声こそ上げなくとも表情から痛みを伴っている事が窺がえた。

「大丈夫ですか?……痛い…ですよね…。本当ならその凍傷も、僕自身が直接治癒すれば痛む事もないんですが……どうしても、庚さんの腹部の負傷部分とお腹の子の治癒を優先しなければならないんです……治療させて欲しいと申し出ておきながら、痛い思いをさせてごめんなさい…………本当に、ごめんなさい……。」

やるせない思いからか、微かな苦悶の表情を浮かべながらベルは庚の傍らに膝を突く。

本来ならば、そんな謝罪など口にする必要なく治癒出来ただろう。

今でなければ、こんな状況にはならなかったはずなのだ。

時期の悪さが歯痒く思われたのか、ベルは僅かに唇を噛んでいた。

そんなベルを見つめ、庚が痛みを押し殺して微笑む。

「どうか、謝らないで下さい…謝る必要なんて無いんです。元より、あの場で終わっていたかもしれない命です。助けて頂けただけでも、私達は十分幸運でした……だからどうか、そんなにご自分を責めないで下さい。」

優しい声で、静かに庚はベルへと語りかける。

その余りに優しい声は、どんな思いをベルに抱かせただろうか。

どこまでやり遂げられるかという不安や焦りの緩和か。

それとも庚の言葉を受けて、救命という行為自体の使命感から来る更なる重責の加重か。

或いは、その両方か。

「……有難う御座います、力を尽くします。」

ベルは短く答えて、苦笑いして見せた。

そんなベルに、庚は困った様に微笑み返す。

必死に己を助けようとするベルの気持ちが伝わって、庚はそれ以上何も言えなかったのかもしれない。

けれど程なくして、状況は急変した。

僅かに顔をしかめ、庚が自らの腹部に手を置いて小さく呻いからだ。

「庚さん…?大丈夫ですか⁉」

直ぐにベルが庚の変化に声を掛けるが、先程までとは打って変わって庚はギュッと瞼を閉じて答える事が出来ない。

ベルも庚の腹部に掌を当てて状態を把握しようとするが、どうにも対応に困ってる様子だ。

「何だろう…そこまで状態が急変した感じはしないんだけど……。」

困惑しながら発した言葉は、ベルにしては珍しい物だった。

病や傷の進行具合なら、ベルが感じ取れないはずは無い。

なのにそれが今、分からないと言う。

過去に無かった事だけに、カイも思わず動揺して辛を治療する手を止めた。

そんな中、辛だけが冷静にとある可能性を示す。

「……庚、もしかして産まれそうなの……?何時から…⁇直ぐにはそんな状態にはならないはず……!」

足の痛みを喪失したかの如く、勢い任せに辛が慌てた様子でその場に立ち上がる。

ともすればそのまま庚に駆け寄って行きそうだったのを、カイが瞬時に制した。

「放して!もし産気づいているなら、お腹の子を取り上げる準備をしなきゃいけない……貴方達じゃ、勝手が分からないでしょう⁉……私が何とかしてみせ……ッ⁉」

カイが止めても辛は構わず身を乗り出して早口に捲し立てたが、言い終わる前に動こうとした足に痛みが生じてバランスを崩す。

よろめいた辛の体を、すかさずカイが受け止めて事なきを得た。

そこで漸く庚が瞼を開くと、苦しそうに口を開く。

「…辛、大丈夫よ。黙っててごめんなさい……二人が来てくれた辺りから、鈍い痛みがあったの…。まだ大丈夫だと思って…いたんだけど…ッ…。」

