99 動き出す黒衣
今話より、主人公と今川氏真との呼び名が変わります。
「月斎。戻ったぞ」
呼び出されていつもの部屋で待っていると、駿府に戻ってきた今川氏真が入ってくる。オレの顔を見ると、軽く笑みを浮かべて労をねぎらった。
多分、式典と接待だらけのむこうのほうが多忙だったと思われる。
「おかえり殿様。京の都はどうだった?」
「駿府が平和なのだと実感したよ。京は戦火の傷跡が深い」
たしかに、武田信玄に攻め込まれたといっても、それは駿河北部で撃退している。先代今川義元の時代以降、今川家本拠地である駿府は戦火と無縁でいた。
それに対し、京都は応仁の乱から始まり、終いには先代の足利将軍の殺害など、平和から程遠い状況だ。まあ、だからこそなのだろう。今川家に金の無心を匂わせる別途要望が京都から寄せられていた。
「御所の修繕費にまだまだむしられそうだな」
「そっちは金持ちの尾張にまかせるさ」
「そうか。で、どうだった。尾張のウツケは?」
「…」
オレの言葉に、思い出すように視線を下げてあごに手をやると、ぽつりと呟く。
「素直な男だな」
お前が会ったのはいったい誰だ?
意外な感想に驚くオレの顔を見て、氏真はニヤリと笑って続ける。
「己の野心も、欲も、ねじ曲がっている性根すら受け入れている。わかりやすい男だ」
よかった。ちゃんと織田信長を信長と認識していたようだ。これで、菊千代君あたりを誤認していたら喜劇を通り越して悲劇だ。
「なにせ、お前に似ている」
氏真の言葉に口をへの字に曲げる。
「オレはあそこまでねじ曲がっちゃいない」
「五十歩百歩という素晴らしい言葉が、唐の国にはあるらしいぞ」
「じゃあ、お前は七十五歩だな」
オレの皮肉を込めた返し言葉に、うれしそうに笑みを作る氏真。
とりあえず、不在の間に処理した問題を報告する。
「ほかに何か面白いことでもあったか?」
「京では茶事というのが流行っているそうだ」
「ほう」
「落ち着いて茶を飲み、楽しむことを追求する行事だ。なかなか奥が深い」
茶道の事だろう。織田信長とか豊臣秀吉が好んでいた有名な趣味だ。今回の京都での会合では今川氏真も流行の洗礼を免れることはできず、いくつか土産物を持ち帰っていた。
「何か気になる事でもあったか?」
「使われる茶器は舶来物(輸入品)ばかり。京の茶人達は、国内での茶器の生産を模索しているらしい」
「駿河でも作るか?」
「いや、駿河では茶を作ろうと思う」
「ほう」
「茶器が取引されても窯元と商人しか儲からん。茶なら領民が栽培できる」
「その分、利が薄くなるぞ」
「利を求めるのは商人の仕事さ。俺の仕事じゃない」
「年貢への影響はないか」
あくまでもこの時代の税金とは年貢と、せいぜいが特権を認める事への上納金だ。人頭税ではない。だから、民が豊かになったとしても、直接的な税収が増えることはない。
だが、豊かになることで消費が増える。その消費の為にやってきた人を賄うために生産量を増やす必要が出てくる。そして人口が増えるために必要なのは安全と豊かさだ。
少なくとも、今後領内を潤す産業には目星をつけているらしい。
では、新しい産業に関する面倒事は正当な責任者に任せて、オレはオレの仕事を始めるとしよう。
「では、オレも動くとしよう」
「どこへ行くんだ?」
「小田原だ。わざわざ名前を売ったんだ。威光という奴を使わせてもらおう」
「武田の件か。幕府の了承はとってある。近いうちに駿府に来るだろう」
「それまでに話をまとめる。まあ、悪い話じゃないさ」
「誰にとって悪い話じゃないんだ?」
「もちろん……最終的にはオレ達にとってだ」
そういって、部屋を出ていく後ろで、氏真の漏らした言葉が聞こえた。
「ねじ曲がった方向が、左曲がりか右曲がりかくらいの差しかないな」
大きなお世話である。




