不惑の理性
王宮とは職場であり、出会いの場でもある。
若者たちは皆、少しでも良い相手を探そうと躍起になっている。
もちろん、魔術師ラーナもそのひとりだ。
(もう若者って年齢でもないけれど…………)
ぴちぴちの彼らとは明らかに差を感じ始めるお年頃の中堅魔術師は、ひとりの文官に狙いを定めていた。
「フェズさん、お疲れ様です」
回廊でその姿を見つけて挨拶をすれば、文官の制服をまとった背中が振り返る。
「ラーナさん、お疲れ様です」
優しく微笑んでくれるのは、ラーナよりも少し年上の文官フェズ。
担当部署の次官を務める、見た目のとおりに真面目なひと。
何事も理性的な判断を下すので、自身の欲望に流されるようなことは決してないだろうと思え、汚職にこれほど縁遠いひともいない。仕事に真面目なあまりこの年齢まで独り身でいる、王宮では珍しいタイプだ。
ひとしきり挨拶を交わした後、ラーナはこっそり心内で気合いを入れ、さりげなさを装って言った。
「あの、フェズさん。今度のお休みに面白い市が立つそうなんです。よかったら、一緒に見に行きませんか?」
「……すみませんが、その日は用事があるのでご遠慮させてください」
「あ、そうですか。予定があるなら仕方ありませんね」
「ええ、残念です」
「ではフェズさん、私はこれで失礼しますね」
「はい、失礼します」
ラーナはくるりと方向転換して、すたすたと歩く。
しばらく進んだところでちらりと後ろを振り返り、フェズの姿が見えないことを確認して、壁に手をついてもたれかかった。
「…………っ、また断られた!」
フェズにとって、ラーナは他部署の知人という扱いだ。話しかければ優しく応じてくれるし、嫌われてはいないと思う。だが、ラーナの誘いにフェズが頷いてくれたことは一度もない。いつも、少し眉を下げて断りの言葉を口にする。
断られたときにラーナは、なるべく気にしていないという態で素早くと立ち去ることにしている。気まずい空気でフェズを困らせたくはないし、ラーナと話すことをわずらわしいと思われたくないからだ。
フェズは壮年の男性だから、若者の恋愛のような勢いだけではうまくいかないだろう。何度も断られるのはとても悲しいことだが、長期戦を覚悟で臨んでいる。
(諦めない…………!)
だがあるとき、奇跡のような幸運でフェズと昼食を共にする機会を得た。
場所は王宮内の職員食堂という色気のない場所で、フェズも仕方なく頷いてくれたといった様子ではあったが、ラーナにとっては大きな一歩だった。
フェズは真面目なひとで、社交的な会話はそれほど得意ではないらしい。昼食の間も、ぽつりぽつりと話をするくらいで。
だがラーナはフェズと長い時間を一緒に過ごせるだけで幸せだったから、いくらでもお喋りは尽きなかった。
ひととおり食べ終えたところで、ふとフェズが雰囲気を変えて言い出した。
「…………ラーナさん。いつも誘っていただくのは嬉しいのですが」
「はい」
「私は、もう若くはありませんよ」
「え? それを言うなら、私も若者とはいえない年です」
そんなことを言うフェズは四十代だが、ラーナとて三十代だ。
王宮で働く者たちの多くは二十代のうちに相手を見つけてしまうから、どちらも独身者として若いとはいえない。
「それでも、あなたはまだ三十代でしょう。私はもう不惑を越えました。四十のおじさんを相手にするのは、おやめなさい」
「え、」
「あなたは自分を若くないと言いますが、そんなことはありませんよ。もっと自信を持つべきです。ラーナさんは貴重な魔術師で、仕事もできて周囲からの信頼もある。あなたが望めば、もっと条件の良い相手がいくらでも見つかるでしょう」
確かに、魔術師は王宮の中でも数が少ない。フェズには絶対に教えないが、ラーナだって他から誘われることもある。
それでも、ずっと前からラーナが望むのは、目の前の文官なのだ。
(でも、ここで反論してもフェズさんは納得しないのだろうな……)
フェズの態度は一貫している。曰く、自分は若くないから、ラーナはもっと別の人を相手にするべきだと。だからラーナの誘いにも容易に頷かない。