それだけ言うと、痛みを耐える様に庚は再びギュッと瞼を閉じた。

庚の様子を目にした辛の表情が、サッと青ざめる。

「無理を言うようだけど、一旦落ち着いた方が良い…。その状態でお産の補助をするのは難しいんじゃないか……?」

庚を気遣う心情を理解した上で、どうにか辛が押し留まってくれないかとカイは言葉を掛ける。

しかし、そんなカイに慌てふためく辛は鋭い視線を返した。

「…無理でも無茶でも、やらなきゃいけない!…そうじゃないと、庚が安心して子供を産めない…!!」

キッっとカイを睨みつけ、辛は尚も庚の元へ向かおうとする。

そんな辛を、僅かに力を込めてカイは押し止めた。

「それなら僕に、指示をすればいい。」

カイは迷う事無く、一言辛に言葉を発した。

同時に、辛の動きがピタリと止まる。

その表情は鋭い物から一変して、驚きの物へと変化した。

「………貴方に…?出来る…の…?」

突然示された選択肢に不安と困惑が入り雑ざり、辛は直ぐに複雑な表情を見せながら呟く。

助けて貰っているという自覚はあれど、出会って間もない見ず知らずの男に任せて良い物か判断が付かなかったのだろう。

その気持ちを汲んで、カイは正直に気持ちを伝えた。

「出来るか出来ないかで言えば、答えは「分からない」だ。僕は医者じゃないし、出産の手伝いなんて経験もした事がない。」

カイの言葉を耳にして、辛は眉を顰める。

しかし続けて発せられた言葉を聞いて、その表情が僅かに緩んだ。

「でも貴方の言う庚さんが安心して子供を産める状態を、整える努力は出来る。だから、貴方が適切に指示を出して僕を動かしてくれればいい。今の貴方が無理をするより、余程僕の方が動けるはずだから…。」

それは、カイなりの優しさだ。

足を痛めた辛への配慮と、ベルに余計な心配を掛けない為の。

カイの言葉を聞き遂げて、辛は暫く沈黙して再び椅子に腰掛けた。

「…もっと沢山、お湯を沸かして。それから、良く切れる刃物と針と糸が必要かもしれない。消毒液か、度数の高い酒があればそれなりに用意して欲しい。」

しっかりとカイと視線を合わせ、辛が指示を出す。

少し落ち着いた様子の辛を見て、カイが小さく頷いた。

「分かった、貴方はここから動かないで。」

言い残して、カイがその場を離れる。

辛も大人しくそれに従った。

指示された物を取り揃えて素早くカイが戻って来ると、辛は更に詳細な指示を伝える。

「まずは貴方の手を消毒。それが出来たら刃物は刃先を暖炉の火で表面を加熱して、消毒液を掛けて。針も同様に加熱して消毒。それから糸を針に通したら、糸自体にも消毒液を掛けて。」

指示と共に、カイは言われた通りに動く。

その間、庚の呼吸が少しずつ荒くなり出産の時が近付いていた。

凡そ十分刻みの痛みを繰り返したかと思えば、やがてそれは五分刻みになる。

そうしている内に、陣痛の感覚は更に狭まり庚の表情はどんどん苦し気に変化して行った。

「庚の両足を椅子の上に。多分、もう直ぐ産まれる。足を開かせる様に座らせて、赤ん坊の頭が見えて来たら場合によっては出やすくする為に出口を刃物で少し切って。くれぐれも赤ん坊を傷付けないように慎重に。」

