ワルキューレと呼ばれて
カシュッとプルタブをあげれば、珈琲の匂いが立ち上がる。苦さの中にも甘さを感じ取れる、カフェオレだ。
缶珈琲を持つ私の腕は、ブレザーの制服。首にはマフラーがある。足は黒いパンスト。冬、かな。
階段に腰かけている私の隣には男子学生がいた。彼もブレザーの学生服だ。
幼さも残しつつ男性になっていく過程の、微妙なお年頃だ。今回は学生のよう。
なんだか恋人と密会しているようで、懐かしくもあり、なんだかそれだけで甘酸っぱくなってしまう。
「珈琲って苦くないですか? 美味しいっていう人の味覚が信じられないんですよ」
彼が真顔でいう。
確かに珈琲は苦い。甘党の私は砂糖山盛り3杯は必要だ。
でもそれが良いという人もいて、好みは色々なんだなと思い知らされる事象の一つだ。
「私個人的には、珈琲よりもお酒、ですね」
「……僕未成年なんで」
「ごめんなさい」
そうだった、彼はまだこの姿の年齢だったのを、すっかり忘れてしまっていた。
「珈琲は嗜好品で、万人が飲むものではないしね。趣味と思えば苦みをありがたがるのも、理解できる、かも?」
失敗返上ではないけど、首を傾げて可愛さを出してみる。
このシチュエーションだったら、許される。きっと。
「なるほど、嗜好品。趣味に金をかけるのは、理解できますね」
彼が頷いた。
「珈琲は小さいカップで飲むことが多くって、多分ですけど、限りがあるから苦みを楽しめるのかなとか、思ってます。お酒も残り少なくなると味わうようにゆっくりのむようになりますから」
「お酒かぁ……のみたかった、かなぁ」
彼は空を見上げた。小さな雲がふわりと浮かんでいる、優しげな空だ。
彼が大きく息を吐いた。
「階段で、こうして彼女とだべってみたかったんですよ。僕、男子校だったんで、こう階段でだべってる相手ってヤロウばっかで」
顔を背けた彼が言う。彼は缶珈琲をグビグビ飲み始めた。
私はそれを見ているだけだ。
空になったのか、軽い音を立てて階段に缶珈琲が置かれる。彼がまた空を見上げ、大きく息を吐いた。
「僕がこうなって、どれくらい経ちました? ここって時間の経過がわからないんですよ」
彼の視線は空のままだ。
「今日で12年です」
「そんなに……」
「言いにくいのですが、来週にもここは消滅します」
「……そっかぁ……」
彼がごろりと階段にねそべった。後頭部を両手で支え、澄んだ瞳で空を見ている。
何回も味わったこの、無言を強制する空気。毎回、胸が痛む。
「時間が、ありません」
「決めなきゃいけないわけかー」
「はい……」
沈黙が重くのしかかる。
私に決定権はなく、あくまで彼に決めてもらわなければいけない規定だ。
答えが出るまで、待つしかない。
「……もういいかな。飽きてはいたし」
彼が呟いた。
「うん、いつでもいいよ」
彼が悲しそうに微笑んだ。そして、空間が黒に支配された。
私の瞼の向こうに、オレンジの光が明滅している。
「意識レベル10。彼女の帰還を確認。バイタルデータに異常なし」
耳に入る機械音声。目を開ければ、そこは様々は機械が身を寄せ合う、マシンルーム。
私はその中央にあるベッドに横たわっていた。
頭にセットされていた機械を外し、ゆっくり体を起こす。
「お疲れ様でした」
ベッド脇に立つ、白衣のエンジニアから労われた。その姿が、今しがたまでの彼と重なる。まだ意識が混濁しているようだ。
「いつでもいいそうよ」
頭を振って強制リセットを試みた。深く入り込み過ぎたのか、まだ思考がぼんやりしている。
「さっそく医局には連絡してきます。まずは体と精神に休息を、戦乙女」
白衣をひるがえして、部屋から消えた。
私はまたベッドに横たわり目を閉じ、深く息を吸った。
彼の、最後の笑みが頭から離れない。何人もの人と交渉をしてきたが、毎回こうだった。
彼らは、満足して消えていく。そう、思いたい。
私は、今まで関わった人すべての笑顔を覚えている。満足した笑顔、寂しそうな笑顔、泣き笑いの顔。
彼らの胸に去来していたのはなんだったんだろう。かつての家族だろうか。もはや知ることは叶わない。
「あと、4人……」
4人に救いの手を差し伸べれば、私の任務は終わる。
「私に、差し伸べられる手はあるのだろうか……」
私の呟きは、マシーンの作動音に紛れて消えた。
フルダイブVRゲームでログアウトできない事故が多発してから10数年。意志だけがゲーム内に存在し、完全に肉体と離別してしまった人間が多数出た。
意志がなくなり抜け殻でも生きている人間であり、その人権は尊重された。家族の要望で、延命措置がとられていた。だが、その数が減ることはなく、やがて病院のベッドを圧迫していった。
同様な現象を阻止すべく、フルダイブVRゲームゲーム自体が禁止されたが、そのゲーム内に存在する人間をいかすために、ゲーム運営会社は維持し続けた。
いつまでも解決策が見つからないまま時間だけが過ぎていった。10年経てば世間の感情も変化する。
国からの補助があったとはいえ社会的に抹殺された会社が倒産した。
仮想世界が終わりを告げ、データとしてしか存在しない人たちが多数、ロストした。
ゲーム会社の倒産を皮切りに、ゲーム内に取り残されてしまった人をどうするかが再び社会問題になっていった。病院のベッドで寝ている被害者のケアも、そしてその家族も限界が近づいていたことも、拍車をかけた。
とはいえ、解決方法はなく、技術的にもコンタクトできるまでは進展したが、彼らを戻すことは叶わなかった。
もはや万策尽きていた。
病院に保護されていた被害者は、家族の同意を得たうえで、安楽死処置が開始された。
そこでも問題が起こった。親類が一切存在しない被害者もいたのだ。
誰もがその判断を避けた。死神にはなりたくない。
責任を負わないと約束されても心には傷が残る。
関係ない人間の生きる権利をはく奪するのだ。当たり前だった。
そこでフルダイブ形式で取り残された人にアクセスして、自らの処置の判断を仰ぐ交渉人が選出された。
そしてひとりの女性が選ばれた。彼女は、被害者に現状を説明した。丁寧に、根気よく。
自暴自棄になるものも、落ち着くまで何回でもコンタクトを重ねた。
何人もの被害者を、涙と共に見送っていった。
献身的な彼女は、死神と呼ばれることはなかった。神話にある、戦場で死んだ戦士を導くもの〝戦乙女〟と呼ばれた。
一応、VRゲームが舞台なので、VRゲームジャンルを主張します!(マテ