95 進如王者
この光景には、自分一人では辿り着く事が出来なかった。一人ならここに来る前に敗れていた。そう、どれだけ考えても、自分だけではここにたどり着けなかったのだ。
だから捨てた。諦めたのだ。
風林火山の旗を見下ろしながら昔の出来事を思い出す。
「『疾如風』、そう書かれた旗印を相手にするならなんとする」
臨済寺で師の太原雪斎にそう問われた時、自分はなんと答えただろう。
もう覚えていない。だが、あいつの答えは今でも覚えている。
「風林火山。すなわち相手は孫子を学び、それを指針としている相手です。で、あるならば、孫子をもって枷とする。孫子に「戦うべからず」と書かれた状況に追いやれば、相手は退きます。退く相手に疾さはなく、静けさはなく、侵される事なく、動きを止める事はありません」
思ったね。
この化け物とは、絶対に戦ったらいけないって。
俺は恵まれた人生を歩んでいた。家名も、財産も、才能もあった。何事も勝って当然の人間だった。同時に、絶対に負けてはいけないのだと理解した。
恵まれているからこそ、負ける事に言い訳が出来ない。
だから、桶狭間で父上が討ち取られ、その状況で俺に残された道は、最後の最後。家を残す以外なかった。
それが最善の道だった筈だった。
「一番やりたいこと言えよ」
だが、俺の持つ何かを越える化け物はそういった。
最も善い道ではない。俺が望む道。俺が進みたいと思った不確かな道。
家臣なら間違いなく奸臣だ。俺から確実な未来を奪い、言い訳の出来ない危険な道を選ばせる。俺には判らない何かを持つ存在。俺には見通せない先へと導く凶兆。
……ああ、そうか。
俺は負けてはいけない人間だから、敗北から逃げていたのだ。いつだって選択肢の中から、勝つための道ではなく、負けない道を選んできた。
蹴鞠、短歌、能。なぜあれほど没頭できたのか。あの世界に「優劣」はあっても、「勝敗」は無かったからだ。
恵まれた人生を歩んでいたから、俺は負ける事から逃げてきた。勝てるかどうかの道を選ぶ必要もなかった。
「手伝ってやるからさ」
ああ、そうさ。その一言で選んでしまった。勝てるかどうかの道を。
その道を進んでしまったからこそ気がついた。俺は、今まで一度も、勝つか負けるかの勝負なんてした事がなかったのだ。
自分の為に生きてきただけの、自分の事しか考えていない、本当にどうしようもない暗君だ。
馬足を速めて前に出る。眼下に広がる平原。そこに飲み干すべき清濁優劣の全てがある。
自分でもわからない選択の結末。しかし、それこそ自分が歩く道。かの者に指し示されなければ選ばなかった、勝利と敗北の始まり。
斯く在るべくして、斯く成るべし。
在るべき道を進むのではなく、己の進むべき道を進む。
成すべき事はただ一つ。
俺が望む事。俺が一番やりたい事。
右手を伸ばす。目の前に広がるすべてに示すようにまっすぐ前に。
天下万物よ聞け。
我こそは今川彦五郎氏真である。
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この時、今川氏真と共に遠江に同行していた鵜殿氏長は、以下のように書き残している。
その様相において常日頃の明はなく、されど陰ならず。
その面持ちは水鏡の如く澄み渡り、その所作は名月の如く輝きを放っていた。
ついと馬を前に出すと、右手を前に指し示し皆に命を発す。
その言葉に激はなく、情もなく、なれど誰の耳にも届く命があった。
「進め。王者の如く」
今川の兵。万軍において唯の一兵の例外もなく、その命を完遂せり。