庚の様子を見ていた辛が、テキパキと指示を出す。

しかし、その指示の内容に覚悟していたとは言えカイが一瞬狼狽えた。

「何を躊躇している、私の代わりに努力すると言ったのは貴方でしょう?それが出来ないなら、やっぱり私が動く。」

ピシャリと言って、辛はカイの返答を待つ。

先程までの辛の様子を考えれば、言い終わるより早く自ら行動してもおかしくなかった。

それを行わないのは、きちんと状況を理解してカイやベルの負担を案じられている証拠だ。

「…大丈夫だ。言われた通り、やってみる。」

短く答えて、カイはベルに向き直る。

ベルはそんなカイに無言で頷くと、タオルを手に庚の足を湯から引き揚げ優しく拭った。

その後で庚の上半身を出来る限り椅子の後方へと移動させると、辛の指示通り座らせる。

静かに、カイは庚の正面に跪いた。

ベルはそんなカイを見届けて、庚の直ぐ横に陣取る。

「……ッ…もぅ……直ぐそこまで…降りてきて…ッ…。」

庚の言葉を合図に、本格的なお産が始まった。

額に汗を浮かべて、庚は必死に痛みをいなしている。

奥歯を噛みしめ、痛みに耐える庚を見て辛が慌てて追加の指示を出す。

「いけない…痛みを耐えるのに、強く食いしばり過ぎているかもしれない…手拭いでいいから庚の口に入れて噛ませて!」

聞き届けると、カイが用意した物の中から適した布を探してベルが即座に対応した。

そうこうしている内に、一際苦しそうに庚が呻いた。

「…ゥヴッ!!…ッ……ゥッ!!!」

こめかみに青筋を浮かべながら、庚がギュッと瞼を閉じていきむ。

両手が必死で椅子の肘掛を掴んでいる。

そんな庚の片手を覆うようにして、ベルが掌で包んだ。

「…ぁ…頭が見えて来てる。もう少しだ…頑張って庚さん。」

庚を少しでも勇気付けようとして、不器用な声援をカイが送る。

そんなカイを見遣って、辛が隣の椅子に座ったまま庚に向き直って声を張り上げた。

「聞こえた?庚、頭が見えてるって!もう少しだよ、もう少しで産まれる!!次に大きな痛みが来たら、思いっきりいきんでっ!!頑張って!!」

痛みでどうしようも無くなっていた庚が、辛の言葉に必死で何度か小さく頷く。

そうして、指示された通りの強い痛みが来たのだろう。

庚が力の限りにお腹の子を押し出した。

その痛みは壮絶な物だったに違いない、耳にするだけでそれが伝わる声を庚が上げる。

「……!ダメだ…頭が通り切ってない…。」

悲鳴に近い庚の声が響く中、カイは険しい顔をして呟く。

その呟きを、辛は聞き逃さない。

「庚、一旦力を抜いて。それから、貴方はさっき説明した通りに。ほんの少しで良いと思う、出口を広げてあげて!一刻を争う、絶対に躊躇わないで今直ぐに処置を!!」

庚とカイに、それぞれ即座に指示を辛が出した。

言われた通り、直ぐにカイが用意した刃物を手にしてタイミングを計る。

庚が力を抜いて胎児の頭が見えなくなったのを見計らい、出口を僅かに素早く切った。

肉を裂く感触はカイに嫌悪感を抱かせたが、顔を背けそうになる気持ちをグッと堪える。

庚の方はというと、陣痛の痛みの方が勝るのか刃物で多少肉を切られてもビクともしない。

「…これで、大丈夫だと思う…。」

恐らくとしか言いようがないが、カイは指示された事を成し遂げた報告をする。

それを受けて、辛が再び声を張り上げた。

「庚、もう一度!!次の波が来たらいきんで!!」

辛の声に、再び小さく庚が頷いた。

直ぐにその時が訪れ、先程同様に庚が痛みに耐える声が室内に響く。

「ンンッ…ゥ……ンゥヴーッッ!!」

力の限りに庚は、自らの腹から胎児を押し出した。

踏ん張る様に、しっかりと掴んだ椅子の肘掛に庚が耐える様に爪を立てる。

「生まれた直ぐの赤ん坊は、首が座ってないから頭と首を支える事を忘れないで!!」

緊迫した中、尚も辛の指示が飛ぶ。

カイの処置が上手く作用して、今度は胎児の頭が通った。

すかさずその小さな頭部をカイが支える。

胎児の肩が出切ったところで、カイは庚の押し出す力を補助する様に露になった胎児の肩を優しく自身に向かって引き寄せた。

ズルリと、胎脂の付いた赤ん坊が生れ落ちる。

それは、小さな小さな新しい命。

カイは腕の中に収まる、その姿を見つめながら不思議な気持ちが沸き起こるのを感じた。

「…生まれ…た…女の子だ、庚さん…。」

想像よりも遥かに小さく、けれど確かに命の重みを感じさせる存在。

それが、今カイの腕の中にある。

まじまじと我を忘れて、カイはその姿を見つめていた。

「ぼんやりしないで!赤ん坊のへその緒を、根本の近くで糸できつく縛って。縛った所から少し離して、同じ様にもう一ヶ所縛る。それが出来たら、縛った二か所の中間を切り離して。それから、生まれた子を此方へ!急いで。」