せっかく初めて一緒に昼食を楽しんでいるところで、ラーナは気まずい空気にしたくはない。だから、話題を変えようと考えた。ひとつ気になることがあったのだ。
「……フェズさんは、何か魔術師に関係するような仕事があるのですか?」
「え?」
先ほどは、まるでラーナのことをよく知っているような口ぶりだった。
フェズの部署は魔術師とは全く関係のないところだ。ラーナのような魔術師とは仕事での接点はほとんど無いはずなのだが。
「なんだか私の評価をご存知のようなので、どうしてかなと」
「……っ、あ、ああ。その、友人が魔術師のサポート関係の部署にいるもので。少しだけ、話を聞いたことがあるのですよ」
「へえ」
それにしても、魔術師個人の評価まで知っているものだろうかとラーナは首を傾げたが、フェズが慌てたように立ち上がったことでその思考は中断した。
「その、……すみません。午後は早めに部署に戻る必要があったのを忘れていました。そろそろ失礼させていただきますね」
すでにふたりとも昼食を済ませ、食後のお茶を飲んでいたところだった。
ラーナは昼休憩いっぱいをこの幸せな時間で埋めたかったが、もちろんフェズはそれに付き合う義務はない。仕事があるというなら、そちらが優先だろう。
最初で最後かもしれない機会だから、ラーナにとってはとても残念ではあるが。そんなことは顔に出さないように、笑って頷いた。
「はい、分かりました」
「すみません、次回はこのようなことはないようにしますので。では」
相当に急いでいるのか、フェズはえらく慌てて食器をまとめている。
そんな様子は珍しいなと見ていたラーナは、ふと、フェズの言葉を反芻した。
「………………次回?」
トレーに食器を乗せて立ち去ろうとしているフェズの腕を、がしりと掴んだ。
「あの! もしかして、また一緒に昼食を取っていただけるということですか?」
「え?」
「フェズさんが今、次回、と言いましたよねっ」
「えっ! …………あ、ああ。言ったような、気がしますね……」
フェズが驚いたように目を見開いたので、もしかしたら意識して口にした言葉ではなかったのかもしれない。
だが、ラーナはこの機会を逃すつもりはない。
「じゃ、じゃあ。また、一緒に昼食を取っていただけますか?」
「…………そうですね」
仕方なさそうに微笑むフェズに、ラーナは目一杯の笑顔を向けた。
それから、たまにふたりで昼食を取るようになった。
フェズとの穏やかな時間は、ラーナにはとても心地よかった。ラーナが話す時間の方が断然多いが、フェズも楽しそうな様子で、向けられる目線に少しだけ親しみが増したような気がする。
距離が近づいたと、思った。
数の少ない魔術師としてそれなりにお誘いもあるラーナが、なぜ今まで独身でいるのか。王宮に入る前は、ラーナも他の大多数の若者と同じように、若いうちに相手を見つけて結ばれるつもりだった。
だが、人生は何事も予定通りにはいかないもので。
(フェズさんは、覚えていないだろうな…………)
ラーナが働き始めて間もないころ、王宮という特殊な環境に馴染めずに陰でこっそり泣いていたことがある。中庭に面した回廊の隅という、滅多に人の来ない場所を選んだつもりだった。だがそこへ、たまたま通りかかった文官がいたのだ。
それが、フェズだった。
うずくまっていたラーナに、どうしましたと声をかけたフェズは、振り返った顔が涙に濡れていることにびっくりしていた。それから少し逡巡して、そばへ寄って膝をつき、そっと制服の袖を目元に押し当ててくれた。
「……すみません。ハンカチは持ち歩いていないのです」
自身の袖で不器用に涙を拭ってくれるフェズに、ラーナは何かがこみ上げるのを抑えることができず、ますます泣いてしまった。それが予想外だったらしいフェズは、慌ててあれこれと慰めの言葉をくれて、優しく肩を撫でていてくれたのだ。
それからずっと、ラーナはフェズに憧れている。
だがそのときは、名前も聞かずに別れてしまった。
