異常な家族だったのか?普通の家族とは。
家族。それは、自分が生まれ育った場所。
育ててくれた父、母、兄妹がいるところ。
皆さんの家族は、どんな家族ですか?
我が家は、他人とは違った少し
変わった家族だった様です。
色んな家族の形、関係があるんだな〜
母が死んだ。私が三男を産んで四ヶ月後の事だった。
息子達を保育園に送り、三男を抱っこ紐で抱え自転車に乗ろうとした時、携帯電話が鳴った。画面を見て、心臓が急にドドドドと早くなる。いつもと同じ音なのに、着信音が何故かすごく嫌な不愉快な気持ち悪い音に聞こえる。
フーと何度か息を吐き、呼吸を整える。
「はい、もしもし」「○○さんが、危ない状態ですのですぐにご家族の方来てください。」ドラマでよく見るシーンが実際、自分に起こった。不思議な感覚だった。
病院に向かっている時の記憶があまり無い。
ただただ、酷く手が震えた。震える手を必死に落ち着かせようとするが難しい。自転車のハンドルを握り、何度も深呼吸を繰り返していた様に思う。
病室に到着すると、先生、看護士さんがたくさん集まって、目を閉じている母に心臓マッサージをしている。兄と兄嫁も到着し、母の姿を見守る。
涙が勝手にポロポロ次々に溢れ出る。しかし、家族のこの様な状況を目の前にして、こんな涙を流すのは私が十七歳の時、父方の祖母が亡くなった時から始まりもう5回目の事だ。
心臓マッサージが、一時間程続いただろうか。兄が口を開き、低く小さい声で「もう大丈夫です」と先生に伝えた。心臓マッサージを止めてくださいの意味である。
人工呼吸器は付けない。延命治療はしない。したくない。もうこれ以上苦しみたくない。早く楽になりたい。それが母の希望だった。私と兄は母の希望を伝えた。母の願いを叶えてあげたかった。
眠る母の顔は、綺麗と言いたいとこだが、何十年も痛み苦しみ戦い続けたからだろう。眉間のシワが酷い。それでも、私と同じ唇の薄い小さな口は少し微笑んでる様にも見えた。死後処置をし、母の妹と私でお化粧をしてあげた。
母は、人工透析をししんどい体と戦いながらも、お洒落と綺麗でいるという気持ちを持ち続けている人だった。安らかに眠る母の顔に、しっかり濃い目のお化粧を施してあげた。ノーメイクでもアイラインをしっかり引いた様に見えるほど目元が濃い母。鼻が高く大きい目の綺麗な顔立ちだったと思う。頑固でプライドが高く、美意識の高いそんな母が大好きだった。
母が亡くなった後、哀しさと淋しさと虚しさ。その気持ちに加えホッとした自分がいた。
母は、人工透析を十三年していた。子供の時から、しんどそうな姿、苦しい姿ばかり見ていた私にとって、母が旅立った事は言葉には表せない、何かから解放された様な不思議な気分だった。
母は、鹿児島県の徳之島という海がとても綺麗な小さな島で、四人姉妹の長女として生まれた。私は、母の生まれ故郷の徳之島に二度訪れた事がある。
一度目は、十七歳の夏。二度目は今年三十四歳の夏、母の遺言で大好きな生まれ故郷の海に散骨して欲しいという願いを叶える為に徳之島を訪れた。
一度目の訪問時は、母方の祖母と2人で来た。祖母の姉弟や親戚、大勢の方が笑顔で迎えてくれた。
青い澄み切った空、綺麗な広くて青い海、笑顔が素敵な優しい笑顔の島の人達、田舎特有の大きな庭付きのお家、骨付き豚バラ肉が入った具がびっくりするくらい大きい油こってりの島名物の煮物、手作りのサーターアンダギー、島のおじさんなら誰でも弾ける?三味線、母がよく歌っていた島唄、カチャーシーという手踊り、ソテツという名前の植物で出来た海へと続くソテツトンネル、畳三畳ほどある様な驚くほど大きいお墓。
そのお墓の前にシートをひき、親戚で持ち寄ったおかずをみんなで食べる。我が家では、昔からお墓参りはお墓の前で、食事をするスタイルが当たり前だったが、夫と結婚して我が家のお墓参りを見て衝撃だったと後に聞いて驚いた。
昔から、お墓参りの時はシートをひき母の手作りの大量のおかずを家族で食べるというのが習慣だったからだ。
この我が家の当たり前は、母の田舎の徳之島から来ていた事が分かった。