鶴の一声とでも言うべきか、辛の声が耳に届く。

赤の他人のカイでさえ感慨深い思いを抱いているのに辛がそれを感じていないはずは無いのだが、それでも彼女の方がこの状況下で現実が見えていた。

生まれたから終わり、では無いという事だ。

直ぐさまカイは、ベルへと赤ん坊を託して指示通り処置を施す。

その処置が終わると、ベルは受け取った赤ん坊を抱えて辛の元へ駆け寄る。

赤ん坊を受け取った辛は、不安定な首をしっかり支える様に横抱きにしながら小さな背中を優しく何度か撫でた。

暫くして、赤ん坊の腹部が目で見て分かるくらいに膨らむ。

初めて吸い込んだ息を吐き出しながら、赤ん坊が産声を上げた。

そこで漸く、辛の表情が緩み微笑んだ。

「…良かった、無事に生まれてくれた…。」

その姿を見て、カイは嗚呼と思う。

何と彼女達の逞しい事かと。

出産という男の身には起こらぬ事態に、カイはただ狼狽えて辛が指示したままに動いただけ。

それに比べて、庚や辛の何と気丈な事か。

安心すると同時に、何やらカイは自分が彼女たちに比べて不甲斐なく思えた。

そんな風に感じていた時だ。

「…ゥヴッ……ッ!!」

庚が、再び呻き声を漏らした。

ベルが慌てて庚に駆け寄りその腹部に手で触れるや否や、険しい表情を見せた。

「……一人じゃない…まだもう一人残ってる…。」

呟かれたベルの言葉に、辛もカイも意表を突かれた表情を向ける。

しかし、出産にまったは無しだ。

辛に言われた通りの処置を施し終わった直後のカイが、庚に向き直り更に驚く。

「…頭がみえている…。」

カイが発した言葉に、辛が我に返る。

生まれたばかりの赤ん坊を抱いたまま、辛が声を張り上げた。

「一度出来たんだから、今度も出来る!!要領は同じ、頭が出たらしっかり支える!!それだけは忘れないで!」

その一喝で呆然としていたカイを、辛は一気に現実に引き戻した。

我に返ると、カイは素早く左右に頭を振って気持ちを切り替える。

そうして最初の子同様、庚が大きくいきむのを待って生まれ出て来た赤ん坊の頭をしっかりと支えた。

二人目の赤ん坊が、カイの腕の中に収まる。

すかさずベルが赤ん坊を受け取り、カイはへその緒の処置を施す。

どうにか必死で全てを終えて、カイは俯きながら薄く開いた唇から深く息を吐き出した。

「…一先ず……終わった…のか?」

そう呟いて、カイは少し疲れた表情で顔を上げる。

庚は体力を使い切った様に、ぐったりして椅子に体を預けていた。

その額には汗で髪が張り付き、目尻に涙が滲んでいる。

ベルが抱えた赤ん坊を見えやすい様に、そっと庚に近付く。

しかし、どういう訳かベルは突然立ち止まると食い入るように赤ん坊を見つめていた。

そんなベルに気付いて、カイはベルの名を呼ぶ。

「ベル……?どうし…。」

尋ねようとして途中まで出た言葉は、赤ん坊を見た瞬間に途切れる事になる。

ベルが抱く腕の中で、筋肉がまるで機能していないかの様に小さな手足が重力に従って垂れ下っていた。

赤ん坊を抱いたベルの顔が、見る見る間に青ざめて行く。

「…息を…していない……。」

呟かれたベルの言葉に、庚が瞼を開いて力なく赤ん坊へと手を伸ばす。

その手は出産で体力を使い切って、小刻みに震えていた。

恐らく今は、動く事もままならないだろうに。

「……わた…しの……赤ちゃ…ん……?」

強張った顔で、庚が必死に手を伸ばしている。

その震える指先を見つめて、ベルは立ち止まったまま複雑な表情を見せた。

ベルの変化に不安を感じ取ったのか、庚が擦れる声で言葉を発する。

「お願い…です…赤ちゃんを……助けて下さい、ベルさんッ!!」

