二話目 鴉乃雪人 【研究員 田代】
研究室に向かう足取りは軽い。周りの人間は僕の歩き方を見て、年中リストラを言い渡されているみたい、なんて嘲るけれど、そして少なからずそれは僕のコンプレックスだったのだけれど、少なくとも今は背筋をしゃんとして、明るい足音を廊下に響かせている。
こういうことは、珍しいという程ではないけれど、例えば小学校で給食に揚げパンが出る日のような、あるいは大好きなドラマの週一回の放送を楽しみに帰宅することのような、そういった頻度と種類の嬉しさを持っていた。そして、それらよりかはずっと僕の心を弾ませる出来事でもある。
彼女が来ている。
すらりと長く伸びる手足。僕とそう変わらないくらいの上背に、肩にかかる艶やかな黒髪。彼女が体を揺らすたびに、ふんわりと浮かぶ黒髪は人を惑わせるほどの香りを放つ。
何より――何より、彼女は少女なのだ。僕と一回りも、いやさらに少し歳が離れている……ここに告白すれば、僕は少女というものに信仰に近い幻想を持っている。それは特別、大人になるかならないかの年ごろの――つまり彼女のような少女に対して抱く憧れだ。まだ青いけれど歪に熟している、その矛盾を内包した身体とココロ。僕は美しさとは則ちそうした少女の事であるとさえ思うし、彼女らが少女になってから少女をやめるまで、ずっと眺めていられたならば、それはどんな小説や絵画よりも僕の精神を打ち震わせる〝大作〟になると信じている。それなら教職につけばいいじゃないかと思うかもしれないが、僕は美しい少女に格別の思い入れや〝接近〟をしてしまうかもしれないし、根本的に教師などという他人の人生を預かるような仕事には向いていない。だからこうして、世間から切り離されようにこの研究所に勤めているのだが――
彼女はしばしば訪れる。岡原崎先生の遠い親戚にあたるようで、学校生活での暇を持て余すと、先生の奇天烈な研究と発明を求めてひょっこり顔を出すのだ。
――田代さん
彼女は天使のような微笑みと悪魔めいた魅力を持って僕の名を呼んでくれる。臆病で人見知りな僕はとりたてて深い会話もできず、いつも二言三言でその至福の時間は終わってしまうのだが、それだけでもやはり例えようのない喜びが胸の底からこみ上げるのだった。
先生の書斎もとい寝室もといゴミ溜め――研究室の前につく。彼女がこの研究所に入るのをさっき窓から見たので、今はこの扉の奥で先生と喋っているのだろう。あんな娘がよくもまあ先生のゴミ溜め、あいや独特なセンスの部屋に耐えられるよなあと思うが、あの年ごろの好奇心故なのだろうと少し微笑ましくも感じる。
と、扉の奥から岡原崎の奇声がした。まったく何をやっているんだろう、苦笑しながら扉を開くと、そこには――
服の上からでもわかるだらしない脂肪をいっぱいにふるわせてお尻を上下させる岡原崎先生と、そのお尻をブーツで叩きながら先生の後頭部を右足のブーツで踏みつける、マスクと三角巾で顔を覆った奇怪な姿の少女が、そこにはあった。
「あ、田代さんこんにちは」
紛れもない、天使のような、アユの声だった。
――ああ、頭がくらくらする……
暗転。
***
「相変わらずの畜生っぷりだな。久しぶりに来てこの地獄のあり様を見せつけられる気にもなってみろよ。おっと、冗談抜きでこの部屋は……本当に地獄だ、まったく酷い匂いだぜ」
〝田代〟は二人を蔑むような眼でみると、悪臭漂うこの部屋を見回しながら言い放った。
アユはきょとんとして思わずブーツを落とした。床のよくわからない液体が跳ねた。
「ねえせんせ、前にも見たけど、これどーいうことなの?」
「はひいご主人様、これは〝主人公田代〟でございますブヒ」
「主人公田代?一体どういうこと?」
「説明させていただきますブヒ。田代はご主人様に過度な幻想を抱くあまり、荒ぶるご主人様
のお姿を見ると理想と現実の齟齬に耐えきれなくなり、普段の人格の田代が周囲の情報をシャットアウトして、別人格主人公田代にスイッチするのでございますブヒ。重度の解離性同一性障害、いわゆる多重人格ですブヒ。口調がイキったラノベ主人公みたいなので主人公田代と名付けましたブヒ」