王宮内には文官が山ほど働いている。部署どころか名前も分からなければ探すことができず、ある日たまたま回廊で見かけるまで再会することはできなかった。そのときすでに数年が経っていたから、嬉しすぎてなりふり構っていられず、こっそり後を追って部署を確認し、同僚との会話でフェズという名前も知ったのだった。
(あれは、ちょっと犯罪紛いだったかもしれないけど……)
その後に初対面を装って話しかけ、なんとか知人にまではなることができた。
そして、こうして昼食を共にできるようにもなった。
確実に近づけているはずだ。
何度目かの昼食で、フェズのお皿にはリンゴが山のように盛られていた。
「わ、フェズさん。山盛りですね」
「ええ。実はリンゴは好物なんですよ」
トレーを机に置きながら、フェズは恥ずかしそうに言う。
大人の男性のそんな姿もどこかときめくところがあり、ラーナはむずむずする口元を必死に抑えた。
それからふと、ラーナは同僚から聞いた話を思い出した。
「フェズさん、あの。アップルパイが美味しいお店があると、同僚に聞いたのですけど。……よければ、一緒にどうですか?」
「………………」
今までであれば、当然、断られるだろう誘い。
だが、昼食を何度か共にして、少しはフェズとの距離が近づいたとラーナは感じている。もしかしたら頷いてもらえるかもしれないと、顔に出さないようにしながら、はやる心臓を抑えてフェズの反応を待った。
「……はい、喜んで」
聞こえた返事に、ぱっと目を見開く。
少し照れたように微笑むフェズが見えた。
「楽しみですね」
「……は、はい! すごく楽しみです!」
初めて頷いてもらえたラーナは、嬉しくてたまらなかった。
やはりフェズとの距離は縮まっていたのだと、ぐっと拳を握った。
そして迎えた初デートで、外の通りを眺められるテラス席に座って熱々のアップルパイを堪能した。
実は、はじめは奥のカップル席に案内されそうになったのだが、フェズの反応を気にしたラーナが慌てて他の席を希望した。ラーナはこれをデートだと思っているが、フェズはおそらくそうではない。あまり大げさにして次の機会が遠のいてしまっては困ると考えたのだった。
たとえデートらしくなくても、フェズとの時間が増えるだけでラーナは幸せだ。
美味しそうにアップルパイを口へ運ぶフェズを前にしてにこにこ微笑んでいたところで、通りを歩く人物が目に入った。
なんだか見た覚えがあるなと思えば、それはこのアップルパイのお店を教えてくれた同僚だった。楽しそうに手を繋いでいる男性は、恋人だろう。たしかあの同僚は新人のころに恋人を見つけて、それからずっと付き合っているはずだ。
同僚はラーナと同年代だから、長い付き合いの恋人たちはすっかり落ち着いて仲睦まじげにしている。
(いいなあ。私も、いつかフェズさんとあんな風に…………)
同僚たちをうらやましく感じてしまったラーナは、思いのほか長い時間、通りを見ていた。
そして、向かいに座ったフェズがそれに気づかないはずもない。ラーナの視線の先を追ったフェズが表情を固くしたことを、ラーナは知らなかった。
アップルパイのデートから数日後。
職員食堂での昼食会で、フェズが改まった様子で口を開いた。
「ラーナさん。もう、一緒に昼食を取るのはやめましょう」
「え?」
突然のことに、ラーナはお茶を手にしたままの姿勢で固まった。
「理性では、もっと早くやめるべきだと分かっていました。でもあなたと過ごす時間が心地よくて、つい自分の望みを優先させてしまったこと、すみません……。やはり中途半端なことはよくありません。ラーナさんは、同じ年ごろの方を探すべきです。……あなたも、本当はそれを望んでいるようですし、」
ややうつむき加減で、どこか辛そうに言葉を口にするフェズ。
ラーナと過ごす時間が心地よいと思ってくれているなら、そんな辛そうな表情をするなら、どうして昼食会をやめようと言うのか。
ラーナは慌ててフェズを遮った。
「ちょ、ちょっと待ってください! あの、よく意味が。私が望んでいるって、どういうことですか?」