届いた言葉は、必死に我が子の救いを訴える。

けれど、ベルは直ぐに返答出来ないでいた。

それも至極当然、今のベルに赤ん坊を助ける事は出来ても庚の負傷を治癒する力まで残っていない可能性がある。

子供を助けても、母親を失ってしまうかもしれない。

そこに迷いが生じているのだろう。

「お願いです…ベルさんッ…私はどうなっても構いません!その子に未来を与えて下さい!」

悲痛な庚の声が、部屋に響く。

母として、それは譲れない庚の願いなのだろう。

その重い一言を聞き届け、僅かにベルが沈黙を貫く。

庚が、辛が、カイが、固唾をのんでそれを見守っていた。

腕の中の赤ん坊を見つめ、そうしてゆっくりと庚を見遣った。

「…勿論です。必ずこの子は助けます。だから、協力して下さい。僕が治癒する間、この子を庚さんが抱いていて欲しいんです。」

優しく微笑みながら、ベルは庚にそう告げた。

その言葉を聞いた瞬間、庚の表情は安堵に緩む。

疲れ切った体で、両腕を持ち上げ我が子を受け入れる仕草を見せる。

ベルはそっと庚に寄り添い、腕の中の赤ん坊を力が無くても危なくない様に庚の腹の上に乗せた。

両腕で庚がしっかりと抱き留め、我が子を見遣る。

不安と安堵が入り混じる複雑な表情を浮かべて、庚は赤ん坊を見つめていた。

ベルはそれを見届けて、すぐに掌で赤ん坊に触れる。

頭から、足の先まで僅かずつ掌をゆっくりと移動させながら隈なく治癒を施す。

そんな中、庚の正面に跪いたままのカイが異変に気付いた。

先程まで庚と赤ん坊を繋いでいたへその緒が、ゆっくり体外に押し出されている。

へその緒がある程度出てくると、それは大人の拳二つ分程の肉塊と共にずるりと盥に落ちた。

程なくして、庚の下腹部からジワジワと鮮血が滴り出す。

始めは滲んだ血がポタリと時折盥に落ち、次第にその流れは早くなった。

「……ベル。」

一言名前を呼んで、カイはベルを見上げる。

カイの声に反応して視線を向けたベルが、微かに頷いて赤ん坊に視線を戻した。

状況が悪い事に、ベルも気付いている。

分かった上で、赤ん坊の治癒を優先しているのだ。

「庚さん、不快な思いをさせるかもしれないが今からする事を我慢して下さい。」

カイは、用意した新しい手拭いを掴んで庚の出血を押さえようと下腹部にそれを押し当てた。

庚も何かを察してか、小さく頷いただけだ。

金盥の血だまりに辛は気付かず、先に生まれた子をタオルでくるんでベル達を見守っている。

暫く時間が経過して、庚の足には止める事が出来なかった鮮血が太ももを伝ってポタポタと金盥の水を赤く染めていた。

そうしている内に、庚の腕の中で赤ん坊の肌が桜色に染まって行く。

微かな自発呼吸を始めたかと思うと、瞬く間に赤ん坊は小さな指を握りしめて産声を上げた。

「……あぁッ……良かった…有難う。生まれて…来てく…れて……ほんとう…に……よかっ……た…………。」

耳に届いた赤ん坊の声を聞きながら、庚は笑う。

笑いながらゆっくり目を閉じ、感謝を口にして一筋涙を零すとそのまま沈黙した。

それから静かに庚の片腕が、重力に従って椅子の上にズルリと落ちる。

即座に、ベルが不安定になった赤ん坊を支えた。

「カイ!…赤ん坊をお願い…。」

ベルはそっと泣き続ける赤ん坊を抱き上げ、近付いて来たカイに受け渡す。

そのまま両手で庚の鳩尾辺りに触れながら、一瞬顔を顰める。

「…言っても意味がないだろうけど…あまり無理はしないで……。」

既に庚の治癒に当たり始めたベルに、カイは小さく囁いた。

そんなカイを、苦笑いを浮かべてベルは一瞥する。

「……ごめんね、カイ。後の事は、頼むよ…。」

