はじまりは突然に
「これに記入して。」
ずいっと僕の視界を占拠したのは、一枚の紙きれだった。
それがただの紙きれではなく『婚姻届』であると理解した瞬間に、僕の頭は考えることを放棄した。
「えっと、説明してもらっても……?」
「説明なんていらない。いいから記入して。」
無理を言っている自覚はあるのか、目の前の彼女は顔を伏せていて視線が合わない。
一体何が彼女を突き動かしたというのだろうか。まったく思い当たる節がない。
「あのさ、僕の思い違いでなければ、僕たちってお付き合いもしてないよね……?」
そう、そうなのだ。
『彼女』とこれまで言ってきたが、あくまでもそれは三人称なのであって、いわゆるお付き合いの関係にある『彼女』ではない。
僕の記憶が正しければ、彼女はただのお隣さんであって、世間一般で言う“幼馴染”である。
幼いころは二人でいるのが常だったが、お互いに年齢を重ねるにつれて徐々に距離を置き始めた。
異性の幼馴染なんて、そんなものだと思う。
中学生に上がってからは隣にいないのが普通になり、あれから6年近く経った。
大学受験を控えた僕たちはいつの間にか高校3年生になっていた。
そして久しぶりに我が家にやってきた幼馴染は、僕の部屋に入ってすぐにおかしなことを言いだしたのだ。
それが冒頭のセリフである。
「……」
一言も発しない幼馴染に気まずさを覚え、そっと顔を覗き込む。
長いまつ毛はふるふると震え、唇はきゅっと固く結ばれていた。
(……っええええ!?もしかして僕が悪いの!?)
涙までは確認できないが、間違いなくそれは彼女が泣き出す合図だった。
泣き虫な彼女は些細な事ですぐに泣きだし、それをなだめるのはいつも僕の役目だった。
(同い年なのに、なんだか妹みたいなんだよなあ)
おかげで僕の対年下スキルは磨きがかかった。
「どうしたの、爽ちゃん。」
昔から変わらない彼女の癖にどこか安堵を覚え、あの頃と同じように声をかける。
僕の声色に安心したのか、彼女は飛び上がるように頭をあげた。
「秋ちゃん……」
まんまるな瞳いっぱいに溜めた涙はいまにも零れ落ちそうだ。
泣き顔もあの時とまったく一緒だった。
「何で泣いてるの~」
彼女の小さな頭にそっと手をのせて、柔らかな髪を梳いてやる。
「うぅ……」
「ほら、ゆっくりでいいから聞かせてよ。」
「秋ちゃんが……」
「うん?」
「秋ちゃんが、遠くに行っちゃうから……」
「ん~?僕はここにいるよ?」
「秋ちゃんのお母さんから聞いたんだから」
「母さんから?」
「秋ちゃん、県外の大学に行くんでしょ」
やっと要領を得た。
3年生に上がってすぐに三者面談が行われ、そこで志望大学を決めたのだった。
そしてそれを爽ちゃんが偶然出会った母さんから聞いた、と。
うん、そこまでは理解した。そこまでは。
それが何をどうしたらこの紙きれを出してくることにつながるんだ。
「確かに、県外の大学に行こうかなって考えたけど、まだまだ先だよ?」
やっと暖かくなってきて、桜もまだ散り切っていない。
まだまだ未来の話じゃない、そう言う僕を彼女はぴしゃりとはねのける。
「でも、1年もしないうちに遠くに行っちゃうでしょ」
「まあそうだけど、遠くって言ってもそんな北海道と沖縄、とかじゃないんだからさあ。」
そう言って彼女の頭をぽんぽん、と撫でてやるが、納得いきませんと言わんばかりの表情だった。
何をそんなに気にしているんだ。
「それに、中学上がってから全然会う機会もなかったし、これまでもそんなに変わらないって。」
6年の空白がなかったかのように話せるのだから心配ない、そういう気持ちを込めて発した言葉は彼女には届かなかったようだ。
再び顔を俯かせた彼女にどきりとする。
「爽ちゃん……?」
「秋ちゃんと話せなくなってから、ずっと悲しかった」
蚊の鳴くような声が耳に飛びこんできた。
「男の子と遊ぶのはおかしいって言われて、秋ちゃんと話さないようにしてたら、どう声をかけていいのかわかんなくなっていったの」
「ずっと、ずっと後悔してた」
「何度もあの日に戻りたいってお願いしてた」
突然の幼馴染の告白に脳内キャパオーバーだ。
「爽ちゃんは、ずっとさみしかったの……?」
俯いたままこくりと頷く彼女に、何とも言いきれない感情が胸に広がる。
「そっか、さみしかったのは僕だけじゃなかったんだね。」
「……秋ちゃんも、?」
「そりゃあ、いつも一緒にいたのに、急に遊んでくれなくなるんだもん。」
そんなに薄情な人間だと思われていたのだろうか。
彼女は驚きを隠せないといった表情でこちらを見つめてくる。
目は微かに赤くなっており、ちぐはぐな顔に思わず笑みがこぼれる。
「それで?爽ちゃんは何で結婚しようと思ったのかな」
彼女が持ってきた紙きれを、今度はこちらが彼女の眼前に突き付けてやる。
「だって、大好きな人とずっと一緒にいるにはこれしかないって言われたから……」
手元をいじいじとさせながら答える彼女に、僕は思わず天を仰いだ。
(絶対おばさんのせいじゃん……)
「秋ちゃん?」
突然の行動に首を傾げる彼女に改めて問いかけてみる。
「それは、おばさんに聞いたんだよね?」
「うん。お母さんに聞いた。」
「だよね~。」
爽ちゃんもだいぶぶっ飛んでるけど、おばさんはその上を超えてくる。
(というか、この二人が掛け合わさると余計に、だな……)
「爽ちゃんに、大事なことを伝えなければなりません。」
「大事なこと、」
この紙きれうんぬんの前に、そもそもの話をしなければならない。
「この国において、結婚が許される年齢はいくつですか?」
「えっと、16歳と18歳、」
「そうだね。そこで問題です。」
僕はいまいくつでしょうか?
