11.始まりの記憶-エリス。
「…シェアトは二人と出会ってから、随分明るくなったのよ。だから、そういう意味でも感謝してるの。」
唐突に、ミラがベル越しにカイを見る。
その表情は、何処か愁いを孕んでいる様に思えた。
「あの子はずっと肩身の狭い思いをしていたから…ここ数年は、感情を表に出す事すら稀になっていたの。私にはどうにかしてやる事も出来なかった。でも二人に出合って、自然に笑える様になって来て…だからお礼がしたかったの。少し強引だったと自覚してるわ。けど、ありがとう。シェアトを笑える様にしてくれて。」
ミラはバスケットボックスから二つのグラスを取り出し、ベルとカイにそれぞれ持たせた。
そうして大きめのガラス瓶を両手で持つと、一つずつグラスに飲み物を注ぐ。
「果実を水で割って、蜂蜜で味付けした物なの。本当は果実酒にしようと思ったけれど、それだとシェアトが飲めなくなってしまうから…。どうぞ、飲んでみて。」
勧められるまま、ベルとカイはグラスの中の半透明で果実の混ざった飲み物を口に含む。
酸味と甘さが程良く感じられ、スッキリとした味わいだ。
「美味しいね、これもミラが?」
ベルの問い掛けに何度か小刻みに頷き、ミラが微笑む。
そんなミラを見つめ、カイは控えめに声を掛けた。
「不躾かもしれないけど、その…感情を表に出せなかったって…何か事情があるの?」
聞いた途端に、ミラの表情がやや曇る。
抱えたガラス瓶の取っ手をギュッと握り、押し黙ってしまった。
「あ…いや、言いたくなければ無理に話さなくてもいいんだ。悪かった…でもあんなに屈託なく笑うシェアトが感情を見せなかったとなると、何がそうさせたのかと思ってしまって…。けど、誰にだって話したくない事くらいあるし、聞かなかった事にしてくれると助かる。」
カイは慌てて、質問した事を後悔した。
自らにも、言えない事情を抱えているというのに、とんだ失態である。
三人が何とも言えない気まずい空気の中、沈黙している時だった。
その人物は、唐突に現れたのだ。
「朝から慌ただしくしていたと思ったら、こんな場所に居たのね?ミラ。」
声がした方へ視線を移すと、丘の上に従者を一人引き連れた女性が現れ、あからさまに嫌悪に満ちた顔を向けられる。
高飛車な態度で、日傘を差しながら女性は上から三人を、そしてシェアトを睨め付けていた。
「エリス姉様…どうしてここに…。」
擦れた声でミラが呟いたかと思えば、ハッとした顔をしてシェアトを振り返った。
ベルとカイもシェアトへと視線を移す。
そこには、ミラが話した通り表情を無くしたシェアトがカノープスを抱きしめながら立ち尽くしていた。
ミラとシェアトの血の気が引いて行き、その顔は見る見るうちに蒼ざめる。
「エリス姉様、何か御用があるのでしたら直ぐに戻ります!ですから、どうか姉様はお先に屋敷でお待ち下さいませんか?」
勢い良くエリスを振り返り、ミラは震える声で呼び掛けた。
その尋常でない委縮した様子に、ベルもカイも掛ける言葉を失う。
代わりにベルはそっとベンチから立ち上がり、歩き出しながらカイに視線を送る。
シェアトの元へ向かうのだと直感的に理解したカイは、ミラの隣に立った。
「私に指図しているの?まるで邪魔者扱いね…腹立たしい事この上ないわ。でもまぁ、仕方ないのかしらね?元召使いだった母親から生まれた子供なんて、その程度の事も理解出来ない愚か者にしか育たないって証明してくれているのよね。」
何がそれ程気に食わぬのか、エリスはこれでもかと言うくらいの嫌味を込めてミラに応えた。
その顔は醜く歪んだ笑みを湛えて居る。
ミラは無言のまま、唇をキュッと引き絞り何かを耐えている様だ。
「申し訳…ありません。決して指図をする意図ではなく此方でお待たせするのもどうかと思ったので、ご提案したのですが…私の配慮が足りませんでした…。」
深々と頭を下げ謝罪を口にするミラを、エリスが退屈そうな表情で見下す。
そうして視線をカイからベルへと順に移した。
「…まぁいいわ。所で、そこの二人は何方かしら?年頃の娘が浮ついた事をするのは感心しなくてよ。」
エリスの視線の先には、シェアトの前に跪き手を握るベルが居た。
硬直して立ち竦むシェアトに、ベルは優しく声を掛ける。
「…シェアト?僕を見て、シェアト。お姉さんではなく、今はこっちを見て?」