そう言うと、ベルは口を閉ざした。

赤ん坊は助かった、けれどこの後にどれ程庚が回復するかは分からない。

ベルの命は、どれだけ残されているだろうか。

また、己は見守る事しか出来ないのだとカイは思い知る。

ベルが命を賭してまで助けようとしている庚が、元気になってくれる事を祈りたかった。

カイには、それくらいしか出来ない。

腕の中で声を上げる赤ん坊を、優しくタオルで包みながらカイは見守る。

必死で庚を助けようとするベルを。

その直ぐ隣で、異変に気付いた辛もベルと庚を見守った。

刻々と時間が流れ、やがてベルは庚の傍らに膝を突く。

椅子にその体を預けるように、それでも庚の腹部から手を離しはしない。

どこまでも頑固で諦めの悪いベルだから、そうする事がカイには何となく想像出来た。

驚きはしない。

その手が力なく椅子からずり落ちようとも。

己の命が尽きるまで、ベルは庚を癒し続けた。

椅子に支えられるようにして頭を預け、静かにベルは現世に幕を下ろす。

治癒を受けた庚の出血は、いつの間にか止まっていた。

けれど、どうやっても完全に治癒する事は不可能だったのか庚は瞼を閉じたままだ。

「…お疲れ様、ベル。後の事は心配しないで。」

ベルの傍らに佇むと、カイはそれだけ呟いた。

暫くして振り向くと、辛が不安そうにカイを見ている。

その表情を見つめて、カイは何から話すべきかと思考を巡らせた。

赤ん坊の鳴き声が部屋に響く。

室内の温度が僅かに下がりつつある。

カイが窓をチラリと見遣ると、案の定外は雪が降り始めていた。

そんな中、背後で覚えのある気配を感じる。

「…スピカが騒ぐものだから何事かと思えば、随分奇妙な事になっている。」

振り向いたカイの視界に映ったのは、久し振りに見る母の姿。

我が子の死期を悟って、此方に赴いたのだろう。

母はいつも、そうしてカイとベルの生と死を見守って来てくれたから。

「母さん…来ていたんだね。これは、その…ベルがこの人達を助けようとして…。」

カイの言葉を聞きながら、アルテミスは動かなくなったベルを見遣る。

そうして僅かに目を細めると、小さく吐息を漏らした。

「……まったく…相変わらず無茶をする。何時まで経っても、ベルの本質は危ういままだな。」

何処か悲し気に、けれど諦めた様にアルテミスは呟いた。

そうしてゆっくりとベルの側へと近付く。

「…ゆっくりお休み、ベル。私の可愛い子。」

傍らに佇むと、眠る様に逝ってしまった我が子の頭をそっと撫でる。

暫くそうして、アルテミスは庚を見つめた。

無言で瞼を閉ざした顔を見ると、その視線はゆっくりと庚の腹部へ移動して止まる。

目を細めながらそれを眺めて、アルテミスは対面の虚空へ視線を移した。

「…この娘は、お前達が目を掛けているのか…?」

虚空に向けて発せられた言葉を、カイは黙って聞いていた。

恐らくシスイに向けての言葉だろうが、とある言葉がカイには引っかかる。

「そうか…。分かっていると思うが、無駄な期待は私に抱かないでくれ。私はそれを叶えない。それを、良しとは思わない。」

そういうと、暫くアルテミスは沈黙した。

虚空から庚に視線を移し、それからベルへと視線を戻す。

アルテミスの行動を見守る中、カイはふと静けさに気付く。

辛の腕の中の赤ん坊も、カイの腕の中の赤ん坊も声を上げて泣く事をまるで忘れた様に大人しく眠っていた。

気付けば、そんな赤ん坊をアルテミスも見つめている。

「…双子か……。もし、母親の命を少しでも長く繋ぎたいなら…お前達が母親を内と外から助けてやるといい。だがその母親の自我は、もう目覚めない。それを許容出来るなら、だ。」