逆に、夫の実家のお墓参りは、線香に火を付け手を合わせたら終わり、さぁ帰ろうというアッサリすぎる事に私も衝撃を受けたのだった。
お墓参りの話はこのぐらいにして。
サーターアンダギーも子供の頃から、祖母や母が作ってくれた我が家ではお馴染みのおやつ。
夜には、親戚一同が集まり飲んで食べてのお祭り騒ぎ。
誰かが三味線を弾き島唄を歌いだすと、指笛を吹きカチャーシーという沖縄や鹿児島など南の方で見られる、手踊りが始まる。
温かい徳之島の人達に囲まれ、温かい時間を過ごした一度目の徳之島。
二度目の徳之島に来た理由は、母の遺言をやり遂げる為だ。それは、「私の骨は絶対に徳之島の海に帰して」という母の願いだった。
私と兄は生前、ずっと母にこの事を言われていた。生まれてからそんなに長く生活した訳ではない徳之島に、何故そんなに思い入れがあったのかは分からない。
でも、あの温かい徳之島の人々、優しい三味線の音色、元気になる島唄。それが本当に母は大好きだったのだろう。
子供の時から、家では島の歌が流れ母がカチャーシーをする。これが我が家の日常の風景だった。
母が亡くなって、四年という月日が過ぎてしまったが、兄家族と私の家族で徳之島の海に、母の遺骨を帰した。
私、私の夫、兄、孫五人の手から母の粉々になった白い骨が大好きな広くて優しい青い海へと消えていった。
「おばあちゃんバイバーイ」「お母さんお疲れ様ありがとう」
子供の時から体が悪く、結婚も出産も反対されていた体で四人の子供を産み育て、夫、姑との関係に悩み、離婚後私との二人の生活でもたくさん苦労したと思う。
生活の為にお弁当屋さん、トラックでタコ焼きを売ったり、夜はスナックで働き、真夜中に帰ってくる。辛いと私の前で泣いた事が一度だけあった。
五十二歳で透析を始めてから、毎日毎日吐き続けた。トイレでしゃがみ込む母の背中を私はただ、落ち着くまでひたすらずっとさすった。背中をさすりながらよく二人で涙を流した。「ごめんな、ごめんな」という母の言葉に私は、うなづく事しか出来なかった。ただ透析に通うだけで精一杯のそんな生活。「早く死にたい」と言う時もあれば、「孫達に囲まれて幸せやな〜元気になりたい」と言う時もあった。
最後の一年間は、ずっと病院のベットでほぼ寝たきりだった。私が仕事を終え、息子二人を保育園に迎えに行きそのまま母の病院へ向かう生活が続いた。
私一人でお見舞いに行くより、息子二人を連れて行くと声の大きさと笑顔は何倍にも増える。
三男を妊娠中、つわりが酷く一ヶ月ほどお見舞いに行けない事があった。母はスッカリ元気が無くなった。それはたまに届くメールの文で伝わる。
「あんたがしんどいのは分かってるんやけど、あの子ら(私の息子二人)の顔見せに来て〜淋しくてたまらんわ」
透析をするだけの苦痛な生活に、孫の顔を見るというこの小さな幸せだけがこの時の母の生きがいだった様に思う。
最後の一年間は本当に痛みと苦しみと戦った。苦しかっただろう。辛くてたまらなかったと思う。ようやくその痛み、苦しみ、辛さから抜け出して楽になれたのではないかと思う。
思い続けた故郷の徳之島の海に帰ることが出来た。
そんな母を、祖母は十九歳という若さで産んだ。祖母は、いわゆるいいとこのお嬢さん育ち。大事に大事にそして甘やかされて育った為、結婚生活も子育ても難しいものだったのだろう。夫婦喧嘩が激しく、長女の母ともよく言い争いした様だった。「おばあちゃんに褒められたことがない、いつも見下す言い方しかされなかった」と、よく言っていた。母と祖母の関係は良くなかった様だ。辛い子供時代だったとよく話していた。
大人になった私によく、祖母の子育ての話をした
「 長男、長女は犠牲者や。」
それが母の口癖だった。いま思えば、長女だった自分の人生を振り返り、祖母に褒めて欲しかった。辛くて淋しかったんだよと誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
娘から見た母に対する印象は、頑固でプライドが高く、思った事は口に出す。誰とでも話し明るい人。という感じだった。