「わかったようなわからないような。まあいいわ。あとその語尾腹立つからもうやめていいわよ」
「了解ブヒ」
アユは岡原崎の顔面にしなやかなキックを食らわしてから、主人公田代に向き直った。
「主人公田代さん、貴方は普段の人格ことは覚えているの」
主人公田代は、主人公という響きにぴくりと肌を震わせた。喜んでいるのである。
「ああ、俺はこいつの記憶も趣味も何もかも把握している。ただこいつの方は〝俺〟の時の事を覚えちゃいないがな」
「それは好都合だわ。さっきのお遊戯は田代さんにはあんまり見られたくなかったし。それに、主人公田代さんになら何をしても良いということね!」
不穏な発言だったが、主人公田代は「主人公、主人公……」とうわ言のように繰り返して部屋の中を歩きだした。
「それにしても、こんなに大胆に変わるものなのねえ」
さえない普段の動作とは違い、主人公田代は一挙手一投足がきびきびしていた。彼は今、岡原崎の発明品「光る、鳴る!回せぶんぶんピコピコバット」を振り回している。
「ぶっちゃけ、面白いからちょっと薬でいじったんだけどね」
「あら。岡原崎せんせえマッド~」
主人公田代は、どうやら光る!鳴る!回せぶんぶんピコピコバットで架空の敵を倒している
ようだった。
「安心しろ。腕は確かだ。お前たちの危険は俺が守る、必ず……」
「なにか言ってるわよ、せんせ」
「そうだねえ」
主人公田代は高く掲げた光る!鳴る!回せぶんぶんピコピコバットを架空の敵めがけて思い切り振り下ろそうとした。「エクス……カ〇バー!!!」
その時である、悲劇が起こったのは。
いかに振る舞いが主人公と言えど、しょせん主人公田代の身体は貧弱な理系研究員のものだ。光る!鳴る!回せぶんぶんピコピコバットは見た目こそ百均玩具だが、岡原崎の発明品なだけあって質量はそれなりにあったのだ。田代の貧弱な腕力は光る!鳴る!回せぶんぶんピコピコバットを支えきれず、すこーんと彼の手元を離れて飛んで行き――
「まずいぞあの先は――」
岡原崎の短い叫びは衝撃音にかき消された。この部屋の天井まで届こうかという、一見本棚のようにも見える箱型の機械に、ぶんぶんピコピコバットは綺麗に突き刺さった。
「なんてことだ!異世界ツクールにぶっささるなんて!」
「なんですって!じゃああれが噂の……」
「く、そうだよ。あれは僕が無限にある世界の可能性を書き出すためのものなのだ。粒子の重ね合わせから事象の起こりうる範囲を推測し、そのうえでビックバン時の11次元世界からの空間の歪みを再構成したプログラムを……(中略)……ということで僕が設計した異世界に転移できる装置なんだ!でも施策段階だから今みたいなアクシデントで何が起こるのか、まったくわからないよ……!」
主人公田代は仁王立ちして説明を聞いていたが
「巨悪は倒されたということだな」
と満足げに頷いた。
岡原崎は憤りを越して呆れはて、アユは予想外のハプニングにむしろ心躍らしている。
「せっかくだから、壊れちゃう前に使っちゃいましょうよ」
「だめだだめだだめだ!元々試作段階なのに今使うのは危険すぎるんだよ本当に」
「……ブーツ」
「ブヒい!」
異世界ツクールからは煙が上がりバチバチと火花が飛び散っている。やがてギュウィイイイイイインンという不穏な音が鳴りだしたと思うと、突き刺さっている光る!鳴る!回せぶんぶんピコピコバットが異世界ツクールからの電流に反応したらしく、その機能の一つ、けたましい必殺技音声を放ち始めた。
『滅びの、バ――――スト〇トリ――――ム(どきゃあああんんばああああん)』
岡原崎による録音音声だった。
『音声を確認しました』
「はっ!まずい!光る!鳴る!回せぶんぶんピコピコバットの僕の声の録音に反応して、異世界ツクールの音声認証が完了してしまった!」
岡原崎が叫んでも、時すでにOSUSHI。
地響きと轟音が研究室を支配し、まばゆい光が三人を包みこみ――
「何なの、これ!」
アユが絶叫した。