92 愛妻の膳
※主人公の霊圧が…消えた…!
永禄八年十一月
甲斐の武田信玄が再び立つ。
原因は、先の駿河侵攻時から北遠江に姿を現していた武田家家臣高坂昌信が、駿河での合戦が終わった後も遠江に残り、北遠江で兵糧などの強奪を行っていた事に発する。
これに対し徳川家は武田家に抗議していたものの、武田信玄はこれを無視。今川家としても目障りではあるものの、徳川家と対峙している状況で、甲斐の武将を捕らえるほどの戦力を割く余裕はなく静観するしかなかった。
そして、十月の収穫の時期に、高坂は遠江北部の徳川領土の農村を焼き討ち。略奪をほしいままにした。激怒した徳川元康は再び武田信玄に抗議文と釈明を求めるも、それが武田信玄の狙いでもあった。
『手を取り合う同盟国である武田家の忠臣から食を奪い、見捨てるような不心得者に誅を下す』
逆ギレもいい所ではあるが、ここに来て徳川元康も、武田信玄が徳川家を攻撃する口実を求めていた事をはっきりと悟った。
すぐさま同盟国の尾張織田家に助力を求めるも、上洛と足利義昭の将軍職拝領後も三好家打倒、および近畿一帯の治安維持のため兵を移動させていた織田家に、出せる援軍はなかった。
新将軍足利義昭から仲裁の手紙こそ出させたものの、それが武田信玄になんの影響を与えるわけもなく、大して役にはたたなかった。
岡崎城の廊下を歩く徳川元康の表情は険しいものだった。
武田信玄が来る。既に先遣隊が信濃から西遠江の支城に姿を現しているという。
信玄の狙いが西遠江である事は不幸中の幸いではあった。対今川家のために兵力を西遠江に集めており、近いうちに居城を曳馬城に変えようと考えていた矢先の事だったのだ。
しかし、相手は甲斐の武田信玄。
徳川家だけで勝てる見込みは薄い。三河に攻め込まれたなら、篭城し織田家の援軍を待つ手もあった。しかし、信玄が向かうのは遠江。侵略し領土としてまだ日の浅い土地だ。遠江から逃げ出しては、せっかく寝返った遠江の豪族達は徳川家を見限るだろう。
かといって打って出るにしても、相手はあの武田の騎馬隊。
あまりの勝つ見込みの薄さに、震えが走る。
岡崎城での重臣達との軍議でも、この二つが論点となった。そして、どちらとも結論は出なかった。
今川義元が上洛する時の織田信長もこんな気分だったのだろうか。命惜しさに篭城するか、望みの低い博打に打って出るか……
軍議を重ね既に深夜。一眠りして……
と、自室に戻ろうとした元康は、部屋に明かりがともっていることに気がついた。
「瀬名」
ふすまを開けると、そこには妻がいた。普段は岡崎城に入れず、その住居から「築山殿」と呼ばれていたが、元康は二人きりのときは、昔の名で呼んでいた。
「旦那様。遅くまでお疲れ様でございます」
「瀬名こそ。こんな遅くまで何を」
「旦那様がお疲れでございましょうと思い、夕餉を用意いたしました」
そういって、横においていた膳をだし覆いを取る。そこには、質素ながら膳が置かれている。
「湯づけにいたしますね」
そういって、飯に鉄瓶から湯を注ぐ。長い軍議でいつ戻るか分からない自分のために膳を用意し、何度も冷めた湯を温めなおして待ち続ける。そのけなげな心づもりに、元康は心の底から妻が愛おしくなった。
用意が出来たと自分を見つめる妻に、微笑みかけてから座ると箸を手に取り食べ始める。
武田に攻められれば、妻の命すらどうなるか分からない。最悪の事を考えるなら、今川家に落ち延びてもらう事も考えねばならないだろう。
敵対した身で何を虫の良い事をと思うが、縁も所縁もない織田家よりは、故郷である今川家の方が妻は喜ぶだろう。なにかと縁のある今川家の伝に連絡を入れれば、妻と子の安全くらいは取り持ってくれるだろう。
米一粒残さず腹に収めると箸を置く。
「うまかった」
嘘偽りない言葉に、妻の顔がぱっと綻ぶ。
それを見て元康は感じた。ああ、愛する者の笑顔とは、それだけでこんなに心を軽くする物なのだな。さっきまでの寝る事すら恐れるような不安が消えている。
「旦那様。こちらを」
安らかな顔で息を吐いた元康に、妻が一通の手紙を差し出した。
「これは?」
「先月こちらに訪ねてまいりまして、このような事があればお渡しするようにと」
手紙をひっくり返して差出人を見て、安らかだった元康の口元が大きくゆがんだ。そこに、さっき考えた良く知るものの名前があったからだ。
一度捕まっておきながら、完全に敵対している三河にノコノコと来ていたのか。大胆不敵というか厚顔無恥というか……
悪態を心に押し留め、手紙を開いて中を読む。
顔はゆがまなかったが、腹の底がねじくれ曲がったような感覚に襲われた。
今なら、師の教えも夫として父としての威厳もすべてをかなぐり捨てて、あのにやけた顔面に全力で拳を叩きつける事ができると確信する。
目を閉じて、暴れるようなはらわたに力を入れて押さえつける。目を開けると、心配そうな顔の妻がいる。不安にさせないように無理やり笑みを作る。
「瀬名。今日はもう遅い。帰って休め」
「はい。旦那様も」
「ワシはもう少しやらねばならぬことがある。だが安心せい。もう大丈夫じゃ」
そういうと、妻は深く頭を下げる。
「御武運を」
妻を残して、手紙を握ったまま元康は部屋を出る。
今は少しでも時間が惜しい。寝ている家臣達をたたき起こしてでも行動に移さねば。
「誰かある!」
声を上げて、軍議をしていた評定の間へ戻る。
踏み出した足に力がある。不安に震える事もない。
それに元康はなぜか腹が立った。これは、あの手紙を読んだからではない。妻の笑顔で奮い上がったからじゃ。
「誰かある!」
疑惑を振り払うように、元康は大きな声を上げた。