「……街へ行ったとき、あなたは通りを歩く恋人たちを羨望の眼差しで見つめていました。やはり、同年代の方が良いのでしょう?」
「は?」
フェズの言葉に、ラーナは必死に初デートの記憶を掘り起こす。ほとんどがフェズとの会話ばかりに埋め尽くされているが、そういえば。
「ああ、同僚の……」
「ええ、どちらもラーナさんと同年代の方でした。あなたも、やはりあのくらいの年の方が良いのでしょう」
「ちがっ、…………私がうらやましかったのは、仲睦まじいふたりの様子です!」
「え?」
とんでもない勘違いをしているらしいフェズに、ラーナは叫ぶように言った。
「その、ふたりがあんまり仲良さそうにしていたので。……私も、フェズさんとあんな風に仲良くなりたいなと思っていただけです」
自分のことをなんとも思っていないどころか、他者をすすめてくる相手にこんなことを言うのは恥ずかしかった。これはラーナの勝手な妄想だから。
ぽかんとしているフェズを、ラーナは恨めしげに睨んだ。
それに、フェズは何年も前のことなど覚えていないのだろうが、ラーナはあのときからずっとフェズが好きなのだ。ようやく距離が縮まったと喜んだところでこんなことを言われると、さすがに悲しくなってくる。
(あ、まずい、)
目頭が熱くなるの感じて、ラーナは咄嗟に立ち上がった。
「……すみません、今日はこれで失礼します」
食器を片づけるのも忘れて、ラーナは食堂から立ち去った。うしろから名前を呼ばれたが、振り返らなかった。
中庭に面した回廊の隅。
この場所は、フェズと初めて出会って慰めてもらった場所。ここを目指したつもりはなかったが、気がつけば来ていた。
(うう。恥ずかしいのか悲しいのか、よく分からない……。感情がぐちゃぐちゃで、もう、)
そこでラーナはうずくまり、気持ちを落ち着けるよう努めていた。
王宮という特殊な環境で何年も働いてきたのだ。平静を保つ術はラーナもそれなりに心得ている。
なのに、なぜだか今はうまくいかない。
乱れたままの心に困惑していると、うしろから声がした。
「……泣き虫なのは、新人のころと変わりませんね」
驚いて振り返れば、あのときと同じ、困ったような優しい顔。まさかと目を見張ったラーナへ近づいたフェズは、その目元へ、そっと袖を押し当てた。
「あのときも、あなたはここで泣いていました」
「覚えて…………」
「ええ、忘れたことはありませんでしたよ」
「……っ、…………」
覚えていてくれたのだと、ますますラーナの感情は膨れ上がり、涙腺が緩む。
「あなたに泣かれると、私は辛いのです。どうか笑ってください」
「うぅ、止まりません……」
ラーナが正直に言えば、フェズのますます困ったような気配があった。
「…………失礼します」
小さな声と共に、そっと抱きしめられた。
顔をその胸に押しつけられ、文官の制服にラーナの涙が吸い込まれていく。
「すみません、ハンカチは持ち歩いていないのです」
「……ふふっ、あのときと同じですね」
とても申し訳なさそうに言うフェズに、思わず笑ってしまう。
「ラーナさん、先ほどはすみませんでした」
「………………」
「私の言動は、あなたを傷つけてしまいましたね」
「……フェズさん、好きです」
するりと、口をついて出た。
はっきりと言葉にするのはこれが初めてだが、あれだけ誘っていればもちろんフェズも分かっていただろうから、驚きはないようだ。
「フェズさんが何年も前のことを覚えていてくれて、とても嬉しいです。私はあのときから、ずっとフェズさんが好き。…………できれば、この気持ちを諦めたくはないのですが」
最初から、フェズの考えは一貫していた。自身は年が離れているから、ラーナには合わないのだと。
だが、機会を得て昼食の時間を一緒に過ごすようになった。そのときのフェズは楽しんでくれていたようだったし、確かに距離が近づいたとラーナは感じていた。
そこへきて、ささいな理由から再びラーナとの交流を断つようなことを言う。
こんなちぐはぐな態度は、なんだか理性的なフェズらしくないようにも思える。