張り詰めた表情でエリスを見つめていたシェアトの視線が繋がれた自らの手に移り、そうして這うように腕伝いに移動してベルの顔を見た。
そこには、穏やかに微笑むベルが居る。
「聞きたくないなら、聞かなくていい。見たくないなら、僕を見ればいい。何時もは叶わないかもしれないけど、今はそうして良いんだ。シェアト…僕は大した事は出来ないけれど、それでも今だけは僕を盾にしても良いんだよ。」
ベルはそう言うと、ゆっくりシェアトを引き寄せて抱きしめた。
エリスの視線を遮るように、自らの背中で覆い隠して。
腕の中で、シェアトがカノープスを抱えたまま小さく震える。
乾いた土に、ポタポタと幾つかの雫が落ちて染みを作った。
「…ぅっ…ぁ…ベル…ぉ兄ちゃ…。」
擦れて消えそうな声で、シェアトは言葉を絞り出した。
恐らくは、言いたい事も思う事も沢山あるだろう。
それら全てをグッと呑み込んで小さく震える背中を、ベルには撫でる事しか出来なかった。
せめて今だけは心が和らぐ様に、シェアトを優しく抱きしめて守りたかったのかもしれない。
ベルは暫く、そのまま震える背中を何度も撫で続けた。
「シェアト!みっともない姿を晒さないで貰える?けど…珍しい事もあるものね。どれだけ罵声を浴びせても、表情一つ変えなくなっていたのに…。それに、よく見ればあの赤毛の方は噂に聞いていた例の魔物じゃないの?愚妹愚弟にはお似合いだ事。けれど、家名に泥を塗る様な事はしないで頂戴ね。」
ピシャリと言い放って、エリスは日傘をクルクルと楽しそうに回して見せた。
ミラの顔が更に蒼白になり、隣のカイを仰ぎ見る。
「…大丈夫、僕達の事は気にしなくていい。」
ミラにだけ聞こえる音量で、カイは視線でエリスを捉えたまま囁いた。
その顔は無表情を貫いているが、見る者にある種の得体の知れない威圧感を与える。
「ごめんなさい、カイ…こんな思いをさせるつもりじゃ無かったのに…私達の所為で、嫌な思いをさせて…本当にごめんなさい…。」
小声でミラは謝り続けた。
そんなミラの右肩に静かに手を置き、カイは軽くポンポンと叩いた。
「ミラやシェアトの所為じゃないだろ?気にしなくていい。謝罪も必要ない。」
穏やかな表情を浮かべて、カイはミラに囁いた。
もっとミラが落ち着ける言葉を掛けられれば良いが、生憎とそれはベルの得意分野だ。
けれど、少なくとも今の状況がミラやシェアトの所為でない事くらいはカイにも理解出来たし、ミラに伝えたかった。
「…貴方の立場がどれ程の物なのか、僕らは存じ上げない。けど、そんなに悪態ばかりついておられては、貴方自身の品位を落とされますよ。折角美しい容姿をお持ちなのに、それでは勿体ない。」
カイがエリスに向かって口を開くと、クルクルと回されていた日傘が動きを止めた。
人が殺せそうな形相で、エリスがカイを凝視する。
暫く沈黙が続き、次第にエリスの頬が紅潮して行く。
罵声の一つや二つ飛んでくるのを覚悟の上で、カイは言葉を投げた。
けれど、何時まで待ってもそれが現実になる事はない。
「…ご…ご指摘ッ…心に止めて置きますわッ!ぁ…貴方の、お名前を伺っても宜しくて?」
所々裏声になりながら、エリスがカイに問い掛ける。
肩透かしをくらった気分で、状況が呑み込めずにカイはミラに視線を送った。
それを受けて、ミラが慌ててカイに小声で囁く。
「問題無ければ、名前を教えてあげて…。」
ミラ自身もいまいち状況を呑み込めぬまま、これ以上の事態の悪化を避けるべくカイを促した。
カイは小さく頷きエリスに視線を戻す。
「申し遅れました。僕はカイ、もう一人はベルと言います。」
カイが応えるとエリスはソワソワした素振りでそっぽを向き、日傘を素早く回転させた。
不思議そうな表情で、カイとミラが互いの顔を見合わせる。
「…そ…そう。カイ様と仰るのね…お、覚えておくわ。それからミラ!暗くならない内に帰りなさい。お父様が私と貴方に御用があるそうよ。私がこんな所まで態々足を運んだのも、それが理由です。」
しどろもどろになりながらカイの名前を反復すると、エリスはミラを見つめて本来の要件を告げた。
言い終わると、ちらりとカイを見遣る。
「分かりました、なるべく早く帰ります。お教え下さり感謝いたします。」
ミラは戸惑いながら、エリスの伝言に深く一礼した。
それを見届けて、エリスが背を向ける。
「私は先に戻ります。それでは。」
言い終えて、エリスは再びチラリとカイを見遣った。
その頬は、桜色に染まっている。