静かに、アルテミスは赤ん坊を見つめながら口を開いた。

それは、残酷な現実だ。

「…どういう事?庚が目覚めないって…治してくれるんじゃなかったの?」

遠慮がちに、けれど棘を含んで辛が問い掛ける。

カイはそんな辛に、どう答えて良いか未だに迷っていた。

「娘、私の息子は赤子の母を確かに治癒しようとした。そして、最善は尽くされている。けれどごらん、この盥の中の血の量を。流し過ぎたんだよ…血を。だから意識は持っていかれた。もう戻らない……赤子の母を自らの命と引き換えに助けた、私の愛しい子の様に。」

静かに、アルテミスは辛に答える。

その言葉の内容に、辛は絶句するしかなかった。

「……命と…引き換えに……?」

そう呟くのが、精一杯の様子であった。

ベルは真実を知って欲しくなかっただろう。

けれど、ベルもまたアルテミスという母から生まれた子供。

肉親を死に至らしめた存在に、怒りはなくとも少なからず知って欲しかったのかもしれない。

必死で我が子は、お前達を救おうと努力したのだと。

結果がどうあれ、責められる事を良しと出来なかったのかもしれない。

「…ベルの治癒は、自らの命を削って成立するものなんだ。代償なしに、治癒は出来ない。だからどうか、こんな結果になってしまったけれどベルを責めないでやってくれ。」

すやすやと腕の中で眠る赤ん坊を抱きしめながら、カイは辛に願う。

理不尽で受け入れがたい現実でも、認めてその先を考えて欲しいと。

「道は示した。赤子を思うなら、その道を行く他はないだろう。後は娘とお前達が決める事だ。」

アルテミスはそう言うと、微動だにしなくなったベルをそっと抱き起こして肩で支える。

そのまま無言で、部屋の外へと歩み出す。

母の去り行く背中に、カイが一言声を掛けた。

「ごめん、母さん…ベルを止められなくて。」

アルテミスはカイの言葉にチラリと振り返ったが、直ぐに背を向ける。

その顔は、困った様に優しく微笑んでいた。

「…そういう性分なんだろう、カイが気に病む必要はないよ。」

そう言って、部屋を後にした。

カイは立ち尽くして、腕の中の赤ん坊と庚を見遣る。

振り返れば、辛は今どんな顔をしているだろうか。

その顔が、どうか憎悪に支配されていない様にと祈りながら彼女を振り返る。

視界に入った辛は、唯々悲しみを浮かべていた。

自分を見つめるカイに気付くと、涙を零しながら深く頭を下げる。

「…私は何も分かっていなかった……すまない、命を懸けて尽力して貰ったのに酷い事を言ってしまった…。私達を助けてくれた事、心から感謝している。有難う。」

頭を下げたまま辛は、カイにそう語りかけた。

暫くして、ゆっくりと辛は面を上げる。

腕の中の赤ん坊を見つめて、声も無く辛は泣いていた。

「良いんだ、ベルは命を懸けているなんて話すつもりもなかったと思う。結果として辛さんは知ってしまったけれど……ただ、助けたいと思ったからそうした。そういう性質なんだ。それだけ分かっていてくれれば、十分報われるはずだ。」

カイもまた、腕の中の赤ん坊を見つめていた。

助かった命が、確かにカイと辛の腕の中にある。

そうして、意識は戻らずとも一命を取り留めた庚も。

此処からは、自分の仕事だ。

残された辛達が、どう生きて行くか。

手を差し伸べたからには、出来る限りその術を示したい。

考えを巡らせて、カイは母の言葉を思い返す。

引っかかっていた疑問を、辛に尋ねてみた。

「辛さん、先程僕の母が言っていた事なんだけど…母は、『後は娘とお前達が決める事』だと言った。娘とは辛さんの事だろうけど、お前達とは…?シスイの他にも、居るの⁇」

辛は少し驚いた表情を見せると、片手で赤ん坊を抱いたまま素早く涙を拭った。

チラリと、庚の向こう側付近の虚空を見遣る。

「そうか…貴方は見えていないんだな。庚が懇意にしていたのはシスイと焔、それからライラの三人。それぞれ、水と炎と雷の属性を司る存在だ。ベルを導いたのはシスイだけど、私達の足がこの程度ですんだのは焔のお陰だと思う。」