もしかしたら、フェズの中でなにか迷いがあるのかもしれない。完全に望みが断たれたわけではないのなら、長年の想いを諦めたくはない。
ラーナがその腕の中で身を固くすると、フェズは小さくため息を吐いた。
「ラーナさん。あなたがもっと若い方と結ばれるべきだという考えは、今も正しいと私は思います」
「それはっ、」
「私の理性は、そう言うのです。…………ですが、私の心は、私自身があなたと結ばれたいと言う。共に過ごす時間が増えてからは、その声はますます大きくなるばかり」
「フェズさん……」
ラーナは伏せていた顔を上げて、大きく目を見開いた。
「年長者として、理性に従うべきだと思います。そうしてあなたが幸せになるのを、遠くから眺めるだけで満足するつもりでした。でも今、こうしてあなたが私の腕の中にいることが、この上なく幸せなのです」
「フェズさんと一緒でないと、私は幸せになれません……」
抱き込まれるままだった体勢から、ラーナはフェズの背中に腕を回し、ぎゅうっと自ら抱きついた。再び、その胸に顔を押しつける。
「あのときフェズさんが慰めてくれたから、私は王宮で頑張ろうと思えました」
「あの当時でさえ、私は三十代でした」
「……今は、私も三十代です」
「そして私は、四十越えですね」
「そんなのっ、」
まだ理性にこだわるらしいフェズに、ラーナは憤慨して声を荒げようとした。
だがそこで、胸に押しつけていた顔を上げるように促されてフェズを見上げると、理性的とはほど遠い、情熱をたたえた熱い目とぶつかった。
「それでも、私はあなたとの未来を望んでも良いのでしょうか」
「……っ、望んでくれないと困ります」
勢い込んで返事をすれば、フェズは一度、なにかを振り切るように目を閉じた。
それから静かに目を開いて、嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。では、私は理性を放り投げるべきなのでしょうね」
「そのとおりです」
ラーナが力強く頷くと、フェズはますます嬉しそうに笑った。
「では、そうすることにします。……ラーナさん、四十を越えた男に理性を捨てさせたのだから、覚悟しておいてください」
「え?」
「いいですか。私の年で異性と付き合うということは、どうしたって結婚を見据えることになります」
「………………」
そうなればいいなとラーナは考えていたが、フェズから言葉にされるとなぜだか妙な恥ずかしさが湧いてきて、顔が熱くなった。
「私も、これからはそのつもりでラーナさんと接することになりますよ」
「の、望むところです」
それでも、黙ったままではいられないと、ラーナはなんとか肯定の言葉を返した。
それにフェズは満足そうに頷いて。
「では、ラーナさん。あなたに指輪を贈っても?」
「へ?」
「……あなたは自分を若くないと言いますが、とんでもない。私はどうにも心配なのです。あなたにはもう結ばれた相手がいるのだと周囲に分かるよう、指輪を着けてもらえませんか」
「は、はい」
そんな心配はまったく不要だろうとラーナは思うが、どうやらフェズは本気で言っているらしい。
この国では、指輪は特別な装飾品だ。
身に着けた人物の身分を示したり、特定の場所で通行証となったりと、なにかしらの意味を持つ。
そして男女がそろいの指輪を身に着けることは、深い関係にあると周囲に示すことになる。先日のデートで見かけた同僚も、恋人と同じ指輪をはめていた。
「指輪に、私の名を刻んでも?」
「はい」
「よかった。では次の休みに、一緒に出かけて選びましょうか」
「はい」
先ほどからフェズは、ラーナに嬉しい提案しかしてこない。
ラーナは、はい、以外に言えていない。
これが理性を捨てたフェズなのかと驚くとともに、ようやく想いが通じたのだと実感できて、再び目頭が熱くなってくる。
「ラーナさん」
そっと、頬にフェズの手が触れた。
少しだけ濡れた目元を、親指で優しく拭われる。
「あなたの涙を拭うのはこれからも私の役目だと、思っていいでしょうか」
「…………はい」
フェズが穏やかに微笑んで、ラーナは幸せいっぱいに笑った。