「…お気を付けて。」
明らかに最後の言葉が自分への物だと察して、カイは無難な言葉を返した。
エリスは片手で軽くスカートの裾を摘み、会釈すると去って行く。
その背中を見送りながら、残されたミラとカイが呆気にとられる。
「…エリス姉様…もしかして…?」
ミラがカイを見つめて呟くが、カイは片手で顔を覆い小刻みに左右に首を振る。
その様子に、ミラはそれ以上言葉を続けるのを止めた。
顔面蒼白になって、カイは地面を見つめている。
「…あのやり取りで、何処にそんな要素があったんだ…。」
ボソリと呟くカイの言葉に、ミラが堪らず吹き出した。
片手で口元を押さえ、必死に笑いを堪えようとするが叶わない。
カイはそんなミラをチラリと見遣り、大きく溜息を吐いた。
「…我慢しなくても良い。笑いたければ笑ってくれ。」
その一言が合図の様に、ミラは目尻に涙を浮かべて大声で笑った。
カイは諦めた様に苦笑いして、それを見守る。
ミラの笑い声は後ろに居たベルやシェアトにも聞こえた様で、泣く事も忘れたシェアトを伴ってベルが何事かという顔をして帰って来た。
その後を追う様に、カノープスが付いてくる。
「何がどうなったの?ミラは随分楽しそうだけど…?」
泣き笑いするミラと、やや困り顔のカイを見ながらベルが問い掛ける。
シェアトはじっとミラを見つめていた。
「…ミラ姉ちゃんがそんなに笑うの、初めて見た…。」
シェアトは泣き腫らした目を擦りながら、少し嬉しそうな顔をした。
ミラがそんなシェアトの言葉に、我に返る。
「…やだ…私ったら…、ごめんなさいカイ。こんなに笑っては失礼よね。」
言いながら、目尻に浮かぶ涙を拭う。
カイは片手を上げて、ミラに応えた。
「問題ない。あり得ない事態に、実際僕も困惑を通り越して笑えて来た。」
ミラとカイのやり取りに、ベルとシェアトは不思議そうな顔をして見せる。
しかし、ベルは直ぐに穏やかに笑った。
「シェアトもミラも、大丈夫そうだね…。」
ホッとした様に呟いたベルの言葉で、ミラとシェアトの視線が集まる。
ミラは片手でシェアトを引き寄せ、軽く一礼した。
「恥ずかしい所を見せただけでなく、不快な思いをさせたであろう事を謝罪させて。ごめんなさい。そしてベル、シェアトを守ってくれてありがとう。カイも、隣に居てくれただけで心強かったわ。」
シェアトが言葉を聞き、遅れて一礼する。
二人の態度に、ベルは慌てて片手を突き出し左右に動かす。
「あ…いや、お礼を言われる様な事は何もしていないよ?」
カイもベルの言葉に頷いて見せる。
ミラもシェアトも、顔を上げるとクシャっと笑った。
「そんな事ない、とても嬉しかったもの。ね?シェアト。」
話を振られて、シェアトが二度三度と大きく頷く。
カノープスがじゃれる様にシェアトの足元に頬を擦り付けて一声鳴いた。
「カノープスを一緒に探して貰ってから今日まで、ベルお兄ちゃんやカイお兄ちゃんと居る時間が一番自分のままで居られたんだ。凄く楽しくて、一緒に過ごせるのが嬉しかった。さっきだってベルお兄ちゃんが来てくれて…傍に居てくれただけで凄く感謝してるよ。」
体を屈めてカノープスを撫でながら、シェアトは笑う。
ベルはそんなシェアトとミラを見て、小さく頷いた。
「そっか…ありがとう。」
穏やかに微笑むベルに、シェアトが何とも言えない表情を浮かべた。
カノープスを抱き上げながら、小首を傾げる。
「何でそこで「ありがとう」になるかな?お礼言ってるのは、僕と姉ちゃんなのに。」
言われて、ベルが小声で「あっ」と漏らした。
それを合図に、三人が笑う。
ベルは少し困り顔で額をポリポリと搔いた。
「所で、ミラは何を笑っていたの?」
気恥ずかしかったのか、ベルが話を変える様にカイに尋ねる。
瞬時にカイは片手でベルの顔を覆い、それ以上の言葉を許さなかった。
「それはもう良いんだ、ベル。忘れてくれ。」
視界を遮られたベルは、首を僅かに動かしてオロオロしている。
その様子を見て、ベル以外の三人が更に笑った。
「ぇ…何?分かった、忘れるから…忘れるから離してよカイ?」
少し傾いた日差しの中、ラベンダー畑を抜けて肌寒くなり始めた風が吹き抜ける。
遠くない秋を感じながら、ミラは残りのサンドイッチも食べてしまおうと提案し、皆がそれに賛成した。
そうして、ひと悶着はあったものの穏やかな一日は過ぎて行く。
互いの心の距離を縮めながら。