カイへと視線を移した後、辛はそう説明してくれた。

庚と辛がそこまで酷い凍傷を負わなかったのも彼等が力を貸したお陰だとしたら納得出来る。

身を切る程冷たい沢を移動して、尚且つ雪の中を進んだ足なら腐り落ちる程の酷い凍傷になっていても不思議ではない。

それがそうは成らなかったという事は、つまりそういう事なのだろう。

母は、その三人の精霊が庚の内と外から助ける事を提案した。

内と外とは、詰まる所どういう意味なのか。

庚に意識は無く、命だけは取り留めた状態だ。

カイは思考を巡らせる。

幾ら体が完治とは言えずとも、ある程度健康な状態であっても無意識下で子供二人を育てる事は出来ない。

それを補うという意味であるのならと、カイは思い至る。

「僕の声は聞こえているはずだから、このまま話す。恐らく、母さんが言っていたのはシスイ達の意識下で庚さんの体を動かすという事だと思う。憑依…って言葉が、一番近いかもしれない……。この方法なら、庚さんは意識が無くとも…少なくとも生命活動は維持出来る可能性が高い。但し、あくまで可能性が高いというだけの話しだ。それに、母さんも言っていたけど…辛さんやシスイ達が…自我の無い庚さんをこの方法で生かす事を許容出来るなら…だけど…。」

人道的な選択肢とは、言い難かった。

魂の無い体を、本来の持ち主ではない物が無理矢理動かす。

それは最早、庚であるとは言えないだろう。

それでも、幼い赤ん坊二人を育てるならば選択肢としては必要なのかもしれない。

拒否感は否めないだろうと思いつつ、カイは辛の反応を窺う。

彼女は驚きと複雑な思いを綯交ぜにしたかの表情で、カイを見つめる。

直ぐには答える事が出来ないのだろう。

長い長い沈黙が訪れた。

そうして辛は庚をじっと見つめ、その後ゆっくりと視線を腕の中で眠る赤ん坊に移す。

ギュッと握られた小さな手に、そっと触れる。

暫くして、辛が微かに柔らかく笑った。

静かに瞼を閉じ何事かを考える様に数分が経った後、辛は瞼を開く。

虚空を真っ直ぐ見つめて、辛は答えを出した。

「…私は…庚が残したこの子達を守りたい。庚は、自分よりもこの子達の命を優先して治癒する事をベルに望んだ。この子達に、この先の未来も庚の分まで生きていて欲しい。…どうか、貴方達の力を貸してくれないだろうか…。貴方達が心許した、庚の為に。」

じっと虚空を見つめて、辛は動かない。

シスイ達の答えを、彼女も待っているのだろう。

沈黙が部屋を満たす。

そんな中、カイはゆっくりと動く。

庚の座る椅子の傍らに跪き、彼女の腹の上に支える様にしてそっと抱えた赤ん坊を置いた。

どうしてそうしようと思ったのか、カイ自身にも分からない。

庚が、最後まで腕の中に赤ん坊を抱いていたのが印象的だったのか。

それとも、もう一度抱かせてやりたかったのか。

不思議な気持ちで、カイは赤ん坊を支えながら庚を見遣る。

彼女は、穏やかな顔をしていた。

静まり返った空間で、赤ん坊が自らの手を目いっぱい開く。

そうしてすぐ近くにあった庚の髪を一房、ギュッと握りしめた。

カイの背後で、押し殺した辛の声が聞こえる。

赤ん坊の無邪気な姿を見つめ、カイはその小さな体を支える事しか出来ない。

再び暫く沈黙が続いた後、泣き崩れながら辛が口を開く。

「……ッ…シスイ達が…了承してくれた……。」

その言葉を耳にして、カイは静かに瞼を閉じた。

ベルと庚の想いが、シスイ達に通じた事に安堵する。

「…………。」

一言、カイは誰へ向けるでもなく微かに微笑んだ。

目を通して下さった方がいらっしゃいましたら、改めてお礼申し上げます。

次回、また時間軸が変わります。

暑くなりましたので、どうぞ皆様も御体ご自愛下さいませ。

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