しかし、母の子供時代はそれとは真逆だった様だ。
友達もいなく、休み時間もいつも一人、遠足も一人でお弁当を食べ、言いたいことも言えない小学生だったと。
私は、頑固で何でも口に出し強い母のイメージしかなかったのでとても驚いた事を覚えている。
子供の時、母の体調が悪い時は、祖母が電車で二時間かけて手伝いによく来てくれていた。
学校から帰ると、祖母が来ている事がとても嬉しくてたまらなかった事を覚えている。
しかし、母と祖母はいつも言い合いの口喧嘩が絶えなかった。(手伝いに来てくれているのに、何でおばぁちゃんと喧嘩ばっかりするんやろう?何でおばあちゃんの悪口言うんやろう?)と子供ながらに不思議だった。
とにかく口うるさい祖母が、母にとっては苦痛だったのだろう。
私はサラリーマンの父と専業主婦の母の間に、四人兄妹の末っ子として生まれた。
兄が三人、待ちに待った女の子だったと母がよく話していた。兄や両親、祖母達みんなから愛情をたくさんもらい大切に育ててもらったと自分では思う。そして私はとにかく甘やかされて育った。甘ったれた話し方、おっとりしてこの子はどんな大人になるんやろう、心配やわと母がよく言っていた。
子供の時は、そんな仲良しな平和な普通のどこにでもある家族。と思っていたが、後に異常な家族だったのではないかと大人になった今はそう思ってしまう。
私が生まれる前、兄達がまだ小さい頃、父は職を転々とし働かずお酒に溺れ荒れた生活をしていたらしい。
家族に手を挙げる事も一度や二度では無かったようだ。
母は、四人の子供を抱えかなり苦労してきたのだろう。
父には、お酒のあてをとにかくたくさん作っている母の姿が思い浮かぶ。
文句を言いながらも、色々やってくれる母に甘えていたのだと思う。
母にすれば、やらないと永遠に言い続けるから、やらないとしょうがない。との事だった。
そんな母に苦労させ続けた父は、裕福な家庭に四人姉弟の末っ子として生まれた。女の子が三人続いての待望の男の子だ。それはそれは大事に育てられたらしく。今で言う、ダメ男に育ってしまったのだろう。
そんなダメ男の父を持った私は、男性はみんなそんなものなんだと思い込んでしまっていた。
父がお酒を飲んで物を投げる、暴れる。すると母と子供達四人で、知人や叔母の家に逃げ込む。こんな父親の状況が日常的だった私は、父親の事を好きではなかった。むしろ嫌いだった。
中学生の時、親友がお母さんよりお父さんが好きという発言を聞いた時、衝撃的だった事を覚えている。
子供の頃母親が世界で一番、大好きで大好きでたまらなかった私にとって、有り得ない言葉だった。
お父さんの方が好きって、どういう事?!そんな事あるの?!と驚いた。
その親友のお父さんは、優しくて、働き者で、口数の少ない穏やかなお父さん。まさに、私の父親とは真逆だった。
そんなお父さんもいてるみたいと母に話したのだった。
母は、「いいね〜そんな穏やかなお父さん」と笑っていた。
母は言っていた。「俺が黒と言えば、白でも黒なんじゃ!!」ジャイアン並みの俺様。亭主関白である。
私が中学二年の夏、両親はとうとう離婚した。
母は、子供達が成人するまで離婚するのは我慢しようと心にずっと決めていた。だがついに堪忍袋が切れてしまった。
姑の介護問題がきっかけだ。
寝たきりになってしまった姑の介護を母は数年、誰の手も借りずただ一人頑張っていた。父の人間性は先に書いた様に勿論あまり手伝う事もなく母に全て任せきりだった。
母は思い悩んでいたが、ついに限界に達したのだろう。
父が仕事に行っている間に、母と二人で数箱の透明の衣装ケースに荷物をパンパンに詰め、夜逃げならぬ昼逃げを決行した。
その時の私は、友達と離れ離れになる淋しい、悲しいという気持ちは全く無く、新しい学校、新しい環境で母との二人暮らしを喜んでいた記憶がある。
まだ作品が途中なので、この家族の異常さはまだ
序盤です。
しかし、本当に世の中には色んな家庭、家族が
あるのだと分かって頂けたのでは、ないでしょうか。
人は、一人では生きていけない。
たっぷりの愛情と、愛情と、愛情が
必要です。