少しの間があいて、彼女の顔から色がなくなった。
「っ、……っ、」
言葉が出てこないのか、口を閉じたり開いたりを繰り返してまるで金魚のようだ。
よく思い描く赤い金魚ではないが。
「あきちゃん、17歳だ……」
「大正解です。」
高校3年生になったが、僕の誕生日は3月末。
それまでは結婚したくても、国が許してくれないのだ。
「ということで、僕は結婚できないんだよ。」
これ以上ないくらいの免罪符だ。
彼女を傷つけることもない、満点の答え。
……と思ったが、どうやら彼女はかなりのショックを受けているらしい。
両手で顔を覆い隠し、かわいそうなくらいに肩を震わせている。
「私は、秋ちゃんの幼馴染失格だ……」
「まあまあ、落ち着いてよ。」
そっと背中に触れた手から伝わる震えが、小動物の生命を思い起こさせる。
守りたい、この命。
「結婚はできないけどさ、それくらい僕のことを想ってくれてるのはわかったし、嬉しかったよ。」
「じゃあ、18歳になったら結婚してくれる?」
「ん?」
あれ、話が戻ってないか?
「秋ちゃんが、18歳になったら、結婚してくれる?」
「いや、聞こえなかったわけではないんだよなあ、」
少しばかり期待のこもった二つの瞳がこちらをじっと見つめてくる。
小動物だ、ここに小動物がいる。
つい先日SNSで見た子猫の動画が脳裏によぎり、ぐっと声がつまる。
数十秒の沈黙が空間を支配した。
こちらを見つめる瞳は次第に潤いを増してくる。
…………仕方ない、小さな命は守るべきだ。
僕が折れることで、一つの命を救えるのならば本望だ。
「よし、じゃあ一つ条件を設けよう」
「条件、?」
「僕が18歳になったときに、爽ちゃんがまだ結婚したいって思ってくれてたなら、僕もそれに応えたいと思う。」
「っ!本当にっ!?」
「うん。だからそれまでは普通にお友達でいよう?」
「お、友達……」
途端にしゅんと萎れた彼女に、現金なやつめ、と密かに思いながら笑いを嚙み殺す。
「そう、お友達。これからはいつでも遊びに来てくれていいし、僕も爽ちゃんの姿を見かけたら声をかけるよ。」
それじゃだめかな、という言葉に彼女は勢いよく首を横に振った。
「秋ちゃんと、前みたいに遊べるの嬉しい!」
「よし!じゃあこれは没収ね!」
紙きれを四つに畳んで机の引き出しに丁寧に仕舞い込む。
きっと、この紙きれのことなんて1年もしないうちに忘れるだろう。
少し未来の自分が不思議そうに紙を開く姿が目に浮かぶ。
まるでタイムカプセルを埋めている気分だ。
「さあて、爽ちゃん。今日は何して遊ぶの?」
いつも一緒にいたあの頃と同じだ。
何をして遊ぶのか、その決定権はいつも彼女に委ねていた。
「えっとね、」
彼女は、懐かしき日々のやりとりを思い出したのか、歓喜の表情で言葉を紡ごうとしている。
この空白の期間にやりたいことがたくさんできたのか、なかなか決めかねているようだ。
あーでもない、こーでもない、と悩んでいる姿は元気いっぱいの子犬に見える。
そうしているうちに、くう、と子犬のような声が聞こえた。
ついに幻聴まで聞こえ始めたか、なんて思っていると、彼女の真っ赤になった顔が視界に入った。
「っふふ。」
思わずこぼれた僕の笑い声に反応したのか、彼女は恥ずかしそうに視線を泳がしている。
「まずは腹ごしらえだね。」
「……うん。」
返事は今日一番のか細い声だった。
この短い間に彼女のいろんな姿が見れた気がする。
これを言うと彼女は拗ねるかもしれないが、くるくると変わる表情は見ていて飽きない。
「爽ちゃん、何食べたい?」
「オムライスっ!」
はちきれんばかりの笑顔は、あの頃とちっとも変っていない。
――― 彼女ちゃんは、結婚したい!