94 赤鳥紋
11月25日(月)に
MFブックス様より『復興名家の仮名目録 ~戦国転生異聞~』の二巻が発売します。
本書籍には、未投稿の話が掲載されています。話の続きが待てない方は、ぜひ書籍版2巻をお読みください。
ただ、書籍掲載の未投稿分の話題については、その話が投稿されるまで「感想」などによるコメントを禁止させていただきます。
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ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
徳川軍を手玉に取りわずか半日で勝利を収めながら、武田軍が信濃へと撤退している事に武田信玄は心の中で歯噛みしていた。
遠江を手に入れることが出来なかったという、戦略的敗北。
その理由はただ一人。
今川氏真。
あの謀りさえなければ、徳川軍を曳馬から追い出し、西遠江に念願の海を手に入れることが出来た。そうすれば、西の三河も、東の駿河も奪うことが出来た。
豊かな海の利益で、貧しい甲斐を潤すことが出来る。
甲斐の国を豊かな国にするという、甲斐武田家の悲願を果たせる。
その為に父親を追放し、己の子をも切り捨ててきた。ようやく見えた、修羅の道の果て。
それを寸前で邪魔された事実に、武田信玄は心底から煮えくり返っていた。武田家による西遠江侵攻により、徳川軍は甚大な被害を受けた。武田が引いたこの状況なら、今川家が遠江を取り返す事も容易であろう。
この武田信玄の獲物を横から掻っ攫うという愚行であることを抜かせば、だが。
此度の勝利で武田家の武名は上がった。そして、今川家の条約破棄の非を問えば、三国同盟破棄によって悪化した北条家との関係を改善させることが出来る。
北条家の中立さえ得られれば、全力を持って駿河と遠江を奪う事が出来る。
今回の戦いで、西遠江に武田の力を見せ付けた。今川本拠地駿河が落ちれば、やつらもすぐに武田家になびく。
もはや急ぐ必要すらない。確実に歩を進め駿河を遠江を手に入れる。
これでようやく……
「御屋形様。あれを!」
近習の言葉に、我に帰る。そして、近習が驚愕の表情で指差す方向を見て、煮えくり返っていた腹の底が一気に凍りついた。
「なぜ……ここにいる」
丘の上にたなびく、今川家の旗『足利二つ引き』。そして、その中央には今川家当主の馬印『赤鳥紋』。そこに今川氏真がいるという事を示す旗が、たなびいている。
ありえない。徳川軍と戦ったのはわずか半日前。休戦協定を破棄したのはその三日前。
それまで今川氏真は駿河にいたはずだ。いや、駿河で兵を集めていたはずだ。『仮名目録』により兵を迅速に集められるといっても、それは常識の範囲内の話だ。ましてや、駿河から西遠江に進軍する速さには関係ない。
武田と徳川の合戦に介入する時間はなかった。よしんば、それが出来たとしても、当初の徳川軍との戦いの地である曳馬、あるいは戦闘が始まった浜北ならともかく、戦を終えて帰路に着く武田軍の前に現れることなど不可能だ。
それでは、はじめから武田軍の退路に進軍していた事になる。
その不可解な出来事が、しかし偶然ではない事に気がついた。今川軍の本陣に並ぶ旗印をみて、武田信玄は軍配を強く握る。
今川家の宿将、国の内外に武名を轟かせる岡部元信。
今川家譜代の重臣にして、遠江の有力豪族朝比奈泰朝。
共に、今川家の両翼とも言える重臣中の重臣。
武田信玄も知らぬわけがない。今川家において最も注意しなければならない武将達だ。
それがここにいる理由に気がついた。
駿河で兵を集めていたのは、こちらを騙すための偽り。氏真本人が遠江に駆け付け、遠江に事前に集められた今川家最強の兵を率いて武田を撃つというのが真の策。
「すべてが……」
偶然ではない。大将とする今川家当主今川氏真を守る為に、今川家最強戦力を用意するという理にかなった采配。
朝比奈と岡部による徳川家の遠江侵攻に対する防衛は、武田家と敵対する前からの話だ。武田信玄が駿河侵攻を行う以前に、すでに両家は遠江で徳川家と相対していた。
故に、先の今川家本拠地駿河侵攻でもこの両家が出てくることはなかったのだ。
しかし、それすらも敵の策。
すべてがつながる。
二面作戦の一方である徳川家は、自分達が撃退している。
一戦交えて疲弊した上に、強行軍での撤退中でまともな陣容をしていない武田軍。
それに対し、今川家の当主自らが陣頭に立つことで全軍を鼓舞し、付き従うのは今川家中でも最強の武将の最大戦力。その兵は遠江の地の利を熟知した今川兵達。
あの宍原の戦いで奇策を用い、こちらの意表をついて撤退に追い込んだことすら、この万全の状態の今川軍を疲弊した武田軍にぶつけるという最高の状況を作り出す為の布石だった。
馬鹿な!本拠地である駿河を攻められた状況で、負ければ滅亡するという状況で、その勝敗すら捨て駒に出来る策だったというのか!
突然の今川軍の出現に、混乱する自軍をして一喝して沈静化させると、長年の経験から、わかりえる最善手を指示していく。歴戦の部下達もその為に動き始める。
しかし、身近に近寄ってきた死を意識しながら、冷え切った思考で武田信玄は正確に読み取っていた。
これは、宍原や浜北のような武田軍を撃退する為の戦いではない。
「嵌められた……」
武田信玄は、はっきりと今川氏真の意思を感じ取った。
黒衣に隠されていた殺意を。




